タタミタタキとバタバタと、ムシロタタキとススハキと

柳田國男の「妖怪名彙」に、次のようにタタミタタキが紹介されている。

タタミタタキ 夜中に畳を叩くような音を立てる怪物。土佐ではこれを狸の所為としている(土佐風俗と伝説)。和歌山附近ではこれをバタバタといい、冬の夜に限られ、続風土記にはまた宇治のこたまという話もある。広島でも冬の夜多くは雨北風の吹出しに、この声が六丁目七曲りの辺りに起こると碌々雑話に見えている。そこには人が触れると痣になるという石があり、あるいはこの石の精がなすわざとも伝えられ、よってこの石をバタバタ石と呼んでいた。
『新訂 妖怪談義』p.244

一見して「バタバタ」という音を出すだけの怪異のような記述であるが、それほど単純な伝承ではない。音については共通しているものの、音の聞こえ方は違う。小松和彦は詳細に原典に当たり、そもそも柳田の記述が混乱しているというのもあるが*1、タタミタタキが単に遠くから聞こえてくるだけの妖怪であるのに対して、バタバタは音源が移動して特定できないのでタヌキバヤシに近いのではないか、なぜタヌキバヤシのところにバタバタを入れなかったのか、と論じる。また彼は原典からの抜粋を全文紹介して、それが小八木家に限定されていることを指摘し、「たった一つしか事例がない妖怪名彙かもしれないのである。著者の寺石は、これを「或る記録」に載っているというが、このような記録があるのかどうかもあやしく、今後探索してみる必要があろう」と推測している。せっかくなのでここにも引用しておく。旧字旧かなはそのままにした。

小八木屋敷の古狸 甲
今は昔高知城中島町に、小八木某といふ大身の侍住めり。家居もいと裕かに屋敷廣く、庭の木立も深く泉水なども勝れて美しかりしに、家の西表に巨大なる榎あり。其元に祖先の藭を齋き祀り、玉垣など結廻し家人も常には至らざりしが、其所にいつの程よりか年経たる古狸が住んで居た。
此狸の怪しきは、夜更け人定まりたる頃、疊の塵を打拂ふ樣な音する事にて世に小八木の疊叩きといふて評判のものであつた。然して其音の怪しきは家内にはすべて聞へず、極近隣の人にも聞へず、却つて二三町遠方の人には能く聞へしとぞ。此頃城下の或民は小供の泣き已まぬ時に、そら疊叩きが聞ゆるぞといふて威かすと、泣き已まぬ兒は無かつたといふことが、或記錄に書き載せられて居るを見れば、相應に名高かつた話を見へる。
寺石正路(編)1925『土佐風俗と傳說』觶土硏究社、p.95

面白いことに、妖怪名こそ違うものよく似た話が別の文献に語られているのを発見した。そこでは「小八木」が「小米」、「たたみ」が「莚(むしろ)」になっているが、ほかはほとんど同じである。

小米莚たゝき
中島町西へ行詰に、先藩臣【割注:知行五百石】小米氏の屋敷に大なる榎の木あるが、其木の元にいと古くより栖める狸の業といへるが、夜る九ッ過暁頃まてにむしろをたゝく音す。そのはげしきときハ、纔か壱丁計りの処にてたゝく。其処へ行けハ、また脇三町ほどにもなり、小米屋敷にてハまた余所にてたゝくよふに聞ゆるよし。上町にてハ東し、下町にてハ上町【ルビ:にし】にあたれハ、取留めてこゝと定メがたし。然ともいにしへより小米の莚たゝきとも、またすゝはきともいへり。このすゝといへるは、昔年の暮すゝ払のせつ、不礼ありて下女を手討にしけるとそ。其霊魂崇りをなして、今にすゝはきをするとそ。男麻呂朝廷の命を奉して、安喜の国広島の城下に行て、四方山のはなしなとしけるが、折節堺町弐丁目と云処に宿りしが、旅宿の主語りけらく、五丁目にバタ〳〵といふ事あり、夜更て人静つて莚をたゝく音す。人〃あやしミ、五丁目ニ行ハまたはるか東しに其音するよし。東しに追懸ゆけハ、遥か西にあたりて音する。西にて聞ばまた五丁目のよふに聞ゆるゆへ、五丁目のバタ〳〵といふとぞ。吾生国土佐にも似たることありと噺して、互ひにあやしく思ひしことあり。猶くわしき事は古老にも問へし。またその莚たゝきの音を聞てしるへし。今も夜更るかまた暁の頃などたゝく音するなり。
「高知町鑑」1977『高知県史 民俗資料編』p.1311

『高知町鑑』は『土佐国群書類従拾遺』第65巻(雑部)に所収。『高知県史』には「莚たゝき」だけ抜粋掲載。成立年代などの書誌情報はなし。近世後期と思われるが、小八木氏について調べればもう少し時期が絞れるかもしれない。『土佐国群書類従拾遺』は全七巻の予定で高知県図書館から出版予定。昨年、一巻目が出たらしい。順番でいうと雑部は最終巻にあたるから、「高知町鑑」全体が活字化されるのはまだ先のようだ。
ここに「小米」とあるのは明らかに「小八木」の読み間違いだろう。つまり人名も地名も具体的な原因もほぼ「畳叩き」と同一なのである。唯一の違いは「畳」が「莚」になっていることだろうか。しかし畳を叩く音と莚を叩く音はどのくらい違うのだろう?西洋建築に住みなれた身としてはいまいちピンとこない。また追加情報としてこの音を「すすはき」とも言い、それが下女の祟りだという言い伝えも残している。どうも、当時は実際に何らかの原因で夜中に「ばたばた」という出所不明の音がして、それに対して各人が各様に名前を付け、そのエージェントとして狸なり下女の怨霊なりが想定されていたということになるのだろう。いずれにしてもこの怪異現象が、小松和彦が推測するほどには限定された伝承ではなかったということが、バリエーションの多さからもうかがえる。また、謂われについては古老に任せ、現象自体は「今でも夜中に聞こえる」というのも、非常にリアルな報告で興味深い。
しかしそれ以上に面白いのは、男麻呂(著者)が広島に行って現地の人と話をしたとき、そこでも同じような怪異「五丁目のバタバタ」があるのを知り、「あやしく思」っていたということだ。その現象がバタバタである。これも筆者は莚を叩くような音と表現しているが、それが広島の人の表現を借りたものなのかどうかはわからない(以下に引用する『譚海』には莚の音とある)。とはいえ、『土佐風俗と伝説』に伝えるタタミタタキとは異なり、ムシロタタキは音源が逃げていくという点で広島のバタバタと同じである。小松は柳田がタタミタタキの欄にバタバタを入れていたことの妥当性を問題にしていたが、このように少し違うが伝承者自身が類似性を感じていたのだとするならば、結果としては柳田の同定が当時の人々の「心意」に沿っていたということになるだろう。これは偶然の一致かもしれないし柳田の天性の才能かもしれない。ついでながら、「たった一つしか事例がない」わけではないということもわかる。
寺石のいう「タタミタタキを子供を脅かす時に使っていた」という文献はこれではない。しかし、もう少し高知県の郷土資料を地道にあたってみれば、そうしたものが見つかる可能性はあるだろう。

さて、柳田がバタバタの話を引いてきた『碌々雑話』だが、小松は原文を引用(しかし一部)するものの、どの『雑話』を参照したか書いていない。おそらく柳田が読んだのは広島の地方雑誌『尚古』に活字化されたものだろう。せっかく手元にあるので、ここに全文を引用しておく。おそらく広島のバタバタについてはもっとも詳細な記述だと思われる。

婆多婆多
廣島の婆多々々は天下未曾有、中國第一の奇事なり。もと城南六丁目七曲といふ所に初り、今にては廣島所々にて此音聞ゆるなり。されど城北は猶稀なり。ばた〳〵とは夜陰におよんでばた〳〵と音する物、枕近く聞ゆるにより、耳をそばだてゝ之を聞けば遙かの余所外なり。扨は遠方なりと思へば忽ち耳元に響く。これはと驚けば又あらぬ方に音するなり。土俗狸の腹皷、又は天狗の所爲なるべしなどいへり。其最初いかなるものか試見んとて夜々音のするあたりへ糠を蒔、沙を敷て足跡や附しと尋ぬれども、竟に足跡もつけず。或は人を東西南北に配り置き、彼音聞ゆる時、四角八方より靜に步よるに、人は眞中に寄集れども音は又遙かの脇なり。菟角すれども終に形を見し人なければ、いかなるものともしりがたし。只音のみすれば俗に婆多〳〵とは名付しなり。こは百年餘の物なりといふ。大方は冬に至て音するなり。
一或說に云ふ、六丁目にばた〳〵石あり、此石の精靈出て斯音をなすなりと。柏村何某予に語て曰「六丁目に一つの怪石あり。傳え云ふ、此石に手を觸ればかならず瘧を病と。遠野何某これを聞て、何條去事や有べきとて此石を數遍撫さすりて止ぬ。其歸さより頻りに寒氣肌を犯すと。恰も寒夜に衣なきが如し。後には行步さへ心に任せねば、漸轎子に乘て歸宅せしが、夫より瘧病にて數十日煩ひ侍りぬ」と先年語られし事あり。此遠野は柏村の弟なりとぞ。又近きころ、ある人の語りしは「其婆多々々石といへるは今糟谷何某の宅地にありて、世俗此石にいろ〳〵奇說を附するといへども、そはいかゞあらん。我等六丁目に來往する事既に十六七年なりといへども、いまだ是こそばた〳〵ならんといふべき程の奇しき音をば聞ざるなり。折々すは只今ばた〳〵の打なり、昨夜も云々、今宵もしか〴〵など家族のいひける事あれども、其音さして奇しき音とも思はれず。惣じて六丁目は廣島南のはてにて、冬に至り西北の風吹ける頃は初更も過ぎ、世上も何となくしづまりける後は天神町、又は本川邊の蕎麥賣、醴酒賣などの聲、風の吹まはしにつれては俄に間近く、門前を賣かと思へば、又風の吹へしに寄りては俄に遠くなりて、其聲幽に聞ゆるなど常の事なり。此邊に住馴ぬ奴婢などは、遠方の蕎麥賣をも門前をうるとて呼入んとせし事もあれば、彼ばた〳〵も元は本川天神町邊の碪などの音の風の吹廻しにて、俄に近くも遠くも聞ゆるをこと、〳〵しく云ひ傳へしにてもあらんかと思ふ。世に高名なる筑紫の不知火も、潮のきらめくにて何も不思議なる事はなきよし聞たれば、婆多々々も其類ひならん」と申されける。是もさも有べき事なりと、此所にしるし置しになん。
「『碌々雜話』巻之一」『尚古』71 (1918)、pp.附録7-8 (句読点など補った)

何やら当初は徹底して探索したようだが、音源はわからなかったらしい。狸の腹鼓と同定しているあたり、小松和彦の感覚に近い人が当時もいたようだ。
個人的に興味深いのは、柳田の言葉でいうならこの妖怪に対する「信仰度の濃淡」である(『新訂 妖怪談義』p.243)。小松は「信仰度の濃淡」により妖怪を分類することを「主観的」だとして却下したが(「解説」『新訂 妖怪談義』p.314)、『碌々雑話』には明らかにそれが現れている。石の祟りを疑った人は信仰が淡いことこの上なく、触ったことによって病気になったのを伝える人は信仰が濃いほうに入り、近くに住む人は、現象自体は否定しないものの、弁惑もの風に風向きによって音が流れてくるのだと解釈する。そして「住馴ぬ奴婢など」はそれを恐れるので信仰度が濃い、ということになるだろう。問題は何を信仰しているかだが、石についてはその精霊、奴婢についてはそれが「正体不明」だということを信じているといえる。逆に、砧の音だという人は「正体不明」ということを信じていないが、砧の音だということは信じている。確かに話は複雑になるが、主観的な基準だということになるわけでもないだろうし、僕自身はこの基準をそれなりに使えると思っている。

バタバタについては近世に記録が多く残されている。有名な伝承だったのだろう。いくつか引用する。

一 バタバタ 芸州広島の辺にバタバタといふ異物あり。夜中屋上或は庭際に声ありてばた〳〵と聞ゆる故に名とす。たとへば畳を杖にて打音に似たり。好事の人々是を見あらはさんとてそこに行きて見れば、七八間も彼方にきこえて見窮むることあたはず。川下に六丁目といふ町ありて、其辺最多く他の町々城内にもあり、狐狸の所為かといへどもそれにもあらずといふ。
「筆のすさび」1975『日本随筆大成 第一期第一巻』p.84

○藝州廣島の城下、六丁目と云所には、ばた〳〵と云物有、是は世にあまねく知たる化物なり、夜に入ぬれば、いつも空中にて、人の莚をうち、ちりなどはらふごとき音して、ばた〳〵と鳴わたる、戸を出てうかヾへば、かしこに聞ゆ、夫を尋ねゆきてみむとすれば、又こなたにひヾく、つひに其所を、たしかにみとむる事なし、又いかなるものの、此音をなすといふ事をあきらかにする事もなし、年月かさねて、只かく毎夜ある事なれば、其國人はあやしまずしてあることなり、
早川純三郎(編)1917『譚海』国書刊行会、p.308

一 安藝国廣島城下邊に、パタ〳〵といふものありて、神異の物也。むかしより何者たるを知る人なし。夜陰人家窻外緣先【原本: 椽先】などに來りて、甚だ近くパタ〳〵と音す。其處を窺うて急に戸を開き見れば、五六丁も遙の遠方と聞えて、パタ〳〵といふおと聞ゆ。いつも如此にて、つひに何物たるを知ることなしと、彼國の人壽安、物語りな【り】き。
近代デジタルライブラリーにあるやつhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971908/245
(橘春暉「北窓瑣談」『日本随筆大成 第二期第十五巻』p.221も)

バタバタという名の怪異が広島以外にも伝わっていることが知られている。岩国の話だが、広島からそんなに遠くはないので、高知のそれとは違い、具体的な関連があることが推測できる。以下の話は、なんとか音源値を特定しようとして、どうやらそれっぽい候補地を絞るところまで来たという点で広島のものとは少し違う。ただ、エージェント自体はわからなかったようだ。

破多破多の事
文久年中には外国打払ひするとて世間騒ケ敷ありけるに、其頃錦見の塩町のすそ、砂原、蛤町、又散畠、浄福寺突きぬきは町にかけて、夜四ツ時【割注:午後十時】頃より翌朝未明迄、渋紙を打つる、又大き円扇を烈しく遣ふが如く、ばたばたと声して、何【ルビ:(イツ)】にかともなく聞え、秋より冬にかけて音しけり。何の音とも分らず。又其出所も分らざりしに、山県氏【割注:仙二】、友達と一夜、其元を捜らんとて往しに、此所かと思へば彼所に聞え、前にあるかとすれば忽焉として後に在りて、捜しあぐみて帰り、之にもひるまず数夜尋ねて、遂に塩町のすそと知れ、此処を又捜しけるに、宇都宮氏の前に至れば東に聞え、小松氏の前に至れば西に音する故に、漸くに迫りて、周布氏の井戸の辺と知れたれども、何物のかゝる音するか、遂に知れざりけり。
【以下、小文字】予按ずるに、欧陽公「秋風の賦」に、秋は殺伐の声あり、といへれば、今後必殺伐の事あるを知らせしにやあらん。其後、引続き馬関の戦より四境の役ありて、遂に奥羽の戦となりたれば也。夫より後、斯音絶ければ、周布里雪翁、近来此音せざるは何故にや、といへるを、予、こはそも如何に彼のばたばたは翁の家が出処也ときくに、かゝる問を発せらるゝは所謂燈台元暗しとや謂はん、といひ一笑せり
1976『岩邑怪談録』pp.39-40

ところで、アズキアライという怪異がなぜ小豆を洗うのかについて宗教信仰的な観点から解釈がなされることがあるが、バタバタに関しては叩くものが畳だったり莚だったり渋紙だったり団扇だったり煤払いだったり色々で、日常生活で耳にする音を単に当てはめただけのものが多いように思える。おそらくこの現象の背後に信仰的なものを求めても大した意味はないだろう(『岩邑怪談録』の注記は多少それっぽいかもしれないが)。問題は、この音についてどのような理解・認識がなされていたということである。たとえば『譚海』には、近所の人々は「あやしまず」とある。つまり現地人にとってバタバタはもはや怪異でもなんでもない日常的な自然現象なのだ。これを怪異とか妖怪とかに分類するのは私たちの感覚であって、そんなことでは彼らの感覚を把握したことにはならない(山田厳子が同じようなことを少しだけ論じている)。実際、バタバタの説明を「怪異・妖怪」という先入観抜きに読むと、興味深い音響現象を記述しているだけのようにも思えてくるだろうし、井上圓了なら確実にそのように読んだだろう。ただし『譚海』自身はバタバタのことを「あやしい」と思っているのも事実であり、そこに怪異発生の現場を認めることも可能だろうし、そこにこそ妖怪がいると考えるべきであろう。



2014年3月追記:「タタミタタキ」の出典と同じ寺石による『土佐觶土民俗譚』(1928)にススハキが紹介されていた。

昔舊藩の頃高知城中島町上の丁に馬廻小八木といへる上士あり、或時歲暮煤掃をなしたるに召仕の下婢何か過失事有て手討にせしを其の怨霊祟りをなし邸内大榎木の下に小祠を建て之を祀りしが毎歲季冬深夜に及び疊を敲き煤掃をなす如き音響あり其の不思議なるは同邸にて聞けば他所の如く他より聞けば同邸内の大榎下の如くなりしと世俗に小八木の煤掃といふて城下には有名なる話なりき。

どういうわけか寺路は3年前の著書には書いていたタタミタタキについて何も言及していない。狸のことも書いていない。謎。

*1:おそらくそのせいで、Wikipediaのタタミタタキの項目は、出典があるにもかかわらず、無茶苦茶なことになっている。