「民間信仰の古い記録によって今日の私たちは何ができるだろうか」翻訳その1

元論文の詳細→https://doi.org/10.1080/0015587X.2020.1733313

手短な概観

民俗資料館(folklore archives)は、過去についての資料を収蔵している。そうした資料は、概してそんなに価値がないと見なされず、たやすく記録されないままになってしまう環境から採られたものである。この手の資料には不利な点もある。そのせいで、資料館にある記録は、民俗学民族学分野以外の研究者からしかるべき注目を与えられていない。ここで私は、ヘルシンキスウェーデン語で「ヘルシングフォルス」)にある民俗学資料館を見てみたい。それぞれフィンランド文学協会およびスウェーデン文学協会フィンランド支部と関わっている。前者は1831年、後者は1885年の創設である(700年にわたって、フィンランドスウェーデンの一部だった)。より小規模な資料館は全国各地にあり、民俗学者にとって重要な資料が収蔵されている。ここでは、民俗(folklore)は多彩なジャンルにわたる伝統的でヴァナキュラーなテクストのことを意味する。

私たちは、こうした資料をかき集めるに至ったイデオロギーについては、それなりにしっかりと知識を持っている。私たちはまた、資料の収集家がどういう人々なのか、なぜそうした人々が作業に取り組むようになったのかも、よく知っている(Österlund-Pötzsch and Ekrem 2008)。スウェーデン文学協会には、学生や教師、それ以外にも関心を持った若い人々に、田舎で民俗を探すよう仕向ける「専門家」たちがいた。彼・彼女らは、田舎のなかでも際立って辺鄙なところで特定のジャンルの民俗を探し出し、もしできるならば、学校教育に「毒されて」いない古老と接触するように言われた。今日、私たちは収集家多くについて、紙切れに書かれた名前でしか知らないし、名前が分からないままのことさえある。収集家たちは、適切に正確にフィールドノートを書き記すように要求され、その後、協会の専門家集団が収集家のテクストを検査した。後の段階では、民俗の失われたかけらを探す専門家が育成された(Wikman 1968, 8)。フィンランドでは、他の国々と同じように、民俗は消えてなくなる文化の一つのカテゴリーと見なされており、それゆえ残存する要素をすべて探すことが重要なことになっていた。その目標は、死せる文化類型に捧げられた記念碑としての、フィンランドスウェーデン的民俗の全集を出版することだった。

このとき採用された収集プロセスのせいで、フィールドノートは収蔵資料のなかに滅多に見つからない。その結果、いろいろな意味で、今日の私たちが手にするしかないものの大半は、田舎にあったときのもともとの民俗ではなく、主として農村部のフィンランドスウェーデン的民俗文化を例証する、代表性があるように小ぎれいに切り取られたテクストだけ、ということになる。そのため収蔵記録を取り扱うときは資料批判が決定的な作業であり、その記録を用いる研究者は、結論を引き出すとき細心の注意を払わねばならない。こうした資料にはいくつかの難点がある。たとえば、ある民俗ジャンルの民俗モチーフやその他の証拠が特定の地域に見つかったと述べることはできるにしても、そのモチーフなどがどれくらい頻繁に現れていたのかについては何も言うことができない。なぜなら重複が除外されることがあったからだ。その結果、頻度の分析や一般化は全体として難しいものになり、そもそも収蔵資料を研究することの価値はいかほどのものかという疑問も出てくる。たとえば、誰がどういう状況で語ったのか分からないならば、悪魔の伝承を研究するのに、なぜその資料に価値があると言えるのだろうか。

なぜ記録されたかの理由から考えてみるとすれば、この疑問を発するのは間違いである。というのも収集家たちにとって、悪魔その他の伝承をとりまく状況を調べるのは目的ではなかったからである。彼・彼女らにとってはむしろ、フィンランドスウェーデン語話者集団に伝統が存在していることを、比較のために、そしてある程度は政治的な意図をもって例証することが目的だった。

それから1960年代になって、民俗や民俗学、民俗研究といった概念で意味するところが次第に明確なものになっていった。民俗学者たちは、メルヘンや伝説、バラード、音楽、俗信、民間医療、叙事詩といった主に「大きなテーマ」などの具体的なジャンルに傾注した。そして民俗の文字記録が制作された。そのとき、民俗を使っていた人々は脇に除けられ、他方で、収集家たちが民俗の記録をつくりあげたのだった。当時の研究者たちには、何をどのように収集するのか、民俗のコレクションをどのように提示するのかについて、所定の方法があった。コレクションは、当時は主として農民に見いだされた国民文化の記念碑的なものとして、大規模な資料館のなかに、のちのち復元するために保管されることになった(Wikman 1969/70)。

やるしかないならやってみせようということで、民俗資料館の資料にもとづいた調査の目的は、歴史的視野による研究として提示されることになった。また19世紀末には、ヴァナキュラーな文化への関心の結果として、実にさまざまな、多くの語り物が記録された。そうした語り物は、1878年にヨハン・アウグスト・ルンデルが制作した、あらゆる口語の発音に対応する118の特殊文字からなる方言用アルファベットを用いたことの産物だった。それらの記録文書は保管され、方言にかかわる近年の研究の背景資料の一形態として、研究者が取り組むことができている。だが、この手の作業は民俗学者よりも言語学者が担っているので、そうした学術研究にこれ以上は触れないことにする。

1970年代までは、芸術・人文学における支配的な見方には歴史的視角というものがあったので、主導的な研究課題は過去に関わるものとなっていた(Wolf-Kunts 1995, 19)。民俗研究界隈では、カールレ・クローンの歴史地理的手法に基づき、研究者たちは民俗の諸項目の年輪や分布、地理的変異を問うことになった。クローンは、『民俗学方法論』(1926)において民俗資料に取り組むときの方法論を事細かに述べ立てた。彼は、実証主義的な科学研究という支配的条件に適合する方法をつくりあげようとしたのである(Krohn 1926, 1971)。クローンの描き出す厳格な技術の主要目標は、民俗の諸項目の起源を突き止めること、あるいは再構築することだった。この時代、民俗学者にとっての第一の道具は、言語だった。

だが、1960年代にテープレコーダーが普及したことにより、この手の研究は急速に変化することになった。いきなりリアルタイムで、民俗の内容や起源、分布のみならず、民俗が作り出され演じられるやり方にも専念することができるようになったのである。テープに記録され、そして後にはビデオ録画された民俗のパフォーマンスは、民俗学者が関心を抱く資料のカテゴリーになっていった。民俗学の視野は、表現様式のなかの言語や変異にだけ注目する段階から、民俗をパフォーマンスする人々の行動を考えに入れる段階へと、慌ただしく移行していったのである。

「どのように」が重要な問いになっていった。どのように人々は物語を語るのだろうか。どのように民俗舞踊は組み立てられるのだろうか、どのようにステップは踏まれるのだろうか。どのように人々は歌うのだろうか。どのように子供たちは遊ぶのだろうか。いいことと言えば、この手の資料は「本物」だということだった。民俗学者の記録作業や、民俗学者の文化的慣習、そして期待といったフィルターがかかっていなかったからである。だが後になって、このような先入観も疑問視されることになった。録音録画する人物もまた、その資料に影響を与えているということが判明したからである(Limbach 2007, 27-44)。どういう形であっても、レコーディングが始まってしまえば「本物」の民俗などありそうもなかった。というのも、あらゆるレコーディングは、より大きな全体のサンプルでもあったからである。私たちはパフォーマンスのすべてを記録することはできない。しかし私たちは、書き留める民俗学者、そして紙と鉛筆ではなく近代的道具を使う民俗学者として選択をしなければならなかった。

パフォーマンスを中心に据えた資料のいいところと言えば、他には、現場の状況を何度でも確認することができること、細かいところも常に同一で、生き生きとして、活気があるということだった。その結果として、研究者は録音資料を調べながら、沈黙の瞬間に意味があること、繰り返しが単なる言い間違いのせいではなく意図的であることなどを突き止められることにもなった。ちょっと試聴するだけでも、何が語られたのかを理解するだけの情報はあっただろう。

この経路をたどって、民俗の概念は、より幅広い射程のある文化的表現へと変貌した。今、多くの民俗学者はインターネットに注目している。インターネットは、いろいろ言えることはあるが、ある意味では、記録者が接する、人としての話者は存在していない。もちろん、SNSに見られるものは、言葉の水平的な意味において、つまり同時代的現象としての民俗という視点から見ると、集団的で、反復的で、伝統的でさえある民俗だ。とはいえ、技術装置の発展や、ポスト構造主義世界の個人や農民以外の社会階級への関心の高まりによって、民俗学者の焦点としての集団的伝統という観念は薄れていっている。むしろ、自分のナラティヴや、インタビューのなかで語られる自分の記憶を生産する者としての個人という観念が発生してきている。

文化パターンの探究は、ここ数十年に明々白々になった、インタビューへの圧倒的な集中の理由になっている。それらの民俗的インタビューは、先述した諸ジャンルのような古典的な民俗をかならずしも再生産するものとは見なされていない。それらは古典的な民俗に対する人々の観点や意見を表しているわけでもない。そうしたインタビューは、女性が出産について語る仕方から結婚のとき起きること、宗教的経験、戦争や難民としての生活に至るまで、なんでも取り扱うことができる。というかこれに関しては、他のどんなことでもそうだ。技術的に言えば、インタビューは高品質なパフォーマンスのようなものである。私たちは、インタビューは等しい立場にある人々のあいだでの対話であるとさえも信じたくなってしまう――もちろん、そんなことはないのだが(Marander-Eklund 2000; Kjær 2009; Alver 1996, 86; Arvidsson 1998, esp. 23–24)。しかし民俗学者が、一人の人物が語る方法のなかにも、人々が共通の話題に対して一般的に自己表現する方法のなかにも、文化的パターンを指し示すのだとすれば、そこには民俗があるということになるだろう。もし多くの人々が同じように話したり、特定のロジックに沿って説明を組み立てたり、人生を語るとき同じモチーフにこだわったりしていれば、私たちはある種のナラティヴを語る際の特定の文化的に拘束されたやり方があると言うことができる。したがって、パターンがあるというわけだ。

この手短な概観は、民俗研究が18世紀末からあらゆる側面で変化してきたことを示してきたが、同時に、かつてこの分野の中核にあった収蔵資料からどれだけ離れてきたのかを物語ってもいる。少なくともフィンランドでは、(アイルランドと同じように)大きな資料館には膨大な「古びた」民俗のコレクションがある。建前としては、資料はは今なお重視されているが、おそらく、民俗学者にとっての研究資料の源泉というよりは、過ぎ去った時代の記念碑として、だろう。その時代とは、ある人々の文化の証拠として、あるいは少なくとも隣接民族とは違いのある文化の証拠としての民族的価値が、政治的なアイデンティティを構築するなかで重要な要素となっていたころである。今となっては、歴史的事象への一般的な関心の高まりがまた、収蔵資料の民俗研究を活発にしている。

それに加えて、1970年代のある時期、民俗学者たちは不遜にも古典的な収蔵資料から目をそむけたが、同時に、それならば近年に記録された資料もすべて、いずれ古くなるということを忘れてしまっていた(Honko 1981, 9-10)。民俗学者たちは、社会に役立つ研究をする研究者であろうとした(Skott 2008, 17-21)。このことは、学究にまつわる経済状況が求めていたものへの反応であるに違いない。研究助成金は、主にイノベーションに投資されていた(今でもそうである)からだ――つまりお金は、社会が「必要とする」もののため、社会がそれに支払いたくなるもののために投資されるのである。19世紀に収集された、たとえば悪魔譚の無数の記録ばかり調べる研究を誰が要るというのか。言い換えると、この途方もない量の収蔵資料によって私たちは何ができるというのか。この点は、むしろ現実にも、諸々の研究集会で、今も昔もがなり立てられてきたことだったわけだが(Magnusdottir 2018参照)。

[つづく]