「民間信仰の古い記録によって今日の私たちは何ができるだろうか」翻訳その2

youkai.hatenablog.jp

これの続き。

話者(narrator)、そして収集家の履歴

民俗資料館にあるナラティヴの話者を調査してみるのが興味深いのは確かだ。悪魔譚を知っていて、また悪魔について語ったのは、どういった人々なのだろうか。私たちは話者の名前をそれなりに知っているので、礼拝や社会参加に関する文献をもっている教会や当局の資料のなかに話者をたどることはできるだろう。とはいえ、この手のデータは、意義のある調査をするために十分とは言えない。話者たちの日常生活やある種のユーモア、敬虔さの度合い、その他の心的状態について誰かが述べてくれていれば、もう少し状況はよくなる。残念なことにそれが不可能なのは、物語が語られた状況の情報が失われているからである。つまり、状況的文脈がないのである。悪魔の民俗に取り組むときは、民俗と心理学、とくに宗教心理学との関係性についてまともな知識があれば助けにはなる。出発点となるのは、人々が宗教的なことを話すとき独特な反応をするということであり、言うまでもなく悪魔は、フィンランドに深く根付いた信仰体系たるキリスト教の領分である。悪魔に関するテクストのなかには深刻なものもあれば、そうでないものもある。一般論としては、人間が悪魔を打ち負かす物語を語ることができるという感情によって、どんなときに話者が安心して幸せだと感じていたのか、あるいは人生や教会への抗議を言わんとしていたのかを、テクストから推測することはできる(Bakhtin 1968参照)。とはいえ、そこに込められたメッセージが誰かへの注意だったり誰かへの支援だったりすれば、それは勝ち誇る悪魔と打ち負かされた人間についての物語にもなりうる。ならば、話者が本当に悪魔を信じていたとすると、悪魔の名前を口にすることさえないだろうし、あるいは聖書から一節を引用することもあるだろう――これもまた、事実として、民俗コレクションのなかに見いだされる。この点が面白いのは、悪魔の民俗を聞かれたときの人々が、「聖なる」テクストと世俗的なナラティヴに、必ずしも何かの区別をつけていないように見えるからである。この二つの世界――聖なる表現と俗っぽい表現——は、融合しているのだ。

あえて悪魔の笑い話を語ろうとすることによって、話者があらゆる社会的桎梏からの自由を感じることにもなるだろうし、また、他方で深刻な話が人々に罪を自覚させ、社会の決まりに従うように仕向けることもあるだろう。そういうわけで悪魔譚は革命的になることもあれば保守的になることもあるのだが、この両者の境界線は、信仰に関する文献と民俗のあいだに引かれるものと同じではない。むしろこの境界線は民俗のなかに引かれるのであって、誰がどういうときに物語を語るのかに左右されるように思われる。

宗教心理学で使われる帰属の概念は、悪魔譚のいろいろな側面を説明するときに有効かもしれない。そのため、民俗——そして生活——が混迷を来たしてどうしようもなくなり、おまけに矛盾だらけになってしまったとき、人々はそこに意味のある全体性を作りだそうとする。人々は、自身の性格やいま必要なものにそぐなうようにして、さまざまな状況を表現する。話し方や生き方に一貫性がないことさえもありうる。このことは、民俗的な悪魔の絵が格子模様になっていることを説明するものにもなるだろう(Spilka, Shaver, and Kirkpatrick 1985)。

悪魔のナラティヴを記録するときの、現場での収集家たちの働きもまた、民俗研究の着眼点になりうる。ある程度は、どうやって話者のもとにたどり着いたのか調査するだけの資料があるし、また、どのようにコレクションが検査されることになったのかを理解するだけの資料もある。こうした調査は、今では歴史的な理由で関心を持たれるのみである。というのも、耳で聴いて鉛筆で紙に書くやり方から、あらゆる技術装置を用いる段階まで、収集方法に大幅な変化があったからである。かつては、記録の際は収集家が心を傾けることが重要だったが、今ではその必要性はない。録画などの技術的記録法を用いるおかげで、収集家は後になってからレコーディングを視聴して集中することができるようになったのである。

[つづく]