超自然概念をめぐる論争①

 妖怪を論じるとき使われることの多い超自然(supernatural)概念。しかし、この概念は本来カトリック神学に由来するものだった。西洋ローカルなこの概念をどれだけ他のコンテクストに広げることができるのか、そもそもできないのかについて、実は(特に人類学において)いろいろな論争が繰り広げられている。しかし意外と日本語で読める資料は少ないようなので、ここでは問題・学説史の整理をしてみることにする。

まずは自然概念の整理

 超自然概念について考えるとき、まず準備しておかなければならないことがある。それは、超自然概念を展開するときの前提となる、「自然」概念のほうの多義性の整理である。
 西洋的自然(古代ギリシア語physis、ラテン語nātūra、英語・フランス語nature、ドイツ語Natur、オランダ語natuurなど)の訳語としての「自然」は、前近代日本語の「自然」とは大幅にその意味が異なっていた。それだけではなく、現代英語においても、頻繁に使用されるものだけでも、①「事物の総体」としての自然と、②「個々の事物がもつ本質的な傾向」としての自然という二つの意味がある。そのうえ形容詞naturalになると、③「ありのままの」「意図的な手の加わらない」「自発的な」といった、日本語の「自然な」「自然に」など前近代から続く用法に近い意味も加わる。
 以下、区別の必要があるときは、名詞の二つの意味をそれぞれ①「自然界」と②「自然本性」、形容詞の意味を③「自然的」と呼ぶことにする。そしてこれらの意味は、個物の自然本性は自然的であり、自然的なものの総体が自然界であり、自然界の個物は自然本性を持つと整理することができる。
 西洋語の名詞「自然」の多義性については、19世紀の思想家ジョン・スチュワート・ミルが晩年の「自然論」(1874)において要約している(それ以前から似たような議論はあり、ミルはそれらを総合した、と言ったほうがよい。遅くても17世紀には、意味が二つあることは認識されていた)。彼によると、「自然という語は、二つの基本的意味を持っている。事物の体系全体と事物の特性の総体(the aggregate)を意味するか、あるいは、人間の手が介入しない場合の事物のありよう(things as they would be)を意味している」*1。前者が自然界、後者が自然本性にあたる。
 また、自然界の概念は、ロビン・コリングウッドの歴史的分類を用いるならば、少なくとも二つの対立する概念へと分類できる。それは、彼が「古代ギリシア的自然」と「ルネサンス的自然」と呼んだものである。前者は能動的で主体的であり、みずから事物を産出し、内在的秩序のもとに流動しつづける生気論的な自然である。後者は受動的で客体的であり、超越的な外部によって産出され、法則を賦課された、機械論的な自然である。スピノザにならい、前者を能産的自然、後者を所産的自然とも言い分けることもできる*2
 キャロライン・マーチャントはさらに、能産的自然が「能動的で創造的な力」であるのに対して、所産的自然は「創造された世界」であるとする*3。この二つは自然界の概念を区分するものであるが、自然本性についても前者を「自発的秩序」、後者を「自然法」と呼び分けることができる。
 この区分は、オギュスタン・ベルクが、日本の「自然」概念を検討するための準備作業として指摘した、フランス語のnatureの多義性とも近い。つまり、natureは規定された法則の集合、「宇宙、環境、風景」である一方で、自発性や自発的発展でもあるのだという。フランス語の場合とよく似た両義性が現代日本語の「自然」にもある、とベルクは指摘するのである*4
 というわけで、本来ならば複雑きわまるはずの西洋的な自然概念だが、この記事の対象は超自然概念のほうにあるため、ごく大まかに分類を試みた。まず名詞(実体、対象)としては、①総体としての自然界と②個別の自然本性がある。さらに内在で完結する①A能産的自然(②A自発的秩序)と、超越者を必要とする①B所産的自然(②B自然法則)がある。そして形容詞(状態、性質)としては「ありのままの」という意味の③自然的がある。この③も、論理的には③A「自発的秩序による」と③B「自然法則に従った」の二つに区分できる。
 超自然は、英語では形容詞supernaturalなので、基本的には③の概念を前提として、それを「超えた」状態のことである。これから見ていくように、「自然法則を超えた」というのが一般的な定義なので、より厳密には「超③B」と規定することができる。また名詞the supernaturalとしては、超②B(自然法則を逸脱したモノ)、ひいては超①B(自然界に収まらない領域)ということになる。

超自然概念の曖昧さ

 さて、「超自然的」という言葉は、文化人類学をはじめとして、主として宗教研究では今も昔も多用されている概念であるが(時には「宗教」概念の中心に据えられる)、同時に、遅くとも一世紀前にデュルケームが指摘して以来、その適用可能性について論争がなされている概念でもある。妥当性に関する議論は、1998年の時点でヴィヴェイロス・デ・カストロが述べるように、もはや「陳腐と言ってもいいぐらいである」*5
 にもかかわらず、マリノフスキーやラドクリフ=ブラウンからエドマンド・リーチ、マーガレット・ミード、レヴィ=ストロース、ヴィクター・ターナーギアツ、モーリス・ブロック、スペルベルにいたる高名な人類学者たちは、問題など存在しないかのように、この言葉を用いてフィールドの事象を描き出している。ちなみに、しばしば「人類学の父」エドワード・バーネット・タイラーがこの概念を人類学の中心に持ち込んだとされるが、これは冤罪に近い。「マナ」概念を広めたコドリントンのほうに責任があるような気がするが、この点については現在検討中。
 そもそも超自然概念は、説明なしに用いられるとき(場合によっては説明があっても)、きわめて拡散したカテゴリーを包摂していたり、部分的に取り入れたりしている。2003年のAnthropological Forum誌で「超自然」特集が組まれたときも、このことが指摘されていた。同特集の「あとがき」にて、スーザン・セレドは超自然と関連する語彙を列挙する。神聖な(sacred)、聖なる(holy)、神的(divine)、霊的(spiritual)、神秘的(mystical)、不思議な(mysterious)、超常的(paranormal)、超感覚的(extrasensory)、奇跡的(miraculous)、超越的(transcendent)、宗教的(religious)、呪術的(magical)、迷信的(superstitious)*6
 この列挙に明らかなのは、「宗教的」を含め、多くが宗教に関係する形容詞だということである。この点は、超自然概念の有効性を検討する議論の多くが、暗示的・明示的に「宗教の定義として超自然概念を用いることは妥当なのか」という問いを背景に抱えていることからも裏付けられよう*7
 この問いに肯定的な研究者たちは、必然的に、「超自然的なもの」が、単に自然的な状態を超えたものではなく、それ自体が一つのまとまりであり、一貫した秩序があるとする。そのため、超自然概念の問題は、単に「自然的な状態を超えた」という規定が妥当なのかどうかのみならず、それらが「まとまりを有している」かどうか、という点も含んでいるということは明確にしておかなければならない(超自然概念は、自然概念に対立するunnatural, preternatural, artificial, culturalなどとは異なる!)。これは「宗教」が多文化的に有効な普遍カテゴリーなのか、という問いと直結する論点でもある。

超自然概念の用法別分類

  具体的に概念の検討に入るにあたり、大型辞典の定義を利用するところから始めよう。日本語の「超自然(的)」は、英語“supernatural”やフランス語“surnaturel”、ラテン語“supernaturalis”などといった欧米諸語の翻訳語である(ちなみに、この言葉が日本語に導入されたのは1890年代で、キリスト教神学に加えて、北村透谷や坪内逍遥といった文学者が中心となっていた)。
 『オックスフォード英語辞典』(以下OED)はこの言葉の定義として、一つ目に「神的、魔術的、幽霊的存在のように、自然を超越した領域あるいはシステムに属するような。科学的理解や自然の法則を越えた何らかの力に帰せられるか、そう考えられるような。オカルト的、超常的(paranormal)。本来はキリスト教のコンテクストで、神的なものを指す」を挙げ、この意味での英語初出が1425年だとする。
 一方、『グラン・ロベール・フランス語辞典』はOEDの第一義を細分化して、第一義を神に関する「自然の力では実現できないような」とする。そして関連語として「神的」(divin)、「恩寵」(grâce)、「奇跡、奇跡的」(miracle, miraculeux)を挙げる。同項目の第二義は「自然法則のもとでは起こらないような」とされる。そして関連語として「尋常ならざる」(extraordinaire)、「驚異的な」(merveilleux)などを挙げる。さらに合成語「超自然的な力」の事例として「魔術」(magie)などを、同じく「超自然的な存在」の事例として「魔物」(démon)、「精霊」(esprit)、「妖精」(fée)、「守護霊」(génie)を例示する。ただ、この二つの定義のどちらも「自然的なものを越えた」という意味をもつ点で、OEDの定義と共通している。

 以上を簡単な足掛かりとして、ここから細かい検討に入ってみよう。『グラン・ロベール』は「神的な超自然」と「それ以外の超自然」を別の意味として処理したが、1977年、宗教人類学者のベンソン・セイラーは、この区分とは異なった角度から、社会科学における二つの用法を弁別した。彼はまず、研究者の大半はこの概念に厳密な定義を与えないまま用いていることを認める。そのうえで、一つ目として、人間の能力を超えた、「霊的」(spiritual)とか「超人間的」(superhuman)と呼ばれるものや力を指すことの多い用法があるとする(ここでは精霊的用法と呼ぶ)。二つ目は、自然の普遍的な秩序を前提として、それを超越したものを指す用法である(ここでは超越的用法と呼ぶ)*8
 ちなみに、同様の区分をホラーの哲学者ユージン・サッカーも行なっている。サッカーは、ここでいう精霊的用法を「どちらも」(both/and)、超越的用法を「どちらか」(either/or)として、さらに三つ目の、「どちらでもない」(neither/nor)という超自然を提起する。それは、人間はおろか自然なものとも関係をもたない、隔絶された思考不能な領域である*9
 話を戻すと、セイラー自身は、ギリシア自然哲学からトマス・アクィナスに至る西洋思想史における超自然概念の変遷を概観して、そもそも、この概念が西洋独自の民俗カテゴリーであることを主張する。そして、歴史的にみて、法則のある内在的な自然と、それから外れたもの=自然を超越したものという区分が、分析概念の形成にとっては好ましいと結論づける*10。すなわち超越的用法がよい、ということである。こうした超自然概念、特に超越的用法の前提とする自然概念は、基本的には法則や秩序で規定され、定常的に運動し、例外は原則として発生しない、科学的で機械論的な領域であり、さらに、事物がそうした領域に属する状態のことである。
 他方、20世紀カトリック神学における超自然思想の第一人者であるアンリ・ド・リュバックは、「超自然的」の語源を検討し、「古代において、二群の表現があることになる。一つ目は特に行為(fait)に関わるもので、二つ目は実体(substance)に関わるものである」と指摘する。前者は古代ギリシア語(特にネオプラトニズム)、後者はラテン語由来である*11。要するに、出来事自体が自然的なところを超えた状況を「超自然的」と言うか、何らかの行為主体がそれ自身で「超自然的」と言うか、という違いになるのだろう。ここでは、両者を分ける必要があるときは「超自然的現象」と「超自然的存在」と呼ぶことにする。 

 精霊的用法は古くから知られている。コドリントンのような19世紀の先駆けも重要だが、ここでは民族誌の古典を見てみると、ラドクリフ=ブラウンは、『アンダマン諸島の人々』(1922)の「宗教的・呪術的信仰」章の冒頭で、「アンダマン諸島の人々は、超自然的存在の一群の実在を信じているが、それをここでは「精霊」と呼ぶことにしたい」と宣言し、後のほうでも「より良い術語がないので超自然的存在と言うが」と説明している*12マリノフスキーの『西大西洋の遠洋航海者』(1922)もまた「呪術とクラ」の章において、「呪術が、いわば普通とはちがった種類の現実を表すこと」を理由として、それを「超自然的」「超日常的」と呼ぶことを正当だとしている。そして、「呪術が超自然的ないし超日常的なものにふれる[……]ばあいは、ある呪術の慣行に霊が結びつくときである」と述べ、超自然と霊との関係性を自明視している*13。このような民族誌的記述は戦前から21世紀にいたるまできわめて多いため、ここでは以上の二つに留める。

精霊的用法と超越的用法の重なり

 ところで、筆者自身が関心があるからここで言及するのだが、日本において「妖怪」と超自然概念の関係はどうなっているのだろうか。代表的な研究者である小松和彦は、1983年の革新的な論考「魔と妖怪」において、超自然概念を次のような説明の中で用いている。曰く、民俗社会の人々は、二つの説明体系を持っている。それは、合理的・科学的な説明体系と、非合理的で、非科学的・超越的な説明体系である。人々は、不思議なもの、怖しいものに直面したとき、まずは合理的に説明しようとする。しかしそれが無理な場合、人々は超越的な説明にすがり、対象を超自然的・霊的なものの仕業とみなす。後者が、妖怪として概念化されうる対象である*14。この理解では、超自然的なものである妖怪は明確に「超越的」なもの、科学では捉えきれぬものとされており、セイラーの超越的用法に一致する。加えて、小松は「超自然的・霊的」という概念も同時に用いているので、精霊的用法もまた、承認していることになる。

 小松の妖怪概念は、セイラーの区別する二つの用法を同化しているように見える。それならば、小松は概念を説明するときに矛盾を犯してしまっているのだろうか。しかし、そもそもセイラーの区分を鵜呑みにすべきかどうか、こちらを検討するという方向もある。
 おそらくセイラーは、概念史的にみて超越的用法のほうが妥当だという結論を出すために、精霊的用法と超越的用法が肯定的なつながりを持つ可能性を見ないでいる。しかしながら、OEDの第一義や『グラン・ロベール』の第二義によると、霊的なもの(精霊、幽霊など――超自然的存在)や超人間的なもの(魔術など――超自然的現象)は、自然法則を越えているがゆえに超自然的とされる。仮にセイラーが批判するように、社会科学においてこの概念に定義がほとんど与えられておらず、二つの用法が区別されていないとすれば、それはむしろ単純に、辞書的な意味で用いられているから、と考えるべきではないか。実際、西洋近代的主体としての研究者から見るならば、研究対象の社会で経験され語られる霊的なものや超人間的なものは、私たちの知る自然法則に違反し、超越している。この視点から判断するならば、精霊的用法と超越的用法は一致しているのである。
 さらに、小松の説明に見られるように、西洋近代における両者の一致は、非西洋近代の宇宙論とも一致しているという仮定が、精霊的=超越的用法としての超自然概念の有効性の大前提となっている。いくつか一致していることを明言する用例を挙げてみよう。古くはアーサー・ホカートが、「自然的なものと超自然的なもの」という分かりやすいタイトルの論文で、この点を主張している。曰く、フィジーなどにおいて人々が説明しがたい現象を「精霊の所業」とすることを、「自然的ではなく、超自然的である」と言う以外にどう説明すればいいのだろうか*15。また、ルース・ベネディクトはフランツ・ボアズ編集の人類学概説書に「宗教」を寄稿し、次のように述べる。

超自然的なものの概念。実際上の民族誌的記録における、宗教的なものと非宗教的なものという単純な区分についての際立った事実は、ある社会から別の社会へとこの区分を移すとき、ほとんど修正を必要としないことである。[……]これは普遍的なものである。[……]マナやマニトゥの世界については、「超自然的なもの」という術語しかない。[……]あらゆる文化はそれなりのやり方で自然的なものを定義しており、超自然的なものについても同じことが言える。自然界についての知識が増えていけば、超自然的なものは定義上限定されていくことになるのであって、このことが宗教の歴史全体を図式化する[……]*16

ベネディクトは、宗教的/非宗教的の区分を超自然的/自然的の区分と重ね合わせ、前者にマナなどの古典的概念を位置づけ、この区分が普遍的であることを示す。その際、超自然的なものは自然界の知識が増えるとともに失われていくと述べ*17、暗に西洋近代の脱魔術化が宗教史の先端にいることをほのめかしてもいる。それに加え、超自然概念は人格的な力(マニトゥ)も非人格的な力(マナ)も含み込むという点で、精霊的用法もまた含み込んでいる。

 戦前の古典的著作から離れて近年の肯定的議論を見てみよう。メラネシア研究者のロジャー・ローマンは先述のAnthropological Forum誌に寄稿した論文において、何のためらいもなく超自然的存在と精霊という言葉を互換的に用いる。そして超自然概念を「生物的基体とは独立して感覚や意思のある行為主体性を想定し、それが物理的実在の諸要素の究極の原因であると理解する、普遍的な心的モデル」と定義する*18。また、宗教社会学者のロドニー・スタークは、上述のベネディクトをはじめとする多くの人類学者を援用しつつ、「宗教」とは超自然的なものに関わる事象であると定義する。さらに、それがタイラーの「宗教の最小定義は、霊的存在を信じることである」と同じことだとする*19。スタークによると、超自然的なものとは「自然の外部にあるか自然を越えた力ないし存在のことであり、物理的な力を停止させ、変更し、あるいは無視することができる」*20もののことである。彼にとってもセイラーのいう二つの用法は重なっている。

近年顕著なのは、人間の普遍的側面を大前提とする認知宗教学にもこの考えが強く見られる点である。人類学における代表的論者の一人パスカル・ボイヤーは、宗教概念とは「重要性をもつ超自然的概念である」と定義したのち、「どんな社会にあっても、神、霊、あるいは先祖(あるいはこれらの組み合わせ)は、[……]超自然的なもののなかでは別格である」と述べる*21。さらに、ボイヤーやジャスティン・バレット、イルッカ・ピューシアイネンらは、超自然的なものを「反直観的」(counter-intuitive)として再概念化する。すなわち超自然的な幽霊や神は「反直観的な物理的特性」や「反直観的な生物学的特性[……](多くの神々は成長もしなければ死にもしない)」、「反直観的な心理的特性[……](透視や予知)」をもっているのである*22。近年のセイラーは、こうした研究を踏まえて、超自然概念ではなく反直観なら多くの宗教現象を適切に説明できる、という考えに傾いているようである*23

 認知宗教学での議論にもっとも明らかなように、超越的=精霊的用法は、いかなる文化や人間集団においても自然的なものと超自然的なもの(直観的と反直観的)という対立は存在するし、それは大まかに言って物理的なものと霊的なものの対立に相当するだろう、という想定をしている。二つの用法は、人間文化の普遍的側面の一つとして積極的に融合しているのである。このような超越的=精霊的用法を、ここでは「普遍主義的用法」と呼ぶことにしよう。

 次回は、デュルケーム(ルナン)に始まる概念批判を見ていきます。

*1:ジョン・スチュワート・ミル2011『宗教をめぐる三つのエッセイ』大久保正健(訳)、p. 53。

*2:R・G・コリングウッド1974『自然の観念』平林康之・大沼忠弘(訳)、pp. 14–15, 174–176。

*3:Carolyn Merchant, 2016, Autonomous nature: problems of prediction and control from ancient times to the Scientific Revolution, p. 13.

*4:ベルク1992『風土の日本 自然と文化の通態』、篠田勝英(訳)、pp. 217–219。

*5:Eduardo Viveiros de Castro, 2015, The relative native: essays on indigenous conceptual worlds, p. 289n8.

*6:Susan Sered, 2003, Afterword: lexicons of the supernatural, Anthropological Forum 13 (2): 216–217.

*7:文献は省略するが、デュルケーム、ロビン・ホートン、メルフォード・スパイロ、オーケ・フルトクランツ、ロドニー・スターク、ベンソン・セイラー、モートン・クラス、パスカル・ボイヤー、そしてAnthropological Forum特集など。

*8:Benson Saler, 1977, Supernatural as a Western category, Ethos 5 (1): 33–36.

*9:Eugener Thacker, 2015, Tentacles longer than night: horror of philosophy vol. 3, pp. 113–115.

*10:Saler, 1977, 50–51.

*11:Henri de Lubac, 1934, Remarques sur l’histoire du mot «surnaturel», Nouvelle revue théologique 3: 227.

*12:The Andaman Islanders, pp. 136, 162–163.

*13:ブロニスワフ・マリノフスキ2010『西大西洋の遠洋航海者』、増田義郎(訳)、p. 391, 393。

*14:小松和彦1983「魔と妖怪」『日本民俗文化大系4 神と仏 民俗宗教の諸相』pp. 345–347。

*15:A. M. Hocart. 1932. Natural and supernatural. Man 32: 59-61.

*16:Ruth Benedict. Religion. Franz Boas (ed.). General anthropology, pp. 628, 631.

*17:Cf. de Lubac 1934: 238.

*18:Roger Ivar Lohmann, 2003, The supernatural is everywhere: defining qualities of religion in Melanesia and beyond, Anthropological Forum 13 (2): 175–176.

*19:Rodney Stark and Roger Finke, 2000, Acts of faith: Explaining the human side of religion, p. 89.

*20:Ibid. p. 90.

*21:パスカル・ボイヤー2008『神はなぜいるのか?』鈴木光太郎、中村潔(訳)、p. 178。強調除去。

*22:ボイヤー、p. 105。Ilkka Pyysiäinen. 2003. How religion works: Towards a new cognitive science of religionスティーブン・ピンカー2013『心の仕組み 下』、山下篤子(訳)、pp. 471–473、Justin L. Barrett. 2000. Exploring the natural foundations of religion, Trends in Cognitive Science 4 (1): 29–34.

*23:Benson Saler, 2009, Understanding religion: Selected essays, p. 14.

ユキヒラ鍋が陶製からアルミ製になったのはいつか?

「ゆきひら」といえば『食戟のソーマ』の主人公の名字……でもあるが、一般的には調理器具、鍋の一種である。キッチンが使われている日本の家庭ならどこにもあるといっても過言ではない、ポピュラーな道具だ。漢字では行平とも雪平とも書くので、ここではユキヒラと表記する。
そのユキヒラについて、4年ほど前、友達の依頼で調査することがあった。そこで気づいたのが、意外と具体的にユキヒラの歴史について書かれていたものがないことである。ちょっと調べると分かることだが、ユキヒラはもともと陶製の鍋だった。しかし現在では、アルミ製の片手鍋のことをユキヒラと呼ぶようになっている。いつからだろうか。これがはっきりしなければ歴史について調べたことにならない。でもどうやって調べれば……?
以下は、そのときの調査をまとめたメモである。近現代の家庭用品を調べるとき、何かの参考になるかもしれないので公開しておく。

まず江戸時代。このころは陶製の蓋付き深鍋で、把手と大きな注ぎ口があった。言葉の初出である太田南畝『一話一言』には「平鍋」とあり、天明年間(1781~1789)末に都市部で普及したという。また、1832~3年の人情本春色梅児誉美』に「さめたものは雪平か小鍋でかお温めよ」とあるのについて三田村鳶魚は「「雪平」は今日で云へば土鍋だけれど、形が違ふ。もつと平べつたい」とコメントしている(『江戸文学輪講』p. 338、1928年の輪講)。だが、考古学調査で出土したユキヒラ(注ぎ口と把手がある直径20㎝ほどの陶器)は、いずれも深鍋型である。これらのユキヒラの絶対年代は未確定だが、早くて1820年代後半、遅くても19世紀半ばのものだという(『図説 江戸考古学研究事典』2004, pp. 28-29)。19世紀前半には深鍋型になったのだろう。
ユキヒラという名称は在原行平が須磨で海女に塩を焼かせた故事にちなむといい、この説は『日本国語大辞典』などに見えるが、出典は不明。『一話一言』も在原行平に言及しているが、須磨に流されていた時にこの鍋を用いていたからなのかよく分からない、と書くのみだ。ただ、曲亭馬琴が1811年に合巻『行平鍋須磨酒』というタイトルで、行平(姫に変わっている)と海女(相撲取りに変わっている)の物語を書いているので、このときまでにはそういった故事が伝えられていたのだろう。
当時のユキヒラは陶製だったが、真鍮製のものもあった。『江戸語の辞典』の「ゆきひらなべ」に引かれた『縁結娯色の糸』に記述がある(文庫版p. 1024)。わざわざ「真鍮」と書くことから、少なくとも一般的なものではなかったことがうかがえる。陶製ユキヒラは、高度経済成長期までは家庭や病院で使われていた。

現代のユキヒラに類似したアルミ製片手鍋は、昭和初期には一般家庭に普及したが、陶製のユキヒラと共存しているようである(たとえば1939年5月16日付朝日新聞6面)。この傾向は戦後に入っても変わらず、1959年3月の『商品大辞典』p. 1078でも、ユキヒラといえば土鍋のこととなっている。なお、当時のアルミ鍋は『暮しの手帖』35(1956)の「買物案内 ナベは毎日つかうものです」によるとほとんどが両手持ちだった。しかし、同じく『暮しの手帖』51(1959)の「買物案内 ふたたびナベについて」になると「3年前にはデパートの台所用品売場で、ナベといえばほとんどが両手ナベでした。……それが翌年からは、片手ナベの種類や数がグングンとふえ、……ナベの売れた数のうち、その60%から70%が片手ナベだということもわかりました」と状況が一変している(p. 101)。このようにバリエーションが増えたなかに、現在のアルミ製ユキヒラの原型も生まれたと思われる。

今のところ仮説段階だが、転機と思われるのは、通販業の日本文化センターが「《高級》打出鍋セット」を売りに出したなかに、直径18㎝の「雪平鍋」が入っていたことである。現行の、凸凹模様のあるやつだ。今のところ、1975年11月19日付読売新聞6面に広告を出しているなかにあるのが、見つけたなかでは最も古い(なお当時の社名は別)。セットのなかには直径18㎝の「片手鍋」もあるが、これは「雪平鍋」よりも深くて蓋が付いており、区別されていることが分かる。翌年9月25日付読売新聞夕刊12面には、今度は住所は同じまま社名が「日本文化センター」となって、同じ鍋セットの広告が出ている(日本文化センターの設立は75年らしいので、鍋セットは最初期のラインナップとして販促に力を入れたものと思われる)。
通販業界トップだった日本文化センターによる、全国的な商品の均一化や広告自体の存在が「ユキヒラといえばアルミ製」というイメージの普及に貢献しただろうことは容易に想定できる。とはいえ、1976年版『商品大辞典』は、まだユキヒラを土鍋に分類している(p. 1241)。なお、この凸凹アルミ鍋だが、1978年12月6日付朝日新聞38面の記事に「最近、アルミ鍋の表面に凸凹をつけた、打ち出し鍋も出ています」とあるので、早くても1970年代後半に普及したものとみられる。この記事にはちゃんと日本文化センターの「高級打出鍋全8点セット」の広告が出ている。
続いて『主婦と生活』1978年11月号の記事「お鍋の選び方・使い方」では、「アルミ製ゆきひら鍋」と陶製の「ゆきひら」が同時に紹介されている。前者にあえて「アルミ製」とつけているところからすると、この年代はアルミ製と陶製のユキヒラがまだ拮抗していたようである。数年後の1984年8月24日付読売新聞には、ダイエーが「お料理自慢の主婦に人気の高い雪平鍋」と銘打って18㎝の凸凹アルミ製ユキヒラを広告に出している。おそらく1980年代前半までには、ユキヒラといえば凸凹アルミ製ということになったのではないだろうか。
平成に入るが、『オレンジページ』1996年3月17号のp.134に「行平鍋の“行平”ってどういう意味?」というコラムがあり、この時点で「本来は……土鍋のこと」と書かれている。このコラムによると、「以前は片手鍋と呼ばれていましたが、洋風のシチュー鍋などと区別するため、形が似ている“行平”の名で呼ばれるようになりました」とある。ただし典拠は不明。

その他、当時の料理本や料理番組、映画・ドラマ・漫画などの調理シーンなども調査すればもっとはっきりしたことが分かるとは思うが、とりあえずは以上のとおり。

近世国学の妖怪論(宣長・守部・隆正)

本居宣長は、上田秋成平田篤胤とちがって積極的に妖怪的なものを語ろうとはしなかった。いちおう「カミ」の定義のなかで妖怪的なものを列挙してはいるが、付属品的な扱いでしかない。(前に紹介した↓)

youkai.hatenablog.jp

しかし、門人との問答のなかで、宣長自身がどう考えているかを披露することはあった。『鈴屋答問録』(1779)に収録されているなかに、それを見ることができる。宣長の場合、世の中で悪いことが起きても、他のすべてのことと同様、それは神々の仕業である。より具体的に言うと、禍津日の神の仕業である。神の仕業であるから、そういうものとして受け取らねばならない。神々はこの世界をすべて掌握しており、そこから漏れるものはないのだ。

「(問い)俗に疫病神といふは、古事記崇神天皇御段に、大物主神の御心によりて、神気おこりしことある、これ即疫病神か。――答。凡て神とまをすものは、……正しき善神とても、事にふれて怒りたまふ時は、世人をなやまし給ふこともあり。邪なる悪神も、まれまれにはよきしわざも有べし。……さて凡て、世間にわろきことのあるは、本は皆、禍津日の神の神霊によることなれば、この大物主神の御心より、疫を起し給へるも、本は禍津日の神の御心也。疫のみならず、万のまがごと、皆、この例をもてさとるべし。……そは何れにまれ、その時にあたりて疫をおこなふ神を、疫病神とはいひつべし。」

「疫病神」とはどういうものを指すのか、という問いに対して、それは究極的には禍津日の意志である、という。疫病神自体は、具体的な神格というより役割のようなものである。

「(問い)世にわびしくまづしくならしむるを貧乏神といひ、富栄えしむるを福の神といふ、これらも別にその神の有にはあらで、そのしからしむる神霊をいふなるべくや。――答。然也。何れの神にまれ、然らしむる神をさしていふべし。但し人をとましむる神、まづしからしむることをわざとする神も、あるまじきにあらず。」

今度は貧乏神について。こちらも同じで、禍津日の名称は出さないが、やはり役割名のように考えている。

「(問い)疱瘡神は、外国より来りし悪神なるべし。これも、禍津日神の神霊とやせむ。この病は物のたたりにもあらず、又一度やみぬれば二度とはやまぬことなど、他の病とはかはりていとあやしきはいかが。――答え。問の如く、この病は古へはなかりしかばこの神もと、外国より来り神なるべし。……何れの国の神にまれ、あしきわざするは、皆禍津日の神の御心也。さて世にこの疱瘡や疫病或はわらはやみなどを、殊に神わづらひと思ふなれど、これらのみならず、余のすべての病も、皆神の御しわざ也。その中に、そのわづらふさまのあやしきと然らざるとは、神の御しわざなることのあらはに見ゆると、あらはならざるとのけぢめのみこそあれ、……」

次は疱瘡神。これもやはり禍津日神の仕業。世界中どこでも変わらない。疱瘡は病気としては「あやしい」ように見えるけど、それは神の所業がはっきり見えるからにすぎない。すべての病気は神のせいである。

「(問い)きりしたんなどいふもの、又狐神をつかひ、また今世魔法と云類は……八十禍津日の神の類なることは知られたり。……然るをその禍津日神も、御国にて生れたまふを、そをつかう法は、御国にはなくて、他国にあるは、……大御神の御国ならぬわろき国は、彼禍神の所得たまふ国なるから、さるわろき業は中々に伝はりけんしかし。〈狐神にまれ、狗神にまれ、神をつかふわざは、さかしらに作りたるわざにはあらじ〉……さにはあらじか。――答え。……さやうの法どもの、多くは異国に伝はることは、御考の如くにてもあらむか。そはくはしきことは測りがたし。」

イヌガミなど、動物であるカミを使役するやから。日本のような神国にそのような悪法が伝わっていないのは、禍津日神が統治しているからではないかという問いに、そうなのかもしれないが、よく分からない、という宣長

すべての悪を禍津日神に帰す宣長の神学は、のちに篤胤など多くの国学者によって批判されてしまうことになる。しかし宣長自身は、こうでもしなければ、善悪正邪が入り乱れるこの世の現実を創出する神々の、その測り知れぬ所業を説明することができないと考えていた。ほとんど言及しない怪異妖怪についても、『古事記伝』にあるようにそれを「神」と見なしていたからには、何かそういうことがあったときは、禍津日神へと還元することになったのだろう。

 

宣長古事記理解を批判し、平田篤胤らとも距離を取っていた橘守部(1781–1849)は、天保年間以降、幽冥論に関心を抱くようになる。たとえば晩年の神道論『神代直語』(1846)にその思想を如実にうかがうことができよう*1。守部は、いわゆる「幽冥」のうち、神々の領域は「天」であり、死者の領域は「黄泉」であり、両者は「昼夜のごとく、海陸のごとく、夫婦のごと」く、二項対立的で補完的である、と考えていた。とはいえここでは深入りせず、妖怪系の記述をいくつか抜粋するにとどめる。

「……黄泉の界が闇(くら)き処と云にはあらず。しばらく現き人の目に見えずなり行を以て、此方より然かひなす詞なり。彼方より見ば、又この現し世の界が闇からんも知がたし。いとたまたまの事にはあれど、彼の幽魂、怨霊などの恨を報に出る事あるに、必ず先づ青き火燃ゆと云り。これすなわち彼よりは又この現し世が闇かる故に、照らし見る炬のためにぞあらん」(『神代直語』巻上)

守部にとって、死者の居所は黄泉である。しかし篤胤が「幽冥からは現世は丸見えである」と言ったのに対し、守部は微妙に違うことを推測している。どっちもどっちではないか、と言うのである。もちろんこれは推測であって、結局あちら側から現世がどう見えるか経験的に実証することはできないので「知りがた」い。だが幽霊が火をともなっていることをもって、あっちからも暗く見えるのではないかと言う。独創的である。

さて、この黄泉はどのような住人にあふれているのだろうか?

「かくてこの黄泉の界はいともいとも広くして、かの死行人の魂のみならず、禍日の八十禍、大禍をはじめ、怨霊、鬼物、妖物、諸の魔物等の隠れ栖隈路なりければ、神皇産霊尊の昔より、幽顕の隔疆(へだて)いと厳重になし給へれど、猶ともすれば、この界より凶悪(あしき)者の溢れ来て、現し世の人を悩す事あり。そもそも天つ神の賞罰は善悪邪正に随ひて、いと正しかれば、さてあるを、この黄泉の界より来る殃災は、却て善き人の禍(まが)るが多かれば、懼るべき限なり。……さればこの障礙を免んには、常に天神地祇を奉斎(いつきまつ)り、身を慎み、心を清め、仮にも悪き行跡せず、不浄に染ず、家の内をよく掃ききよめて、善き神の御霊よせあるやうに心懸くべし。物は善悪とも類を以て集るとか。かの邪神(あらぶるかみ)の好むふるまひし、魔物の羨む心をもち、竈所を汚し、火を穢し、不浄にふれなどするときは、彼の鬼物等それを慕ひて、あふれ来る事ありとぞいひ伝へたる。」

黄泉は死者だけではなく、宣長以来の悪の根源であるマガツヒをはじめ、妖怪や魔物がたくさんいるのだという。時にはそれらが現世にやってきて、人々を悩ますのだ。それを避けるためには、家や心を清浄にし、天神を奉るのがよいという。汚いところに魔物は集まるのである。それでは現世にいると思しきケモノたちの怪異はどうなのだろうか。

「世に、狐狸などの人の目に触れぬわざする事のあるは、微弱き獣ながらも、幽冥の方へもすこしは入らるる幸のありてなるべし。亦禽の中に、夜も灯の光りを倩(やとは)ずして目の視ゆる物多かり。こは野山に栖むものは、然らずては得堪べからねば、只それのみを許されて生れ得るなるべし。もし人に狐狸の術ありて、飛鳥の翅を持しめば、世の片時も治りがたかりなん故に、神の許し給はざるにこそ。」

このあたり守部はちょっと曖昧なのだが、狐狸の変化と鳥の夜目を、いずれも人間の有さないものとして並列し、前者については幽冥とちょっと関わりがあるのだろうという推測をして、後者は生きるために必要だから神がそれを認めたのだ、という風に説明している。鳥獣は生きている人間より幽冥に関係が深いという篤胤の考えをここでは継承しつつ、宣長的に、すべては神々の意志によるのだという決定論的思考も働いているようである。

なお、1844年の『稜威道別』巻二にも、少し表現を変えて同様のことが書かれている。

 

大国隆正(1793–1871)については、幽冥が国々によって違うという、蘭学が知識人に普及していった時代を象徴するような妖怪論を前に紹介した。下参照。

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ここではさらに二つ、別の妖怪論――ツクモガミとバケタマ――について紹介してみる。まず嘉永年間(1848–1855)初頭に成立したらしい『死後安心録』より。なお隆正の文章はひらがなが多いので、問題ないところは漢字になおした。

「黄泉国は邪火のこもれるところなり。今、婦人の子をうむをみるに、経行とまりて十月の間をあたため、子をうみてのち、その汚血はくだるものなり。伊邪那美命の国を生みたまへるにも、その経行の汚血なきことを得ず。その汚血、黄泉にくだりて、邪火となりてありしなり。黄泉戸のけがれてありしもこの故なり。その汚血をもて、万物の妖のはじめとす。これやがて附喪神なり。万物につきてわざはひをなすものなり。これもまたその火つぎつぎにうすらぐにより、造悪の人のたましひそれになりて、その種をたたざるものなり。日本国にて附喪といふは、万物につきてあやしみをなすものの総名にて、これにまたさまざまの差別あり。天狗も附もがみなり。狐狸もつくもがみなり。疫病神・貧乏神・疱瘡神みな、人に附も神なり。その根源は黄泉の邪火よりなれるかみにして、そのはじめは伊邪那岐命につきて、黄泉国よりこの地球上に来りし神なり。……そのやまひ、その邪念によりて身をほろぼしたる人のたましひ、又その邪神の食となりて邪神をこやし、邪神となりて邪悪をなすものなり。」

妖怪はツクモガミである! 一部ツイッターなどで話題になった、大国隆正独自のツクモガミ論*2伊邪那美であっても経血は穢れたものだから、そこから「妖」が生まれ、災いをなすようになったというのである。天狗も狐狸も、宣長の『鈴屋答問録』に出てきた悪神(疫病・貧乏・疱瘡)も、すべてはツクモガミである。この思想は、今のところ隆正以前に見ることはできず、また隆正以降も誰かが受け継いだのも見つけられていない。特異事例である。

さて隆正によれば、生まれ変わりにもツクモガミが関与するという。

「人死にて、……その魂は、墓に留まるあり。位牌に留まるあり。かねて行かまくほりしところに至るもあるべし。浮かれ歩くもあるべし。ただちに幽界に入るもあるべし。いずくにありても、幽界の政所に呼ばれて、その裁判にあひ、畜生のたまに添ふもあるべし。人間のたまに添ふもあるべし。いずれに添ふもみな、つくもがみなり。おのれ是まで心をつけて生れ変りの説をきくに、まるまる生れ変るものにあらず。……しかるに生れ変りといふ証跡の折々あるは、皆つくもがみの類にて、狐の人につくごとく、その人の元霊のある上に、つきて生まるるものなれば、つひには離るることもあるなり。幼年にしてよく文字を読み、文字を書きなどするものの、成長して愚かになる類、多くはつきて生まるる妖(もの)ありて、のちに離れて、元霊のその愚かなるにかへるもの多かり」

この引用の冒頭は、「死者はどこにいる?」という近世のさまざまな考え方を全部受け入れてしまったすごいところであるが、それはともかく、これから生まれる別の霊魂にともなうものはツクモガミであるという。純粋な生まれ変わりというのは存在しない。前世から引き継いだと思しきものは、実はすでに死んだ霊魂がツクモガミとなって取り憑いているのだ。のちに離れていくことがあるので、神童が凡才になるというのもこれで説明できる、という悲しい話。

もう一つは、『死後安心録』より後に成立した、有名な『本学挙要』(1855)から。霊魂の種別を述べるところで、いわゆる四魂のほかに「はけだま・ことだま」の解説が続く。

「「はけだま」の「はけ」は、俗にいふ「ばけ」なり。いにしへは、「はけ」とすみていひけん。今は、「ばける」「ばかす」など、濁りていふなり。これは、空中をゆき、質を気にし、気を質にするたぐひ、人のなし得ざることをするたまなり。そもそも、第四の神代、幽よ顕の分界なかりしほどは、人も空中をゆき、神も人に雑はりてありしなり。天孫降臨ありしはじめ、石根・木根の言霊を離して、禽獣にもものをいはしめず、そのかはり人の「はけだま」を離してあやしきわざをなさしめず、この時より、いまの天地とさだまれるものになん。……人にもありける「はけだま」を離したまへる考証、書籍にはあらぬなり。しかれども石根・木根の言霊を離したまへる故事のあるにより、その一対なれば、必ず人にありける術魂(ハケダマ)を離したまひけんと知ることなり。これにより、狐狸のたぐひには妖魂(バケダマ)ありて言霊なく、人には言霊ありて妖魂なし。これは今の天地・世界のありさまを考証によりて、これを知れるなり。これを知りてみれば、空海のたぐひ、人にして妖術(ハケダマ)あるは、賤しむべきこととさとる也」

バケダマは、今風に言えば物質を出現させたり消したりする力能のことと隆正は解釈して、それが禽獣、とくに狐狸には備わっているという。原初アニミズム的な、すべての存在がコトダマとバケダマをもって相互行為していた時代は天孫降臨によって終わりを告げ、人間にはコトダマが、その他にはバケダマが残ったのだ、という。だから人間がバケダマを駆使するのは「賤しい」ことなのである。「術魂」は『先代旧事本紀』(9世紀)の巻第四「地祇本紀」が大己貴命の魂の一つとして言っているもので、記紀には見えない。それを隆正は、禽獣の有する/人間の有さない魂として解釈しているのである。

ところで術魂は、近代的鎮魂行法の大家・川面凡児(1862–1929)の理論にも登場している。彼によると「禍魂(まがたま)とは旧事紀にあるところの術魂で奇魂幸魂等の悪化凶変して自他を禍する魂であります」(『霊魂の典故』、『川面凡児全集』第1巻所収)、「術魂を「バケミタマ」と云ふは「バケ」は変化して白が黒に、黒が白に変化するの意味なのである。また「ハ」は「マ」に通ひ、「ケ」は「カ」に転じ、「まがる」なり「曲る」なり。直しきものが曲りたる意味で魔魂(まがたま)となる」(『日本民族宇宙観』1913、p. 171)と論じている*3。津城寛文によれば、川面の霊魂論において「全身の統一した状態において、主要な魂が体外に脱出して何らかの活動をなすことを」魂の分出と言い、「もしこの統一に欠陥があった場合、分出魂はその脱魂してきた元の身体の不調に牽制されて充全な活動をしないまま帰還し、虚偽の活動報告をなすことがあるという」。これが術魂なのである*4。要するに、隆正のように人間以外の禽獣に属すものでもなく、怪異をなす人間が有するものでもなく、あくまで自らの霊魂をコントロールができなかった状態において現れるのが術魂、というわけである。

*1:守部の幽冥論については、東より子2016『国学曼陀羅 宣長前後の神典解釈』第3章など参照。

*2:大国隆正のツクモガミに言及しているのは、管見では浅田雅直1989「近世後期国学者民間信仰 平田篤胤の「幽冥」の位置(下)」『日本学』13, pp. 211-212のみである。しかし隆正がそういう名称を持ち出したのを触れるのみで、詳細を論じているわけではない。

*3:津城寛文1990『鎮魂行法論 近代神道世界の霊魂論と身体論』p. 251に引用。なお津城はp. 250で隆正はほとんど術魂を論じていないとしているが、『本学挙要』は見逃していたのだろうか。

*4:津城、pp. 251–252。