信念と否定論についての人類学と民俗学

カマイタチ論文に紹介した事例は、字数制限の都合上、必要最小限にとどめてあります。『明治期怪異妖怪記事資料集成』から漏れた妖怪記事、科学啓蒙誌『学びの暁』、明治20年代医学雑誌のカマイタチ論文など、これまで知られていなかった文献が中心になっています。執筆の過程で削除した部分については、そのうち整理して公開したいと思います。
用いた理論については、日本語にも『夜に訪れる恐怖 北米の金縛り体験に関する実証的研究』の訳書のある民俗学者デイヴィッド・ハフォードの「否定論の伝統」(traditions of disbelief)というものをメインに採用しています。この理論(概念)はNew York Folklore誌第8巻第3号(1982年)に掲載されたTraditions of disbeliefというタイトルの論文で展開されているものですが、残念なことにこの雑誌は日本の大学図書館のどこにも入っていないようです。なので、『日本民俗学』の拙稿にも書いたのですが、ここでも少し説明しておきます。
ハフォードによると、「超自然的なもの」については二つの伝統があるにもかかわらず、片方だけが民俗学的な分析の対象になってきたと言います。それは超自然的なものを信じる伝統(traditions of belief)のことで、一般的には民俗(folklore, 民俗学の研究対象)の一部とみなされています。逆に、超自然的なものを信じない立場――否定論、懐疑論については、民俗学が研究すべきものとしては対象化されてきませんでした。しかし否定論の言説を具体的に検討してみると、きわめて類型的な主張が過去数百年にわたって繰り返されてきたように見えます。つまり、「懐疑論者にも、彼らの民俗があるのだ」(この理論を用いたジリアン・ベネットの言葉)。きわめて大雑把に言うと、たとえば「それは目の錯覚・幻覚である」とか、「社会的状況や欲望の投影である」とか「文化による認知の歪み」とか、そういったものです。
ここで大事なのは、このように指摘したからといって、「否定論の伝統」が科学的に誤りであるとか、あるいは逆に相対主義的に「同じように社会的に構築されたものなのだから、価値は等しい」とかいう主張をしているわけではないということです。むしろ、超自然的なものへの懐疑論であっても、それがさまざまな人々のあいだで共有され、継承されており、「民俗」に関係したものである以上、民俗学で扱うべき正当性は認められるのです。
ハフォードは、論文「否定論の伝統」よりも5年ほど前に発表した論文Humanoids and anomalous lights: taxonomic and epistemological problems(1977)でも、否定論の伝統を扱ってこなかった民俗学の問題を、次のように指摘しています(p. 234)。

[信念=信仰、伝説、世間話といった]素材は、……話者によって「信じられている」とされる。……明言されていないが、同じくらいに重要なのは、採集者やこうした素材の分析者は、……それを信じていない、ということである。……「私が知っているのは知識であり、話者が知っているのは信念」というわけだ。ここに大きな分類学上の不適切性がある。いくつかの主題領域において、私たちは、明らかに事実ではない、と研究者にみなされている言明や語りのカテゴリー(主として信念、伝説、世間話)を手にしている。たとえば鬼火や野人といった領分である。しかし、別の領域では、私たちは、事実のように思われる同様のカテゴリーを手にしているが(たとえばレシピ――私たちは、ペンシルヴァニアのドイツ系移民が、ポットパイは手作りの麺と鶏がらスープでつくると信じている、とは述べない)、もしそれが不正確だとわかっても、私たちは、自分たちの言葉遣いのなかに普通みつかるカテゴリーを用いるだけだ(たとえば「間違い」や「まずいレシピ」)。前者では、客観的な不正確さが定義的特徴であり、後者では客観的な正確さは記述的特徴である。

つまり、鬼火は話者の「信念」であり私たちは共有できないが、レシピは私たちも共有できる「知識」である、という、民俗学者による区分がある、というわけです(同じようなことは医療人類学者バイロン・グッドの『医療・合理性・経験』第1章でも述べられています)。こういう民俗学の前提は、つい先日出版された高岡弘幸『幽霊 近世都市が生み出した化物』(歴史民俗学的なアプローチをしている)で「生霊であっても死霊であっても、人間の「霊」が見えるはずがない。そもそも、人間の「霊」は文化的な仮設事項にすぎず、実在しないからである」(p. 49)と当然のように語られているのが一例です。とはいうものの、ハフォードも言うように、鬼火とレシピがまったく同じカテゴリーにあるということでもありません。というのも、前者については、「信じる伝統」と「否定論の伝統」が表裏一体になっているからです。レシピには、そういうものはありません。
逆に言うと、ハフォードは指摘していませんが、「否定論の伝統」がなければ「信じる伝統」もないでしょう。この点については複雑になりそうなので、拙稿では示唆にとどめておきました。ただ文化人類学者ロイ・ワグナーの『文化のインベンション』における議論は大いに参考になると思われます。
『文化のインベンション』は原著1975年で現在流通しているのが1981年の増補改訂版とのことで、ハフォードがこれを読んでいてもおかしくはありませんが、上記の論文では直接の参照はありませんでした。いずれにしても、ワグナーの要点の一つは、タイトルどおり文化は発明されるということです。自分の共有していない概念や意味、関係性などに直面した人類学者は、それを「異文化」として発明します。このとき文化というものが、自他にかかわらず、人類学者と現地の人々との接触のなかで(ワグナー用語では「仲介mediationとして」)、人類学者側によって発明されるのだという認識を持っていないと、それは「意味を信念やドグマ、確信に還元する人類学」となり、「現地の人々の意味か、さもなくば私たち自身の意味か、どちらかを信じなければならない罠にはまってしまう」ことになります(p. 63、訳文変更)。さらに、

私たち[人類学者]は、他民族の文化を、《文化》と類比的なもの(「規則」「規範」「文法」「技術」)として、つまり、単一の普遍的で自然な「現実」との対比において、意識的で集合的で「人為的」な世界の一部分として、発明している。……私たちは、彼らを私たちの現実へと組み入れ、彼らの生き方を、私たちの自己発明の内側へと組み入れる。彼らが発明することを学び、そして生きてきた現実について私たちが知覚しうるものは、「超自然的なもの」へと追いやられ、あるいは「単に象徴的なもの」として退けられてしまう(p. 210、原書を参考に大幅に訳文変更)。

このあたりの議論は、西洋的「自然」の単一性について、ティム・インゴルドをはじめとした近年の人類学がおこなっている批判の先蹤とも言えるものでしょう。それはさておき話を戻すと、鬼火なりカマイタチなりが、自分たち(民俗学者、人類学者)と共有されていないことにより、(異文化として)客体化され、「超自然」とか「象徴」とか「信念」へと還元されてしまう点を強調しておくのが、ここでワグナーを引用した意図です。さらに、人類学者とは異なり、民俗学者のほうは、「信念」を信じる話者と自分たちが同じ(ような)社会に属していることによって、信じる伝統と否定論の伝統とが同時併存する状態を「発明」してしまうことになります(もちろん、発明するのは民俗学者だけではなく科学者や知識人、一般人などでもよい)。
こういう議論の流れは、ワグナーを援用して、現地の人々の世界を理解するのに「信念」という概念を用いるのには問題があると論じ、あくまで他者としてあつかおうとするエドゥアルド・ヴィヴェイロス=デ=カストロの、きわめつけに人類学的な思考とは異なるものです。というのも、ここで論じているのは民俗学的アプローチのほうだからです。おそらく民俗学では、信念という概念を、それを民俗学者自身で自分の現実と対比させることをやめるならば、これからも積極的に使っていけるはずです。そしてここに、信念と対になる「科学知識」や「非科学的ではないもの」といった、科学的なものについての民俗学の道が開けてくることになるでしょう。『日本民俗学』の拙稿では、以上のような人類学との比較は行ないませんでしたが、結論としては、同じようなことを話しているつもりです。

※幽霊のくだりについて少しわかりやすく整理します。民俗学や過去の人類学は、幽霊がいるという他者にとっての現実を、幽霊はいないという私たちにとっての現実の基準から判断し、「他者は、幽霊がいないにもかかわらず、いると信じている」という前提から分析を始めがちです。しかし、そのようにして他者の現実を私たちの現実へと同化さなくても、他者にとっての幽霊という現実を分析することはできる、ということです。そもそも「いないのに信じているのはなぜか」と問うのならば、認知科学的な宗教研究が近年はかなりの勢いで発展しているので、そちらの成果をまず取り入れることが先決だと思います。