国学者は西洋の「天使」(エンゲル)をどう見たか

一昨日、「平田派から柳田國男までの国学に見えたる妖怪論」と称して、現在進行中の某原稿の一部を転載したのだが、そういえば1年ほど前、「異類の会」で発表した時も物集高世を引いていたなあ、と思い出したので、また部分転載してみる。当時の発表タイトルは「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」で、レジュメだけはAcademia.eduのほうにアップロードしてある。

そのときはレジュメと別に読み原稿も用意していたのだが、いずれ整理してどこかの媒体に載せたいので、ここでは全文転載はせず、一昨日のエントリーと関係のありそうな、国学者のエンゲル(天使)論に関する部分だけ(レジュメでいうと4ページ終わりから5ページにかけて)載せてみる。(そのようなわけで、全体の文脈はレジュメを参照のこと)

ちなみに「国学に見えたる妖怪論」のほうは、僕にとっては妖怪研究の学史の一部という位置付けだが、以下のエンゲル論は、かつて書いた「カッパはポセイドンである」という論文の、草稿段階での一部(の一部)だったもの。でも、エンゲル論まで入れるとあまりに長くなってしまうのでカットし、その後、異類の会での発表機会を与えてもらった。読み原稿なので色々雑な表現はある。補足は[]に入れている。

補足:2年半前に書いた簡易年表も参照。

youkai.hatenablog.jp

(ここから転載)

西洋学問としての蘭学と対照的に思われる国学でも、西洋知識は積極的に吸収されていた。本居宣長は西洋天文学とアマテラスを融合して理解しようとしたし*1、わけても平田篤胤や彼の門下が蘭学を積極的に学んでいたことはよく知られている*2。たとえば国立歴史民俗博物館の「平田篤胤関係資料」目録を見ると、篤胤の生前は写本で出回っていた山村才助『西洋雑記』が蔵書にあったことがうかがわれ*3、これを彼が『霊の真柱』や『古史伝』で利用したことについて、中川和明による詳細な研究がある*4

篤胤は『玉たすき』九之巻(1824頃)において「エムゲル」という表記で西洋の天使に触れている。神の祐けが人生を左右することを解くなかで、以下のように注釈するのである。

「また是に就て思ふに、西洋の書等の初めに、かならず其を著せる人の肖像を出しあるを、其頭上に、エムゲルとて、大かた人形なる物の翼あるが、数多とび居る状を図する事は、その説に、人の一事に精心を入れて物するは、世に早く其事に労(いたづ)きたりし人〃の霊魂、その頭上により来て、祐くる故に、ますます精巧を成し得しむるを以て、此を図する由云へり。こは西洋人の窮理説の中に、もとも然も有らむと信(うけ)らるる説なり。」

ここで言われているのは『西洋雑記』にもある扉絵に描かれた天使のことであるが、篤胤は天上の神との関連については述べることなく、むしろ死者たちが人間の仕事を補助するという観念でもって説明しようとしている。蘭学の文脈では一般的に科学的考究を意味する「窮理」をこうした超自然的な文脈に用いようとするところからは、ややゆがんだ西洋的学知への篤胤の評価をうかがうこともできるだろう。彼はさらに続ける。

「こを蘭学者流は、謂ゆる天狗と、同じ物にいふも有れど、天狗とは、その言ふ意ばへ、やや異に聞えたり」*5

篤胤は、蘭学書においてエンゲルが天狗と訳されていることを知っていた(あるいは、そう認識していた)。しかし彼は、上述のエンゲルの特性をもとに、この同一視を微妙に否定する。『古今妖魅考』『仙境異聞』を引き合いに出すまでもなく、篤胤は天狗に対して強いこだわりを持っていた。そのため彼は、人間を導く上位の存在、守護神や産土神に近いものとしてのエンゲルを、仏教に近く山に住んでいる天狗と同一視することに無理はあると考えたのだろう。エンゲルは、同時代の蘭学とは異なり、形態論ではなく倫理的・神学的な意義でもって日本のものと明確に比較されるようになる。

おなじく篤胤の『印度蔵志』(1826)にも、おそらく同じ情報源を用いたと思われる、少し視点を変えた記述がみられる。やはり守護神が人のわざに応じて善悪に分かれることを述べる中で、エムゲルが出てくるのである。

「西洋人の窮理説に、人には各々其の業に従ひて、其を幸ふ物あり、是をエムゲルと称ふ。善業にまれ、悪業にまれ、其の業に専と勤しむ人には、殊に其物多く集ひて、其極境に至しむ。此の物に、善悪邪正ある事は更にも云ず、其態も、各々異にして、彼の国籍に、一芸に勤める人の肖像を載たるに、机辺上に、其物の多く飛相ふ趣を画たり。然も有げなる事なるかも」*6

こちらではより具体的に、エンゲルは人の善悪に応じてそのわざを助けるということが述べられている。この部分は『諳厄利亜(あんげりあ)興学小筌』とよく似ているので、おそらく当時の何らかの蘭学文献に書かれていたようである。ただ、たとえば篤胤のエンゲルに言及する芳賀登は「何らかの機会に洋書をみたのかもしれない」と述べるのみで、何を見たかは特定していない*7。どれに載っていたかは今後の研究課題になると思われる。

さて、それまでは写本で出回っていた『西洋雑記』が刊行された嘉永年間(1848‒1854)以降、活動拠点が異なる二人の国学者がエンゲルを自らの著作に採り入れることになった。一人は豊後の国学者・物集高世である。彼は1854年、妖怪・鬼神について『妖魅論』三巻というものを著している(刊行はされていない)。高世は1838年のとき京都で平田門下の六人部是香(1798‒1864)に師事したが*8、その19世紀前半の幽冥論への位置づけは定まっていない。

『妖魅論』巻中において、高世は天狗の実在を論じる。彼は、祝詞にその名が見える「高津鳥」と比較して、これが後になって天狗と呼ばれたのだろうと推測する*9。そして漢籍をいくつか引用したあと、「西洋の国にも似たる類の事多し。さるは皆此の高津神高津鳥の所為なるべし」と指摘して、「山村氏雑記」から長々とエデンの園、サルダナパル、そしてコンスタンティヌスの戦いの物語を引用する。高世は明言していないが、エデンの園の物語については、「邪魔」(サタン)が天狗だと考えているようである。またサルダナパル(『西洋雑記』ではサルダナパリュス*10)の下りでは、王の軍勢のところに「夜に至りて忽一人のエンゲル【天人の身に翅あるものをいふ】」が「剣を以て天より舞くだり、その諸営を撃」ち、多数を死に至らしめたことを紹介したのち(以上『西洋雑記』巻一の十ウ~十一オ)、「このヱンゲルも高津鳥の属なる物なるべし」と述べている*11。高津鳥という媒介はあるが、天狗とエンゲルは比較され、同定されている。彼も行智[『甲子夜話』にてエンゲル=天狗説を唱えた修験者]と同じくエンゲルを悪性の存在と考え、ときに大規模な災害も引き起こすものとみていたようである。

ただ行智や蘭学者と異なるのは、エデンの園の悪魔と天狗を比較していたことだ。高世は翼があるという形態も重視していただろうが、何よりも人間に災いをなす存在として天狗を捉えていた。そのため、キリシタン時代以来ふたたび天狗と悪魔が比較されることになったのである。一つ違うのは、エンゲルが依然として天狗だったという点だ。高世の著述には、蘭学の専門知識があった形跡はない。おそらく彼は、形態の水準を越えて行為主体性の水準で比較を行ない、それがために『妖魅論』では天狗と天使と悪魔が同じものとして統合されることになった。

もう一人の国学者は、江戸や京で活動した大国隆正(1793–1871)である。彼は主著『古伝通解』(1856ごろ)第六巻において、「隠界」(かくりよ)は時代や国土によって違うということを主張する。日本古代はツチグモがいたが今はおらず、天狗やキツネが現われている。

「さて国によりてたがふといふは、日本には天狗はびこりて、仙人すくなく、支那はまた仙人ありて、天狗すくなし。……おなじく日本のうちにても、四国にはきつねをらず、たまたまをりても、狸にところを得られて、キツネはありてもそのかひなしときく。九州にはまた水虎(かっぱ)といふものところを得てあり。……西洋にはエンゲルといふものありて、天竺の修羅、唐土の仙人、日本の天狗に似て、また一種のものと覚えたり。かのあたりの狐は、ばくることも、ばかすこともえせずといふ。これみな隠界の地によりてかはる証とすべきものなり」*12

隆正は、ほとんど同じことを嘉永年間成立の『死後安心録』や『神理一貫書』(安政期[1854‒1860]か)でも説いている。

隆正は他の著作でもエンゲルに言及している。たとえば『斥儒仏』(1853以降)では、無鬼論を批判しつつ、西洋も同様だとして「かのあたりの狐狸はいとにぶく、怪事をなさずといふ。されどもエンゲルなどいふ神物のあるによりなしとも定めがたく、鬼神を有無の間におきて、おもひわづらひてあるものなり」と論じる*13。この議論は、ある面では適切に当時の欧米における知的状況を捉えているとも言える。彼がどこからこうした知識を得たかは定かではない。芳賀登が紹介しているところによると、隆正は大坂に赴いたとき、蘭医として高名な緒方洪庵(1810~1863)からエンゲルのことを聞き「西洋にその理をきはめたるものなし」と言われたのだという*14。篤胤や高世と異なり、エンゲルまわりで隆正が『西洋雑記』を明確に参照しているところはない。書籍に加えて、洪庵のような蘭学者との人的ネットワークが彼の幽冥論を形成したと思しい。いずれにせよ、隆正は形態的な比較をとくに前面に出さず、超自然性を比較の土台にしているようである。

隆正の時代、国学者たちは政治運動に身を投じるかたわら、幽冥界の議論にも精力を注いでいた*15。超自然的領域がきわめて縮減していた江戸の世は、篤胤を転回点として、(幽冥論者にとっては)超自然的なものの実在が強く意識される世界へと変貌していったのである。その過程で、知識人が十全には捉えきれなかった怪異主体――狐狸、や天狗――もまた、超自然的な領域へと位置づけられていくことになる(これは高世の著作でも同様)。かつ、対外意識の高まりとともに、「西洋」の幽冥界への興味も弥増していくことになった。そしてエンゲルも、[キリスト教禁教以来]200年ぶりに、いるべき場へと戻ったのだ。比較対象は[蘭学と同じく]天狗のままだったが、国学でいう天狗は、篤胤以降、もはや動物の一種ではなく、神々へと連なる序列に並ぶ超自然的な存在となっていた。

(ここまで転載)

 

*1:斎藤英喜2012『古事記はいかに読まれてきたか 〈神話〉の変貌』pp. 71–95。

*2:たとえばDonald Keene, 1954, Hirata Atsutane and Western learning, T’oung Pao, Second Series, 42 (5);星山京子2003『徳川後期の攘夷思想と「西洋」』pp. 21–68;桂島宣弘1994「幕末国学像の再検討のために」『日本思想史学』26;前田勉2009『江戸後期の思想空間』第4章。

*3:国立歴史民俗博物館2007『平田篤胤関係資料目録』p. 377

*4:中川和明2012『平田国学の史的研究』第10章。

*5:以上、新修全集第6巻p. 534。

*6:新修全集第11巻p. 237。

*7:芳賀登1985『近世知識人社会の研究』p. 673。

*8:奥田恵瑞、奥田秀2000『物集高世評伝』p. 202。

*9:これは卜部兼倶以来の伝統的な解釈である。しかし、篤胤と親交の深かった「天狗小僧」寅吉は、高津鳥が天狗だという説を一蹴している(子安宣邦校注2000『仙境異聞・勝五郎再生記聞』pp. 59‒60)。

*10:『妖魅論』の翻刻テクストには「オルダチ・ハリュス」とあるが、これが高世の自筆本、弟子の写本、翻刻テクストにいたるどの過程でおこった誤記かは判断しかねる。

*11:奥田恵瑞、奥田秀「資料翻刻 物集高世著『妖魅論』上中下巻(中)」『国学院大学日本文化研究所紀要』97。

*12:野村傳四郎校訂1939『大國隆正全集』第6巻、pp. 282‒283。

*13:野村傳四郎校訂1938『大國隆正全集』第4巻、p. 198。

*14:芳賀登2003『芳賀登著作選集 第6巻 幕末国学の運動と草莽』p. 201。

*15:三ツ松誠2012「嘉永期の気吹舎 平田銕胤と「幽界物語」」『日本史研究』596;同2013「「幽界物語」の波紋」『近世社会史論叢』など参照。