妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

追記:なぜ「妖怪名彙」に『現行全国妖怪辞典』がないのか

要約:柳田國男が「妖怪名彙」を書いたとき、佐藤清明の『現行全国妖怪辞典』を参照したのは明らかなのに、柳田はそのことにまったく触れていない。しかし、二人には方言カードを介した交流があった。そうすると、柳田が佐藤の方言カードを直接参照して「名彙」を書いたので、文献として『現行全国妖怪辞典』を挙げる必要性が感じられなかったのではないかと推測できる。


小松和彦による『新訂 妖怪談義』の注にもあるとおり、柳田国男の「妖怪名彙」は妖怪のいくつかをどうやら佐藤清明『現行全国妖怪辞典』(1935)から採っている。
(けっこうたくさんある印象だけどこの三つだけ?)
両者を比較してみよう。最初が佐藤、次が柳田による記述。佐藤の記述のあとにある漢数字は、彼が持っていた方言調査カードの番号。

脛コスリ 犬の形をして雨の降る晩に通行人の股間をこすって通る。 岡山県小田郡(二)(p.28)
スネコスリ 犬の形をして、雨の降る晩に、道行人の足の間をこすって通るという怪物(備中小田)。(p.250)

タンタンコロリン 古い柿の木の化けた大入道。柿をとらずに熟さして置くと出来るといふ。仙台市(一一六一)(p.32)
タンタンコロリン 仙台で、古い柿の木の化けた大入道だという。柿の実を取らずにおくとこれになったともいうから、コロリンのもとは転がって来るといっていたのであろう。(p.252)

次第高 人間の形のものが段々に高くなる。山口縣厚挟郡江島の端に出る(八五七)(八六七)
夜中に一人路を行くと出る。見上ぐれば見上ぐる程丈高くなる。見下してやると低くなる 山口縣阿武郡(一二〇三)(p.26)
シダイダカ 阿波の高入道とよく似た怪物を、長門の各郡では次第高という。人間の形をしていて高いと思えば段々高くなり、見下してやると低くなるという。(p.254)

あえて比べるまでもなく、柳田が佐藤を参考にしたのは明らかである。とはいえ、この三つにおいて柳田は『現行全国妖怪辞典』を出典に挙げていない。なぜか?一つ考えられるのは、柳田が、過去の同様な文献からの引用を明かすことで自身のプライドが傷つくことをおそれていたのではないかということだ。これは十分にありうることだと思うが、ここではもう一つ考えを提示してみたい。
その前に佐藤の書いている漢数字について考える必要がある。これは出典番号である。彼は序文で妖怪の方言は「全部私の直接カードで 集したもののみである‥‥記述の下の番号はカードの目次で それを引くと尚詳細の戸籍が判明する」と述べているのだ。これだけだとこの「カード」なるものがいまいちよくわからないが、佐藤清明のほかの方言報告を見るとそれが何かなんとなくわかってくる。いちいち典拠を挙げずにまとめると、彼は、自分が第六高等学校の教員であったという立場もおそらく活用して、全国の博物教諭に放言調査の依頼を出し、彼らから直接、現地の方言についての報告をしてもらったようなのだ。だから、他の報告にもこの番号が振られている。今手元にあって調べられるのは「全國メダカ方言語彙」(1931)なのでそれを参考にしてみよう。すでに980番台までカードが揃っていたことがわかる。そしていくつか照合してみると、いくつかは『妖怪辞典』と同じカードを用いていることがわかる。たとえば907は岡山県勝田郡大崎村(妖怪辞典ではカイコギツネ)、908は同県苫田郡中谷村(カイコギツネ)、917は同県勝田郡勝田間町(ガイコギツネなど)、920は同県久米郡久米村(モノトリなど)、924と934は同県津山市(子取りなど)、926は同県久米郡倭文中村(納戸ババア)、979は沖縄県中頭郡中城村(ムンなど)、981は同県島尻郡大里村および同郡摩文仁村(アヒラーマジムンなど)、982は同県中頭郡勝連村(イチマブイなど)、983は同県国頭郡崎本部村(首長幽霊など)といった具合。妖怪辞典のほうよりも地名記述が詳細ではあるが、981のように複数の地域を一つのカードにまとめているところもあるようなので、ただちに詳細な妖怪の故地がわかるわけではないことに注意。しかしなぜか番号が若くなると明らかに異なったカードを参照している感じになる。たとえば2はメダカでは和歌山県紀見郡だが、妖怪では岡山県小田郡。7は前者が広島県双三郡酒河村だが後者では神奈川県津久井郡。8は愛媛県松山市岡山県浅口郡、14は広島県世羅郡西大田村と徳島県といった具合。これはどういうことだろうか。
とはいえそれは今回の本題ではないので誰かに任せることとして、興味深いのは「メダカ語彙」論文に「柳田國男氏の茫大なる方言票を借覽し且つ轉用すること迄も許して戴いた‥‥」(p.131)とあることだ。僕はこのあたりの事情を全く知らないのであるが、とにかく1931年の時点で二人に方言を介した交流があったこと、しかもそれは方言カードの貸し借りにも発展していたことはわかる。思うに、柳田が一方的に貸しただけではなく、佐藤のほうも自分のデータを彼に一時的に託したのではないだろうか。そして次第高の番号が1203まで行っていることを考えると、この推測が正しければ、それからも少なくとも1935年までは交流があったように思われる。つまり柳田はシロボウズと同じように(や、おそらくヌリカベ、オイガカリなど出典不明なものと同じように)スネコスリなどの妖怪資料を文献としてではなく佐藤カードの写しとして持っていた。だから、出典を書く必要性を感じなかった。もちろん彼は佐藤が辞典を出版したことは知っていただろうが、その元ネタを持っているからには、あえて言及する価値を感じなかったのかもしれない。
この推測の問題点は、佐藤が辞典に書いた以上の資料を持っているとほのめかしているのに対し柳田は完全に記述を辞典の記述の範囲内に収めていることである。もしカードに辞典に書かれた以上の詳細が書かれていれば柳田はそれを提示することはできた。宮本常一『とろし』の白坊主以上のことを彼が書けたように。とはいえカードの貸し借りがまったくなかったとも考えにくい。完全な憶測ではあるが、これから折に触れてこのことをもう少し明らかにできる情報が目に入ればまた何か書くことでしょう。