平田派から柳田國男までの国学に見えたる妖怪論
平田篤胤が今で言うところの「妖怪」に多大な関心を持ち、『鬼神新論』(1805)、『稲生物怪録』(1806)や『仙境異聞』(1822)、『古今妖魅考』(1828)などを著したことは比較的よく知られている。しかし、彼の学統たる平田国学やその周辺の国学者たちも、大半は篤胤ほどではないにせよ、「妖怪」について各々の著作に記述をちりばめていた。ただ、妖怪に限定して体系的な理論を確立した国学者はほとんどなかったため、彼らの妖怪論はこれまでまとまって紹介されることはなかったように思う。
最近、木場貴俊氏が19世紀中盤の国学者・物集高世(1817–1883)の著作に注目して、そのなかの「怪異」の基本的な考え方を紹介した論考を発表している*1。高世については拙稿「カッパはポセイドンである」(2016)(リンク先academia.edu)でも少し論じた……が、高世が蘭学の成果をどう使っているのか、という(基礎もないまま)応用編を書いたようなものだった。木場氏の論考によって基礎が明らかになったと言ってよいだろう。
とはいえ、篤胤や高世ほどではないにしても(この二人は異常例外的である)、世の中にはまだまだ妖怪を論じた国学者はいる。今書いている原稿の一部がそういうことを扱っているので、数日前ようやく木場氏の論考を読んだこともあり、ここに転載してみる。なお、すでに散々論じられている平田篤胤・本居宣長パートは省略。
ちなみに、後のほうで出てくる「妖怪の近代」という言葉は、以前の拙稿(リンク先CiNii)で、現代的な妖怪言説――妖怪は超自然的であり、神と互換的であり、非科学的であり、異界に所属する――が可能になった状況、として仮説的に提示したもの。平田篤胤は「幽冥(かくりよ)」という概念を重視した。彼のいう幽冥は単なる「あの世」ではなく、神々・死者・化物・動物の一部が属すところであり、西洋科学や漢意では捉えられない、空間的には「この世」と同じところにある異次元世界のことだった。この概念的総合は篤胤が成し遂げたもので、これをもって僕は「妖怪の近代」が成立した、と考えている。木場氏は「怪異(妖魅)」という言葉を使っているが、篤胤以降の国学では、分析概念としての「妖怪」を堂々と使える言説的状況になっているはず。
(ここから転載)
村岡典嗣が指摘するように、宗教性を強めていった篤胤以降の平田国学の系統は、各人各様に、さまざまな幽冥論を展開していくことになる*2。
具体的にいくつか挙げてみよう。津和野の国学者である岡熊臣(1783–1851)は、篤胤の神学的宇宙論が展開された『霊の真柱』(1813)などを参考に『千世之住処』(1822)を書き上げた。同書は神々と死者のことしか論じないものの、「賤しき龍蛇の類すら、幽冥に属る物とて、現に形の見えぬを考ふれば」云々という断片的な記述からは*3、特殊な動物たちと幽冥とのつながりが自明視されていたことがうかがえる。また後年の『読淫祀論』(1845)では、狐狸やヘビ、カラスなどは人間と異なり「幽顕に出入往来」できるものの、それらの引き起こす怪異については、「皆その本は尊卑、貴賤幽神の幽意に出る事にして、天狗・狐狸・虫蛇の己が私に奇界[ママ]変怪を恣になし得る事はこれ無く候」と述べる*4。動物それ自体が超自然的というのではなく、善悪かかわらず神々が力を分与している、ということになる。幽冥の顕明に対する絶対的優位を示したものと読める。
なお、動物たちが人間よりも幽冥に通じているという思想は、もとは篤胤が『霊の真柱』にて明言しているもので*5、その後は『千世之住処』と同年に書かれた鶴峯戊申(1788–1859)の『天のみはしら考證』にも認められる*6。また、木場貴俊氏が指摘するように、物集高世(後述)の幽冥論にも同様の記述がある。さらに、筆者の見つけたところでは、明治3年のある新聞記事にも、同じような論理が展開されているものがあった(『明治期怪異妖怪記事資料集成』には未収録)。
村岡はまた、篤胤の後継者たち「に於いて、思想上著しく認められる発展の跡は、応報てふ考の自然の結論として、死後幽界に於ける霊魂の部所について、それぞれ説が生じた」ということも指摘する(p. 138)。幽冥の細分化が行なわれるようになったのである。
たとえば、平田門下で洋学の素養があった佐藤信淵(1769–1850)は、篤胤がチェックした『鎔造化育論』稿本(1824)において「天刑を受けたる悪鬼等往往此に党し。所謂幽冥中に於て一藩の妖界を造り。数多の愚人を勾引するも知るべからず」と述べ、曖昧ながら「妖界」という独自の異界概念を提示している。ただ、そこの居住者は明確ではない*7。
同じく平田門下の六人部是香(1806–1864)もやはり「凶徒界」という領域があると考えた。それは生前悪事を働いた人間が行く、「謂ゆる天狗の類の妖魔の群党と為さしめ給ふ事なる」場であった(『産須那社古伝抄広義』巻三、1859)*8。
また、矢野玄道は明治初年代の『八十能隈手』(1872)四之巻において、「幽界」は「神界(かむどこ)、仙界(やまびととこ)、妖鬼界(まがものとこ)」などに分かれていることを論じる。ただ、いずれも人間の死者がおもむくところであり、もっぱら倫理的な区分が適用されている*9。
このようにしてみると、平田国学の有名人たちの主要著作を覗いてみても、狐狸や(人間の変じた)天狗ならまだしも、もともと化物扱いされている化物(見越入道など)まで射程に収めた理論を展開したものはほとんどない(『奇談雑史』『谷の響』などの怪談集を除く)。篤胤は見越入道も幽冥の化物と見なしていたので、この点で彼が異常先駆的だったのは事実であろう。なお、宣長以来の伝統がある悪神や、篤胤以降重視されている「まがもの」、「魔」については触れている著作もある。ただ、それらはどちらかというと死者や神々のバリエーションであり、本論の主題である化物的な妖怪とは少し遠いところにある。
やや特異な幽冥思想としては、熊臣と同じ津和野出身の大国隆正(1793–1871)のものが挙げられる。彼は平田門下ではなく、篤胤の思想を全面的に継承したわけではなかったが、現世と重なっているという幽冥の存在論については、他の国学者と同様に受容していた*10。隆正の議論で興味深いのは、日本国外の幽冥についての思弁が見られる点である。これは対外危機の高まりにともなう外国への関心*11によるものもあっただろう。主著『古伝通解』(1856)において隆正は、時代や土地によって幽界には違いがあることを示す。日本では、かつて「土ぐも」がいて幽顕にわたり暴れており、その次は「鬼」が現れたが、今ではいない。「いまは上古になかりし天狗といふもの隠界(かくりよ)につきて顕界にをりをりかたちをみせ、また狐といふもの顕界にうまれて、つひに幽界に入る」。それだけではなく幽界は国によっても違う。日本には天狗が多いが、「支那」では仙人が多い。国内でも四国には狐がおらず、狸の勢力圏である。九州には「水虎(かっぱ)」がいる。その一方で、「天竺」には修羅や餓鬼がいる。そして「西洋にはエンゲルといふものありて」、これまで挙げた存在と似たようなものであるという。そのかわり、西洋の狐は化けもしないし化かしもしない*12。隆正は、幽界の詳細な人口調査こそしないものの、怪異を引き起こす代表的なものとして土蜘蛛から鬼、天狗、そしてエンゲルまで例示する点で*13、篤胤とは異なった方向で幽冥の存在者の枠を大きく広げていったと言える。ただ、この議論がのちの妖怪論に直接影響を与えた形跡は見られない。
最初の方で少し紹介したが、豊後の物集高世は、篤胤以降では珍しく、化物に特化した著作『妖魅論』(1854)を遺している。同書の理論的内容は木場論考を参照のこと。何よりも多くの妖怪たちを幽冥の存在者として取り入れているのが目を引く。たとえばヤマワロ、カッパ、山男、山女、コダマ、樹木の精霊、竜、琉球のキムマムモム、西洋のセイレネム、海入道、船幽霊、魍魎、水虎、魑魅、スダマ、天狗、高津神、高津鳥、エンゲル、各種の動物憑き物、犬神、クダ、ドビョウ、カマイタチ、鬼、羅刹鬼、夜叉神、テイホム、ユキトキ、セルベリュマ*14など。さらに彼は、これだけ挙げておきながら、まるで妖怪オタクであるかのように、「此の餘怪物妖精なほいと多し」とさえ述べる(下321)。
これほど大規模に、死者や神々以外の存在者を幽冥へと割り当てたものは、近世においては類を見ない。同書の終わりのほうで、高世は「神も妖怪も。おなじ幽冥物(かくりもの)なるに。此の幽冥物は有りて。彼の幽冥物は無しといふべきやうなければ也」(下335)と主張する。国学者たちよ、神の実在を認めるならば、妖怪も認めよ、なぜなら同じ幽冥的存在だからだ、というわけである。この主張の結果は、あらゆる妖怪を幽冥へと取り込む、存在者のインフレーションであった。だが、その意味で高世の『妖魅論』は、近世国学における化物・妖怪論のポテンシャルを最大限に引き出した著作だと見なすことができる。
高世は『妖魅論』に続けて『神使論』(1854)も著したが*15、同書では篤胤を引き継ぎ、「鳥獣」は基本的に幽冥の領域にも存在するものだということが述べられている。それでは「妖魅」と「鳥獣」との違いは何かというと、前者は「幽冥世の物の中なる。顕明物」であるが、後者はその逆なのだという(pp. 192–193)。「鳥獣」にはウブメドリなど、現代でいう妖怪も含まれているものの(p. 177)、全体としては、「幽冥」という異界に、現代の妖怪論でいう(怪異現象を除く)妖怪がほぼ収まっているように思われる。鳥獣と妖魅という区分は、実質的には、実証的に存在が確認できるものとできないものの区分を、巧みに幽冥論に移し替えたものと見なせるだろう。
化政期から幕末にかけて、幽冥論を展開した国学者たちは枚挙にいとまがない。しかし、その多くが神々と死者の行方にのみ専心しており、たとえ視野を広げてみても、せいぜい狐狸天狗が登場する程度である。その意味で、いわゆる化物の類を積極的に幽冥にぶちこんだ物集高世や平田篤胤、大国隆正は例外的であった*16。とはいえ、着目すべきは、彼らが持っていたいくつかの前提(現世と幽冥の地理的同一性、経験的事実としての怪談奇談、それと表裏一体となる怪談奇談の公的な非実証性など)が何を可能にしたのか、ということである。そしてそれは、神々や死者をふくむ非実証的な存在者たちの単一的概念化と、存在論的に特殊な空間――つまり「超自然的領域」――の割り当てという、「妖怪の近代」における妖怪論にほとんど等しいものであった。
一方で、国学的言説の外部となると、そもそも幽冥と現世という存在論的空間概念が通用しておらず、そのため、キツネやカッパ、場合によっては天狗のように実在が比較的認められていたものを除くと、死者や化物たちの存在論的領域はいまだに欠如したままだった。19世紀前半から半ばにかけて、化物や死者の実在性を否定する弁惑物や無鬼論は、経験論的な世界認識とともに、ますます知識人や庶民へと普及していった。それらは主に現世的物理に還元するか心的要因に帰す論理を用い、新たな領域を持ち出す必要性を有していなかった。しかし、単なる実在の否定や「合理主義」思想の普及は、それだけでは近代性を帯びたものにはならない。奇妙に響くことではあるが、国学的幽冥論の外部の、現代的観点からは「合理主義的」と見なされる言説領域では、いまだ「妖怪の近代」は到来していなかったのである。
ちなみに物集家というと、高世よりも『広文庫』を編集した息子の高見(1847–1928)のほうが有名であろう。彼もまた国学者で、そして彼もまた妖怪存在の多くを幽冥界に放り込んでいた。1922年に出版された『人界の奇異 神界の幽事』が分かりやすい。高見は『妖魅論』を書いた人物の息子だけあって、父親と同様に「神界」の存在者として多くの「鬼魅」を掲載している。
「また、神界には、鬼魅といふ物ありて、多くは、悪神に属して、人を蠱惑し、或は、人を損傷する事もあり、世にいふ、天狗、犬神、猫神、猿神、飯繩、山男山姥、河太郎なども其の類なり……また、鷲、鳶、狼なども年経て老いたるは化るといふ」*17
彼の幽冥論自体は、父親からそれほど隔たっているわけではない。しかしこの小文は、神道天行居の友清歓真(1888–1952)が『烏八臼』(1927)という霊学アンソロジーに収めたことにより、昭和初期の霊学関係者に読まれることとなった。友清によるとこの小文は、2年前、機関紙『天行新聞』に掲載されたもので、「簡単に幽界の事情を覗かせるに便利な材料」ということで選んだという*18。霊学的宇宙論において「鬼魅」は中心的なものではなかったにせよ、現代的妖怪概念で取り込める諸々の存在者が、現世や科学を超越した空間にいるという「妖怪の近代」的な観念は、戦前の一部新宗教においても共有されていたことがうかがえるのである。
最後に、柳田國男(1875–1962)がこの流れを汲むという点を見てみよう。柳田が、「妖怪」について語った最初期の文章は、文芸雑誌『新古文林』に掲載された談話「幽冥談」(1905)であるとされる。この文章は、「僕は井上圓了さんなどに對しては徹頭徹尾反対の意を表せざるを得ないのである」(p. 255)と言い、近代的啓蒙主義者・圓了に真っ向から対立した立場を表明したものとしても知られている。
とはいえ、この態度表明は、必ずしも単純に連想されるような、「科学的と称して調べていき、結果的に迷信として排除してしまう」ことに対する「妖怪変化をつくり上げていく人間の精神構造」を問題にする立場*19、すなわち人文学的な立場に基づいたものではない。むしろ柳田は、少なくとも「幽冥談」においては、天狗や怪談の部分的な実在性を受け入れていた。そして、天狗や実話としての怪談の背後にあるのが「幽冥」(かくり世)であり、その概要は平田篤胤によって初めてまとめられた――という点で平田国学を高く評価するのである。
その一方で、柳田は「幽冥談」の終わりのほうで「この頃は僕も非信者の一人になって居る」ことを告白する。おそらくこの転向により、柳田は妖怪を近代的理論「共同幻覚」として捉えることができるようになったのだろう。とはいえ、稲生平太郎が指摘するように、柳田は幼少期に強烈な「神秘」体験をしていた。そして、その体験が「幽冥教」と深くつながっているように彼には感じられたし、それを科学の観点から全面的に否定することもできなかった*20。
この時期の柳田が懐疑論を簡単には受け入れなかったのは、1909年の「天狗の話」にも明らかである。彼は天狗や「フエアリー」を始めとする「おばけ」を「幽界の勢力」「魔界の現象」と呼び、「偶然私と貴君とが之を見なかつたからと云つて、一言の下に否定し得るやうな簡単な問題ではありません」と警告する*21。
とはいえ、本論の問題は、実在性に対する態度それ自体ではなく、彼が天狗や「おばけ」をどのように語り、問うことができていたのか、ということである。柳田が説明する幽冥界の存在論は、次のようなものである。
「此の世の中には現世と幽冥、即ちうつし世とかくり世と云ふものが成立して居る、かくり世からはうつし世を見たり聞いたりして居るけれども、うつし世からかくり世を見ることは出來ない、例へば甲と乙が相対座して居る間で、吾々が空間と認識して居るものが悉くかくり世だと云ふのである」(p. 247)
この部分は、篤胤が『霊の真柱』で説いたものとほぼ同一である。そして、この時期の柳田が、幽冥に関して篤胤を高く評価していたのは前述のとおりである。さらに、彼の歌の師匠であった松浦萩坪もまた、柳田の回想によると「時として幽冥を談ぜられた事がある……「かくり世」は私と貴方との間にも充満して居る」と語っていたという*22。萩坪の国学系統は明確ではないが、その淵源はやはり篤胤にあると考えられる。彼からの影響を受けた初期柳田の幽冥思想は、子供のころから篤胤の書に親しんでいたのと相まって、平田国学的な色彩を強く帯びることになった。
また、柳田は先述のように、圓了の科学啓蒙的な妖怪学に強く反発している。そして、江戸期から「物理学」で説明しようというものはあったが(弁惑物のこと)、今からみると「一笑に値する」ものでしかない、と退ける。結局のところ、「井上圓了さんなどは色々の理窟をつけて居るけれども、それは恐らく未来に改良さるべき学説であつて、一方の不可思議説は百年二百年の後までも残るものであらうと思ふ」(pp. 255–256)。いつまで経っても科学の光の及ばぬところ、そこに不可思議があり、そこに妖怪がいるのである(とはいえ圓了も同じことを言っているのだが)。幽冥と科学との対立は、当時の柳田にとって周縁的なものであったが、それでもあえて前景化してみるならば、彼の思想における幽冥は、まさに「超自然的空間」と言うことができる。
(転載ここまで)
僕が国学的妖怪論を気にしているのは、民俗学的妖怪論がそこに直結しているから。この系統を明らかにしないと先には進めないだろう、という思いがある(かもしれない)。
*1:「怪異から見る神話(カミガタリ) 物集高世の著作から」『アジア遊学』217(2018)pp. 164–168。
*2:村岡典嗣2004「復古神道に於ける幽冥観の変遷」『新編 日本思想史研究』;桂島宜弘1999『思想史の十九世紀 「他者」としての徳川日本』第6章;原武史2001『〈出雲〉という思想 近代日本の抹殺された神々』第4章;桂島宣弘2005『幕末民衆思想の研究 増補改訂版』pp. 57–59。
*3:小笠原春夫(編)1988『神道大系 論説編二十七 諸家神道(上)』p. 90。
*4:加藤隆久(編)1985『岡熊臣集 下 神道津和野教学の研究』国書刊行会、pp. 640–641。
*5:新修全集第7巻、p. 145。
*7:佐藤信淵1911「鎔造化育論」『平田篤胤全集 第二巻』p. 30。
*8:小笠原春夫(編)1988『神道大系 論説編二十七 諸家神道(上)』、p. 254; cf. 浅野雅直1989「近世後期国学者と民俗信仰 平田篤胤の「幽冥」の位置(下)」『日本学』13: 211;『〈出雲〉という思想』pp. 133–136。
*9:物集高見(編)1927『新註皇学叢書 第十巻』p. 93;cf. 『思想史の十九世紀』pp. 149–151。
*10:宣長・篤胤と距離を取っていた橘守部(1781–1849)についても同じことが言える。村岡、pp. 133–136; cf. 東より子2016『国学の曼陀羅 宣長前後の神典解釈』pp. 70–71。
*11:『幕末民衆思想の研究』pp. 65–70
*12:『大国隆正全集 第六巻』pp. 282-283。『斥儒仏』(1853以降)でも同様のことが言われている(全集第四巻p. 198)。
*13:エンゲル(Engel)とはオランダ語で天使のことである。18世紀末以降、洋学や国学においては、エンゲルやその一種を天狗と同一視する翻訳実践が行なわれていた。廣田龍平「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か―日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」(異類の会、2017年7月15日、於大東文化会館)での発表報告を参照。
*14:ギリシア神話のテューポーン、エキドナ、ケルベロス。カタカナの誤読に由来する誤記が、どの段階(高世自筆か、弟子の筆写か、翻刻か)で生まれたかは不明。
*15:奥田恵瑞、奥田秀2007「〈資料翻刻〉 物集高世著『神使論』」『國學院大學日本文化研究所紀要』99。
*16:ほかに特筆すべき19世紀の文献として、参沢昭の『幽界物語』(1852–1855)、宮負定雄の『天地開闢生植一理考』(1857)、宮地水位の『異郷備忘録』(1877–1887ごろ)などが挙げられる。ただ、存在者のバリエーションとしては「天狗」や「魔王」の分類を事細かに描いたものが多く、そのほかの化物・妖怪はほとんど扱われていない。
*17:『人界の奇異 神界の幽事』p. 40–41
*18:『烏八臼』p. 8。
*20:稲生平太郎2013『定本 何かが空を飛んでいる』pp. 320–323
*21:柳田國男1909「天狗の話」『珍世界』1(3) : 25。
*22:柳田國男「萩坪翁追懐」『読売新聞』1909年12月12日付録2面; cf. 中川和明2012『平田国学の史的研究』p. 407–408; 一部宮地正人2015『歴史の中の「夜明け前」 平田国学の幕末維新』p. 367など。