日本怪異妖怪大事典「廣田龍平」担当項目の補遺2/5 鍾馗、白犬、水精、太歳様、たんたんころりん、血染めの石、剣ミサキ、ててのすいき、とうしん、東せん坊、通り悪魔、虎、とんごし婆、ななめ、なんじ

この記事がどういうものかについてはhttp://d.hatena.ne.jp/ryhrt/20130827/1377587908を見てください。原則として『日本怪異妖怪大事典』を手元に置いて読んでください。


16. しょうき【鍾馗】p. 292「もとは中国の民間信仰で、疫病を追い払う神」。○
僕は、説明文にある「科挙に落第して自死した男の霊で、」は書いていない。たぶん編集側が追加したのだろう。説明文全体は、よく覚えていないが民間信仰事典や伝奇伝説事典あたりを参考にしたのだと思う。鍾馗伝説の詳しい出典については調べていない。

DBカードは三つあったが、一つは「祭りの日に鍾馗のお面が飾られる」、一つは「小鐘」をなぜかショウキと読んだもので、事例らしいものは事例2に紹介したものだけだった。原文には「鐘馗」とある。なおこの伝承はある家に伝えられているもので、「他の家では、どんなふうに伝えられているのか知らない」と書かれている。事例1の『街談文々集要』は化政期の随筆で、たしかネットで「鍾馗」と検索していたときに見つけたもの。どちらかというと怪異をなしたのは鬼瓦のほうで、それを癒したのが鍾馗像ということになる。

いずれにせよ、日本のどこかで鍾馗が怪異をなすとか、具体的に何かをするという話はほとんど見つからなかった(事典に紹介した二つの事例のみ。むろん昔話は除く)。

17. しろいぬ【白犬】p. 301「毛並みが白い犬の説話は古く、『古事記』や『日本書紀』に既に確認することができる」。○
この事典は動物も多く立項しているが、あまり事例がないと手持無沙汰になってしまう。これも何を説明文に書けばいいかわからなかった。「白」というのに意味があるのだろう。この事典ではほかに白鷺、白鳥、白烏、白狐、白猿、白鹿、白鼠、白蛇、白馬、白龍がある。白い動物が基本的に吉祥だという前提があるわけで、マイナス価の怪異に直接かかわる話は多くない。猿神退治の犬が白いという話やオクリイヌは白い犬だという話はあるが、それらは独立した項目になっていそうだし、スペースの関係でここでは省略した。

事例2と3はDBにあったもの。事例1の日本書紀にあるものは人間が白犬に化けた話だが、関連する事例がなく、どのように理解していいかよくわからない。

18. すいせい【水精】p. 311「水の霊魂のこと」。○
DBカード4つのうち2つは「彗星」だったのでもしかしたらこちらを書くべきだったかもしれないが、項目名が水精だったのでそれを優先した。とはいってもパッとした事例はない。事例2はDBにあるもので、この手の「水界の母性的存在」については石田英一郎『桃太郎の母』参照。水の精霊としては事例1の『今昔物語集』にあるもののほうがずっと有名だろう。水木しげるも絵にしている。森正人がつとに指摘しているように、今昔における「精」は無生物の霊魂のことである(『今昔物語集の生成』1986, p. 243)。

DBカードにはほかに「水精が降ってきた」という話も載っていたが、これはスペースの関係で省略した。おそらく水晶のことだと思われる。(精をショウと読み水晶の意味で使う。)

しかしこの項目も白犬と同様、うまく説明文に特徴を述べることができなかった。広義の「水の精霊」として捉えるならば、ヌシとかカッパとか水や川の神とかいろいろ含むこともできたのだが、純粋に抽象的な「水の霊魂」となると極端に話が減ってくるようである。他に事例があるのだろうか。

19. たいさいさま【太歳様】p. 331-2「陰陽暦における木星の精」。●
僕にとって妖怪の「太歳」といえば『水木しげるの中国妖怪事典』にある、たくさんの目玉がついた肉塊のことだ。しかし与えられたDBカードはいずれも岡山県のよくわからない民俗神(また!)。「ダサイ」という神名なのだがどの文献にも「太歳」という漢字があてられている。やはり祟りやすい神だという。

……最初はこの程度の知識しかなかったが、日本では陰陽道由来ということがわかり、各種雑書(暦の本)にも載っていることがわかってからは調べるのが楽しくなったが、ほとんど本文には反映されていません。それでも、この説明文は日本における太歳の標準的な解説を書くならこうなるだろう!というつもりで書いた。もし字数制限がなければ、中国の事例も入れたうえで日本のことはあまり書かなかったかもしれない。仲間の「だいしょうぐん」も参照のこと(本事典p. 333)。

『簠簋内伝』については中村璋八『日本陰陽道書の研究(増補版)』(2000)にある校訂版を参照した。雑書云々のくだりは近代以降でも通用する。中国では太歳は恐ろしい神だということになっていたが、日本の民間信仰でどれほどこの意識が共有されていたのかはわからなかった。少なくとも岡山では「荒神」とつけられていることからも、多少そうした意識はあったようである。

岡山での信仰についてももう少し詳細に書けた気がする。岡山県の自治体史民俗編からいくつか調べたものをここに紹介しておこう。

事例にもあるとおり太歳は荒神信仰と習合しているようで、ダサイ荒神と呼ぶところが多い。また太歳だけではなく太宰と書くこともある。
どうも田の神、年の神のような感じで祀られているらしいが、面白いのは年の神(歳徳神)という連想からか、落合町(現・真庭市)では女神とされている地域もあるということだ。ここでは狐が鳴くとダサイ様の機嫌が悪いとか、ダサイ様が鳴くと悪いことがあるとか言われている(『落合町史 民俗編』1980, p. 442)。
北房町(現・真庭市)でもダサイ荒神と呼び、やはり祟りが激しい(『北房町史 民俗編』1983, p. 318-9)。
井原市の一部では「ださー様」と呼び、そこの境内にみさき様を祀っている。むかし境内の枝払いをしたら火災があったので、以後しないという。このあたりは陰陽道の太歳と似ていなくもない(『井原市史VI 民俗編』2001, p. 666)。
鴨方町(現・浅口市)でもダサー様と称して荒神を祀る。縁日は旧暦の10月14日(『鴨方町史 民俗編』1985, p. 335)。
『備中町の民俗 〔第一次報告〕』(1965)では塞ノ神のことをいい、祀っている林をダサイブロという地域が紹介されている(p. 151-2)。「ダサー様」という屋敷神もダサイ様のこと(p. 151)。

遡ると、文献上は『備中国新見庄地頭方東方田地実検名寄帳』(1272)に太宰神社または太歳神社の名前が見られるのが初出らしく、中世から祀られている、それなりに古い民俗宗教神だったということになる(『落合町史 民俗編』1980, p. 534)。この文書は東寺百合文書にあるらしい。


20. たんたんころりんp. 360「古い柿の木の化けた妖怪」。○
まず誤植です。事例1、『現代全国妖怪辞典』とありますが「現行」の間違いです。校正の段階で追加したので間違って入力されたようです。
DBカードにあったのは「妖怪名彙」のやつだけ。これは事例1の『現行』を参考にしていると思われるのでそれに変更した。
2は『津軽口碑集』にさりげなく書かれている。原文は

……しぶくる兒を威す際に「たんころりんが來るぞ」と五所川原、金木、弘前にていふと弘前生れの一人語りしが詳かならず。(p. 128)

事例3はたんたんころりんとは直接関係がないが、事例1と2だけでは間が持たないので、柿の木が男に化けた怪異として申し訳程度に追加した。説明文にある「柿男」は事例3のこと。
「柿入道」は『語りによる日本の民話1 女川・雄勝の民話』(1987, p. 310-315)にあるもので、事例3に似ているが食べる婆さんは排泄シーンを見ておらず、ひそかに目撃して激怒した息子により一度柿入道は殺されてしまう。「おめえ、懲役になって明日警察へいけよ」。しかし翌朝見てみると死体は消え、庭にはたくさんの柿が転がっていた。「柿にも心つうもんがあるもんだべかなあ」。スカトロバイオレンスアニミズムと名付けたい。

事例3は佐々木喜善『聴耳草紙』(168番、ちくま学芸文庫版でp. 462)に「柿男」として掲載されているが、注記にあるとおり、もとは三原良吉が採集したものである。この話は三原自身が『仙臺觶土硏究』1 (1931)に「仙臺の昔話」として報告しており、「柿の虗」と題されている。原文は喜善のものと細かいところで表現は違うがほぼ一致している。鱈男といい鰻男といい、喜善は「〜男」というのが好きなのだろうか。
付喪神の事例として有名な「履物の化物」(『聴耳』p. 464)もこの「仙臺の昔話」が初出である(p. 10-1)。ただし題は「履物のお化け」となっている。



2014年3月追記:「柿の精」と似た民話はほかにもいくつか記録されている。なかでも古いのは山田野理夫(編)『日本の民話24 宮城の民話』(1959, p. 62-64)で、仙台市の伝承で話者は「山田はる」とある。また佐々木徳夫『むがす、むがす、あっとごぬ 第一集』(1969, p. 182-185)は原音に忠実に「カジの精」と表記されている。語り手の所在は宮城県本吉郡津山町(現・登米市)。その他『昔話研究資料叢書15 陸前の昔話』、『みちのくの海山の昔』にもあるようだが未確認。

21. ちぞめのいし【血染めの石】p. 361「その石に血が降りかかった由緒があったり、石を動かすと血の雨が降ったり、噴き出したりする怪異」。○
これも蛙石と同様、血と関連する石の伝説の寄せ集めで、とくに共通する特徴があるわけではない。毎度のことだがこういう項目をどう説明すればいいか悩む。
項目名の「血染めの石」にあたるDBの事例は、単に人が斬られてその血がかかったというだけの話で、怪異を起こすわけではない。
事例3は原文では「血まみれ石」というインパクトのある名称で紹介されているが、それを本文に盛り込めなかったのは残念。
事例4は馬岩の話で、原文では続いて夫婦石という岩も割ったら血が流れたという話が紹介されている(p. 175)。

事例1は孫引きだったDBから遡ったもの、2と4は独自に探したもの、3はDBカードによるもの。

22. つるぎみさき【剣御崎、剣妖森】p. 376「多くの場合、土中から出てきた刀剣を祀ったもの」。○
これもまた岡山の民間信仰である。
ツルギミサキについては三浦秀宥「中国地方のミサキ」『怪異の民俗学2 妖怪』p. 385-6に特徴の多様性が簡潔にまとめられている(もとは『日本民俗学』82, 1972)。僕は「多くの場合、土中から出てきた刀剣」と書いたが、多数派ではあれ「多く」というわけではないようである。類称の「埋剣様」は事例に紹介しなかったが、DBにはあるのでそちらを参照のこと。「切腹した人の霊」の事例もDBにあるので参照。

ところで、漢字表記の「剣御崎」はわかるが「剣妖森」は何だと思われる人も多いかもしれない。この読み方は『作陽誌』(1691)にあるもので、鏡野町の大にそのような「場所」があったらしい(『新訂作陽誌一 西作誌上』1912, p. 163)。意味からすると「剣妖」だけでツルギミサキでよさそうなものだが、全体にルビが振られているので「森」自体がそのように呼ばれていたということになる。
なんとこの剣妖森跡は町指定文化財になっていて、石碑が建っている。富村文化財保護委員会(編)『富村の石造物』(1997)によると「大 大中」という場所に「剣妖森之碑」という160cmの石碑があり、1901年に建立されたものらしい。美甘政和撰という碑文の翻字は残念ながら省略されていた。近所の方は何が書かれているか確認してみてください。『富村史』(1989)にはシンプルに「昔の国司館跡」とあるだけだ(p. 1078)。なお、この表記はDBにある『岡山県史』15, p. 525に教えてもらった。ここでは王の塚がありそこにあった剣を祀るので昔からツルギミサキという、と書かれている。

さらに脱稿後に見つけた表記として、岡山県総社市の影八幡宮境内に「剱岬」と刻まれた自然石があるらしい。これは当然ツルギミサキのことで、祟りの激しく恐ろしいものだという(『総社市史 民俗編』1985, p. 464)。
「つるぎのみさき」と呼ぶところもあるという(落合町上山、現・真庭市)。これも出土した刀を祀ったもので、毎年十二月に祭る(『落合町史 民俗編』1980, p. 446)。

23. ててのすいきp. 378「憑き物筋の一つ」。○
どうもこれは「憑き物」というよりは単なる「筋」のようである。原稿ではもう少し詳細に地名を入れていたが明らかに差別の問題なので「岐阜県」だけになったようだ。

24. とうしん【燈心】p. 393「犬神に類した蛇の憑き物のこと」。○
もらったDBカードは、一つは蛇憑きの話だったが(事例1ただし引用)、もう一つは「燈心を踏むとへびに噛まれる」という俗信だった。言うまでもなく蛇憑きの話とは関係ないのだが、それを引きずっているのか、漢字表記も【燈心】となっている(編集側がつけたもの)。

事例1の『遠碧軒記』は17世紀後半のものだからそれなりに古いが、以降「とうしん」は聞かない。蛇憑きといえば普通はとうびょうである(本事典、p. 395)。短いので全文引用する。

田舎にある犬神と云事は、其人先代に犬を生ながら土中に埋て咒を誦してをけば、其人子孫まで人をにくきと思ふと、その犬の念その人につき煩ふなり、それをしりてわび言をして犬を祭れば忽愈。くちなはも右のごとくにす、それはとうしんといふ。田舎西国辺にては今にもある事なり。

25. とうせんぼう【東せん坊】p. 394「東尋坊伝説のバリエーション」。○
まず誤植です。「吾妻むかし話」とあるのは「吾妻むかし物語」の間違いです。
バリエーションと書いたものの、本家東尋坊伝説についての項目がないからアンバランスである。たぶん東尋坊がDBに採録すべき文献に掲載されていなかったというだけの話なのだろう。「吾妻むかし物語」は元禄年間に著されたもの。

東尋坊伝説の出典は調べていないが、『吾妻むかし物語』によると謡曲や『西国盛衰記』に「東心坊」として載っているらしい。

26. とおりあくま【通り悪魔】p. 396-7「特別な理由もなく人間に憑依して病気にしたり乱心させたりする怪異」。○
与えられたDBカードには、大別して江戸期随筆の「通り悪魔」と、近代以降の民俗信仰でいう「いきあい」の類と、「悪神」と呼ばれているものがまとめられていた。要するにこの二つは類似した怪異・妖怪であるからまとめて説明しなさいということらしかった。
しかし正直言うと、向こうのほうから移動してくる「通り悪魔」と、こちらが移動しているときにぶつかってくる「いきあい」を一緒に扱うのはちょっと難しい。

事例も、怪談的な要素の強い通り悪魔の話を短くまとめるのが難しく、民俗事例のほうを一つしか紹介できなかった。
DBカードには、ほかに福島の「通り神」(十二様が通るところに小便をした女が重病になった:見出しが「通り神」)、山形の「通り神」(別称「飛び神」、子供の着物を夜干していると取り憑く)、茨城の「通りの神」(曲がり角にいるので小便してはいけない)、福島の「悪神」(取り憑いて重病にする)、山口の「カミミサキ」(何ともわからないが神様の通ったところを妨げるもの云々)、大分の「タチアヒの風」(別名「イキアヒの風」「トホリ神」、山や海で合うと気分が悪くなる)、香川の「道を歩いて神にぶつかる」(急に気分がわるくなること)、京都の「出合い神」(道であたるものもないのに急にほかされる)、山梨の「トオリノカミサマ」(2月8日にやってくる厄病神)、広島の「ユキアイ」(夏に多く女性に多い一時失神。この悪神は熊王子のこと)、『待問雑記』の「窮鬼」(アシキカミ、貧乏神のこと)などなどがあった。
(「⇒」のところにあるが)「いきあい」については「かぜ」の項目のほうが参考になると思う(p. 134-5)。この手の民俗事例はどこにでもあるしバリエーションも豊富だから主要なものに限ってもこの限られたスペースで紹介するのは難しい。

27. とら【虎】p. 402-3「中国やインドの森林などに生息する、ネコ科の大型肉食獣」。○
説明文の冒頭は妖怪でも怪異でも民俗でも伝承でもなんでもないですね……。
どういうわけか日本には虎の怪異が極めて少ない。
数ある「虎岩」も、本当に動物の虎に関係あるのは事例1に紹介したもの程度である。他には事例2と3で紹介した、芸術品の虎が悪さをする話がある。こういうのはたいてい竜か馬、獅子なのだが、虎もあることはあるのだ。
事例2は『遊歷雜記』の引用だが、韮塚一三郎編『埼玉県伝説集成 分類と解説 中巻・歴史編』(1973)には、口承で残っていた、少し違う話も紹介されている(p. 589)。
事例3の『京都民俗誌』でも同じ個所に、ほかに一つ似たような怪異が述べられている。
また『愛知縣傳說集』(1937)には、虎と竜の絵がともどもに毎晩抜け出して田畑を荒らしていたので、(絵に)目つぶしをしたという伝説が載っている(p. 251)。このぶんだと他の地域にも似たような話は広まっているのだろう。しかしこの手の物語って、一休さんの、屏風の虎を退治せよという頓智ばなしとどういうつながりがあるのだろうか。

なお、事例2と3はいずれもDBカードにあるものだが、孫引きだったので、原典に当たった。どちらも同じ大嶋義孝「絵や彫刻が悪戯をする話」『民具マンスリー』34.6 (2001)。なかなか面白そうな内容。しかし事例2は『日本伝説大系5』→『埼玉県伝説集成』→『遊歴雑記』という三段構えだった。

しかし本当に民俗事例で虎の妖怪っていないのかなあ。

28. とんごしばばあ【トンゴシ婆】p. 404「白髪の老婆の姿をした妖怪」。○
原文では「トンゴシ」や「トンゴシ婆ァ」「山ン婆」となっている。文字になったのはたぶん『宮崎県史 別編 民俗』(1999)が最初で最後なのだろうが、もとは大正年間の話らしい。

29. ななめp. 409「ヤツメウナギのような生き物」。○
4行しか情報のない怪物だった。「笛を吹いて山へ登っている」ってどういうことだろう。漢字にすると「七目」だろうか。蛇と夫婦だったというからやはり鰻だったのだろうか。いずれにしても詳細はまったく不明。

30. なんじp. 415「熊野古道に出没する恐ろしい魔性のもの」。○
事例の日付や場所がやたらに具体的なのが面白い。ヒダルガミとともに怖れられているらしい。とはいえ報告がこれだけなので詳細はよくわからない。「狂ってしまう」は原文「いかれる」。そもそも「ナンジが燃える」とはどういう状況なのだろうか。

ちょっと軽めの篤胤妖怪論

『玉襷』七之巻からの引用。

ここに古学の意をよく得て、大倭魂を突き堅め、かれをも己をも知りてあるは、たとえ目の前に、ひょうすべ、見越し入道など出たらんも、人のならいはさるものにて、馬の放屁にも驚くことのあるなれば、見慣れぬものの、不意に出ては、いささかびっくりすること、あるまじきにあらざれども、元より心の修行殊なるゆえに、腰の抜くるほどの事なく、たちまちに静まりかえりて、「さてもわぬしは、失礼ながら希有なる面なり。しかれどまず初めて出会うて、満足に思うことなり。年ごろわぬしらごときものの、世にあること、たしかに心得てあるを、元来おぬしは、何処に住まう者にて、今何の用ありて出来しぞ。次々にたずねまほしく思うこと多かり。立ちはだかりては、人に対する道にあらず。まず下にいて語れ」など諭しおきて、かねてよく知らむと思える幽冥界のこと、また彼らが仲間のありさまをし、問い試みむと構えむには、その出たる化物、もし文盲ならむには、大きに困りて逃げ去るべく、もしさる問いの答えもなるべきほどの化物ならば、それいと面白き化物なり。ずいぶんに馳走して、幽冥世界のことを問うべし。

それから篤胤はそのような邂逅の例として白澤図のことなどを出すのだが、この語り口、どうみても軽いというか、本当にヒョウスベやら見越し入道やらが目の前に現れることを想定していたのかどうか。化け物に出会って「失礼ですけど、へんな見た目ですね」「立ちはだかるのはよくないからまずは座れ」などと指導する篤胤のマジメ度が謎である。

タタミタタキとバタバタと、ムシロタタキとススハキと

柳田國男の「妖怪名彙」に、次のようにタタミタタキが紹介されている。

タタミタタキ 夜中に畳を叩くような音を立てる怪物。土佐ではこれを狸の所為としている(土佐風俗と伝説)。和歌山附近ではこれをバタバタといい、冬の夜に限られ、続風土記にはまた宇治のこたまという話もある。広島でも冬の夜多くは雨北風の吹出しに、この声が六丁目七曲りの辺りに起こると碌々雑話に見えている。そこには人が触れると痣になるという石があり、あるいはこの石の精がなすわざとも伝えられ、よってこの石をバタバタ石と呼んでいた。
『新訂 妖怪談義』p.244

一見して「バタバタ」という音を出すだけの怪異のような記述であるが、それほど単純な伝承ではない。音については共通しているものの、音の聞こえ方は違う。小松和彦は詳細に原典に当たり、そもそも柳田の記述が混乱しているというのもあるが*1、タタミタタキが単に遠くから聞こえてくるだけの妖怪であるのに対して、バタバタは音源が移動して特定できないのでタヌキバヤシに近いのではないか、なぜタヌキバヤシのところにバタバタを入れなかったのか、と論じる。また彼は原典からの抜粋を全文紹介して、それが小八木家に限定されていることを指摘し、「たった一つしか事例がない妖怪名彙かもしれないのである。著者の寺石は、これを「或る記録」に載っているというが、このような記録があるのかどうかもあやしく、今後探索してみる必要があろう」と推測している。せっかくなのでここにも引用しておく。旧字旧かなはそのままにした。

小八木屋敷の古狸 甲
今は昔高知城中島町に、小八木某といふ大身の侍住めり。家居もいと裕かに屋敷廣く、庭の木立も深く泉水なども勝れて美しかりしに、家の西表に巨大なる榎あり。其元に祖先の藭を齋き祀り、玉垣など結廻し家人も常には至らざりしが、其所にいつの程よりか年経たる古狸が住んで居た。
此狸の怪しきは、夜更け人定まりたる頃、疊の塵を打拂ふ樣な音する事にて世に小八木の疊叩きといふて評判のものであつた。然して其音の怪しきは家内にはすべて聞へず、極近隣の人にも聞へず、却つて二三町遠方の人には能く聞へしとぞ。此頃城下の或民は小供の泣き已まぬ時に、そら疊叩きが聞ゆるぞといふて威かすと、泣き已まぬ兒は無かつたといふことが、或記錄に書き載せられて居るを見れば、相應に名高かつた話を見へる。
寺石正路(編)1925『土佐風俗と傳說』觶土硏究社、p.95

面白いことに、妖怪名こそ違うものよく似た話が別の文献に語られているのを発見した。そこでは「小八木」が「小米」、「たたみ」が「莚(むしろ)」になっているが、ほかはほとんど同じである。

小米莚たゝき
中島町西へ行詰に、先藩臣【割注:知行五百石】小米氏の屋敷に大なる榎の木あるが、其木の元にいと古くより栖める狸の業といへるが、夜る九ッ過暁頃まてにむしろをたゝく音す。そのはげしきときハ、纔か壱丁計りの処にてたゝく。其処へ行けハ、また脇三町ほどにもなり、小米屋敷にてハまた余所にてたゝくよふに聞ゆるよし。上町にてハ東し、下町にてハ上町【ルビ:にし】にあたれハ、取留めてこゝと定メがたし。然ともいにしへより小米の莚たゝきとも、またすゝはきともいへり。このすゝといへるは、昔年の暮すゝ払のせつ、不礼ありて下女を手討にしけるとそ。其霊魂崇りをなして、今にすゝはきをするとそ。男麻呂朝廷の命を奉して、安喜の国広島の城下に行て、四方山のはなしなとしけるが、折節堺町弐丁目と云処に宿りしが、旅宿の主語りけらく、五丁目にバタ〳〵といふ事あり、夜更て人静つて莚をたゝく音す。人〃あやしミ、五丁目ニ行ハまたはるか東しに其音するよし。東しに追懸ゆけハ、遥か西にあたりて音する。西にて聞ばまた五丁目のよふに聞ゆるゆへ、五丁目のバタ〳〵といふとぞ。吾生国土佐にも似たることありと噺して、互ひにあやしく思ひしことあり。猶くわしき事は古老にも問へし。またその莚たゝきの音を聞てしるへし。今も夜更るかまた暁の頃などたゝく音するなり。
「高知町鑑」1977『高知県史 民俗資料編』p.1311

『高知町鑑』は『土佐国群書類従拾遺』第65巻(雑部)に所収。『高知県史』には「莚たゝき」だけ抜粋掲載。成立年代などの書誌情報はなし。近世後期と思われるが、小八木氏について調べればもう少し時期が絞れるかもしれない。『土佐国群書類従拾遺』は全七巻の予定で高知県図書館から出版予定。昨年、一巻目が出たらしい。順番でいうと雑部は最終巻にあたるから、「高知町鑑」全体が活字化されるのはまだ先のようだ。
ここに「小米」とあるのは明らかに「小八木」の読み間違いだろう。つまり人名も地名も具体的な原因もほぼ「畳叩き」と同一なのである。唯一の違いは「畳」が「莚」になっていることだろうか。しかし畳を叩く音と莚を叩く音はどのくらい違うのだろう?西洋建築に住みなれた身としてはいまいちピンとこない。また追加情報としてこの音を「すすはき」とも言い、それが下女の祟りだという言い伝えも残している。どうも、当時は実際に何らかの原因で夜中に「ばたばた」という出所不明の音がして、それに対して各人が各様に名前を付け、そのエージェントとして狸なり下女の怨霊なりが想定されていたということになるのだろう。いずれにしてもこの怪異現象が、小松和彦が推測するほどには限定された伝承ではなかったということが、バリエーションの多さからもうかがえる。また、謂われについては古老に任せ、現象自体は「今でも夜中に聞こえる」というのも、非常にリアルな報告で興味深い。
しかしそれ以上に面白いのは、男麻呂(著者)が広島に行って現地の人と話をしたとき、そこでも同じような怪異「五丁目のバタバタ」があるのを知り、「あやしく思」っていたということだ。その現象がバタバタである。これも筆者は莚を叩くような音と表現しているが、それが広島の人の表現を借りたものなのかどうかはわからない(以下に引用する『譚海』には莚の音とある)。とはいえ、『土佐風俗と伝説』に伝えるタタミタタキとは異なり、ムシロタタキは音源が逃げていくという点で広島のバタバタと同じである。小松は柳田がタタミタタキの欄にバタバタを入れていたことの妥当性を問題にしていたが、このように少し違うが伝承者自身が類似性を感じていたのだとするならば、結果としては柳田の同定が当時の人々の「心意」に沿っていたということになるだろう。これは偶然の一致かもしれないし柳田の天性の才能かもしれない。ついでながら、「たった一つしか事例がない」わけではないということもわかる。
寺石のいう「タタミタタキを子供を脅かす時に使っていた」という文献はこれではない。しかし、もう少し高知県の郷土資料を地道にあたってみれば、そうしたものが見つかる可能性はあるだろう。

さて、柳田がバタバタの話を引いてきた『碌々雑話』だが、小松は原文を引用(しかし一部)するものの、どの『雑話』を参照したか書いていない。おそらく柳田が読んだのは広島の地方雑誌『尚古』に活字化されたものだろう。せっかく手元にあるので、ここに全文を引用しておく。おそらく広島のバタバタについてはもっとも詳細な記述だと思われる。

婆多婆多
廣島の婆多々々は天下未曾有、中國第一の奇事なり。もと城南六丁目七曲といふ所に初り、今にては廣島所々にて此音聞ゆるなり。されど城北は猶稀なり。ばた〳〵とは夜陰におよんでばた〳〵と音する物、枕近く聞ゆるにより、耳をそばだてゝ之を聞けば遙かの余所外なり。扨は遠方なりと思へば忽ち耳元に響く。これはと驚けば又あらぬ方に音するなり。土俗狸の腹皷、又は天狗の所爲なるべしなどいへり。其最初いかなるものか試見んとて夜々音のするあたりへ糠を蒔、沙を敷て足跡や附しと尋ぬれども、竟に足跡もつけず。或は人を東西南北に配り置き、彼音聞ゆる時、四角八方より靜に步よるに、人は眞中に寄集れども音は又遙かの脇なり。菟角すれども終に形を見し人なければ、いかなるものともしりがたし。只音のみすれば俗に婆多〳〵とは名付しなり。こは百年餘の物なりといふ。大方は冬に至て音するなり。
一或說に云ふ、六丁目にばた〳〵石あり、此石の精靈出て斯音をなすなりと。柏村何某予に語て曰「六丁目に一つの怪石あり。傳え云ふ、此石に手を觸ればかならず瘧を病と。遠野何某これを聞て、何條去事や有べきとて此石を數遍撫さすりて止ぬ。其歸さより頻りに寒氣肌を犯すと。恰も寒夜に衣なきが如し。後には行步さへ心に任せねば、漸轎子に乘て歸宅せしが、夫より瘧病にて數十日煩ひ侍りぬ」と先年語られし事あり。此遠野は柏村の弟なりとぞ。又近きころ、ある人の語りしは「其婆多々々石といへるは今糟谷何某の宅地にありて、世俗此石にいろ〳〵奇說を附するといへども、そはいかゞあらん。我等六丁目に來往する事既に十六七年なりといへども、いまだ是こそばた〳〵ならんといふべき程の奇しき音をば聞ざるなり。折々すは只今ばた〳〵の打なり、昨夜も云々、今宵もしか〴〵など家族のいひける事あれども、其音さして奇しき音とも思はれず。惣じて六丁目は廣島南のはてにて、冬に至り西北の風吹ける頃は初更も過ぎ、世上も何となくしづまりける後は天神町、又は本川邊の蕎麥賣、醴酒賣などの聲、風の吹まはしにつれては俄に間近く、門前を賣かと思へば、又風の吹へしに寄りては俄に遠くなりて、其聲幽に聞ゆるなど常の事なり。此邊に住馴ぬ奴婢などは、遠方の蕎麥賣をも門前をうるとて呼入んとせし事もあれば、彼ばた〳〵も元は本川天神町邊の碪などの音の風の吹廻しにて、俄に近くも遠くも聞ゆるをこと、〳〵しく云ひ傳へしにてもあらんかと思ふ。世に高名なる筑紫の不知火も、潮のきらめくにて何も不思議なる事はなきよし聞たれば、婆多々々も其類ひならん」と申されける。是もさも有べき事なりと、此所にしるし置しになん。
「『碌々雜話』巻之一」『尚古』71 (1918)、pp.附録7-8 (句読点など補った)

何やら当初は徹底して探索したようだが、音源はわからなかったらしい。狸の腹鼓と同定しているあたり、小松和彦の感覚に近い人が当時もいたようだ。
個人的に興味深いのは、柳田の言葉でいうならこの妖怪に対する「信仰度の濃淡」である(『新訂 妖怪談義』p.243)。小松は「信仰度の濃淡」により妖怪を分類することを「主観的」だとして却下したが(「解説」『新訂 妖怪談義』p.314)、『碌々雑話』には明らかにそれが現れている。石の祟りを疑った人は信仰が淡いことこの上なく、触ったことによって病気になったのを伝える人は信仰が濃いほうに入り、近くに住む人は、現象自体は否定しないものの、弁惑もの風に風向きによって音が流れてくるのだと解釈する。そして「住馴ぬ奴婢など」はそれを恐れるので信仰度が濃い、ということになるだろう。問題は何を信仰しているかだが、石についてはその精霊、奴婢についてはそれが「正体不明」だということを信じているといえる。逆に、砧の音だという人は「正体不明」ということを信じていないが、砧の音だということは信じている。確かに話は複雑になるが、主観的な基準だということになるわけでもないだろうし、僕自身はこの基準をそれなりに使えると思っている。

バタバタについては近世に記録が多く残されている。有名な伝承だったのだろう。いくつか引用する。

一 バタバタ 芸州広島の辺にバタバタといふ異物あり。夜中屋上或は庭際に声ありてばた〳〵と聞ゆる故に名とす。たとへば畳を杖にて打音に似たり。好事の人々是を見あらはさんとてそこに行きて見れば、七八間も彼方にきこえて見窮むることあたはず。川下に六丁目といふ町ありて、其辺最多く他の町々城内にもあり、狐狸の所為かといへどもそれにもあらずといふ。
「筆のすさび」1975『日本随筆大成 第一期第一巻』p.84

○藝州廣島の城下、六丁目と云所には、ばた〳〵と云物有、是は世にあまねく知たる化物なり、夜に入ぬれば、いつも空中にて、人の莚をうち、ちりなどはらふごとき音して、ばた〳〵と鳴わたる、戸を出てうかヾへば、かしこに聞ゆ、夫を尋ねゆきてみむとすれば、又こなたにひヾく、つひに其所を、たしかにみとむる事なし、又いかなるものの、此音をなすといふ事をあきらかにする事もなし、年月かさねて、只かく毎夜ある事なれば、其國人はあやしまずしてあることなり、
早川純三郎(編)1917『譚海』国書刊行会、p.308

一 安藝国廣島城下邊に、パタ〳〵といふものありて、神異の物也。むかしより何者たるを知る人なし。夜陰人家窻外緣先【原本: 椽先】などに來りて、甚だ近くパタ〳〵と音す。其處を窺うて急に戸を開き見れば、五六丁も遙の遠方と聞えて、パタ〳〵といふおと聞ゆ。いつも如此にて、つひに何物たるを知ることなしと、彼國の人壽安、物語りな【り】き。
近代デジタルライブラリーにあるやつhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971908/245
(橘春暉「北窓瑣談」『日本随筆大成 第二期第十五巻』p.221も)

バタバタという名の怪異が広島以外にも伝わっていることが知られている。岩国の話だが、広島からそんなに遠くはないので、高知のそれとは違い、具体的な関連があることが推測できる。以下の話は、なんとか音源値を特定しようとして、どうやらそれっぽい候補地を絞るところまで来たという点で広島のものとは少し違う。ただ、エージェント自体はわからなかったようだ。

破多破多の事
文久年中には外国打払ひするとて世間騒ケ敷ありけるに、其頃錦見の塩町のすそ、砂原、蛤町、又散畠、浄福寺突きぬきは町にかけて、夜四ツ時【割注:午後十時】頃より翌朝未明迄、渋紙を打つる、又大き円扇を烈しく遣ふが如く、ばたばたと声して、何【ルビ:(イツ)】にかともなく聞え、秋より冬にかけて音しけり。何の音とも分らず。又其出所も分らざりしに、山県氏【割注:仙二】、友達と一夜、其元を捜らんとて往しに、此所かと思へば彼所に聞え、前にあるかとすれば忽焉として後に在りて、捜しあぐみて帰り、之にもひるまず数夜尋ねて、遂に塩町のすそと知れ、此処を又捜しけるに、宇都宮氏の前に至れば東に聞え、小松氏の前に至れば西に音する故に、漸くに迫りて、周布氏の井戸の辺と知れたれども、何物のかゝる音するか、遂に知れざりけり。
【以下、小文字】予按ずるに、欧陽公「秋風の賦」に、秋は殺伐の声あり、といへれば、今後必殺伐の事あるを知らせしにやあらん。其後、引続き馬関の戦より四境の役ありて、遂に奥羽の戦となりたれば也。夫より後、斯音絶ければ、周布里雪翁、近来此音せざるは何故にや、といへるを、予、こはそも如何に彼のばたばたは翁の家が出処也ときくに、かゝる問を発せらるゝは所謂燈台元暗しとや謂はん、といひ一笑せり
1976『岩邑怪談録』pp.39-40

ところで、アズキアライという怪異がなぜ小豆を洗うのかについて宗教信仰的な観点から解釈がなされることがあるが、バタバタに関しては叩くものが畳だったり莚だったり渋紙だったり団扇だったり煤払いだったり色々で、日常生活で耳にする音を単に当てはめただけのものが多いように思える。おそらくこの現象の背後に信仰的なものを求めても大した意味はないだろう(『岩邑怪談録』の注記は多少それっぽいかもしれないが)。問題は、この音についてどのような理解・認識がなされていたということである。たとえば『譚海』には、近所の人々は「あやしまず」とある。つまり現地人にとってバタバタはもはや怪異でもなんでもない日常的な自然現象なのだ。これを怪異とか妖怪とかに分類するのは私たちの感覚であって、そんなことでは彼らの感覚を把握したことにはならない(山田厳子が同じようなことを少しだけ論じている)。実際、バタバタの説明を「怪異・妖怪」という先入観抜きに読むと、興味深い音響現象を記述しているだけのようにも思えてくるだろうし、井上圓了なら確実にそのように読んだだろう。ただし『譚海』自身はバタバタのことを「あやしい」と思っているのも事実であり、そこに怪異発生の現場を認めることも可能だろうし、そこにこそ妖怪がいると考えるべきであろう。



2014年3月追記:「タタミタタキ」の出典と同じ寺石による『土佐觶土民俗譚』(1928)にススハキが紹介されていた。

昔舊藩の頃高知城中島町上の丁に馬廻小八木といへる上士あり、或時歲暮煤掃をなしたるに召仕の下婢何か過失事有て手討にせしを其の怨霊祟りをなし邸内大榎木の下に小祠を建て之を祀りしが毎歲季冬深夜に及び疊を敲き煤掃をなす如き音響あり其の不思議なるは同邸にて聞けば他所の如く他より聞けば同邸内の大榎下の如くなりしと世俗に小八木の煤掃といふて城下には有名なる話なりき。

どういうわけか寺路は3年前の著書には書いていたタタミタタキについて何も言及していない。狸のことも書いていない。謎。

*1:おそらくそのせいで、Wikipediaのタタミタタキの項目は、出典があるにもかかわらず、無茶苦茶なことになっている。