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妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

某書の「はじめに」私訳

私訳。震災前にこの本をゼミで読んだとき、さっぱり理解できなかったので一言一句逃さないように日本語訳してみたものを発見したため、ちょっとだけ手直ししたものを勝手に載せます。

この分野ではきわめて重要な著作なので、翻訳が続々と出ている現状を鑑みるに、近いうち専門家の方々が正確で読みやすい日本語訳を出すと思います。

 

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『日本民俗学』に拙稿の科学民俗学・妖怪論文が載ります

『日本民俗学』最新号の287号pp. 1-35に、拙稿が掲載されます(たぶん10月頭にある日本民俗学会・年会の会場でも手に取ってみることができると思います)。タイトルは「俗信、科学知識、そして俗説――カマイタチ真空説にみる否定論の伝統」です。
要旨を転載しておきます。

日本民俗学の草創期から俗信は中心的な研究の対象とされてきた。それと同時に、俗信、とくに妖怪を俗信として信じない人が多いことも古くから指摘されていた。だが民俗学は、多数の信じない人々ではなく、少数の信じる人々のほうにもっぱら目を向けてきた。そのため、今や民俗学の枠組みで妖怪が取り上げられることは稀になっている。
しかし、妖怪にまつわる知識という観点からすると、妖怪を信じる人々のもつ俗信だけではなく、妖怪を否定する人々のもつ科学知識もまた、一つの研究対象として論じることができるだろう。俗信研究においては、陰に陽に俗信は科学知識の対極にあるものとされている。他方で、科学知識のなかでも俗信を否定するものは、必然的に俗信と密接な関係性をもっていることになる。そうだとすれば、私たちは科学知識という観点から俗信をふくめた広い意味での民俗知識を把握することができる。ここで重要なのは、研究者も科学知識を共有しているということである。話者の知識と研究者の知識の区分は無効化され、どちらについても等しく問うことが可能になるのである。
本稿では、こうした問題意識をふまえて、カマイタチ真空説の歴史的展開を検討する。真空説は、明治初年代、妖怪カマイタチの俗信を否定する科学知識として提唱され、二〇世紀の初めまでには全国に浸透した。さらに現在でも多くの人々が真空説を妥当な科学知識として語っている。また、二〇世紀末まで多くの研究者もこれを受け入れていたが、現在の研究者のあいだでは、真空説は「すでに誤りとわかっている、非科学的な俗説」とされている。真空説の科学性に関する齟齬は、この知識を単に科学知識あるいは俗説とみなすことの問題を顕わにする。この点を解決するため、本稿では「否定論の伝統」という概念を採用し、さらに拡張することによって、真空説が否定論の伝統のなかで科学知識から俗説へと変貌していったことを論じる。

これまでの民俗学は、「科学的ではないもの」を中心的に研究してきたが、これは「科学」と「民俗」が相互排他的だということを前提にしています(「科学知識は俗信・迷信ではない」など)。本稿では、この前提を逆手にとって、「科学」と「民俗」を図地反転させれば、民俗学は科学も研究対象として取り込めるのではないか、という提案をしています。

たまたまですが、6月に現代民俗学会の第5期研究企画委員会に選ばせていただきましたので、今後、「科学民俗学」に関する研究集会をコーディネートすることも考えています。詳しくは9月18日の、第34回研究会「民俗学の論点2016」でプレゼンする予定です。

ちなみにこれまで書いてきた妖怪関係の論文の流れに位置づけると、
・「妖怪の、一つではない複数の存在論」(『現代民俗学』)→妖怪は超自然的・非実在的ではない(だからといって実在的ではない)
・「カッパはポセイドンである」(『世間話研究』)→妖怪は文化ではない(だからといって自然ではない)
・「俗信、科学知識、そして俗説」(『日本民俗学』)→妖怪は非科学的ではない(だからといって科学的ではない)
みたいな感じになるのかもしれません。

信念と否定論についての人類学と民俗学

カマイタチ論文に紹介した事例は、字数制限の都合上、必要最小限にとどめてあります。『明治期怪異妖怪記事資料集成』から漏れた妖怪記事、科学啓蒙誌『学びの暁』、明治20年代医学雑誌のカマイタチ論文など、これまで知られていなかった文献が中心になっています。執筆の過程で削除した部分については、そのうち整理して公開したいと思います。
用いた理論については、日本語にも『夜に訪れる恐怖 北米の金縛り体験に関する実証的研究』の訳書のある民俗学者デイヴィッド・ハフォードの「否定論の伝統」(traditions of disbelief)というものをメインに採用しています。この理論(概念)はNew York Folklore誌第8巻第3号(1982年)に掲載されたTraditions of disbeliefというタイトルの論文で展開されているものですが、残念なことにこの雑誌は日本の大学図書館のどこにも入っていないようです。なので、『日本民俗学』の拙稿にも書いたのですが、ここでも少し説明しておきます。
ハフォードによると、「超自然的なもの」については二つの伝統があるにもかかわらず、片方だけが民俗学的な分析の対象になってきたと言います。それは超自然的なものを信じる伝統(traditions of belief)のことで、一般的には民俗(folklore, 民俗学の研究対象)の一部とみなされています。逆に、超自然的なものを信じない立場――否定論、懐疑論については、民俗学が研究すべきものとしては対象化されてきませんでした。しかし否定論の言説を具体的に検討してみると、きわめて類型的な主張が過去数百年にわたって繰り返されてきたように見えます。つまり、「懐疑論者にも、彼らの民俗があるのだ」(この理論を用いたジリアン・ベネットの言葉)。きわめて大雑把に言うと、たとえば「それは目の錯覚・幻覚である」とか、「社会的状況や欲望の投影である」とか「文化による認知の歪み」とか、そういったものです。
ここで大事なのは、このように指摘したからといって、「否定論の伝統」が科学的に誤りであるとか、あるいは逆に相対主義的に「同じように社会的に構築されたものなのだから、価値は等しい」とかいう主張をしているわけではないということです。むしろ、超自然的なものへの懐疑論であっても、それがさまざまな人々のあいだで共有され、継承されており、「民俗」に関係したものである以上、民俗学で扱うべき正当性は認められるのです。
ハフォードは、論文「否定論の伝統」よりも5年ほど前に発表した論文Humanoids and anomalous lights: taxonomic and epistemological problems(1977)でも、否定論の伝統を扱ってこなかった民俗学の問題を、次のように指摘しています(p. 234)。

[信念=信仰、伝説、世間話といった]素材は、……話者によって「信じられている」とされる。……明言されていないが、同じくらいに重要なのは、採集者やこうした素材の分析者は、……それを信じていない、ということである。……「私が知っているのは知識であり、話者が知っているのは信念」というわけだ。ここに大きな分類学上の不適切性がある。いくつかの主題領域において、私たちは、明らかに事実ではない、と研究者にみなされている言明や語りのカテゴリー(主として信念、伝説、世間話)を手にしている。たとえば鬼火や野人といった領分である。しかし、別の領域では、私たちは、事実のように思われる同様のカテゴリーを手にしているが(たとえばレシピ――私たちは、ペンシルヴァニアのドイツ系移民が、ポットパイは手作りの麺と鶏がらスープでつくると信じている、とは述べない)、もしそれが不正確だとわかっても、私たちは、自分たちの言葉遣いのなかに普通みつかるカテゴリーを用いるだけだ(たとえば「間違い」や「まずいレシピ」)。前者では、客観的な不正確さが定義的特徴であり、後者では客観的な正確さは記述的特徴である。

つまり、鬼火は話者の「信念」であり私たちは共有できないが、レシピは私たちも共有できる「知識」である、という、民俗学者による区分がある、というわけです(同じようなことは医療人類学者バイロン・グッドの『医療・合理性・経験』第1章でも述べられています)。こういう民俗学の前提は、つい先日出版された高岡弘幸『幽霊 近世都市が生み出した化物』(歴史民俗学的なアプローチをしている)で「生霊であっても死霊であっても、人間の「霊」が見えるはずがない。そもそも、人間の「霊」は文化的な仮設事項にすぎず、実在しないからである」(p. 49)と当然のように語られているのが一例です。とはいうものの、ハフォードも言うように、鬼火とレシピがまったく同じカテゴリーにあるということでもありません。というのも、前者については、「信じる伝統」と「否定論の伝統」が表裏一体になっているからです。レシピには、そういうものはありません。
逆に言うと、ハフォードは指摘していませんが、「否定論の伝統」がなければ「信じる伝統」もないでしょう。この点については複雑になりそうなので、拙稿では示唆にとどめておきました。ただ文化人類学者ロイ・ワグナーの『文化のインベンション』における議論は大いに参考になると思われます。
『文化のインベンション』は原著1975年で現在流通しているのが1981年の増補改訂版とのことで、ハフォードがこれを読んでいてもおかしくはありませんが、上記の論文では直接の参照はありませんでした。いずれにしても、ワグナーの要点の一つは、タイトルどおり文化は発明されるということです。自分の共有していない概念や意味、関係性などに直面した人類学者は、それを「異文化」として発明します。このとき文化というものが、自他にかかわらず、人類学者と現地の人々との接触のなかで(ワグナー用語では「仲介mediationとして」)、人類学者側によって発明されるのだという認識を持っていないと、それは「意味を信念やドグマ、確信に還元する人類学」となり、「現地の人々の意味か、さもなくば私たち自身の意味か、どちらかを信じなければならない罠にはまってしまう」ことになります(p. 63、訳文変更)。さらに、

私たち[人類学者]は、他民族の文化を、《文化》と類比的なもの(「規則」「規範」「文法」「技術」)として、つまり、単一の普遍的で自然な「現実」との対比において、意識的で集合的で「人為的」な世界の一部分として、発明している。……私たちは、彼らを私たちの現実へと組み入れ、彼らの生き方を、私たちの自己発明の内側へと組み入れる。彼らが発明することを学び、そして生きてきた現実について私たちが知覚しうるものは、「超自然的なもの」へと追いやられ、あるいは「単に象徴的なもの」として退けられてしまう(p. 210、原書を参考に大幅に訳文変更)。

このあたりの議論は、西洋的「自然」の単一性について、ティム・インゴルドをはじめとした近年の人類学がおこなっている批判の先蹤とも言えるものでしょう。それはさておき話を戻すと、鬼火なりカマイタチなりが、自分たち(民俗学者、人類学者)と共有されていないことにより、(異文化として)客体化され、「超自然」とか「象徴」とか「信念」へと還元されてしまう点を強調しておくのが、ここでワグナーを引用した意図です。さらに、人類学者とは異なり、民俗学者のほうは、「信念」を信じる話者と自分たちが同じ(ような)社会に属していることによって、信じる伝統と否定論の伝統とが同時併存する状態を「発明」してしまうことになります(もちろん、発明するのは民俗学者だけではなく科学者や知識人、一般人などでもよい)。
こういう議論の流れは、ワグナーを援用して、現地の人々の世界を理解するのに「信念」という概念を用いるのには問題があると論じ、あくまで他者としてあつかおうとするエドゥアルド・ヴィヴェイロス=デ=カストロの、きわめつけに人類学的な思考とは異なるものです。というのも、ここで論じているのは民俗学的アプローチのほうだからです。おそらく民俗学では、信念という概念を、それを民俗学者自身で自分の現実と対比させることをやめるならば、これからも積極的に使っていけるはずです。そしてここに、信念と対になる「科学知識」や「非科学的ではないもの」といった、科学的なものについての民俗学の道が開けてくることになるでしょう。『日本民俗学』の拙稿では、以上のような人類学との比較は行ないませんでしたが、結論としては、同じようなことを話しているつもりです。

※幽霊のくだりについて少しわかりやすく整理します。民俗学や過去の人類学は、幽霊がいるという他者にとっての現実を、幽霊はいないという私たちにとっての現実の基準から判断し、「他者は、幽霊がいないにもかかわらず、いると信じている」という前提から分析を始めがちです。しかし、そのようにして他者の現実を私たちの現実へと同化さなくても、他者にとっての幽霊という現実を分析することはできる、ということです。そもそも「いないのに信じているのはなぜか」と問うのならば、認知科学的な宗教研究が近年はかなりの勢いで発展しているので、そちらの成果をまず取り入れることが先決だと思います。

『世間話研究』掲載論文の補足

『世間話研究』第24号(2016年5月)に、「カッパはポセイドンである 近世後期における東西妖怪比較試論」と題する拙論を掲載させていただきました(pp.20-66)。おもに蘭学周辺の文献で、日本の妖怪とヨーロッパの怪物や動物がどのように比較されていたのかを検討することにより、彼らにとって「比較」とはどういうことだったのかを明らかにしようと試みたものです。ぶっちゃけ「妖怪は文化ではない」みたいなことも言っちゃってます。

執筆の過程で冗長と判断したり寄り道すぎると思ったりした部分については思い切って削り、ここに載せることにしました。原則として本文の記述に対する補注というかたちで記載しています。そのため、(まだ流通ルートには乗っていないようですが、一、二ヶ月後くらいには乗るでしょう)『世間話研究』が手元にあるとよいです。また、正式な原稿ではないので体裁や文献など一部あいまいだったり乱れていたりすることころもあります。
本や論文を脚注のほうから読む人も一定の割合でいるようです。この「補足」で何となく「カッパはポセイドンである」の雰囲気を感じとってもらえれば、と(勝手に)思います。

第1章 オキナはクラーケンである
p.23
『蛮語箋』

  • 「熊秀英」名義で出版。

巨魚説話

  • アラビアやヨーロッパ、中国、日本などの文献にほとんど同じ伝承が多く見つかっている。

p.24
オキナの初出

p.25
松前志』引用の省略部分

  • 夷人実はこれをヤツインゲと云へり。此物夷地東北海洋中にあり。此魚海上に浮ばんとせば、二三日已より海水自然とくろみわたり、大洋粛然たり。其時夷人舟をかくし戸をさして、畏れつつしむこと甚し。其形を顕はすときは、忽然として大山の突出せるが如く、日を経て退かず。時に風波の動揺すること夥し。其大なるは数十里にわたり、海水これが為に溢るるが如しと云へり。

p.26
『三国通覧図説』

  • 分量としては蝦夷がもっとも多いが、子平自身は当地を調査したわけではなく、先行文献や伝聞をもとにして構成されている。

『東遊雑記』

  • 松前でオキナの話を聞いたが「知る人なし」だったと述べている。

ヲキナ情報のひろがり

p.27
リンネの「ミクロコスムス」

  • リンネは「ノルウェー海に棲むと言われているが、私自身はこの動物を見たことがない」と注釈した。

p.28
ミクロコスムス属

  • 日本産ではハルトボヤがミクロコスムス属である(学名microcosmus hartmeyeri)。『改訂増補日本動物図鑑』の解説に「表面ニハ不規則ナル凹凸多ク、ひどろであ・苔蟲・ふじつぼナド一面ニ附着ス」とあり、レディの観察とよく一致している(内田芿之助・著者代表、1947、『改訂筯補 日本動物圖鑑』、北隆館、p.536)。

江戸末期のクラーケン

  • 実は、杉田英明が指摘するように(杉田英明、2009、「動く島の秘密 巨魚伝説の東西伝播」『外国語研究紀要』14: 32-33)、クラーケンの話は近世末期の日本にも入ってきていた。幕末維新期の洋学者古賀謹一郎が、『度日閑言』というノートに書き留めていたのである。彼は、「カラーケン」という魚について、「其の広大なること魚に似ず、反って島嶼に似る」として、その伝説や目撃談を蘭書から翻訳している。とはいえ、事例の一つに、巨大な腕が船上に伸びてきて、数人の船員を引きずり込んだので、みんなで助けようとしたが果たせなかった――などとあるように、このカラーケンは魚ではなく触手を持った得体の知れない生き物のように描かれている。結局、彼は「北溟の鯤、蔽日の鯨鯢」と「カラーケン」を並べて比較し、「三者、皆妄なり」として片付けている。オキナこそ出ていないが、中良と同じように「北溟の鯤」を引き合いに出している点は興味深い。出典は第14巻の27オ〜29オ。なお、杉田によると、古賀の参照する出典(Nederlandsch Magazijn, 1837, pp.308-309)にはクラーケンについての記述はないとのこと(杉田、同上、p.33)。

p.29
シーサーペント論争

  • 1849年には「クラーケン、シーサーペント、その他の海の怪物が実在することの信頼性について」という匿名の論文が発表されている(Sherrie Lynne Lyons ,2009, Species, serpents, spirits, and skulls: Science at the margins in the Victorian age, New York: State University of New York Press, pp.40-41)。

第2章 水虎は古代ローマの海神であり、山童はオランウータンである
p.35
江戸時代のネプチューン情報

  • ネプトゥーヌスは、近世後期の辞書類を見てもほとんど見つからない。だが、『蘭語訳撰』以外にもいくつか載っているものはある。その一つが村上英俊の『三語便覧』(1854)である。この日仏英蘭対訳辞書では、「神仏」の節に(どういうわけか)無数のローマの神々が載せられており、「神」「仏(アイドル)」「歳神(ヤーヌス)」「天神(ユーピテル)」と続いたあとに、「海神 neptune sea god god der Zee」と書かれているのだ(日本語、フランス語、英語、オランダ語の順)。「神仏」の節は、フランス語の部分のみラテン語由来の神名で、他の言語の部分は神名ではなく属性の説明(たとえば、英語がNeptuneではなくsea godになっているなど)になっている。さらに同著者の『仏語明要』(1864)でも「neptune 海の神」としている。
  • また、宇田川榕庵の『和蘭志略稿』(1844-1846ごろ)をみると、「トリオン」という神は上半身がヒトで下半身が魚の姿をしており、「ネプテューニュス」と「アムピトリテ」の息子だという古典神話が紹介されている。榕庵は他の神格や物語も多く紹介しているが、「固り奉祀祭拝する者にあらず……亦意を寓するに過ぎず」として、西洋人にとっての古典神話の位置づけを明確に把握している点が興味深い(こうした人文学的理解は、神学的理解を代償にしていた)。ただ、英俊や榕庵の著述はいずれも『水虎説』よりも後のものである。
  • 先行する著作としては、『西洋雑記』巻2の「西洋上世鬼神の説」に、「邏馬(ローマ)国において上古の世には「ユピイテル」[Jupiter]【歳星】「ネブトニュス」「アホッロ」[Apollo]「マルス」[Mars]【熒惑軍神】「メルキュリウス」[Mercurius]【辰星】「ヒュルカニュス」[Vulcanus]の六の天神……を崇信し合称して「コンセンテス」[Consentes]といふ」(13ウ〜オ)として主要な神の一柱に数え入れている。だが、ユピイテルなどと異なって対応する惑星(今でいう海王星。当時未発見)もなかったため、固有情報はゼロに等しい。

p.38
テクストのヴァリアント

  • 小馬徹が引用する九州大学蔵の『下問雑載』では、「伏シテ」以降は「之ヲ検寮シ其何者ナル者ナル事ヲ世ニ公ニセハ」(以下福岡県立博物館本と同じ)となっている(小馬徹、1996、「河童相撲考 「歴史民俗資料学」のエチュード」『歴史と民俗』13: 186)。

p.39
『華夷通商考』の元ネタ

  • オランダ通詞・西吉兵衛の『諸国土産書』(1669)や『異域衆話録』(1681)、『異国産物記』なども先行する文献として知られている。

p.40
蘭山のトロンベイタ

トロンベイタの広がり

  • 筆者の目についたところでは、『紅毛談』(1765)巻下でオランダの医薬を紹介しているところに「とろんべいた。河太郎の事也。其骨薬に用」とある(早川順三郎・編、1913、『文明源流叢書第一』、國書刊行會、p.444)。また、『本草薬名備考和訓鈔』(1807)巻1の「蟲部」にも「トロンベイタ 水虎」とある。前者はオランダというくくりで記述されているので如見を、後者は本草書なので益軒を、それぞれ参考にしたのだろう。

トロンベイタとは何か

  • 結局トロンベイタの原語はつきとめられなかった。現在筆者は、シビレエイ=トルペド(torpedo)が訛ったものではないかと推測しているが、今のところ机上の空論である。傍証になるかもしれない事実を二点あげておく。まず、16世紀半ばから近代にいたるまで、ヨーロッパ沿岸部でエイが加工されてジェニー・ハニヴァーという怪物の剥製として売られていた点。また、本草学者の木村蒹葭堂(1736〜1802)が、人魚の骨とされる医薬ヘイシムレルをエイの軟骨だとしている点。両方とも、エイが水棲の人型動物の「素材」として使われていたという事例である。ただカッパには程遠い。

p.43
ニコラース・テュルプ

テュルプのオランウータン

  • この「オランウータン」は実はチンパンジーだったとかボノボだったなどという見解もないわけではないが(岡崎勝世、2006、「リンネの人間論 ホモ・サピエンスと穴居人(ホモ・トログロデュッテス)」『埼玉大学紀要 教養学部』41(2): 24)、テュルプの図から判断するかぎり、明らかにオランウータンである。

p.44
ルソンの山ワラウ

  • 東南アジアに広まる野人伝説の観点から見ることもできるが(cf. Forth, Gregory, 2008, Images of the Wildman in Southeast Asia: An anthropological perspective, London: Routledge)、本稿の射程から外れる。

p.45
日本初上陸のオランウータン

  • 長崎に舶来した鳥獣を描いて幕府に送付したものの控えをまとめた『唐蘭船持渡鳥獣之図』(1741〜1853)に当時の図が載っている。

p.46
大槻玄沢のオランウータン知識

  • テュルプはオランウータンを「インドのサテュロス」とも呼んだのだが、この名称はヨンストンの書には掲載されなかったため、玄沢の目には入らなかった。

ヤマワロの描写

  • 『和漢三才図会』のほうは版元によって文章が違うようで、杏林堂版では、もう少し異形の側面が強調されている。いわく、「形状は人のようで面は円く、……鼻孔は一つで、鼻の上に目が一つある。声は童児のようである」。これはオランウータンとは似ても似つかないが、妖怪絵巻系の描写とは一致する。

p.47
オランウータンのイメージ

  • 意思疎通という点では興味深い逸話が伝えられている。松浦静山の『甲子夜話続篇』巻4に、寛政4年に来た「ヲランウータン」のことが書かれているのだが、まず「物云ふ事人間にひとしく、音声も聊替る事これ無く候……」として、普通に人語で会話できるとされている。だが話すのがオランダ語だったため、通詞の一人(吉雄幸作)に命じて日本語を教え込ませたというのである(『続篇1』pp.88-89)。現場に近い報告では、人の意図を理解するとはされていても、みずから話せるとはされていない。もしかすると、この話を語った人には、オランウータンがヤマワロのようにふるまうことへの期待(ないし推測)もあったのかもしれない。

『蘭畹摘芳』のオランウータン

  • ボイス事典からの引用で猿の三種として「一を阿郎烏烏当杌(オランウウタング)と曰、一を靸穵跕児(サアテル)と曰、一を抜皮穵盎(バヒアアン)と曰」と述べる。また、玄沢はボイス事典の第8巻317ページにオランウータンの項目があることを指摘したうえで、その項目の翻訳を掲載する。その内容は上に引用した龍平による翻訳とさして変わらないが、龍平が「此獣を老サテイリス、又粗野なる鬼と云こと偽にあらず」と訳すところを玄沢は「蓋し上世の所謂沙的乙力斯(サテイリス)・嚩烏鐸度乙歇爾(ウヲウドドイヘル)【森魔の義】は、則此物を指すなり」としている。

大槻玄沢と水虎

  • 手稿『蘭畹摘芳』と本稿との関連で注目されるのは、全体の最終巻――『蘭畹摘芳四編』巻之十(東京国立博物館蔵)の末尾に「水虎雑集」と題された記述がある点である(この巻には文化14年(1817)の日付がある)。この「雑集」は全体で3丁半、うち1丁半が水虎図となっており、図の部分だけ用紙が異なる(柱に「重訂解体新書 巻之」と刷られた紙が使われている。『重訂解体新書』の刊行は1826年)。
  • ただ、読んでみると、本文の多くが栗本丹洲『千蟲譜』(1811〜)の「水唐」を引用したものであり(小西正奏解説、1982、『江戸科学古典叢書41 千蟲譜』、恒和出版、pp.376-733)、水虎図も同書からの転載だということがわかる。『蘭畹摘芳』は玄沢が弟子に答えたものを筆録したという体裁なのだが、そうだとすると、弟子の「水虎とは何ですか」という質問に、『千蟲譜』の引用をもって答えた、ということになるのだろうか。『蘭畹摘芳』に載せる記事の多くが蘭書を利用しているのに「水虎雑集」にそうした引用が見当たらないので、おそらく玄沢は、西洋には比較しうる動物が存在しない、と判断したのだろう。

オランウータンの和名

  • 「ヤマワロ」は、オランウータンの和名としてはそれほど広まらなかったようである。中良は、雑記帳である『惜字帖』に寛政12年の「ヲーランウータン」図を載せ、単に(おそらく直訳の)「山男」とだけ書いている 。
  • 水虎をNepthunesに充てた馬場佐十郎は長崎出身だったが、『蘭語訳撰』では「猩々(シヤウ〴〵)」をOuranoutangの訳語にしている。
  • また、寺門静軒(1796-1868)の『江戸繁昌記』第2篇(1834)によると、江戸で開かれた薬品会には「西洋の人同【状、猿の如くにして、能く人事を察す】」が展示されたという(日野龍夫・校注、1989、『新日本古典文学大系 100』、岩波書店、p.132)。
  • 山崎美成(1796-1856)は『金杉日記』(1838)において、1838年に浅草で開かれた薬品会のことを記録するなかで、「ウニコール」や「カハイマン」などと並べて、この類人猿を紹介している。曰く「山客(サンカク)、蛮名はオランウータンとて、猩々の属ひにて、人語をもよく聞わけたる獣にて、寛政年間、生ながら、舶来とかや」(棚橋正博校訂、1980、「金杉日記」『続燕石十種 第3巻』、中央公論社、p.32)。
  • どちらの薬品会でも、長崎で死んだ個体の剥製か骨格が展示されたものらしい。ヤマワロという名称が江戸で広まらなかったのは、この名称が生きた知識として流通し、世間話のなかに織り込まれていたのが九州に限定されていたことに起因するのだろう。

訳語ヤマワロの妥当性

  • 杉本つとむは「長崎で山童というのはおそらくオランダ人の説明もあってのことかと思うが案外正しい見方であろう」としているが[杉本二〇〇六:一八一]、いうまでもなく「山童」は単なる「山に棲む子供のような動物」ではなくカッパと互換性のある妖怪の一種であり、杉本のいう意味で「案外正しい」わけではない。

『海上珍奇集』の広がり

  • 具体的な流布状況は不明である。管見では堤它山『橐駝考』(1824)に引用があり、ちょうど松田清が『五巻本博物誌』に対応する部分として紹介した部分(松田清、1998、『洋学の書誌的研究』、臨川書店、p.158)がまさに『海上珍奇集』からの転載である。『海上珍奇集』35オ〜36ウが「トロメテリス Torometris 駝之類」で、引用されているのは前半部(多少の異同あり)。它山は引用の直後に「海上珍奇集」と明記している。細かい点を指摘すると、松田が「カルタゴ」(Carthago)の誤りとした『橐駝考』の「シカルタ」は、『海上珍奇集』では「昔シカルタ囗」となっている。これを「昔し、カルタ国」ではなく「昔、シカルタ国」と読み「昔」だけ省略した結果、シカルタという国名が生まれたのだろう。

p.48
ボイス事典におけるネプトゥーヌス

  • ボイス事典の原書であるW. Owen, 1763, A new and complete dictionary of arts and sciences, 2nd editionにはNeptuneもNeptunusもない(原書からの追加・改変は往々にしてあった)。

p.49
蘭和辞典におけるオランウータン

  • ここに挙げた辞典類の定義は、元ネタとなったオランダ語辞典の語義をそのまま翻訳したものだということが知られている。そのため、蘭和辞典ではなくオランダ語辞典を直接みても、結局は同じ定義を知ることになるだけである。(ヤマワロ=)オランウータンはサテュロスだという博物学や百科事典の記述に行き当たったとき、龍平もそうした辞典を引いて、「山神」という定義を発見したはずである。

p.50
現代欧米におけるサテュロス=オランウータン説

  • プリニウス『博物誌』第8巻第216節に、サル(simia)にはさまざまな種類がいるとして、「バブーン[cynocephali]は気性が荒いが、サテュロス[satyri]は穏やかである」とある。1940年のH・ラッカムの英訳ではsatyrusと表記され「おそらくボルネオ産のオランウータン」と注記されているが、1991年のJ・ヒーリーの英訳では(サテュロスという注記もないまま)オランウータンと訳されている。

p.50
インモータル=妖怪

  • ヒエロニュムスのこの一節は、前に引用した『海上珍奇集』の「バヒヤアン」にもある(『五巻本博物誌』に紹介されているため)。忠雄の訳文で興味深いのは、ヒエロニュムスの和訳では「私は死すべきものです」、『五巻本博物誌』では“Ick ben oock sterffelijck”(私も死すべきものです)とあるところを「我は妖怪化生の類に不有。万物の其一にて……」と敷衍しているところである。「不死の神(々)/死すべき人間・被造物」(immortals/mortals)という西洋的区分が「妖怪化生/万物」と理解されているのだ。おそらく、ヒエロニュムスの問題が信仰の神学的正当性だったのに対し、志筑はこれを存在論的カテゴリーの問題として捉えたのだと思われる。だが、キリスト教禁制の時代、こうした読み替えは、ある意味必然的だっただろう。

p.53
シーボルトはカッパを信じない

  • オキナと同じように、水虎もまた近代化とともに、徐々に実在を否定されていき、人文学的な対象へと変化していくことになる。たとえば、シーボルトの息子アレクサンダーもカッパについて触れているが、かなり懐疑的である。長崎の鳴滝に居を構えた親子は、次のような経験をする。
  • 「やがて日が経って、よく川で水浴を始める頃となった。川の水が大きな岩を越えてザアザアと流れくだる影のさした暗い谷間に深みがあって、そこでは水に入らないように、きつく止められていた。そこには半人半獣の恐ろしい悪魔のような生き物[dämonenhafte Kreatur]が棲んでいて、情け容赦なく誰でも深みに引き込んだからである。河童小僧[Kappa Kozō]というこの化物[Monster]は、頭髪が赤褐色だという話で、頭のてっぺんに窪みがあり、その中にはいつも水が入っているが、これがないと生きていられない。爪はかぎのようで、恐ろしい出目をしているという。さらに極めて広範囲に流布している迷信[Aberglaube]に、キツネを神聖視し、これを傷つけてはならない、というのがある」(A・ジーボルト、1981、『ジーボルト最後の日本旅行』、斎藤信(訳)、平凡社、p.96; 原書Siebold, 1903, p.76)

第3章 比較されなかったもの
p.55
フェニックスの日本語表記

  • 名称表記の点でいうと、少し時代は後になるが、馬場佐十郎による蘭語辞書『Holland Woorden Boek』(文化五年以前)には「弗尼吉思」とあってk音が転写されている(杉本つとむ、1976、『江戸時代蘭語学の成立とその展開 長崎通詞による蘭語学集とその研究』、早稲田大学出版部、p.765)。当然、ほかの蘭学者もk音があることは知っていたと思われるので、『紅毛雑話』および『西洋雑記』は、おそらく広く知られていた先行文献とのつながりを留めておくために、あえてオランダ語としては不正確な「弗尼思」表記を受け継いだのだと考えられる。

p.56
鳳凰とフェニックス

  • 比較がされていないというのは日本側での話である。ヨーロッパでは、ヨハン・ニューホフの『オランダ東インド会社派遣使節中国紀行』第18章(1665)などに、フェニックスと鳳凰を同一視する言説が見られる。「[皇帝が]統治を始めるとき、太陽の鳥が出現したが、これは帝国の繁栄を確約する予兆だった。……この鳥が何なのか私にはさっぱりわからない……しかし出現するのが非常にまれだという点からすると、彼らがFunghoangと呼ぶフェニックスのことだと考えられるかもしれない」(1669年の英訳版、p.277を参照した)。
  • また、おそらくこうした情報を入手して、フランス・アヴランシュの司教ピエール=ダニエル・ユエが『福音による証明』(1679)で、「フェニックス鳥の寓話」(fabula de phœnice ave)について「中国ではFungという」と述べている(バルトルシャイティス、1992、『イシス探求』、p.284; Pierre-Daniel Huet, 1690, Demonstratio evangelica, Paris: Danielem Hortemels, p.98)。日本の事例と比較すると、フェニックスも鳳凰も実在はしないが、寓話としては比較できる、という人文学的な態度が明瞭である。

西洋博物学書における鳳凰

  • アルドロヴァンディの「インドの野鶏」が明代に描かれた鳳凰図の写しであることは、趾の数および奇妙な爪を傍証にできる。アルドロヴァンディの図では、鳳凰は東洋の鳳凰画および鳥類の多くと違って指が三つしかない。これはおそらくイタリアの画家が鳳凰図の慣習を知らなかったことに由来すると考えられる。鳳凰の脚は三趾が前で一趾が後の「三前趾足」か、前と後に二趾ずつの「対趾足」のどちらかで描かれ、明代になって対趾足型が普及した(中野晶子、2011、「鳳凰の足 「対趾足」図像の起源と伝播」『言語社会』5: 304-324)。しかし、このことを知らなければ、脚と重なったところに描かれた後ろの趾の一つは隠れてしまう。その結果、三趾の「インドの野鶏」が誕生したわけである。

p.57
国学者蘭学者の怪異比較の違い

  • 物集高世は、その後もさまざまな怪異の事例を引用しつつ、最終的に「凡、水によりて怪異を為すものは、皆此罔両水虎などやうの属のものなるべし」とする(奥田恵瑞、奥田秀、2006、「資料翻刻 物集高世著『妖魅論』上中下巻(中)」『國學院大學日本文化研究所紀要』97: 292)。彼もまた、龍平の『水虎説』と同じように、出来事によって諸対象を比較・同定し、同類だと結論付けている。ただし、比較の土台は「水の怪異」に狭められている。これは、龍平が議論の果てに到達した種概念を、すでに平田国学が「妖魅」などとして自明な類概念としており、さらに龍平よりもはるかに多様な事例をこの概念に含めていたので、高世も内的差異のほうに関心を寄せていたからだと考えられる。