日本における超自然概念:年表
前にも詳しいことを書いたのだが、西洋近代以外の文化事象に「超自然」概念を用いることには問題がある……という議論は、ヨーロッパでは19世紀後半から続けられている。
では、そもそも、なんでそういったもの――妖怪、幽霊、冥界、呪術、魔物、神々など――は超自然的とかsupernaturalとか言われるようになったのだろうか。それはいつから始まったことなのだろうか。
実はこのあたり、欧米での展開に限っても、いまだ、まとまった論考はないようである。キリスト教神学における、本来の意味での「超自然」概念(つまり、範囲を神的なものに限定する)がどう扱われてきたかについては、アンリ・ド・リュバックをはじめとして、いろいろと研究がある。だが、一般的な意味でのこの概念がどうやって生まれ定着したのかについて、いまだ本格的なモノグラフは存在しない(はず)。
それとは逆に、日本での進化系統は比較的描きやすいはずだ。なぜならこの概念は、「社会」や「文化」、そして「自然」と同じように、19世紀、欧米から輸入されたものだからである。加えて、社会や文化、自然などと違い、「超自然」という文字列は前近代には存在しなかった。そのため、文字列が引き連れる概念の重なり合いや矛盾について考える必要はない。なので、たどること自体は難しくないはずである。
ということを念頭に置いて、ここ数年間調べてきた結果の一部を、時系列的に簡単に紹介することにしてみたい。個々の項目の意義や相互関連などはここには書いていない。また、近世以来の概念とのつながりも示唆程度にとどめている。あくまで情報提供としての記事である。
一つ注意したいのは、あくまでキリスト教神学以外の文脈でどうなっているか、ということである。要するに妖怪や幽霊やオカルトを表現するときこの概念が使われているかどうかということに重点を置いている。
というわけで、18世紀末から1920年代までの日本語における超自然/supernatural。
引用文は、適宜読みやすく改変しています。
1796
『江戸ハルマ』(辞典)
bovennatuurkunde 最上自然の術
bovennatuurkundig 同上
bovennatuurlijk 同上
※オランダ語の「超自然」はbovennatuurlijk。上のbovennatuurkundeは現在使われないが形而上学のこと。
1816
『ドゥーフハルマ』(辞典)
boven natuur kunde 窮理以上の学
boven natuurlijk 窮理以上の
1862
『英和対訳袖珍辞書』
supernatural 理外の理の
1871
『英和字彙』
supernatural 理外の、神怪の、不可思議なる、奇異なる
1885
ヘルベルト・スペンセル(ハーバート・スペンサー)『社会学之原理』乗竹孝太郎訳
「スーパー・ナチュラル」即ち理外と云ふ語の如きは、「ナチュラル」即ち当理と云ふ語に対用すべきものにして、現像の因果に一定の秩序あること、即ち吾人が所謂自然の理なるものの存することを知るの後にあらざれば、もとより吾人が理外と云ふ語を以て表する如き思想を発せざるなり。
1890ごろ
北村透谷「マンフレッド及びフォースト」(遺稿)
フォーストはゲエテの傑作なり、世界の傑作なり、マンフレッドは実にバイロンの傑作なり、世界の一大奇観と称するも仮誉ならじ。しかして彼も鬼神談既に古文人の談柄に上るのみにして文界まさに実際に進まんとするの時に成り、これも実に近󠄁代の鬼神を駆馳し、新創の幽境に特異の迷玄的超自然の理想を着て出でたり。
※『日本国語大辞典』に載る「超自然」の最古の用例。ただし、神学的文脈ではもう少しさかのぼれる。
1892
北村透谷「他界に対する観念」(参考)
フェーリイあり、エンゼルあり、サイレンあり、スヒンクスあり、あるいは空中に棲めるものとし、あるいは地上のあるいは奥遠なるところに住めりとなす、共に他界に対する観念なり[……]ゲーテのメヒストフェリスを捕捉してその曲中に入らしむるや、必らずしもかくの如き他界の霊物実存せりと信ぜしにもあらざるべし[……]実ならざるものを実なるが如くし、見るべからざるものを見るべきものとするは、この世界の常なり[……]近世の理学は詩界の想像を殺したりといふものあれど、バイロンのマンフレッド、ギョウテのフォウストなどは実に理学の外に超絶したるものにあらずや
1891~92
井上円了「妖怪学」『哲学館講義録』
また世人は、一切の妖怪はみな理外の理なりという。このいわゆる理外とは、人知以外を義とするにあらずして、万有自然の規則に反するものを義とす。万有自然の規則とは、原因あれば必ず結果あり、結果あれば必ず原因ありというがごとき、必然の天則を意味するなり。この天則に反したる不必然のものを名づけて妖怪という。
※「理外(理外の理)」は「万有自然の規則」と対置されるのでsupernaturalと思われる。
1892
超自然説と心理説とは小説に於ける二種の活動力なり。所謂[超]自然説とはウースタル(字彙家)の釈によれば「宇宙に物理的原因上のものありて活動せり」といふ説にして、小説に応用したるときには、ある種類の結果を超自然力の直接又󠄂は特殊の作用に帰するところを謂ふ[……][ウォルター・]スコットはしばしば神秘教、魔史等によりて妖術使ひ、妖婦、幽霊、いずな使ひなどを作りいだし[……]シャアロット・ブロンテに至りては[……]前兆、夢、幻影をはじめとして反響する足音、颯々の風声に至るまでも皆活きたる力なり
1896~1903
ラフカディオ・ハーン、東京帝国大学にて英文学講義。講義の一つが「フィクションにおける超自然的なものの価値」(The value of the supernatural in fiction)。
1899
夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」『ホトヽギス』(参考)
前に述べた如く、此小説は全く「フィリップ・エイルヰン」の呪詛が発展したものと見て差支へない。然しこれを説明するのに二つの解釈がある。第一は呪詛そのものの効力でこれだけの結果が生じたと解釈する。即ち「シンファイ」の固執する所である。第二には全く幽冥世界と関係なく、ただ外界の因果物質的変化と見做す。
※「幽冥世界」が超自然概念に近い。
1900
高木敏雄「羽衣伝説の研究」『帝国文学』
要するに未開人民が、天上界に超自然的住者を想像し、時としては、ある目的のためにもしくはある条件の下に、人間との接触結合の可能を信じたりとの説は、一般に許容すべきものとす。
1904
自然の法則に乖離し、物界の原理に背馳し、もしくは現代科学上の智識によりて闡明しがたき事物を収めて詩料文品となすことあり。暫く命名して超自然の文素と謂ふ。[……]悲劇マクベス中に出現する幽霊は明かにこの文素に属するものなり。[……]一言にして言へば余は窈冥牛蛇の語、怪癖鬼神の談、その他の所謂超自然的文素を以て、東西文学の資料として恰好なりと論断するものなり。
※本名のほうで発表している(以下も)
1907
夏目漱石『文学論』
余の所謂超自然的材料中には単に宗教的、信仰的材料を含むのみならずすべての超自然的元素即ち自然の法則に反するもの、もしくは自然の法則にて解釈しあたはざるものを含めばなり。例へば⑴古来小説詩歌の材料として使用せらるる幽霊[……]⑵Macbeth中の妖婆[……]⑶変化、妖怪[……]
泉鏡花「おばけずきの謂れ少々と処女作」『新潮』
僕は明に世に二つの大いなる超自然力のあることを信ずる、これを強ひて一まとめに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ばうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。鬼神力が具体的に吾人の前に現顕する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一本脚傘の化物ともなる。世に所謂妖怪変化の類は、すべてこれ鬼神力の具体的現前に外ならぬ。
1909
夏目漱石『文学評論』
次には、自然界には超自然の要素を含んでゐないと見る立場もある。(無論哲学的に云ふのではない。)即ち超自然界と独立して存在してゐる。[……]神を建立しても好い、幽霊を建立してもよい、役病神でも、福の神でも、雷様でも、弁天様でも好い。なんでも建立して不可思議にするが好いが、遂に神秘にはならない。
泉鏡花「一寸怪」『会談会』(参考)
私は思ふに、これは多分、この現世以外に、一つの別世界といふやうな物があつて、そこには例の魔だの天狗などとといふ奴が居る、が偶々その連中が、吾々人間の出入する道を通つた時分に、人間の目に映ずる。それは恰も、彗星が出るやうな具合に、往々にして、見える。
1914
蘆谷重常『童話及伝説に現れたる空想の研究』
超自然的存在に関する空想とは、神であるとか、天使であるとか鬼であるとか、天狗であるとか、巨人であるとか、小人であるとかいふやうな超自然的人格者、または竜であるとか、大蛇であるとか、鳳凰であるとかいふやうな異常な動物、天国であるとか、海底の国であるとか、竜宮であるとかいふやうな空想より生じた国等、すべてかくの如き存在に関する空想を指すのである。[……]本書は即ち古来の神話、口碑、及童󠄂話に現れたるこれらの空想の最価値あるものの実例を挙げ、これが性質を研究することを目的とする
1919
芥川龍之介「妖婆」
あなたの御注意次第で、驚くべき超自然的な現象は、まるで夜咲く花のやうに、始終我々の周囲にも出没去来しているのです。
1926
片岡良一『井原西鶴』
雑話集には、その性質の必然として、怪談、霊異談、神怪談、乃至それに類する超自然的事件を含んだ説話が多かつた。[……]武家物に至つては殊にさうした超自然力の顕現が少なくなかつた。化物屋敷には妖怪が出た。幽霊もあつた。死者の霊魂が横死を知らせる不思議もあつた。
1927
柳田國男、尾佐竹猛、芥川龍之介、菊池寛「座談会」『文芸春秋』
尾佐竹。よく田舎へ行くと天狗の宿つて居る松だといふて枝振りの面白い茂つた松があつたものですが、それも大分伐られてしまつたから、居処が無くなつたので大分居なくなつちやつたんでせう。
芥川。ああいふ超自然的な実在も、時代に依つて変りませう。
柳田。絵に描く姿はドンドン変るけれども、何かここにある迷冥の霊物が居るといふ考へだけはかはらない。
※柳田の発言にある「迷冥」は「幽冥」の誤植だと思われる。
1929
鈴木敏也『新註雨月物語評釈』
さきに雨月物語の説話を構成する中軸が妖怪変化にあることを述べた時、私はその出現の動機及び形式に就て云為するところがあつた。ここにはその表現と伝統とを明かにして更に超自然分子の芸術的価値に及ばうと思ふ。