アメリカ民俗学の「legend trip」あるいは「肝試し」という概念

アメリ民俗学でいうlegend trip、「肝試し」と訳しましたが、先ほどの記事でも名前が出ていたビル・エリス(Bill Ellis)がAmerican Folklore: An Encyclopedia (2006、編者はブルンヴァン)にその項目を執筆していたので、訳出します。例によって文献一覧は省略。あっちのほうの若者文化ですね。これはどう考えても「肝試し」と訳すしかないと思います。ちなみに「若者」は原語でteenですが、日本だともう少し上の世代まで通用する気がします。 

 

肝試し(Legend trip)

儀式の一つ。ある場所で起こったとされる不気味な事件の伝説を聞いた若者が、その伝説を試すために、当該スポットにおもむくというもの。こうした旅行は合衆国のあちこちに広まっていて、橋や廃屋、僻地の教会や墓地などの「出そうな」場所が選ばれる。

合衆国にはさまざまなタイプの肝試しがある。よくあるのは、赤ちゃんが死んだり殺されたりしたというもので、橋の上であることが多く、赤ちゃんの幽霊は決まった時間に泣き叫ぶという。また、ある人物――男性だったり女性だったり――が事故で首を切断した悲劇の現場には鬼火が漂っているというものもある。ノースカロライナ州マコ近辺では、何世代にもわたって若者が線路沿いで不思議な光を見たらしいが、それは首のない運転士が頭部を探し求めているものだと言われる(Walser 1980: 50–52)。実にあちこちで、夜中に首なしの馬乗り――今では首なしのバイク乗りだとかフォルクスワーゲンの小老女になっている――が裏道を駆けている。いくつかの墓地では、碑や彫像が呪われており、それに触れたりそのうえに座ったりすれば死んでしまうか不運が訪れる。もし乱暴に扱っても、魔法のようにひとりでに修復される。

路上駐車も、そうした伝説を呼び込むことがある。とくに親である人物が、なぜか発狂するか醜悪な姿になり、いちゃつくカップルの邪魔をして殺そうとしたり、脅かして追い払おうとしたりする(Samuelson 1979)。場合によっては、狼男や山羊男のような不思議な動物が、やってきた者の前に現れるとされるとか(Harling 1971)、異様な力で自動車が上り坂を引き上げられるとか、線路に置かれるとかもある(Glazer in Bennett and Smith 1989: 165–177)。こうした伝説があるからといって若者がそのスポットに近づかなくなるわけではない。むしろ逆説的に、繰り返し、わざと危険なことを引き起こして興奮させるものとして機能してしまう。

そうしたスポットめぐりは、だいたい自動車に乗って行なわれるが、この「旅」にとっては未成年飲酒や娯楽目的での薬物使用、性的な冒険も不可欠な要素である(Ellis 1983)。肝試しは、典型的には三部構造である。第一に、そのスポットは若者の家から遠いことが多いので、肝試しの集団は道中で、そのスポットになぜ出るのかという「起源伝説」や、前回訪れたときに起きたという出没例についての「証明伝説」を話し合うことになる。このような語り合いのあいだ、参加者たちは、若者がよく知っているような、別の移住伝説も付け加えたりもする。「鉤男」、「子守と上の階の男」などである(Hall in Degh 1980: 225–257)。

第二に、到着すると、集団のメンバーはお互いに、自分たちを危険に陥れるとされる、伝説の一部をあえて再現しようとする。ときには、エンジンを切るとか、乗り物の鍵をかけない程度のものもあるが、多くの伝承は、もっと儀礼的な行動をともなっている。それらのなかには、クラクションを鳴らしたり、ライトを決まった回数点滅したり、その存在の名前を呼んだり、「呪われた」墓標や石に座ったり、後ろ向きに碑を回ったり、といったものがある。場合によっては、伝承には過酷な試練もある。たとえば電車が通過するとき、トンネルのなかに立ってみるようなものである。こうした旅は、何か予期せぬことが起こったとき、クライマックスを迎える――ノイズ、突風、ときには集団内の誰かが用意していた悪戯さえも。そして探検は、大慌てで車に引き返すことで終わりを告げることが多い。

最後に、集団のメンバーが、起こったことについてあれこれ印象を語り合う。結果として、この体験は「証明伝説」に追加されたものとして伝承に入り込む、個人的体験の物語を生むことになるかもしれない。行った結果としての否定的な説明もまた、さらなる突撃を誘発することになるかもしれないが、全般的には、これからの旅に向けたムードをつくりだすために、伝承は「不信の念の一時停止」を生成することになる。

この儀式は、メーデーのような特定の日に、聖なる井戸や古代の石碑を訪れる、古い英国の伝統とよく似ている。多くの史料が、そのような探訪は飲酒や性行為、乱闘を特徴とするということを書いている(Bord and Bord 1985: 56, 75)。近代以降、多くの伝説が英国の若い話者から収集されており、墓や巨石の周りを走るとか、その存在の名前を呼ぶなどの儀式を行なうことにより、悪魔(または悪い幽霊)を呼び出せるという、そういう地点への探訪が記述されている。アメリカの伝承においては、多くの碑が呪われている。それを動かしたり壊したりした者は誰であれ傷を負ってしまうが、不思議にも石は元に戻っているのである(Grinsell 1976: 64–65)。ここでもまた、そうした伝説は儀式的突撃を妨げるのではなく、勧めているように思われる。

近年では、肝試しに使われた証拠品が、一部のアメリカ法執行機関の捜査官により、危険なカルトの証拠だと見なされることがある。旅によっては、クライマックスが焚火のまわりで歌い踊るパーティなこともあり、そうした旅は、スプレーでの猥褻な、あるいは「悪魔崇拝的」な落書きから、石の十字架や墓石の破壊にいたる荒らし行為に行きつくことも多い。事例によっては、交通事故死した動物の遺骸が「いけにえ」として樹木から吊り下げられたり、若者の集団が黒装束で車の前に飛び出るなどして、同じ若者や大人を怖がらせたりする。こうした活動が警察に誤解され、地元で騒動を引き起こすこともあれば、肝試しの場所で偽造品を使ったり、実際に即興的な「悪魔崇拝」儀式を行なったりして、騒ぎを引き延ばしたりすることもある(Ellis, in Richardson, Best, and Bromley 1991: 279–295)。

しかし肝試し参加者の研究においては、そうした儀式は娯楽の一形式として見られるのがもっぱらであり、実際、物語られ経験される出来事は、青年たちの信念体系にささいな影響しかもたらさないことが指摘されている。若者はロールプレイングをともなう、多くのさまざまな形態の遊びに興じているのだ。交霊会、ハロウィンでの扮装、制度的に出るという住居への訪問、ウイジャボードやD&Dのような空想的ゲームなどである(Fine 1983参照)。肝試しは、警戒すべき、しばしば事後的には壊されていたりするものだが、多くの思春期文化にとって一般的な「反逆の儀礼」の一部として理解するのが一番よいであろう。

アメリカ民俗学の「直示」という概念

アメリ民俗学は、「都市伝説」がそうなのですが、日本民俗学でいう「世間話」にあたる説話も「伝説」(legend)に入れています。そうした伝説は、どのようにして人から人へと伝えられるのか? 基本的には口頭であったり文章であったり、言葉を使うものが多いとおもうのですが、80年代初頭から、物理的に伝えるという形式もあるのではないかという議論がされてきています。それが「直示」です。直示というと言語学でdeixisの訳語でもあるのでややこしいですが、ここではostensionのことです。記号論的には、難しい説明がウンベルト・エーコ記号論Ⅱ』にあるので興味があれば参照してください。

伝説の直示――特に直示的行為というのは、提唱者のデーグ&ヴァージョニーがハロウィンでのいろいろな活動を例に説明していたり、ほかの研究者が肝試し(legend tripという概念があり、これは日本語でいう「肝試し」に相当する)で論じたりしてます。たとえば肝試しは、どこそこの心霊スポットに幽霊が現れるという話を、身をもって体験する、というか身をもって現実化する行為なので、直示的行為になります。近年特に話題になったのは、スレンダーマンを真に受けた若者が起こした刺傷事件です。

ですが日本語で分かりやすくいうと、「やってみた」が一番近いようです。異世界エレベータをYoutuberが実験してみた、とかいうやつですね[cf. 永島 2019近刊]。 

こういうのは日本語の「伝説」のイメージで考えると分かりづらいでしょう。たとえば弘法大師の伝説を真似して杖で荒れ地を突いて何か起こると思う人はいないでしょうが、心霊スポットに行ったら何か出ると思う人は少なからずいるでしょう。「今ここ」で起きうるものとしての「世間話」のほうでイメージしてもらうと分かりやすくなると思います。

ブルンヴァンのEncyclopedia of Urban Legends, 2nd edに、比較的まとまった項目があったので、それを以下に訳出します。

 

直示(と直示的行為)

Ostension (or Ostensive Action)

 記号論のほうから借用された言葉で、リンダ・デーグとアンドリュー・ヴァージョニーは、「直示」、なかでも「直示的行為」を、伝説を伝えるための[言葉とは]別の手段と見なせることを論じた。記号論記号学)とは、ヒトのコミュニケーションにおける記号や記号体系についての学問である。記号論でいう「直示」とは、何か(たとえばキリスト教)を表象するために、それとは別の慣習的記号(この場合、十字架など)を用いるのではなく、「モノや状況、出来事そのもの」でそのまま提示することを指す。単純なコミュニケーションとしての直示的行為の一例として挙げられるのは、近くの友人にタバコの箱を買いに行かせるために、1本のタバコを手に持つという行為である。

都市伝説研究に持ち込まれた直示の概念は、人々が伝説の内容を、単に話として物語るのではなく、実際に行為にしてみせる状況を捉えるものである。デーグとヴァージョニーが言うように、この手の伝説の伝え方は、「表象(representation)に対置される提示(presentation, 何らかの意味作用を用いるのではなく、現実そのものを見せる)」を利用している。そのため、ある人が仲間を引き連れて、いわゆる心霊スポットにおもむき、霊を呼び起こそうとすることもできるし、その反対に、そのスポットの話をするだけというのもできるだろう。

ハロウィンでは、伝説を伝えることになる、多くの直示的行為を見ることができる。たとえばトリック・オア・トリートや扮装、旬の装飾、お化け屋敷の設営などは、いずれもが多かれ少なかれ伝説に基づいているが、こうしたハロウィンでの活動によって、人々は、そうした伝説のどこか一部を演じる[行為する]ことに、直接巻き込まれていく。汚染されたお菓子にまつわる噂の根拠は薄弱だが、ハロウィンに乗じた嗜虐者についての誇張された話そのものが、便乗して犯罪をおかす少数の人々によって、部分的には現実のものとなっていった。デーグとヴァージョニーは、「事実は物語になりうるが、物語もまた事実になりうるのだ」ということを示している。

ビル・エリスが言っていることだが、本物の直示的行為がうまく表れているのは、ある人々が、耳にした話をもとに悪魔崇拝教団を形成し、儀式を行ない、さらにはキャトル・ミューティレーションや供犠、殺人など犯罪に手を染めるという、実際の事件かもしれない。それとは反対に「疑似直示」(pseudo-ostension)は、肝試しの場で、若者たちが他の若者を脅かすために死神の扮装をするようなとき、使うことのできる用語である。「準直示」(quasi-ostension)というバリエーションもあり、これは目撃者が不可解な情報(たとえばキャトル・ミューティレーション)を自然な原因(野生の捕食動物など)ではなく、噂や伝説で語られるようなカルトの活動や宇宙人の仕業として解釈するような状況を指す。避けがたいことに、「仮想直示」(virtual ostension)というものさえある。これは、インターネットでリンクをたどるなどして心霊スポットを探し、「訪れる」というものである。

アメリカ民俗学の「メモレート」という概念

以前から、日本民俗学の「世間話」という概念は、アメリ民俗学でいうメモレート(memorate)に相当するのではないかということを話していたのですが、2009年に出た『女性の民俗伝承・民俗生活百科事典』(英語)に簡単なmemorateの項目があったので訳してみます。この項目の定義だと、メモレートには「超自然的」がかかわるとのことで、笑い話や色話なども含む世間話よりは狭い概念になっているようです。

 

Linda J. Lee, "Memorate," Encyclopedia of women's folklore and folklife, volume 2: M-Z, Liz Locke, Theresa A. Vaughan, Pauline Greenhill (eds.), Westport: Greenwood Press, pp. 406–407.

 

メモレート 

メモレートとは、超自然的なものと感じられる事件の経験談(firsthand account)のことである。こうした個人的体験の語り(narrative)は、短く、話の筋が一つで、構造がしっかりしておらず、公に語られるものではなく、近い過去に設定されるのが典型的である。メモレートの内容は一般に伝統的なものだが、そのテクストは個人的で独特であり、感覚的な細部を含むことが多い。そのような語りは「信仰譚」(belief stories)と言われることもあるが、幽霊や死者との遭遇、神秘体験、死や悲劇の予兆、夢の知らせ、超自然的な夜間の襲撃、UFO目撃など、多彩な話題に関わっている。メモレートはまた、民俗集団内で繰り返し語られることもある。たとえば、ある女性が、死の床にある祖母が母親のもとを訪れたということを又聞きで話すなどである。このような語り手は、おおもとの信頼できる情報源からの連なりを認識している。魔女術の話や妖精との遭遇、死者との通信などは、伝統的に女性に関係していたり、女性が語るものだったり、女性についてのものだったりするメモレートの類型である。

メモレートは、現実に起こった出来事の嘘偽りない報告として語られ、その経験の現実性についての主張が含まれることも頻繁で、また、超自然的信念は思弁ではなく、個人的経験や感性的知覚に基づいているのだということを強調する。メモレートは文化的信念をめぐる議論から生まれることもある。これらの語りは、そのような信念の複合体を探求し、話者たちがメモレートを用いて、自身や共同体の伝統を正当化しようとすることもある。そうした物語は、ある個人や集団の民俗・世界観を広く検討するときに取り入れられることもあり、一つの経験談が、ある個人の信念や経験の突っ込んだ研究のための基礎となることもある。信念はメモレートの中心ではないと考える研究者もいる。たとえばキャロル・バークは、囚人の女性が語る幻視の語りについて、自分たちの状況に対処するための戦略や象徴的な再演として解釈している(Burke 1992)。

このジャンルは、ここ数十年、重要さを増してきている。というのも、民俗的信仰が生きた伝統として顕れるさまを理解するための手がかりを与えてくれるからである。超自然をともなう個人的な経験談は、そうした伝統の社会的文脈や体験的側面について、信頼できる情報をもたらしてくれるのである。デイヴィッド・J・ハフォードの、超自然的な攻撃伝統への経験中心的アプローチは(ハフォード1999)、信仰伝承[信念にまつわる伝統]の研究者に多大なる影響を与えた。ジリアン・ベネットの、イングランドにおける女性たちの死者との出会いについての研究は、語りと信念、女性の物語構造とが交差するところに関心を持っている(Bennett 1989, 1999)。彼女による言説パターンの分析は、超自然的信念は予想よりもずっと広まっているということを示唆しているが、そうした情報は学術的言説で用いられる、一見して中立的な言葉に反応したものではないことが多い。むしろ、超自然的体験の経験談は、しばしば「メンツを守る曖昧さ」をもって注意深く口にされるものなのである(Bennett 1999: 14)。

民俗的信仰とメモレートと伝説の関係性や使い分けには議論がある。スウェーデン民俗学者カルル・ヴィルヘルム・フォン・シドウ(1878–1952)は1934年に「メモレート」という用語を提唱したのだが(von Sydow 1948)、メモレートは伝説の一形式ではないと主張した。というのもメモレートは伝統的ではないし、伝説にある誌的特徴を欠いているからである。メモレートが知名度を上げたならば、ある特定の集団の口頭伝承の一部になっていくことはあるだろう。語り手がメモレートを再話するにつれ、その物語は伝統的な伝説のモチーフやプロットの要素を付け加えることによって徐々に標準的なものになっていき、最終的に、それ自身が伝説としてコード化されることもあるだろう。

民俗学者リンダ・デーグとアンドリュー・ヴァージョニィ(Degh 2001; Degh and Vazsonyi 1974)は、ある決まったメモレートが伝達の連なりのなかで再話されるにあたり、語り手が一人称の語りを三人称で言い直し、共同的なほら話(fabulate)になっていくことを指摘する。同じように、一人称で三人称の作り話を語り直す語り手は、「疑似メモレート」あるいは「準メモレート」を生み出す。デーグとヴァージョニィは、そうしたほら話は、彼らが「先メモレート」と呼ぶメモレートを下敷きにしていると論じる。デーグは、メモレートや信仰譚、伝説を包括する用語として「伝説」を用いようと言う(1996, 2001)。分析のなかでメモレートと伝説を区別しない民俗学者もいる。たとえばエリザベス・タッカーは、メモレートとほら話、伝説に区別をつけず、アメリカの大学の怪談を研究しており、またタイプ・インデックスやモチーフ・インデックスもこうしたジャンルを区別しない傾向にある。