超自然概念をめぐる論争②

前回の「超自然概念をめぐる論争①」の続きです。

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ある意味、今回が「論争」編かな?

超自然概念の批判

 前回の終わりに提示した普遍主義的用法は、自然的/超自然的という存在論的区分が、「それなりのやり方で」(ルース・ベネディクト)全世界に共通してみられるということを前提とする。その一方で、この前提の妥当性を疑う議論も100年以上前から存在していた。もっとも有名なのは、『宗教生活の基本形態』(1912)におけるデュルケームである。彼は宗教の定義を探るなかで、まず超自然概念を取り上げ、それを「われわれの悟性の範囲を越えたあらゆる次元の事物[……]神秘的なもの、認識不能なもの、理解不能なものの世界」と定義する。しかし彼が言うには、この観念は近年のものでしかない。なぜなら「事物の自然的な秩序が存在する」と認識され、かつ、そこから外れた現象が存在する、という思考のプロセスがなければ超自然概念は発生しないからである*1
 ちなみに、デュルケームは明言しないが、19世紀後半にエルネスト・ルナンがやはり、超自然の概念は自然の法則という概念が出た13世紀に至るまで無視されており、17世紀のガリレオデカルトらの機械論的世界観によって定着したもの、と述べていた*2。また似たようなことは、より有名な『イエスの生涯』(1863, 1870)第2章でも述べられている*3

 その後の民族誌的研究においては、陰に陽にデュルケームの主張を支持するものが目立つようになる。その大半は、西洋近代的な自然概念を前提とした超自然概念は、具体事例の記述には適用できないとするものである。たとえばエヴァンズ=プリチャードは、アザンデ人にとっての妖術の因果性を論じるにあたり、次のように述べる。

われわれは、われわれが自然の法則と呼んでいるものに合致した秩序ある世界についての概念をもっているが、われわれの社会でもある人々は自然の法則では解釈できない不思議な出来事も起こりうると考えており、したがってそれは自然の法則を越えるもので、われわれはそれらの出来事を超自然と呼んでいる。[……]アザンデ人は現実についてそのような概念は確かにもっていない。彼らはわれわれが理解しているような「自然」の概念をもっていないから、したがってそこには「超自然」も存在しない。*4

とはいえエヴァンズ=プリチャードは、西洋近代的なやり方とは違ったかたちで、アザンデは妖術・呪術の作用とその他の作用を区別する、とも述べる*5。同じような論法は彼によるヌエルの民族誌にも見出すことができる。そこで彼は、抽象的な自然的/超自然的の二元性はないかわりに、非物質的な「霊」(クウォス)と物質的な世界(チャク)との二元性があると論じている*6
 ヌエルに隣接するディンカの人々を調査したゴドフリー・リーンハートは、初出のときにだけ「精霊」(spirit)と訳した「ジョク」という語をただちに「諸力」(Powers)と言い換える。そして、この世界に内在するが人間よりも高位で時空を超越するジョクは、人間や地上の生き物と対比されるカテゴリーであると述べる。そしてデュルケームを参照しつつ、ディンカにおいて自然秩序を前提とする超自然概念は不適切である、と論じる。ジョクの経験は彼らにとって「自然的なもの」なのである*7
 アフリカからもう一つ事例を出すならば、石井美保はガーナ南部の呪術や精霊憑依などの「超常現象」を取り扱うにあたり、それを「超自然現象」と同一視することを否定する。それは「「常態」を超えていながら、人びとをとりまく世界/環境の一部として「自然」に存在しうるものである」*8

 北米に目を移してみると、アーヴィング・ハロウェルが、北部オジブワの神話群に登場する存在を「超自然的な者」(supernatural person)とするのは完全に誤りだと主張する。なぜなら、超自然概念は「自然的なもの」を前提としているが、「自然的なもの」という考え方がオジブワには存在しないからだ。ハロウェルは、それゆえ概念としては「超自然的なもの」ではなく「人外の者」(other-than-human person)を使うべきだと論じる*9。ちなみにハロウェル以前にも、オジブワの人々にとって精霊が超自然的とはいえないという記述は存在する。それによると、「それらも人間と同じように、世界の自然的秩序に入っている」*10
 超自然概念自体を批判するために、短いながら一つの章を割いたモートン・クラスは、西インド諸島トリニダードの農民が、土地の主たる霊「ディ」にオンドリの血などを捧げる事例を紹介する。その農民は地主に貢ぐ分の収穫も取り分けていた。彼にとってはディも地主も同じように存在しており、儀礼も支払いも翌年の豊作を確実にするものであり、自然的なものであった*11。同様の指摘は他にも多い*12

 こうした議論のいずれにも共通しているのは、私たちが超自然的と分類するようなものに多少は対応する土着カテゴリーは皆無ではないが(たとえば「霊」や「人外の者」「超常的」と訳せるもの)、それは自然的なものに対立しているのではない、という主張である。石井やクラスのようにそれを反対に「自然的」と表現することもあれば、ハロウェルのようにその表現も拒否する論者もいるが、いずれにしても超自然的/自然的の二分法は通用しないことが前提となる。こうしたことについてクラスは、超自然概念が、近代自然科学によって「まともなデータ」として取り扱えないものをまとめたカテゴリーではないのか、と問う。近代自然科学が西洋近代に特有の知的枠組みである以上、それと表裏一体にある超自然概念も同断である。だから、この概念を非西洋近代的な諸社会に適用することは、人類学が避けるべき自民族中心主義に陥っているのである*13

超自然概念の非日常的用法 

 以上のような存在論的区分とは(表面上は)別に、インフォーマントやテクスト自身が、あるもの(妖怪や怪異、精霊や神々など)を「不思議だ」や「怪しい」と表現するときはどうだろうか。こうした表現が示すものを超自然概念と同一視するか、少なくとも類似したものと考えることは可能だろうか。つまり、厳密に「自然秩序に従うもの」と「超越するもの」という超越的・普遍主義的区分で対立を捉えるのではなく、より緩やかに超自然概念を規定してみるのである。ただ、あまりに緩やかであるならば「自然的」概念を前提とした意味が薄れてしまうことになる。

 このような試みは、曖昧なかたちで古くから行なわれてきていたが(さもなくば、超自然という言葉はここまで多くの文献に現れていなかっただろう)、明確に定式化したものとして、北米先住民の宗教に関するオーケ・フルトクランツの議論がよく知られている。フルトクランツは、ハロウェルによる超自然概念批判(上述)に反論して、存在論的カテゴリーの二分法を検討する。そして、ハロウェルは「超自然」を自然法則に反するものという狭い意味で使っているが、それに限定する必要性はないということを指摘する。フルトクランツは、ハロウェルがマニトゥ(manitou、霊的なもの)の概念を取り上げるのを避けていることを指摘する。「マニトゥは不思議な性質をもった精霊あるいは人間を表すが、この状況は、マニトゥの真の意味が「非日常的」あるいは「超自然的」だということを示すと考えられる。この概念が通常に対立するものを意味しているのは明々白々である」*14
 何であれ「大なり小なり不自然なもの、正常とは言い難いもの」にまで超自然概念を適用することについては、フルトクランツは批判する。その一方で、自然法則を前提とした、哲学的な概念化も厳格すぎるとして受け入れない。彼によると、「精霊や奇跡といったものが属する、日常的実在とは別の秩序の実在という、より実践的な区分」*15こそが超自然的である。この区分は、「通常/異常」(ordinary, extraordinary)によって判断されるが、そこから導出される二分法は常に質的に異なった二つの存在のレベルである*16。これを「超自然的なもの」の非日常的用法と呼ぶことにする。ちなみに、フルトクランツのように事例から導き出したわけではないが、同じ「通常/異常」の区分を「自然/超自然」に割り当てる議論は、エドワード・ノーベックの宗教人類学にもみられる*17
 普遍主義的用法のときに紹介したが、認知宗教学における超自然概念は、この種の意味合いも強く含んでいるように思われる。ボイヤーらにとって、宗教的なもののカテゴリーは反直観的なものによって構成されているからである。そしてまた、反直観的なものは(フルトクランツの主張と同じように)単に変則的なものは含めない。直観的には有り得ないものの最低限の組み合わせが宗教的概念を構築するのである*18

 通常・日常的/異常・非日常的のそれぞれに、自然的/超自然的を割り当てることは、一見して問題が少ないようにも思われる。ただ、フルトクランツがそれぞれに異なる実在の秩序を割り当てるとき、ティム・インゴルドが指摘するように、民族誌からの乖離が生じることにもなる。インゴルドはハロウェルの記述を再分析して、その「要点は、人外の者を経験することは、自然を超えた実在の経験ではなく、優越した力の経験だということである。こうした経験は、日常的実在の超越ではなく、それの強化へと至る」ということを指摘する*19。人々の生きる実在が、より広がりを持ち、より深みを持つということ、それが、精霊や「奇跡」なるものとの邂逅が切り開く可能性なのである。人々の世界とは異なる実在の秩序という二元論的な存在論は、少なくともフルトクランツがそれを読み込んだオジブワの世界には妥当しない、とインゴルドは結論付ける。

 非日常的用法の二元論に対しては、インゴルドのように一元論で却下するほかに、より細分化したカテゴリーでもって批判する方法もある。モーリス・ブロックとダン・スペルベルがこの手の論法を用いて、認知宗教学的な反直観性や超自然の概念の問題を指摘している。
 まずブロックは、ボイヤーとスペルベルが、すべての宗教現象は反直観的だというのに対して、マダガスカルのマラガシにおける事例を挙げて反論する。彼はイーゴリ・コピトフの一般論も併記しつつ、「死んだ祖先に対する行動は、見たところ根本的には生きている父親や長老に対する行動と何の違いもない」と言う。「マラガシの農民は、死者に話を聞いてもらいたいとき、声を張り上げる。これは彼らが長老の注意を引きたいときにもよく行なうことである。なぜなら長老もまた耳が遠いことが多いからである」*20。私たちにとって宗教的対象であり、また反直観的である死んだ祖先は、彼らにとってまったく反直観的ではない。ボイヤーらがそういったものを反直観的と言うのは、あくまで西洋近代的な判断によるものでしかないのである。
 おそらく議論のすれ違いがあったのだろうが、スペルベルのほうはすでに「宗教」カテゴリーを放棄している。ある雑誌上で、スコット・アトランらが、反直観的=超自然的行為主体が宗教にとって主要な概念であるのはなぜか、と問うのに対して、スペルベルは、人類学的に言って「宗教」は家族的類似でしかない、ということを指摘する。エチオピアのドルゼの人々に宗教を聞くと、彼らはキリスト教を信じていると答える。その一方で彼らは日常的に祖先祭祀をするし、山川で「超自然的」精霊に捧げものをする。憑依も禁忌体系もある。ドルゼたちは、こうしたものをキリスト教と同じ「宗教」の名のもとにまとめようなど思いもしない。アトランらの問いは因果関係が逆なのである――タイラー以来、宗教を定義するために用いられているのが、超自然的行為主体なのだ*21
 スペルベルのほうは超自然概念も反直観概念も放棄しないものの、それが宗教という一つのカテゴリーと一致するという普遍主義的な考え方は、人類学者らしく否定している。ブロックは超自然概念を用いず、反直観概念の包括性を批判するものの、宗教カテゴリーへの還元ができないと考える点はスペルベルと同意見である。おそらくこうした批判論法は、日本において宗教現象とされてきたものを考え直すため、重要な足掛かりになることだろう。

 非日常的用法は、「異常・非日常的」に着目したという点では、「超自然的」とされてきた多くの事例を捉えることが可能のように思われる。たとえばマイケル・ディラン・フォスターは、妖怪は「どの時代においても[……]「自然」の枠内に収まるだろうが、それでも通常から外れたもの」であると論じる*22。彼は、妖怪に「自然なもの」とは異なる、固有の実在的領域(超自然的、あるいは宗教的と呼びうるもの)が認識されていたことについては疑いを持っている。とはいえ完全に純粋な「自然なもの」とも言えなさそうな、異常なものとして妖怪が捉えられていたことについては否定しない。
 また前回紹介したように、小松和彦の妖怪論においては、妖怪とは「科学的・合理的に究めつくすことができなかったとき[……]それを超越的・非科学的説明体系の中に組み入れて秩序づけようと」した結果のものである*23。この説明には超自然(超越)概念の普遍主義的用法がみられるのに加え、彼の言う「民俗的思考」が二つの体系に区分できることが前提とされている。この点で、小松妖の怪概念には、さらに非日常的用法も含み込まれていると考えることができよう。

 結局のところ、ここまで分析的に区分してきた超自然概念の各用法――超越的、精霊的、普遍主義的、非日常的――は、この概念を使う研究者の多くにとって、分析的にも切り分ける必要がないものと見なされているように思われる。しかし、どの用法にも共通するのは、それが「宗教的なもの」の定義と深く関係しているということである。これらをまとめて超自然概念の「宗教的用法」と呼んでもいいが、非宗教的な用法があるかというと、かなり限定されていると言わざるを得ない。ヴィヴェイロス・デ・カストロが多自然主義を前提として提示する概念化はその数少ない一例であろう。詳細を検討する余裕はないが、捕食的用法命名することができる。

 他方、インゴルドやスペルベルらの批判に見られるように、フルトクランツや認知宗教学の非日常的用法は、そこに留まらず、実在に関する二元論を想定している点で、無批判な適用を保留しなければならない。この想定は、超自然概念を肯定する場合、それが宗教的領域を定義するものになるべきであり、ゆえに一貫した秩序を有しているべきであるという、スペルベルの指摘した学説史的な流れに由来している。そしてブロックやスペルベルが(どちらもアフリカだが)事例をもって反論するように、非西洋近代的な諸社会において、そのような一貫した秩序としての「宗教」は想定されていない。ちなみに、スペルベルの論法を延長させるならば、非日常的なものに加え、日常的なものも単一の実在的秩序を有するのかについて問題提起することもできる。たとえば多くの社会では、何らかの意味で人間と動物が存在論的に区別されている*24。先に述べた捕食的用法も同様である。
 そのため、超越的用法や普遍主義的用法とは異なり(結論としては同じなのだが)、非日常的用法の妥当性を検討するためには、ある事例がこの用法での超自然概念に合致しているか否かのみならず、他に合致することが想定される諸存在と同一のカテゴリーに属すると判断されているのか、ということも考慮しなければならない。

 

次回(最終回)は、超自然概念と前近代日本との関係について、少しだけ。

*1:デュルケーム2014『宗教生活の基本形態 上』、pp. 57–61。

*2:Ernest Renan. 1868. Questions contemporaines, p. 232–233.

*3:エルネスト・ルナン2000『イエスの生涯』忽那錦吾・上村くにこ訳、p. 32; de Lubac, 1934, p. 238–239.

*4:エヴァンズ=プリチャード2000『アザンデ人の世界 妖術・託宣・呪術』、向井元子(訳)、p. 94。

*5:Ibid.

*6:エヴァンズ=プリチャード1995『ヌアー族の宗教 上』、向井元子(訳)、p. 236。

*7:Lienhardt, 1961, Divinity and experience: the religion of the Dinka, pp. 28–29, 98.

*8:石井美保2007『精霊たちのフロンティア ガーナ南部の開拓移民社会における〈超常現象〉の民族誌』、p. 285。

*9:Irving Hallowell, 1960, Objibwa ontology, behavior and world view, in Culture in history: essays in honor of Paul Radin, p. 28.

*10:D. Jenness, 1935, The Ojibwa Indians of Parry Island: their social and religious life, p. 29.

*11:Morton Klass, 1995, Ordered universes: approaches to the anthropology of religion, 28–29.

*12:たとえばジョン・ビアッティ1968『社会人類学 異なる文化の論理』蒲生正男・村武精一(訳)、pp. 263–264、Edvard Hviding, 1996, Nature, culture, magic, science: on meta-languages for comparison in cultural ecology, in Nature and society: anthropological perspectives, p. 178.

*13:Klass, 1995, ch. 4.

*14:Åke Hultkrantz, 1983, The concept of the supernatural in primal religion, History of Religion 22 (3): 244–245; cf. Robert Anderson, 2003, Defining the supernatural in Iceland, Anthropological Forum 13 (2); Lohmann, id., 2003.

*15:Hultkrantz, 1982, Religion and experience of nature among North American hunting Indians, in The hunters: their culture and way of life, 179.

*16:Hultkrantz 1983, p. 231.

*17:Edward Norbeck, 1961, Religion in primitive society, p. 11.

*18:ボイヤー、『神はなぜいるのか?』、pp. 108–110。

*19:Tim Ingold, 2000, The perception of the environment, p. 424; cf. David M. Smith, 1998, An Athapaskan way of knowing: Chipewyan ontology, American Ethnologist 25 (3): 423–424.

*20:Maurice Bloch, 2005, Essays on cultural transmission, pp. 110–112; Igor Kopytoff, 1971, Ancestors as elders in Africa, Africa 41 (2): 129–142.

*21:Dan Sperber, 2004, Agency, religion, and magic, Behavioral and Brain Sciences 27: 750–751.

*22:マイケル・ディラン・フォスター2017『日本妖怪考 百鬼夜行から水木しげるまで』、廣田龍平(訳)、p. 39。

*23:「魔と妖怪」、p. 346。

*24:cf. Viveiros de Castro, 1992, From the enemy’s point of view, p. 29; G.E.R. Lloyd, 2011, Humanity between gods and beasts? ontologies in question, Journal of the Royal Anthropological Institute (new series), 17 (4): 829–845.