超自然概念をめぐる論争①

 妖怪を論じるとき使われることの多い超自然(supernatural)概念。しかし、この概念は本来カトリック神学に由来するものだった。西洋ローカルなこの概念をどれだけ他のコンテクストに広げることができるのか、そもそもできないのかについて、実は(特に人類学において)いろいろな論争が繰り広げられている。しかし意外と日本語で読める資料は少ないようなので、ここでは問題・学説史の整理をしてみることにする。

まずは自然概念の整理

 超自然概念について考えるとき、まず準備しておかなければならないことがある。それは、超自然概念を展開するときの前提となる、「自然」概念のほうの多義性の整理である。
 西洋的自然(古代ギリシア語physis、ラテン語nātūra、英語・フランス語nature、ドイツ語Natur、オランダ語natuurなど)の訳語としての「自然」は、前近代日本語の「自然」とは大幅にその意味が異なっていた。それだけではなく、現代英語においても、頻繁に使用されるものだけでも、①「事物の総体」としての自然と、②「個々の事物がもつ本質的な傾向」としての自然という二つの意味がある。そのうえ形容詞naturalになると、③「ありのままの」「意図的な手の加わらない」「自発的な」といった、日本語の「自然な」「自然に」など前近代から続く用法に近い意味も加わる。
 以下、区別の必要があるときは、名詞の二つの意味をそれぞれ①「自然界」と②「自然本性」、形容詞の意味を③「自然的」と呼ぶことにする。そしてこれらの意味は、個物の自然本性は自然的であり、自然的なものの総体が自然界であり、自然界の個物は自然本性を持つと整理することができる。
 西洋語の名詞「自然」の多義性については、19世紀の思想家ジョン・スチュワート・ミルが晩年の「自然論」(1874)において要約している(それ以前から似たような議論はあり、ミルはそれらを総合した、と言ったほうがよい。遅くても17世紀には、意味が二つあることは認識されていた)。彼によると、「自然という語は、二つの基本的意味を持っている。事物の体系全体と事物の特性の総体(the aggregate)を意味するか、あるいは、人間の手が介入しない場合の事物のありよう(things as they would be)を意味している」*1。前者が自然界、後者が自然本性にあたる。
 また、自然界の概念は、ロビン・コリングウッドの歴史的分類を用いるならば、少なくとも二つの対立する概念へと分類できる。それは、彼が「古代ギリシア的自然」と「ルネサンス的自然」と呼んだものである。前者は能動的で主体的であり、みずから事物を産出し、内在的秩序のもとに流動しつづける生気論的な自然である。後者は受動的で客体的であり、超越的な外部によって産出され、法則を賦課された、機械論的な自然である。スピノザにならい、前者を能産的自然、後者を所産的自然とも言い分けることもできる*2
 キャロライン・マーチャントはさらに、能産的自然が「能動的で創造的な力」であるのに対して、所産的自然は「創造された世界」であるとする*3。この二つは自然界の概念を区分するものであるが、自然本性についても前者を「自発的秩序」、後者を「自然法」と呼び分けることができる。
 この区分は、オギュスタン・ベルクが、日本の「自然」概念を検討するための準備作業として指摘した、フランス語のnatureの多義性とも近い。つまり、natureは規定された法則の集合、「宇宙、環境、風景」である一方で、自発性や自発的発展でもあるのだという。フランス語の場合とよく似た両義性が現代日本語の「自然」にもある、とベルクは指摘するのである*4
 というわけで、本来ならば複雑きわまるはずの西洋的な自然概念だが、この記事の対象は超自然概念のほうにあるため、ごく大まかに分類を試みた。まず名詞(実体、対象)としては、①総体としての自然界と②個別の自然本性がある。さらに内在で完結する①A能産的自然(②A自発的秩序)と、超越者を必要とする①B所産的自然(②B自然法則)がある。そして形容詞(状態、性質)としては「ありのままの」という意味の③自然的がある。この③も、論理的には③A「自発的秩序による」と③B「自然法則に従った」の二つに区分できる。
 超自然は、英語では形容詞supernaturalなので、基本的には③の概念を前提として、それを「超えた」状態のことである。これから見ていくように、「自然法則を超えた」というのが一般的な定義なので、より厳密には「超③B」と規定することができる。また名詞the supernaturalとしては、超②B(自然法則を逸脱したモノ)、ひいては超①B(自然界に収まらない領域)ということになる。

超自然概念の曖昧さ

 さて、「超自然的」という言葉は、文化人類学をはじめとして、主として宗教研究では今も昔も多用されている概念であるが(時には「宗教」概念の中心に据えられる)、同時に、遅くとも一世紀前にデュルケームが指摘して以来、その適用可能性について論争がなされている概念でもある。妥当性に関する議論は、1998年の時点でヴィヴェイロス・デ・カストロが述べるように、もはや「陳腐と言ってもいいぐらいである」*5
 にもかかわらず、マリノフスキーやラドクリフ=ブラウンからエドマンド・リーチ、マーガレット・ミード、レヴィ=ストロース、ヴィクター・ターナーギアツ、モーリス・ブロック、スペルベルにいたる高名な人類学者たちは、問題など存在しないかのように、この言葉を用いてフィールドの事象を描き出している。ちなみに、しばしば「人類学の父」エドワード・バーネット・タイラーがこの概念を人類学の中心に持ち込んだとされるが、これは冤罪に近い。「マナ」概念を広めたコドリントンのほうに責任があるような気がするが、この点については現在検討中。
 そもそも超自然概念は、説明なしに用いられるとき(場合によっては説明があっても)、きわめて拡散したカテゴリーを包摂していたり、部分的に取り入れたりしている。2003年のAnthropological Forum誌で「超自然」特集が組まれたときも、このことが指摘されていた。同特集の「あとがき」にて、スーザン・セレドは超自然と関連する語彙を列挙する。神聖な(sacred)、聖なる(holy)、神的(divine)、霊的(spiritual)、神秘的(mystical)、不思議な(mysterious)、超常的(paranormal)、超感覚的(extrasensory)、奇跡的(miraculous)、超越的(transcendent)、宗教的(religious)、呪術的(magical)、迷信的(superstitious)*6
 この列挙に明らかなのは、「宗教的」を含め、多くが宗教に関係する形容詞だということである。この点は、超自然概念の有効性を検討する議論の多くが、暗示的・明示的に「宗教の定義として超自然概念を用いることは妥当なのか」という問いを背景に抱えていることからも裏付けられよう*7
 この問いに肯定的な研究者たちは、必然的に、「超自然的なもの」が、単に自然的な状態を超えたものではなく、それ自体が一つのまとまりであり、一貫した秩序があるとする。そのため、超自然概念の問題は、単に「自然的な状態を超えた」という規定が妥当なのかどうかのみならず、それらが「まとまりを有している」かどうか、という点も含んでいるということは明確にしておかなければならない(超自然概念は、自然概念に対立するunnatural, preternatural, artificial, culturalなどとは異なる!)。これは「宗教」が多文化的に有効な普遍カテゴリーなのか、という問いと直結する論点でもある。

超自然概念の用法別分類

  具体的に概念の検討に入るにあたり、大型辞典の定義を利用するところから始めよう。日本語の「超自然(的)」は、英語“supernatural”やフランス語“surnaturel”、ラテン語“supernaturalis”などといった欧米諸語の翻訳語である(ちなみに、この言葉が日本語に導入されたのは1890年代で、キリスト教神学に加えて、北村透谷や坪内逍遥といった文学者が中心となっていた)。
 『オックスフォード英語辞典』(以下OED)はこの言葉の定義として、一つ目に「神的、魔術的、幽霊的存在のように、自然を超越した領域あるいはシステムに属するような。科学的理解や自然の法則を越えた何らかの力に帰せられるか、そう考えられるような。オカルト的、超常的(paranormal)。本来はキリスト教のコンテクストで、神的なものを指す」を挙げ、この意味での英語初出が1425年だとする。
 一方、『グラン・ロベール・フランス語辞典』はOEDの第一義を細分化して、第一義を神に関する「自然の力では実現できないような」とする。そして関連語として「神的」(divin)、「恩寵」(grâce)、「奇跡、奇跡的」(miracle, miraculeux)を挙げる。同項目の第二義は「自然法則のもとでは起こらないような」とされる。そして関連語として「尋常ならざる」(extraordinaire)、「驚異的な」(merveilleux)などを挙げる。さらに合成語「超自然的な力」の事例として「魔術」(magie)などを、同じく「超自然的な存在」の事例として「魔物」(démon)、「精霊」(esprit)、「妖精」(fée)、「守護霊」(génie)を例示する。ただ、この二つの定義のどちらも「自然的なものを越えた」という意味をもつ点で、OEDの定義と共通している。

 以上を簡単な足掛かりとして、ここから細かい検討に入ってみよう。『グラン・ロベール』は「神的な超自然」と「それ以外の超自然」を別の意味として処理したが、1977年、宗教人類学者のベンソン・セイラーは、この区分とは異なった角度から、社会科学における二つの用法を弁別した。彼はまず、研究者の大半はこの概念に厳密な定義を与えないまま用いていることを認める。そのうえで、一つ目として、人間の能力を超えた、「霊的」(spiritual)とか「超人間的」(superhuman)と呼ばれるものや力を指すことの多い用法があるとする(ここでは精霊的用法と呼ぶ)。二つ目は、自然の普遍的な秩序を前提として、それを超越したものを指す用法である(ここでは超越的用法と呼ぶ)*8
 ちなみに、同様の区分をホラーの哲学者ユージン・サッカーも行なっている。サッカーは、ここでいう精霊的用法を「どちらも」(both/and)、超越的用法を「どちらか」(either/or)として、さらに三つ目の、「どちらでもない」(neither/nor)という超自然を提起する。それは、人間はおろか自然なものとも関係をもたない、隔絶された思考不能な領域である*9
 話を戻すと、セイラー自身は、ギリシア自然哲学からトマス・アクィナスに至る西洋思想史における超自然概念の変遷を概観して、そもそも、この概念が西洋独自の民俗カテゴリーであることを主張する。そして、歴史的にみて、法則のある内在的な自然と、それから外れたもの=自然を超越したものという区分が、分析概念の形成にとっては好ましいと結論づける*10。すなわち超越的用法がよい、ということである。こうした超自然概念、特に超越的用法の前提とする自然概念は、基本的には法則や秩序で規定され、定常的に運動し、例外は原則として発生しない、科学的で機械論的な領域であり、さらに、事物がそうした領域に属する状態のことである。
 他方、20世紀カトリック神学における超自然思想の第一人者であるアンリ・ド・リュバックは、「超自然的」の語源を検討し、「古代において、二群の表現があることになる。一つ目は特に行為(fait)に関わるもので、二つ目は実体(substance)に関わるものである」と指摘する。前者は古代ギリシア語(特にネオプラトニズム)、後者はラテン語由来である*11。要するに、出来事自体が自然的なところを超えた状況を「超自然的」と言うか、何らかの行為主体がそれ自身で「超自然的」と言うか、という違いになるのだろう。ここでは、両者を分ける必要があるときは「超自然的現象」と「超自然的存在」と呼ぶことにする。 

 精霊的用法は古くから知られている。コドリントンのような19世紀の先駆けも重要だが、ここでは民族誌の古典を見てみると、ラドクリフ=ブラウンは、『アンダマン諸島の人々』(1922)の「宗教的・呪術的信仰」章の冒頭で、「アンダマン諸島の人々は、超自然的存在の一群の実在を信じているが、それをここでは「精霊」と呼ぶことにしたい」と宣言し、後のほうでも「より良い術語がないので超自然的存在と言うが」と説明している*12マリノフスキーの『西大西洋の遠洋航海者』(1922)もまた「呪術とクラ」の章において、「呪術が、いわば普通とはちがった種類の現実を表すこと」を理由として、それを「超自然的」「超日常的」と呼ぶことを正当だとしている。そして、「呪術が超自然的ないし超日常的なものにふれる[……]ばあいは、ある呪術の慣行に霊が結びつくときである」と述べ、超自然と霊との関係性を自明視している*13。このような民族誌的記述は戦前から21世紀にいたるまできわめて多いため、ここでは以上の二つに留める。

精霊的用法と超越的用法の重なり

 ところで、筆者自身が関心があるからここで言及するのだが、日本において「妖怪」と超自然概念の関係はどうなっているのだろうか。代表的な研究者である小松和彦は、1983年の革新的な論考「魔と妖怪」において、超自然概念を次のような説明の中で用いている。曰く、民俗社会の人々は、二つの説明体系を持っている。それは、合理的・科学的な説明体系と、非合理的で、非科学的・超越的な説明体系である。人々は、不思議なもの、怖しいものに直面したとき、まずは合理的に説明しようとする。しかしそれが無理な場合、人々は超越的な説明にすがり、対象を超自然的・霊的なものの仕業とみなす。後者が、妖怪として概念化されうる対象である*14。この理解では、超自然的なものである妖怪は明確に「超越的」なもの、科学では捉えきれぬものとされており、セイラーの超越的用法に一致する。加えて、小松は「超自然的・霊的」という概念も同時に用いているので、精霊的用法もまた、承認していることになる。

 小松の妖怪概念は、セイラーの区別する二つの用法を同化しているように見える。それならば、小松は概念を説明するときに矛盾を犯してしまっているのだろうか。しかし、そもそもセイラーの区分を鵜呑みにすべきかどうか、こちらを検討するという方向もある。
 おそらくセイラーは、概念史的にみて超越的用法のほうが妥当だという結論を出すために、精霊的用法と超越的用法が肯定的なつながりを持つ可能性を見ないでいる。しかしながら、OEDの第一義や『グラン・ロベール』の第二義によると、霊的なもの(精霊、幽霊など――超自然的存在)や超人間的なもの(魔術など――超自然的現象)は、自然法則を越えているがゆえに超自然的とされる。仮にセイラーが批判するように、社会科学においてこの概念に定義がほとんど与えられておらず、二つの用法が区別されていないとすれば、それはむしろ単純に、辞書的な意味で用いられているから、と考えるべきではないか。実際、西洋近代的主体としての研究者から見るならば、研究対象の社会で経験され語られる霊的なものや超人間的なものは、私たちの知る自然法則に違反し、超越している。この視点から判断するならば、精霊的用法と超越的用法は一致しているのである。
 さらに、小松の説明に見られるように、西洋近代における両者の一致は、非西洋近代の宇宙論とも一致しているという仮定が、精霊的=超越的用法としての超自然概念の有効性の大前提となっている。いくつか一致していることを明言する用例を挙げてみよう。古くはアーサー・ホカートが、「自然的なものと超自然的なもの」という分かりやすいタイトルの論文で、この点を主張している。曰く、フィジーなどにおいて人々が説明しがたい現象を「精霊の所業」とすることを、「自然的ではなく、超自然的である」と言う以外にどう説明すればいいのだろうか*15。また、ルース・ベネディクトはフランツ・ボアズ編集の人類学概説書に「宗教」を寄稿し、次のように述べる。

超自然的なものの概念。実際上の民族誌的記録における、宗教的なものと非宗教的なものという単純な区分についての際立った事実は、ある社会から別の社会へとこの区分を移すとき、ほとんど修正を必要としないことである。[……]これは普遍的なものである。[……]マナやマニトゥの世界については、「超自然的なもの」という術語しかない。[……]あらゆる文化はそれなりのやり方で自然的なものを定義しており、超自然的なものについても同じことが言える。自然界についての知識が増えていけば、超自然的なものは定義上限定されていくことになるのであって、このことが宗教の歴史全体を図式化する[……]*16

ベネディクトは、宗教的/非宗教的の区分を超自然的/自然的の区分と重ね合わせ、前者にマナなどの古典的概念を位置づけ、この区分が普遍的であることを示す。その際、超自然的なものは自然界の知識が増えるとともに失われていくと述べ*17、暗に西洋近代の脱魔術化が宗教史の先端にいることをほのめかしてもいる。それに加え、超自然概念は人格的な力(マニトゥ)も非人格的な力(マナ)も含み込むという点で、精霊的用法もまた含み込んでいる。

 戦前の古典的著作から離れて近年の肯定的議論を見てみよう。メラネシア研究者のロジャー・ローマンは先述のAnthropological Forum誌に寄稿した論文において、何のためらいもなく超自然的存在と精霊という言葉を互換的に用いる。そして超自然概念を「生物的基体とは独立して感覚や意思のある行為主体性を想定し、それが物理的実在の諸要素の究極の原因であると理解する、普遍的な心的モデル」と定義する*18。また、宗教社会学者のロドニー・スタークは、上述のベネディクトをはじめとする多くの人類学者を援用しつつ、「宗教」とは超自然的なものに関わる事象であると定義する。さらに、それがタイラーの「宗教の最小定義は、霊的存在を信じることである」と同じことだとする*19。スタークによると、超自然的なものとは「自然の外部にあるか自然を越えた力ないし存在のことであり、物理的な力を停止させ、変更し、あるいは無視することができる」*20もののことである。彼にとってもセイラーのいう二つの用法は重なっている。

近年顕著なのは、人間の普遍的側面を大前提とする認知宗教学にもこの考えが強く見られる点である。人類学における代表的論者の一人パスカル・ボイヤーは、宗教概念とは「重要性をもつ超自然的概念である」と定義したのち、「どんな社会にあっても、神、霊、あるいは先祖(あるいはこれらの組み合わせ)は、[……]超自然的なもののなかでは別格である」と述べる*21。さらに、ボイヤーやジャスティン・バレット、イルッカ・ピューシアイネンらは、超自然的なものを「反直観的」(counter-intuitive)として再概念化する。すなわち超自然的な幽霊や神は「反直観的な物理的特性」や「反直観的な生物学的特性[……](多くの神々は成長もしなければ死にもしない)」、「反直観的な心理的特性[……](透視や予知)」をもっているのである*22。近年のセイラーは、こうした研究を踏まえて、超自然概念ではなく反直観なら多くの宗教現象を適切に説明できる、という考えに傾いているようである*23

 認知宗教学での議論にもっとも明らかなように、超越的=精霊的用法は、いかなる文化や人間集団においても自然的なものと超自然的なもの(直観的と反直観的)という対立は存在するし、それは大まかに言って物理的なものと霊的なものの対立に相当するだろう、という想定をしている。二つの用法は、人間文化の普遍的側面の一つとして積極的に融合しているのである。このような超越的=精霊的用法を、ここでは「普遍主義的用法」と呼ぶことにしよう。

 次回は、デュルケーム(ルナン)に始まる概念批判を見ていきます。

*1:ジョン・スチュワート・ミル2011『宗教をめぐる三つのエッセイ』大久保正健(訳)、p. 53。

*2:R・G・コリングウッド1974『自然の観念』平林康之・大沼忠弘(訳)、pp. 14–15, 174–176。

*3:Carolyn Merchant, 2016, Autonomous nature: problems of prediction and control from ancient times to the Scientific Revolution, p. 13.

*4:ベルク1992『風土の日本 自然と文化の通態』、篠田勝英(訳)、pp. 217–219。

*5:Eduardo Viveiros de Castro, 2015, The relative native: essays on indigenous conceptual worlds, p. 289n8.

*6:Susan Sered, 2003, Afterword: lexicons of the supernatural, Anthropological Forum 13 (2): 216–217.

*7:文献は省略するが、デュルケーム、ロビン・ホートン、メルフォード・スパイロ、オーケ・フルトクランツ、ロドニー・スターク、ベンソン・セイラー、モートン・クラス、パスカル・ボイヤー、そしてAnthropological Forum特集など。

*8:Benson Saler, 1977, Supernatural as a Western category, Ethos 5 (1): 33–36.

*9:Eugener Thacker, 2015, Tentacles longer than night: horror of philosophy vol. 3, pp. 113–115.

*10:Saler, 1977, 50–51.

*11:Henri de Lubac, 1934, Remarques sur l’histoire du mot «surnaturel», Nouvelle revue théologique 3: 227.

*12:The Andaman Islanders, pp. 136, 162–163.

*13:ブロニスワフ・マリノフスキ2010『西大西洋の遠洋航海者』、増田義郎(訳)、p. 391, 393。

*14:小松和彦1983「魔と妖怪」『日本民俗文化大系4 神と仏 民俗宗教の諸相』pp. 345–347。

*15:A. M. Hocart. 1932. Natural and supernatural. Man 32: 59-61.

*16:Ruth Benedict. Religion. Franz Boas (ed.). General anthropology, pp. 628, 631.

*17:Cf. de Lubac 1934: 238.

*18:Roger Ivar Lohmann, 2003, The supernatural is everywhere: defining qualities of religion in Melanesia and beyond, Anthropological Forum 13 (2): 175–176.

*19:Rodney Stark and Roger Finke, 2000, Acts of faith: Explaining the human side of religion, p. 89.

*20:Ibid. p. 90.

*21:パスカル・ボイヤー2008『神はなぜいるのか?』鈴木光太郎、中村潔(訳)、p. 178。強調除去。

*22:ボイヤー、p. 105。Ilkka Pyysiäinen. 2003. How religion works: Towards a new cognitive science of religionスティーブン・ピンカー2013『心の仕組み 下』、山下篤子(訳)、pp. 471–473、Justin L. Barrett. 2000. Exploring the natural foundations of religion, Trends in Cognitive Science 4 (1): 29–34.

*23:Benson Saler, 2009, Understanding religion: Selected essays, p. 14.