文春オンラインの「「民俗学といえば妖怪、夜這いでしょ?」民俗学者が悩む“風評被害” 」という記事について

 

 

先日、文春オンラインにて以下の記事が公開された。筆者は在野の民俗学者・室井康成氏である。

bunshun.jp

 短い記事だが念のため要約する。

 昨年12月、室井氏が「民俗学を代表するイメージとして妖怪と夜這いがあるのは風評被害である」とツイート(以下Tw)したところ、妖怪研究者および妖怪マニアから総攻撃を受け、炎上した。なぜ炎上したのか。室井氏は、自身の書き込みが「「古き良き日本」を象徴し、自らが愛好するキャラクターまでも批判されたと受け取ったのかもしれない。あるいは、妖怪を「夜這い」と並記したことに、えもいわれぬ屈辱感を抱いたのだろうか」と推測する。

 しかし、民俗を無条件に「古き良き」ものとみなす考え方は危険である。夜這いは刑法犯罪にも相当するだろう。どうやら、インターネット上では、妖怪について否定的なことを語ると、妖怪研究者と妖怪マニアの「親密圏」が結託し、総攻撃する態勢が整っているらしい。研究とマニアの区別ができておらず、民俗への愛情が先行する「主客未分化」に陥っているのだ。そのため「民俗とは常に愛惜の情感が向けられ、保護・顕彰されるのが当然であるという印象のみを広め、その負の部分に対して言及することへのタブーさえ醸し出している」。歴史学者がトンデモ説を主張する素人と論争するのとは正反対だ。

 しかし日本民俗学創始者である柳田國男は、「人々に対しては、民俗の良し悪しを自分の頭で考え、その改廃を含め自ら判断することを求めた」。それは権威や伝統にひれ伏すことを肯じない反・事大主義である。

 ところが現在の民俗学では、マニアを巻き込み、民俗とみれば良いものとみなす「親密圏」が形成されており、そのイメージに対して「風評被害」とTwした自分に対して感情的反発が来ている。これが炎上の本質である。柳田國男は晩年、「珍談、奇談」を弄ぶばかりの現状を批判した。「親密圏」の民俗学者柳田國男を嫌うのも道理である。

 

 要約は以上。いくつか論理が横滑りしているところは見受けられるが、言っていることはそんなに奇妙なことではないように見える。

1.問題の要点

 だが、室井氏の議論には大きな欠陥がある。そもそも、事実に基づいていないのである

 なぜこのように断言できるのかというと、室井氏が批難する「親密圏」の民俗学者とは、僕(=廣田龍平)のことだからである。いちおう自己紹介しておくと、僕は文化人類学的・民俗学的に妖怪を研究している人間である。詳細はresearchmapのページをご覧いただきたい。

 そして僕は、自分が妖怪についてどのように考えているのか一番よく知っているし、また室井氏の言うところの「妖怪マニア」が民俗学についてどのように考えているのか、何年にもわたって観察してきた。そこで結論から言うと、室井氏の言う、僕の「親密圏」とされる妖怪関係者たちは、

・誰も妖怪を無条件で「古き良き」民俗だと考えていない

歴史学上のトンデモ説に相当するような珍説・奇説を支持しているわけでもない

 以上の点から、室井氏の行なっているのは典型的な藁人形論法であると判断できる。そうである以上、いかにもっともらしいことを言っていても、所詮は砂上の楼閣でしかない。それがこの文春オンラインの記事である。

 もちろん、妖怪について「古き良き」民俗であり保護・顕彰の対象だとする妖怪マニアや研究者がいることは否定しない。たとえば水木しげるをそのように捉えることもできる。また、僕が2017年に翻訳出版したマイケル・ディラン・フォスター『日本妖怪考 百鬼夜行から水木しげるまで』は、

妖怪は失われた日本の国(ネイション)を代表するものとして、何よりも望ましい――なぜなら、妖怪は異界的な過去の住人であるがゆえに、植民地主義や軍事的野望など、破滅にいたった現世の記憶を封印したままに呼び出すことができるからである。(p. 271)

と論じ、「古き良き日本」を想起させることが妖怪ブーム持続の背景の一つであろうと分析している。人によっては極端な意見だと思うかもしれないが、僕はこの考え方が気に入っている。ちなみに『日本妖怪考』は、特に第5章・第6章において妖怪を「古き良き」伝統とみなす人々に冷静な目で批判的検討を加えており、妖怪に関心のなさそうな室井氏はもちろんのこと、このエントリを読んでくれている皆さんにも是非ともお勧めしたい一冊である。

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 ……とはいえ、そうした民俗愛好家たちは、室井氏がこの文章で攻撃を仕掛けている「親密圏」とは異なる圏域に属しているのが事実だ。分かりやすくいうと、僕の周りにはそんな人々はいない。だが氏は、僕とその周りに対する攻撃のためだけに(としか考えられない)、「親密圏」の属性をまるっきり別のものとすり替ているのである。

  本エントリの要点は以上のとおりであるが、ここからは室井氏の文章に見られる問題点について、文春オンラインの記事から引用しつつ、逐一指摘することにしたい。

2.それは炎上だったのか?

 まず「風評被害」記事では、自分がツイッターを開始した経緯と「風評被害」Twが紹介される。

当初、このツイートにはさしたる反応はなかったが、数時間後、妖怪研究を専門とするある民俗学者リツイートしたのをきっかけに、にわかに大量のリツイートがはじまり、件数はわずかの時間で1000以上に急上昇、一気に炎上状態となった。 

 この「妖怪研究を専門とするある民俗学者」は僕のことであろう(ほかに該当する人物が思い当たらない)。なお僕は、自分は民俗学者ではないと思っているが、民俗学の雑誌に論文をいくつか載せているため、そのように見なされても文句は言わない。

 しかし、本当に僕がきっかけなのだろうか? 室井氏よりも300ほどフォロワーの少ない(900強)僕にそのような影響力があるとはとても思えない。詳しくは個々のリツイート(以下RT)のタイミングやRTしたアカウントのフォロー関係を検証してみないとわからないので何とも言えないが、この時点で室井氏にツイッターというものが分かっていないのではないかと言う雰囲気が漂う。

 そもそも、4桁RTをもって「炎上状態」とするのも意味不明である。室井氏はツイッター民俗について不案内なようだが、こういう状態はふつう「バズる」と表現される。室井氏のTwには、これ以前にも4桁RTを稼いでいるものがあるので、「風評被害」Twがバズった初体験というわけでもないだろう。

 参考までに、このTwから1週間程度の幅で「妖怪 民俗学」でツイッター検索した結果のURLを置いておく。これを「炎上」と呼ぶのは、僕にはためらわれる。

twitter.com

3.ツイッター民俗への誤解

室井氏が、どうもツイッターというのを分かっていないのではないかという不安は的中する。

 これに呼応するように、私への批判的なリプライが相次いだ。いずれも匿名のユーザー曰く「(学生の質問は)あなたの講義がつまらないという意思表示では?」、「(私の講義が)ここまで妖怪ハンター無しとは失望した。お前らの間違った民俗学観はまだ間違い足りないようである」等々。 

 1つ目の「批判的な」Twからして室井氏への批判というよりは学生の意思を推測したものでしかないように思うのだが、氏は自分への批判だと受け取ったようである。それは多少は仕方ないところもあろう。

 ここでは2つ目に注目したい。まず、引用中の「私の講義が」というのは室井氏による補足である。しかし、そうすると2つ目の「批判」は次のような内容になる。「室井氏の講義に妖怪ハンターが出ないことに失望した。あなた方は、間違った民俗学観をもっと加速させろ」……意味不明である。

 おそらく室井氏は、「お前らの間違った民俗学観はまだ間違い足りないようである」という複雑な日本語表現が理解できなかったのではないか。実際にTwのリプライツリーを見てみると、民俗学といえば妖怪というイメージにはこういう原因があるのではないか? というものがほとんどで(小泉八雲柳田國男遠野物語宮本常一小松和彦など)、室井氏のいうところの「批判的なリプライ」はほとんど見当たらない。そして、2つ目の「批判」Twは、リプライに列挙されるなかになぜ「妖怪ハンター」が出てこないのか、ということを指摘しているに過ぎない

 おそらく室井氏は、ツイッター上では、バズったTwへのリプライ欄をYahoo!ニュースにおけるコメント欄のように利用するという民俗があることを知らなかったのだろう。件のツイートは二人称が「お前ら」であることからも分かるとおり、「風評被害」Twへのリプライに対する反応なのである。そしてコメントのようなリプライは大抵がクソリプ(糞のようなリプライのこと)であり、元Twの主が反応する必要がないし、反応することも期待されていないという民俗がある。リプライツリーは最悪の植物だという諺もある。そのあたりを知らず、自分への批判だと捉えてしまうあたり、室井氏がいかに真面目にツイッターに向き合っているか、ということがよく分かる。

 また「間違い足りない」という表現は、次のように説明できる。まずこのTwは、「妖怪や夜這い」を民俗学の代表とするのが「間違っている」ことを前提としている。そこに、民俗学の怪しげなイメージ形成に影響を及ぼしたと思われる漫画「妖怪ハンター」を追加することによって、柳田だの小松だの、穏当な原因で済ませようとするリプライ群に向かい、もっと(意図的に)「間違い」を加速させよう、もっと混乱させてしまおうと言っているものである。一種のアイロニー。説明するのも野暮だが、ツイッターにはこのようなアイロニーが溢れている。

 もう一つ不安なのは、そもそも室井氏が「妖怪ハンター」とは何か知らなかったのではないかという可能性である。知っていれば、自分の講義に「妖怪ハンター」が出てこないことに批判が来るなどという理路を思いつきもしなかったのではないか? だが、妖怪が民俗学イメージを代表していることを調べてみたいという人間が「妖怪ハンター」を知らないとしたら「出直してこい」としか言いようがないが、まさかそのようなことはないだろう、おそらく……。

 こうした「通俗的民俗学イメージ」については、あくまで示唆程度にだが、昨年出た『昭和・平成オカルト研究読本』にて拙文を掲載しているので参考にしてもらいたい。曲がりなりにも民俗学の実態と通俗的なイメージとの齟齬について考えている最中の人間として、単にそれを「風評被害」といって済ませるTwがどれほど雑に見えたことか。

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また、「講義がつまらない」というTwが含まれる引用RTを見渡しても、批判はほとんどないし、妖怪クラスタからの攻撃というのも見当たらない。

twitter.com

当初の「風評被害」Twに対する僕のTwは次のようなものである。

これは、僕にとってもっとも身近な文化人類学という分野に置き換えてみたものである。人類学者が大学の授業で「人類学といえば、呪術とか性儀礼のイメージがありますが、そういうのは風評被害です!」と言ったら問題だろう。

 当時から僕が「風評被害」Twについて「炎上している」ではなく「バズっている」と認識していたこともわかる。

 

 なおこの記事では、さらなる風評被害を避けるため、そして僕自身の責任において書くため、僕以外の「親密圏」のTwは引用しない。ただし、この記事を書くにあたり、「親密圏」の人々の数多くのTwを大変参考にさせてもらったことを明記しておく。

 念のため説明すると、僕が属するという「親密圏」というのは、おそらく(下記のように)「発狂倶楽部」という妖怪クラスタのことである。室井氏はこの「親密圏」の中心に僕がいると思っているようだが、「親密圏」のTwからTwを自動生成する「発狂倶楽部くんロボ」は僕のアカウントをフォローしていない。むしろ僕は周縁的な位置にいる。ロボの開発者(深層学習をやっている大学生)に聞いたところ、僕のTwは普通すぎるので選ばなかったらしい。

 ロボがフォローしているのがおそらく室井氏の言う「親密圏」に近いのだろう。ちなみに、僕の見たところ、「発狂倶楽部」の中心にいるのは氷厘亭氷泉氏である。

4.「風評被害」は強い言い方でしょう?

 記事の引用を続ける。

確認しておくが、私は前述のツイートで、妖怪も妖怪研究者も批判していない。「風評被害」という言葉は穏やかではなかったかもしれないが、それは巷間で「民俗学=妖怪研究」というイメージが根強いことを私が実感しており、その厄介さを吐露したに過ぎないのである。

にもかかわらず、なぜ件のツイートに怒りをおぼえる人が続出したのだろうか?

  それは風評被害」という言葉が穏やかでないからである。上に引用した僕のTwでも、批判する点は一貫して「風評被害」という言葉遣いである。以下に引用するTogetterにからめたTwも含めて、民俗学に妖怪というイメージがある点、そのイメージが実態とずれている点などについては、室井氏に異論を唱えていないどころか賛同している。

 また、「続出した」というほどあのTwに怒る人がいたというのは、当時の僕の印象とは異なる。僕自身は、「風評被害」Twがいつの間にか1000RT越えしているのを目の当たりにして、多数のユーザーが「妖怪研究が民俗学風評被害を与えている」という認識を持ったのではないか、と不安になったものである(室井氏とはまったく逆の心配をしていたわけだ)。

 しかし室井氏はまったく異なった方向からこの「炎上」理由を推測する。

5.炎上理由――民俗を愛好する輩からの反発だ!

民俗とは、平たくいえば私たちの日常にある習慣/慣習といった伝承的知識の総体である。ただし、「民俗」という語感から想起されるものは、そのうち「古き良き時代」を幻視できる文化財的な価値観ではなかろうか。

 妖怪も、少なくとも悪いものではないだろうから、そのような表象の拘束下にあるとみてよい。私の不用意なツイートに反感を示した人たちは、「古き良き日本」を象徴し、自らが愛好するキャラクターまでも批判されたと受け取ったのかもしれない。あるいは、妖怪を「夜這い」と並記したことに、えもいわれぬ屈辱感を抱いたのだろうか。

このあたりから飛躍が始まる。要するに、室井氏の「風評被害」Twに対する批判は、自分たちにとって「古き良き」民俗であり愛好の対象である妖怪を攻撃されたと勘違いしたか、「夜這い」と併記されたことへの屈辱なのだろうか、というわけである。

 ところで上に引用した僕のTwのどこからそのようなことが読み取れるだろうか。おそらく読み取れないと思う。そもそも室井氏に「啓蒙主義的」な偏りがあるとは言ったが、だからといって僕はそれに対する「ロマン主義的」=「古き良き時代」派でもないと、端的に書いている。たぶん室井氏は僕のツイートを調査していない。

 また、この話題についてのTw(発端から1週間までの、先ほどの検索結果に載るTw群)を見てみても、そのような意識で室井氏を批判しているものはほとんど見当たらない。室井氏は自己の先入観以外に何を見て、上記のように判断したのだろうか。

 この後の氏の文章は、「民俗を総じて良いもの=「醇風美俗」のように捉えるのは危険である」という主張の開陳へと続く。この主張自体はじゅうぶんに論理的で理解できるものである。僕は文化人類学専攻なので、民俗をまずもって「良い/悪い」で裁断する立場とは距離を置いているが、そこは今回の要点ではないので争わない。

 ただ、例示されるもののなかに、どういうわけか妖怪の危険性は入っていない。これは説明不足であろう。民俗を一律に良いものとすべきではない→その通り。夜這いには悪い側面がある→その通り。では、この記事の主題である妖怪は? 室井氏はこの肝心なところに答えていない。民俗すべてが「悪い」なら妖怪も「悪い」のだろうが、そのようなことまで室井氏が主張しているわけではない。

 「古き良き」派からの攻撃があった、その理由は室井氏が妖怪を「古き良き」ものではないと断じたからだ、というのならば話はきわめて分かりやすくなるが(そして室井氏はそのように読者を誘導しようとしているように見えるが)、現実には、氏はそのようなことを何もしていない。

 おそらく室井氏は妖怪に関心がないのだろう。だから妖怪のなにが悪いかうまく説明できなかったのかもしれない。だが言うまでもなく、啓蒙的・近代的な価値観では、妖怪のような非科学的迷信を信じ込むのは誤ったことである。妖怪学史においては、近代的研究の祖としてしばしば井上円了が挙げられるが、その祖からして、妖怪のほぼすべてを迷信として排撃したのである(このあたりは『日本妖怪考』第3章をどうぞ)。妖怪が啓蒙的に言って「良い」わけではないのは、妖怪研究者自身がもっとも自覚していることである。

 今見たような論究対象の横滑りは、実はこの文章全体に見られるものだ。妖怪を古き良き民俗とみなす人々がいる→民俗はつねに良いものではない→夜這いや同調圧力など悪いものもある……では妖怪はどうなのか? 肝心なところがぼかされている。このレトリックに惑わされてはならない。

6.妖怪研究者とマニアが結託している?

 ところで、「風評被害」Twを批判した「親密圏」の面々は、本当にそのように妖怪を「古き良き」民俗として捉えているのだろうか? 室井氏の思弁はさらに続く。そしてここから、室井氏による僕への個人攻撃が始まる。

 一連の炎上騒動を観察する中で、私が興味深いと感じたのは、インターネット空間では、大学の教壇にも立つような妖怪研究者と妖怪マニアとが一種の「親密圏」を形成しており、妖怪を直接批判しなくても、ネガティブな文脈で語っただけで、あたかも「自分たちが否定された」かのように即断し、共通の敵に対しては猛然と反撃に出る人々と環境とが、常に存在するらしいということである。

 寡聞にして、このような特徴に合致する「妖怪研究者」を僕は一人しか知らない。それは自分のことである。このことは、文章全体の最後に引用される柳田國男云々のTwが僕のTwであることからも確証できる。

 しかし室井氏はこのことを明言しない。この文章後半での攻撃対象は「廣田龍平」という固有名を持つ妖怪研究者であり、廣田龍平と相互フォローしている(していないこともあるが)妖怪マニアたちのことであるが、そのことは最後まで明らかにされない。あたかも、「親密圏」という一大勢力が存在し、何やら研究者たちが蠢き、つねに獲物を狙っているかのような言い分であるが、事実、そうなのだろうか?

 まず室井氏の「風評被害」Twへのリプライのなかに、僕がフォローしているアカウントは一つもなく、僕が存在を認識しているアカウントも一つもなく、僕とやり取りしたことのあるアカウントも一つも存在しない。おそらく彼ら/彼女らは僕のことをそもそも知らない。また、騒動直後に作られたTogetterまとめ:

民俗学のイメージとして「妖怪」「夜這い」が代表するようになったのは何の影響?民俗学講義の受講生から言われて絶句した一言 - Togetter

では、僕だけではなく、「親密圏」のTwさえも拾われていない。親密圏が形成されるほどに僕の存在が知られていたならばこのTogetterに載せられてもいいはずなのだが、残念ながらそれほどの知名度もなければ影響力もないのである。単著が一つもない、アカデミアに定職を持たない研究者など、所詮はこの程度なのだ。

 ちなみに、室井氏にとって衝撃の事実を告げるならば、「親密圏」にとってネタになったのは、むしろTogetterのまとめのほうである。このまとめについての僕の反応は次のとおりである。

( このツイートに関しては、室井氏が文春オンラインに記事を載せるという想定外のフォローをしたこともあり、事実誤認であるということで謝罪をする。)

( 室井氏は自身の民俗学を「啓蒙主義民俗学」とは呼んでいないことを付記しておく)

 (同じく「啓蒙民俗学」とは呼んでいないことを付記しておく)

なお、最後の点については、実は室井氏も同意するはずである。なぜなら文春オンラインの文章の最後のほうで、室井氏は、「現行の民俗学では、民俗の良い面ばかりが注目され、それが民俗学全体のイメージ形成に寄与し、さらにはマニアや愛好家たちをも巻き込んで「親密圏」が広がっている」と述べており、氏のような立場が少数派であることを吐露しているからである。

 ちなみに僕は現在『現代民俗学研究』という学会誌の編集委員をやっているので、投稿論文や研究会の題目などから、現在の民俗学者がどういうことに関心を持っているのか、なんとなく把握している。その経験から、妖怪などのジャンルが「下火」であるということを言っている。

7.発狂倶楽部という親密圏

 さて、室井氏は社会学由来の「親密圏」という概念を用いるが、これはツイッターの民俗語彙では「クラスタ」と呼ばれるものに相当する。たとえば「ビザンツクラスタ」とか「ギリ神クラスタ」とか言ったもので、相互にゆるやかにつながり合い、あるジャンルについて特定の話題で盛り上がるアカウント群・Tw群のことを指す。たとえば「風評被害」Twのとき、僕の属する妖怪クラスタ自称は「発狂倶楽部」)で盛り上がったのは、「出口王仁三郎の『霊界物語』にゴリラ女房の話がある」という話題だった。

 また同時期には、昭和40年代の児童雑誌における妖怪記事のデタラメ加減について、それの問題点を重視する側(僕自身など)と、当時の言説環境などを踏まえる側や利点を重視する側でちょっとした争いも起きている。(妖怪クラスタが、妖怪というだけで全肯定するなどという事実が存在しないのは、このことからも明らかである。)

 ちなみに、発狂倶楽部が自称する顧問は京極夏彦である(京極氏も発狂倶楽部の存在は認識しており、一部メンバーを自作に登場させたりしている)。そして当然ながら、僕たちが京極作品の愛読者であるからには、民俗を「古き良き」ものだと考えるわけがない

 同じように妖怪について語っていても、この話題に触れることすらしない妖怪クラスタもある。おそらくツイッター上には多くの妖怪クラスタがあり、その大半を僕は関知していない。上記のTogetterを制作したのも、そうしたクラスタの一つに属するメンバーであろう。

 だが一つ言えるのは、「発狂倶楽部」はもっともディープに妖怪を突き詰めているクラスタということである。妖怪について研究者さえも知らないような事実や、研究者さえも深く考えていない問題についてガチで語り合っているのがこのクラスタである。僕は、そうした人々の活動については「研究」の名に値するものだと考えており、常々敬意をもって接している。室井氏のように、「マニア」だからといってすぐに民俗愛好家だと即断し、研究者の立場から上から目線で貶めるようなことは決してしない(つもり)。実際「発狂倶楽部」の多くとは言わないが一部の人々は、研究会で発表したり商業出版物に文章を載せたりしている。

 加えて、「発狂倶楽部」にとって民俗学は妖怪を楽しむための多くの視点のうちの一つに過ぎない。たとえ民俗学的に「保護・顕彰」すべき妖怪がいるとしても、それは発狂倶楽部のとりあつかう妖怪の一部に過ぎないのである。そもそも妖怪研究が民俗学以外のほうで盛んに行なわれていると言うのは、この分野に足を踏み入れたならばすぐにわかることだ。室井氏のほうこそ、妖怪研究といえば民俗学という通俗的イメージで視野を狭めているのではないか。

 もし室井氏がフィールドワーカーとしてこの問題に取り組んでいたならば、氏の問題化する「親密圏」が「発狂倶楽部」と呼ばれていること、妖怪について実に多様な態度や視点を取っていることなどをすぐに理解したであろう。しかし室井氏は、民俗学者であるにもかかわらず、ある集団を調査分析するにあたって、その程度の労も取っていない。自分の批判する民俗愛好家のイメージを勝手に発狂倶楽部に投影するという、アームチェアここに極まれり、としか言いようのないやり方を取っている。いや、ツイッターを調査するならアームチェアでも問題ない。となると、それ以下である。これは大変に残念なことである。

8.妖怪研究者はマニアと線引きできていない?

室井氏による「観察」結果の報告は続く。

問題は、正当な学問を修めたであろう研究者が、およそ研究者らしからぬ幼稚な言辞を弄してマニアを煽ったり、進んでその旗振り役を担ってしまう構造が存在する点である。このことは、民俗学には研究とマニアとの線引きができていない「主客未分化」の研究者が存在することを意味しており、学術としての民俗学にとって、ゆゆしき事態だといえる。

 どうやら僕は、マニアを幼稚な言辞で煽っていたらしい。何の事だろうか。どのTwのことか、そのTwにどれだけ「煽る」効果があったのか、ちゃんと検証してから論じてほしいものである。とはいえ心当たりはある。このツイートだ。

 なぜこれかというと、僕と室井氏の「ファーストコンタクト」が、このTwをめぐってなされたからである。ただ、この件まで含めると話がややこしくなるので、ここでは飛ばす(というのも室井氏がそれに言及したTwを消してしまったからである)。文春オンラインに記事が発表される少し前(今年の1月4日)に室井氏がこのTwを発見し、たいへんに不満に感じていたらしいという点だけ紹介しておく。

 おそらく「親密圏」の大半は、妖怪にしか興味がないので、室井康成という研究者を知らなかったはずである。そこに僕が「それはそれで偏りがある」とTwしたので、「偏りがある」研究者という印象を植え付けたことはあるかもしれない。(とはいえ、妖怪や夜這いを風評被害という研究者を、何らかの偏りがあると要約するのにそれほど問題があるとは思えないが……)

 ただ、ここから発狂倶楽部が室井氏へと矛先を向けたという事実は認められない。何にしても3RTしかされていないので(発狂倶楽部はだれもRTしていない……)、影響力など全くなかっただろう。それ以外にも僕は室井氏をほのめかすツイートをしているのだが、せいぜい2~5RTであり、自虐的な言い方になるが、何の煽動力もないことがよく分かる。繰り返すが、室井氏はどういう状況をもって「僕が煽り、マニアがそれに煽られる」と判断したのだろうか。

 「研究とマニアとの線引きができていない」のを「主客未分化」と概念化するのもよく分からないところだ。正確を期すなら「研究」と「マニア活動」か「研究者」と「マニア」であろう。だが、研究者とマニアが地続きであることが、どのような主客未分化の事態を引き起こすのか分からない。とはいえそれは次の部分で明らかにされる。

9.歴史マニアに問題はある、それでは妖怪マニアには?

 室井氏は「たとえば」と続け、具体的な事例を挙げる(以下は要約)。「本能寺の変は家康が黒幕だ」などの陰謀論である。これらは歴史学的には承認されていない。しかしメディア文化人には信奉者がおり、本職の歴史学者と論争があった。そういった行為によって歴史学は学術としての正当性を世に発揚する。しかし歴史学者陰謀論を奉じるマニアなどと「親密圏」を形成し妄説を展開したら、学術的信用は失墜する。

  ここまでは正当な話である――妖怪研究者とマニアの「親密圏」がこれに対応する、という主張についての根拠がまったくないことを除けば。妖怪「親密圏」は学術的な通説に対する妄説・珍説・奇説を主張しているというのだろうか。具体的な例は一つも出てこない。ここにも、先ほど指摘した横滑りがある。とはいえ室井氏は、この横滑りを自覚しているのであろう、妖怪マニアが歴史マニアと同じように良くないということは書いていない。

 それではいったい、氏は何を攻撃しているのだろうか。

 室井氏は以下のように続ける。

 民俗学の困難は、こうした学問の正当性を賭した厳しい議論が起こりにくいことである。なぜなら、研究者自身が、研究対象としての「民俗」への愛情が先行するあまり「主客未分化」に陥り、学問が当然もつべき峻厳さが忘れられがちだからである。このことは、民俗とは常に愛惜の情感が向けられ、保護・顕彰されるのが当然であるという印象のみを広め、その負の部分に対して言及することへのタブーさえ醸し出しているといえる。

  ふたたび「主客未分化」が出てきた。どうやら主体が研究者、客体が民俗のようである。室井氏によれば、そのせいで民俗は保護・顕彰が当然であり、負の部分がタブー化されるという。実際、上述のフォスターが指摘したように、また室井氏が文中で挙げるように、民俗学者やマニアのなかにそのような考えを持つ人々が存在するのは事実であろう。

 だが、僕自身がそのような観点から民俗を論じたことは一回もない。そもそも僕は文化人類学専攻で、ある文化について価値中立的に分析することを学んできたので、研究対象についての道徳的判断を重視するという習慣がない。先ほども書いたが、僕はそういう啓蒙主義的な傾向からもロマン主義的な傾向からも距離を置いている。ただただ、その民俗に人々がどのように関わっているのかを分析しているだけである。(もちろんこのことは、道徳的判断を行なう文化人類学が存在しないことを意味しているわけではない。まずはインフォーマントをフォローするという基本原則に従っているだけである。)

 加えて言うならば、「マニア」は歴史学のほうだと珍説奇説を信奉している人間のことだったが、民俗学のほうだと民俗の負の側面を見ない人間ということになっている。この食い違いについては何の説明もない。歴史学のほうの「マニア」は陰謀論などの「負の側面」が大好きだから、それを見ない民俗学の「マニア」と並べることが出来なかったのだろうか? よく分からない論理展開である。

 いずれにしても、僕が妖怪は保護・顕彰すべきであるとか、それに類した主張を結論として持ってきていると言うのならば、具体的な文言を挙げてきてもらいたい。ぶっちゃけ、これまでの6年の研究キャリアで、本一冊の分量さえ書いていないのだから、邪推をする前に全部確認するくらいの労力は費やしてほしい。

 これは「親密圏」=発狂倶楽部の面々についても同じことである。それどころか、彼らと話していると、ある民俗について平気で「狂ってる」と言ったり嘲笑したりする。それはそれでどうかと思うが、発狂倶楽部なので狂ったものが好きなのであろう。ロマン主義的な、あるいは保守主義的、民族主義的な「古き良き民俗」というイメージはどこにも共有されていない。

 一例を挙げよう。「付喪神」という器物の妖怪がいる。古道具の変化したものであり、ときおり「物を大切に使いましょうという戒めが込められている」と説明されることがある。一方で発狂倶楽部は、付喪神という語の登場する前近代の文献を網羅し、「戒め」は現代のこじつけであって江戸しぐさのようなもの、と切って捨てる。「古き良き民俗」と思っているのなら、顕彰すべき対象と思っているのなら、おそらくこのような切り捨ては行なわないだろう。しかし発狂倶楽部はあくまで事実を重視する。そのため、顕彰できそうなものであっても、その見方を否定することができるのである。

 

 そろそろ話をまとめよう。室井氏が想定している攻撃対象は、室井氏が想定している主張を行なっていない。よって、藁人形論法である。

 

  参考までに、2018年の現代民俗学会の年次大会において、僕は「古き良き」民俗(とくに非科学的な俗信)を顕彰するものを「ロマン主義民俗学」、前近代的で排撃すべきというものを「啓蒙主義民俗学」として区分し、そのどちらもが近代的であるとまとめた。そして僕自身はどちらにも属さず、さらに善悪を宙づりにするポスト近代も乗り越え、B・ラトゥールの用語でいう非近代を目指す、と話した。

 室井氏は大会に出席していなかったが、氏も購読している(はずの)『現代民俗学研究』第11号には、切り詰めた要旨は載せておいた。今、他の人々にも参考になると思い、年次大会の発表スライドをリサーチマップに載せておく。

廣田龍平 - 資料公開 - researchmap

 僕が少なくとも2年前から、民俗を顕彰する側と排撃する側がいることを認識しており、そのどちらをも論じる対象として相対化するという行為を行なっていたということは、このスライドからすぐに読み取れるはずである。

10.「親密圏」からの攻撃?

室井氏は最後に、自著『柳田国男民俗学構想』以来の主張を要約する。

 日本民俗学創始者柳田国男(1875-1962)は、民俗が、時に人間の尊厳や自由を抑圧する可能性があることを指摘し、その現状把握のために民俗学の体系化を企図したとみられる。そして人々に対しては、民俗の良し悪しを自分の頭で考え、その改廃を含め自ら判断することを求めた。この点、柳田の学問構想には啓蒙主義的な面があったといえるが、後学の私たちは、民俗=伝承的知識に基づく価値観を全的に肯定し、これにすべてを預けてしまうのではなく、個々の民俗が本当に良いものなのかどうかを不断に検証していくべきなのだ。

  民俗を良し悪しで考えることを勧める点は、繰り返すように文化人類学が出自の僕にとっては違和感のある行為だが、否定するわけではない。文化人類学と違い、民俗学は端から自己内省の学であり、自分が何をすべきかを自分で考えるとき、自分が受け継いできた民俗の全体像を提示する学問が助けになるというのは確かなことだからだ。なので、この部分について批判すべきところはない。問題は次のところだ。

 ところが、現行の民俗学では、民俗の良い面ばかりが注目され、それが民俗学全体のイメージ形成に寄与し、さらにはマニアや愛好家たちをも巻き込んで「親密圏」が広がっている。

そして民俗=良いものという前提が存在しているがために、そのイメージに異論を差し挟み、「風評被害」という強い表現でこれを評した私に対して、「親密圏」の成員たちが感情的反発を示したのが、件の炎上騒動の本質であったと思う。とくにマニアにとって、妖怪を云々することが「学問」であるということ自体が、自らの嗜好を高尚なものへと引き上げ、その自尊心を満たしてくれるステイタスシンボルだろうし、「親密圏」の中心に研究者がいることは、何よりも心強かろう。

  妖怪の話だったと思うのだが、一つも例示をしないまま、「親密圏」が民俗学全体にまで広がってしまっている。それがさらに、再び具体的な妖怪研究=マニアの「親密圏」の話に舞い戻っていく。ここにも横滑りがある。話のスケールがどんどん変わっていく。ついていけない

 そもそも、室井氏はどれだけの数の「親密圏」を把握しているのだろうか。存在しない妖怪研究者の「親密圏」のほかに何があるのだろうか。民俗=良いものという前提を持つ民俗学者たちとマニアを巻き込む「親密圏」。どこだろう。是非とも、見せてもらいたいものである。

 まぁ、あるのかもしれない。ただ、それを提示せずにこの論理展開を進めるのは恐るべきことである。民俗学一般の現状について何か言いたいのは分かる。しかしそれを言うために、まったく見当はずれの事例を持ってきている。これでは主張は成り立たない。

だが、何よりも注目すべきは次の言い分だ。 

民俗=良いものという前提が存在しているがために、そのイメージに異論を差し挟み、「風評被害」という強い表現でこれを評した

 あ?

あのTwのどこにそんな「異論」が

「民俗は悪い面もあるのに、古き良き民俗として顕彰される妖怪や夜這いが民俗学を代表してしまっているのは、風評被害です」と書いているのなら分からないでもない。むしろ、そうしてくれたほうがありがたかった。そうすれば僕は自分が批判されているとはまったく思わず、ただ何かトンチンカンなことを言っているなと思っただけだっただろう。

 しかし、そんなことはどこにも書いていない。室井氏は、自分が何を書いたのか忘れたのだろうか。それとも自分が批判されたことの理由として文春オンラインの記事に述べてきたことを、過去のTwに投影してしまったのだろうか。

 それに続く文章は先入観だけでマニアを侮蔑的に見ているとしか思えず、論評に値しない。学問をかさに着た権威主義と見なされても仕方ないだろう。

11.役に立つことへの強迫

最後はこう締めくくられる。

 なお、柳田国男の生涯最後となった講演は「日本民俗学の頽廃を悲しむ」という衝撃的な演題であったが、そこには、「珍談、奇談」を弄ぶばかりで現実政治や社会的な問題に無関心な民俗学者に対する、柳田の苛立ちと絶望が込められていた。その点では、ネット空間の「親密圏」に閉じこもる研究者が「民俗学柳田国男というイメージこそ『風評被害』」だと述べたことは、確かに一理ある。

 最後に紹介されているのは僕のTwである。だが、具体的な出典を一切示さず(ツイッターであるということさえ述べられていない)引用するのはまともな作法ではない。しかも引用であるかのようにカッコで括っておきながら、微妙に表現が改変されている。やり方が二重に誤っている。学者としての矜持はないのだろうか。

  僕のTwの意図について説明すると、これは売り言葉に買い言葉であって、室井氏の言うところの「強い表現」であり、「不用意なツイート」である(しかしこうやって室井氏の言い訳を並べると、氏が常日頃ツイッター上で批判する政治家の言い訳のように感じられて興味深い)。単に「民俗学の研究には柳田國男が不要なこともあるのに、民俗学といえば柳田國男というのは事実に反する」ということを言いたかっただけである。これは「民俗学は妖怪と夜這いだけではないのに、民俗学といえば妖怪と夜這いというのは事実に反する」と同型である。室井氏風に言ったまでの事である。だから売り言葉に買い言葉である。だから(室井氏が引用しなかった)冒頭に「こっちから言わせてもらうなら」と書いたのである。悪気はなかった。反省している。

 とはいえ、こうした説明なしに、親密圏の研究者とやらが「柳田イメージは風評被害」と言っている、と述べるだけでは、読者には何のことやらわからなかったのではないか。室井氏のTwへのリプライにあったように、民俗学といえば妖怪、というイメージを形成したのは柳田國男だという認識が比較的一般的だとすれば、柳田を嫌う妖怪研究者というのはよく分からない存在であろう。しかし室井氏の引用の仕方では、なぜその研究者が柳田は風評被害と言ったのか、その真意が本当に室井氏の言うところにあるのか、まったく判断がつかない。これは室井氏の非学術的な引用作法によるところが大きい。

 

  ところで、室井氏による柳田の使い方について不安なところがあるとすれば、民俗学は社会の役に立つべしという理念が透けて見えるところである。(室井氏は、自分はそんなこと言っていない、と反論するかもしれない。だが社会問題にせよ政治批判にせよ、民俗のうち良いものを選別するという作業にせよ、眼前の社会を改善する目的をもつことは否定しないだろう。そして、普通はそういうのを「社会の役に立つ」行為というのである。)

 さて、社会問題を剔抉し、政治批判を行なう学問は、確かに力強く、自信を持ち、信頼できるもののように見えるだろう。それは否定しない。ただ、それとは逆に社会の役に立たない、何の意味もなさそうな、現状では下衆な趣味を掻き立てるだけのようなものの研究意義を暗に下に見るのはいかがなものだろうか。研究者たちは、とくに基礎研究者や文系研究者は、役に立たないものの研究こそが社会の可能性を豊かにするということを、日々、主張しているのではなかったか。社会問題を問え、政治批判をせよ……ジル・ドゥルーズから好きな言葉を引用する。

知識人は膨大な教養を身につけていて、どんなことについてでも見解を述べる。私は知識人ではありません。……かくかくしかじかの点について見解も考えももたないというのはとても気持ちがいい。私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです。(『記号と事件』宮林寛訳、文庫版、p. 277)

ホルヘ・ルイス・ボルヘスからも。

誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある。(『幻獣辞典』柳瀬尚紀訳、晶文社版、p. 13)

12.まとめ――文春オンラインの記事はなんだったのか

 端的に言うと、文春オンラインの記事によって、室井氏ははじめて妖怪クラスタ(発狂倶楽部)を敵に回した。室井氏は「風評被害」Twについて書かなきゃよかったと述べているが、この記事こそ書かない方がよかった。

 この記事だけ読むと、妖怪研究者とマニアは結託して「親密圏」に閉じこもり、民俗学や室井氏に損害を与えているという印象が生まれる。だが、それこそ、このブログエントリでずっと明らかにしてきたように、風評被害である。妖怪研究者などと一般化しているせいで、ほかのちゃんとした民俗学的な妖怪研究者(飯倉義之先生、香川雅信先生、そして小松和彦先生)にまで累が及んでしまっているのではないかと思うと、大変に心苦しい。

 また、何度か言っているが、この記事には論理の横滑りが多い。室井氏の批判の作法をまとめると次のようになる。

・妖怪を古き良き民俗と思っている集団がいる(仮説)→夜這いや同調圧力は批判すべきものだ(妥当)→民俗は古き良きものだけではないからその集団には問題がある(妖怪の問題点を挙げてから言ってくれ)

・妖怪マニアは主客未分化である(仮説)→歴史学者がマニアと結託したらヤバい(妥当)→民俗学はマニアと結託している(仮説がいつのまにか事実にすり替わり、それが民俗学全体へと一般化されている)

民俗学は民俗をつねに判断する態度を人々に求める→現状の民俗学はそうなっていない→妖怪もそうなっていない(論理としては、例示があって一般化すべきところなので、2つ目と3つ目が逆になるはずだが、そうなると文章が成立しないので、こういう順番になっているのだろう)

 室井氏の論理(?)は、何の根拠もなく、妖怪「親密圏」は悪だという前提ありきで進んでいるため、仮説であろうと思って読んでいると実は室井氏にとっては事実だったというところが多々あり、加えてそのような事実は存在しないため、各所で破綻しているのである。

 さらに悪いことに、文春オンラインでの記事には、僕の名前は出ておらず、そのため記事だけ読んだ一般人のみならず研究者の一部も、室井氏の書いていることを検証することなく、真に受けてしまったようである。

 だが、もっとも肩透かしなのは、読者が期待したであろう「なぜ民俗学には妖怪・夜這いのイメージがあるのか」「実際の民俗学では何が主流なのか」「実際の民俗学では妖怪・夜這いはどういう立ち位置なのか」という一般的な疑問とは無関係なところで話が進んでいるというところである。むしろ「親密圏」やら「主客未分化」やらの実態にそぐわない概念を投入したせいで、このような問いを混乱させてしまった感まである。

 

 どうも僕には、室井氏がありもしない「親密圏」の影を恐れ、憤り、理屈をでっちあげているようにしか見えない。なんというか、氏は、近代の啓蒙的知識人というよりは、闇夜にありもしない妖怪を恐れる、前近代の民俗にどっぷりつかった庶民のように見える。暗闇を恐れるな、蝋燭に火をつけよう。