ユキヒラ鍋が陶製からアルミ製になったのはいつか?

「ゆきひら」といえば『食戟のソーマ』の主人公の名字……でもあるが、一般的には調理器具、鍋の一種である。キッチンが使われている日本の家庭ならどこにもあるといっても過言ではない、ポピュラーな道具だ。漢字では行平とも雪平とも書くので、ここではユキヒラと表記する。
そのユキヒラについて、4年ほど前、友達の依頼で調査することがあった。そこで気づいたのが、意外と具体的にユキヒラの歴史について書かれていたものがないことである。ちょっと調べると分かることだが、ユキヒラはもともと陶製の鍋だった。しかし現在では、アルミ製の片手鍋のことをユキヒラと呼ぶようになっている。いつからだろうか。これがはっきりしなければ歴史について調べたことにならない。でもどうやって調べれば……?
以下は、そのときの調査をまとめたメモである。近現代の家庭用品を調べるとき、何かの参考になるかもしれないので公開しておく。

まず江戸時代。このころは陶製の蓋付き深鍋で、把手と大きな注ぎ口があった。言葉の初出である太田南畝『一話一言』には「平鍋」とあり、天明年間(1781~1789)末に都市部で普及したという。また、1832~3年の人情本春色梅児誉美』に「さめたものは雪平か小鍋でかお温めよ」とあるのについて三田村鳶魚は「「雪平」は今日で云へば土鍋だけれど、形が違ふ。もつと平べつたい」とコメントしている(『江戸文学輪講』p. 338、1928年の輪講)。だが、考古学調査で出土したユキヒラ(注ぎ口と把手がある直径20㎝ほどの陶器)は、いずれも深鍋型である。これらのユキヒラの絶対年代は未確定だが、早くて1820年代後半、遅くても19世紀半ばのものだという(『図説 江戸考古学研究事典』2004, pp. 28-29)。19世紀前半には深鍋型になったのだろう。
ユキヒラという名称は在原行平が須磨で海女に塩を焼かせた故事にちなむといい、この説は『日本国語大辞典』などに見えるが、出典は不明。『一話一言』も在原行平に言及しているが、須磨に流されていた時にこの鍋を用いていたからなのかよく分からない、と書くのみだ。ただ、曲亭馬琴が1811年に合巻『行平鍋須磨酒』というタイトルで、行平(姫に変わっている)と海女(相撲取りに変わっている)の物語を書いているので、このときまでにはそういった故事が伝えられていたのだろう。
当時のユキヒラは陶製だったが、真鍮製のものもあった。『江戸語の辞典』の「ゆきひらなべ」に引かれた『縁結娯色の糸』に記述がある(文庫版p. 1024)。わざわざ「真鍮」と書くことから、少なくとも一般的なものではなかったことがうかがえる。陶製ユキヒラは、高度経済成長期までは家庭や病院で使われていた。

現代のユキヒラに類似したアルミ製片手鍋は、昭和初期には一般家庭に普及したが、陶製のユキヒラと共存しているようである(たとえば1939年5月16日付朝日新聞6面)。この傾向は戦後に入っても変わらず、1959年3月の『商品大辞典』p. 1078でも、ユキヒラといえば土鍋のこととなっている。なお、当時のアルミ鍋は『暮しの手帖』35(1956)の「買物案内 ナベは毎日つかうものです」によるとほとんどが両手持ちだった。しかし、同じく『暮しの手帖』51(1959)の「買物案内 ふたたびナベについて」になると「3年前にはデパートの台所用品売場で、ナベといえばほとんどが両手ナベでした。……それが翌年からは、片手ナベの種類や数がグングンとふえ、……ナベの売れた数のうち、その60%から70%が片手ナベだということもわかりました」と状況が一変している(p. 101)。このようにバリエーションが増えたなかに、現在のアルミ製ユキヒラの原型も生まれたと思われる。

今のところ仮説段階だが、転機と思われるのは、通販業の日本文化センターが「《高級》打出鍋セット」を売りに出したなかに、直径18㎝の「雪平鍋」が入っていたことである。現行の、凸凹模様のあるやつだ。今のところ、1975年11月19日付読売新聞6面に広告を出しているなかにあるのが、見つけたなかでは最も古い(なお当時の社名は別)。セットのなかには直径18㎝の「片手鍋」もあるが、これは「雪平鍋」よりも深くて蓋が付いており、区別されていることが分かる。翌年9月25日付読売新聞夕刊12面には、今度は住所は同じまま社名が「日本文化センター」となって、同じ鍋セットの広告が出ている(日本文化センターの設立は75年らしいので、鍋セットは最初期のラインナップとして販促に力を入れたものと思われる)。
通販業界トップだった日本文化センターによる、全国的な商品の均一化や広告自体の存在が「ユキヒラといえばアルミ製」というイメージの普及に貢献しただろうことは容易に想定できる。とはいえ、1976年版『商品大辞典』は、まだユキヒラを土鍋に分類している(p. 1241)。なお、この凸凹アルミ鍋だが、1978年12月6日付朝日新聞38面の記事に「最近、アルミ鍋の表面に凸凹をつけた、打ち出し鍋も出ています」とあるので、早くても1970年代後半に普及したものとみられる。この記事にはちゃんと日本文化センターの「高級打出鍋全8点セット」の広告が出ている。
続いて『主婦と生活』1978年11月号の記事「お鍋の選び方・使い方」では、「アルミ製ゆきひら鍋」と陶製の「ゆきひら」が同時に紹介されている。前者にあえて「アルミ製」とつけているところからすると、この年代はアルミ製と陶製のユキヒラがまだ拮抗していたようである。数年後の1984年8月24日付読売新聞には、ダイエーが「お料理自慢の主婦に人気の高い雪平鍋」と銘打って18㎝の凸凹アルミ製ユキヒラを広告に出している。おそらく1980年代前半までには、ユキヒラといえば凸凹アルミ製ということになったのではないだろうか。
平成に入るが、『オレンジページ』1996年3月17号のp.134に「行平鍋の“行平”ってどういう意味?」というコラムがあり、この時点で「本来は……土鍋のこと」と書かれている。このコラムによると、「以前は片手鍋と呼ばれていましたが、洋風のシチュー鍋などと区別するため、形が似ている“行平”の名で呼ばれるようになりました」とある。ただし典拠は不明。

その他、当時の料理本や料理番組、映画・ドラマ・漫画などの調理シーンなども調査すればもっとはっきりしたことが分かるとは思うが、とりあえずは以上のとおり。

近世国学の妖怪論(宣長・守部・隆正)

本居宣長は、上田秋成平田篤胤とちがって積極的に妖怪的なものを語ろうとはしなかった。いちおう「カミ」の定義のなかで妖怪的なものを列挙してはいるが、付属品的な扱いでしかない。(前に紹介した↓)

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しかし、門人との問答のなかで、宣長自身がどう考えているかを披露することはあった。『鈴屋答問録』(1779)に収録されているなかに、それを見ることができる。宣長の場合、世の中で悪いことが起きても、他のすべてのことと同様、それは神々の仕業である。より具体的に言うと、禍津日の神の仕業である。神の仕業であるから、そういうものとして受け取らねばならない。神々はこの世界をすべて掌握しており、そこから漏れるものはないのだ。

「(問い)俗に疫病神といふは、古事記崇神天皇御段に、大物主神の御心によりて、神気おこりしことある、これ即疫病神か。――答。凡て神とまをすものは、……正しき善神とても、事にふれて怒りたまふ時は、世人をなやまし給ふこともあり。邪なる悪神も、まれまれにはよきしわざも有べし。……さて凡て、世間にわろきことのあるは、本は皆、禍津日の神の神霊によることなれば、この大物主神の御心より、疫を起し給へるも、本は禍津日の神の御心也。疫のみならず、万のまがごと、皆、この例をもてさとるべし。……そは何れにまれ、その時にあたりて疫をおこなふ神を、疫病神とはいひつべし。」

「疫病神」とはどういうものを指すのか、という問いに対して、それは究極的には禍津日の意志である、という。疫病神自体は、具体的な神格というより役割のようなものである。

「(問い)世にわびしくまづしくならしむるを貧乏神といひ、富栄えしむるを福の神といふ、これらも別にその神の有にはあらで、そのしからしむる神霊をいふなるべくや。――答。然也。何れの神にまれ、然らしむる神をさしていふべし。但し人をとましむる神、まづしからしむることをわざとする神も、あるまじきにあらず。」

今度は貧乏神について。こちらも同じで、禍津日の名称は出さないが、やはり役割名のように考えている。

「(問い)疱瘡神は、外国より来りし悪神なるべし。これも、禍津日神の神霊とやせむ。この病は物のたたりにもあらず、又一度やみぬれば二度とはやまぬことなど、他の病とはかはりていとあやしきはいかが。――答え。問の如く、この病は古へはなかりしかばこの神もと、外国より来り神なるべし。……何れの国の神にまれ、あしきわざするは、皆禍津日の神の御心也。さて世にこの疱瘡や疫病或はわらはやみなどを、殊に神わづらひと思ふなれど、これらのみならず、余のすべての病も、皆神の御しわざ也。その中に、そのわづらふさまのあやしきと然らざるとは、神の御しわざなることのあらはに見ゆると、あらはならざるとのけぢめのみこそあれ、……」

次は疱瘡神。これもやはり禍津日神の仕業。世界中どこでも変わらない。疱瘡は病気としては「あやしい」ように見えるけど、それは神の所業がはっきり見えるからにすぎない。すべての病気は神のせいである。

「(問い)きりしたんなどいふもの、又狐神をつかひ、また今世魔法と云類は……八十禍津日の神の類なることは知られたり。……然るをその禍津日神も、御国にて生れたまふを、そをつかう法は、御国にはなくて、他国にあるは、……大御神の御国ならぬわろき国は、彼禍神の所得たまふ国なるから、さるわろき業は中々に伝はりけんしかし。〈狐神にまれ、狗神にまれ、神をつかふわざは、さかしらに作りたるわざにはあらじ〉……さにはあらじか。――答え。……さやうの法どもの、多くは異国に伝はることは、御考の如くにてもあらむか。そはくはしきことは測りがたし。」

イヌガミなど、動物であるカミを使役するやから。日本のような神国にそのような悪法が伝わっていないのは、禍津日神が統治しているからではないかという問いに、そうなのかもしれないが、よく分からない、という宣長

すべての悪を禍津日神に帰す宣長の神学は、のちに篤胤など多くの国学者によって批判されてしまうことになる。しかし宣長自身は、こうでもしなければ、善悪正邪が入り乱れるこの世の現実を創出する神々の、その測り知れぬ所業を説明することができないと考えていた。ほとんど言及しない怪異妖怪についても、『古事記伝』にあるようにそれを「神」と見なしていたからには、何かそういうことがあったときは、禍津日神へと還元することになったのだろう。

 

宣長古事記理解を批判し、平田篤胤らとも距離を取っていた橘守部(1781–1849)は、天保年間以降、幽冥論に関心を抱くようになる。たとえば晩年の神道論『神代直語』(1846)にその思想を如実にうかがうことができよう*1。守部は、いわゆる「幽冥」のうち、神々の領域は「天」であり、死者の領域は「黄泉」であり、両者は「昼夜のごとく、海陸のごとく、夫婦のごと」く、二項対立的で補完的である、と考えていた。とはいえここでは深入りせず、妖怪系の記述をいくつか抜粋するにとどめる。

「……黄泉の界が闇(くら)き処と云にはあらず。しばらく現き人の目に見えずなり行を以て、此方より然かひなす詞なり。彼方より見ば、又この現し世の界が闇からんも知がたし。いとたまたまの事にはあれど、彼の幽魂、怨霊などの恨を報に出る事あるに、必ず先づ青き火燃ゆと云り。これすなわち彼よりは又この現し世が闇かる故に、照らし見る炬のためにぞあらん」(『神代直語』巻上)

守部にとって、死者の居所は黄泉である。しかし篤胤が「幽冥からは現世は丸見えである」と言ったのに対し、守部は微妙に違うことを推測している。どっちもどっちではないか、と言うのである。もちろんこれは推測であって、結局あちら側から現世がどう見えるか経験的に実証することはできないので「知りがた」い。だが幽霊が火をともなっていることをもって、あっちからも暗く見えるのではないかと言う。独創的である。

さて、この黄泉はどのような住人にあふれているのだろうか?

「かくてこの黄泉の界はいともいとも広くして、かの死行人の魂のみならず、禍日の八十禍、大禍をはじめ、怨霊、鬼物、妖物、諸の魔物等の隠れ栖隈路なりければ、神皇産霊尊の昔より、幽顕の隔疆(へだて)いと厳重になし給へれど、猶ともすれば、この界より凶悪(あしき)者の溢れ来て、現し世の人を悩す事あり。そもそも天つ神の賞罰は善悪邪正に随ひて、いと正しかれば、さてあるを、この黄泉の界より来る殃災は、却て善き人の禍(まが)るが多かれば、懼るべき限なり。……さればこの障礙を免んには、常に天神地祇を奉斎(いつきまつ)り、身を慎み、心を清め、仮にも悪き行跡せず、不浄に染ず、家の内をよく掃ききよめて、善き神の御霊よせあるやうに心懸くべし。物は善悪とも類を以て集るとか。かの邪神(あらぶるかみ)の好むふるまひし、魔物の羨む心をもち、竈所を汚し、火を穢し、不浄にふれなどするときは、彼の鬼物等それを慕ひて、あふれ来る事ありとぞいひ伝へたる。」

黄泉は死者だけではなく、宣長以来の悪の根源であるマガツヒをはじめ、妖怪や魔物がたくさんいるのだという。時にはそれらが現世にやってきて、人々を悩ますのだ。それを避けるためには、家や心を清浄にし、天神を奉るのがよいという。汚いところに魔物は集まるのである。それでは現世にいると思しきケモノたちの怪異はどうなのだろうか。

「世に、狐狸などの人の目に触れぬわざする事のあるは、微弱き獣ながらも、幽冥の方へもすこしは入らるる幸のありてなるべし。亦禽の中に、夜も灯の光りを倩(やとは)ずして目の視ゆる物多かり。こは野山に栖むものは、然らずては得堪べからねば、只それのみを許されて生れ得るなるべし。もし人に狐狸の術ありて、飛鳥の翅を持しめば、世の片時も治りがたかりなん故に、神の許し給はざるにこそ。」

このあたり守部はちょっと曖昧なのだが、狐狸の変化と鳥の夜目を、いずれも人間の有さないものとして並列し、前者については幽冥とちょっと関わりがあるのだろうという推測をして、後者は生きるために必要だから神がそれを認めたのだ、という風に説明している。鳥獣は生きている人間より幽冥に関係が深いという篤胤の考えをここでは継承しつつ、宣長的に、すべては神々の意志によるのだという決定論的思考も働いているようである。

なお、1844年の『稜威道別』巻二にも、少し表現を変えて同様のことが書かれている。

 

大国隆正(1793–1871)については、幽冥が国々によって違うという、蘭学が知識人に普及していった時代を象徴するような妖怪論を前に紹介した。下参照。

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ここではさらに二つ、別の妖怪論――ツクモガミとバケタマ――について紹介してみる。まず嘉永年間(1848–1855)初頭に成立したらしい『死後安心録』より。なお隆正の文章はひらがなが多いので、問題ないところは漢字になおした。

「黄泉国は邪火のこもれるところなり。今、婦人の子をうむをみるに、経行とまりて十月の間をあたため、子をうみてのち、その汚血はくだるものなり。伊邪那美命の国を生みたまへるにも、その経行の汚血なきことを得ず。その汚血、黄泉にくだりて、邪火となりてありしなり。黄泉戸のけがれてありしもこの故なり。その汚血をもて、万物の妖のはじめとす。これやがて附喪神なり。万物につきてわざはひをなすものなり。これもまたその火つぎつぎにうすらぐにより、造悪の人のたましひそれになりて、その種をたたざるものなり。日本国にて附喪といふは、万物につきてあやしみをなすものの総名にて、これにまたさまざまの差別あり。天狗も附もがみなり。狐狸もつくもがみなり。疫病神・貧乏神・疱瘡神みな、人に附も神なり。その根源は黄泉の邪火よりなれるかみにして、そのはじめは伊邪那岐命につきて、黄泉国よりこの地球上に来りし神なり。……そのやまひ、その邪念によりて身をほろぼしたる人のたましひ、又その邪神の食となりて邪神をこやし、邪神となりて邪悪をなすものなり。」

妖怪はツクモガミである! 一部ツイッターなどで話題になった、大国隆正独自のツクモガミ論*2伊邪那美であっても経血は穢れたものだから、そこから「妖」が生まれ、災いをなすようになったというのである。天狗も狐狸も、宣長の『鈴屋答問録』に出てきた悪神(疫病・貧乏・疱瘡)も、すべてはツクモガミである。この思想は、今のところ隆正以前に見ることはできず、また隆正以降も誰かが受け継いだのも見つけられていない。特異事例である。

さて隆正によれば、生まれ変わりにもツクモガミが関与するという。

「人死にて、……その魂は、墓に留まるあり。位牌に留まるあり。かねて行かまくほりしところに至るもあるべし。浮かれ歩くもあるべし。ただちに幽界に入るもあるべし。いずくにありても、幽界の政所に呼ばれて、その裁判にあひ、畜生のたまに添ふもあるべし。人間のたまに添ふもあるべし。いずれに添ふもみな、つくもがみなり。おのれ是まで心をつけて生れ変りの説をきくに、まるまる生れ変るものにあらず。……しかるに生れ変りといふ証跡の折々あるは、皆つくもがみの類にて、狐の人につくごとく、その人の元霊のある上に、つきて生まるるものなれば、つひには離るることもあるなり。幼年にしてよく文字を読み、文字を書きなどするものの、成長して愚かになる類、多くはつきて生まるる妖(もの)ありて、のちに離れて、元霊のその愚かなるにかへるもの多かり」

この引用の冒頭は、「死者はどこにいる?」という近世のさまざまな考え方を全部受け入れてしまったすごいところであるが、それはともかく、これから生まれる別の霊魂にともなうものはツクモガミであるという。純粋な生まれ変わりというのは存在しない。前世から引き継いだと思しきものは、実はすでに死んだ霊魂がツクモガミとなって取り憑いているのだ。のちに離れていくことがあるので、神童が凡才になるというのもこれで説明できる、という悲しい話。

もう一つは、『死後安心録』より後に成立した、有名な『本学挙要』(1855)から。霊魂の種別を述べるところで、いわゆる四魂のほかに「はけだま・ことだま」の解説が続く。

「「はけだま」の「はけ」は、俗にいふ「ばけ」なり。いにしへは、「はけ」とすみていひけん。今は、「ばける」「ばかす」など、濁りていふなり。これは、空中をゆき、質を気にし、気を質にするたぐひ、人のなし得ざることをするたまなり。そもそも、第四の神代、幽よ顕の分界なかりしほどは、人も空中をゆき、神も人に雑はりてありしなり。天孫降臨ありしはじめ、石根・木根の言霊を離して、禽獣にもものをいはしめず、そのかはり人の「はけだま」を離してあやしきわざをなさしめず、この時より、いまの天地とさだまれるものになん。……人にもありける「はけだま」を離したまへる考証、書籍にはあらぬなり。しかれども石根・木根の言霊を離したまへる故事のあるにより、その一対なれば、必ず人にありける術魂(ハケダマ)を離したまひけんと知ることなり。これにより、狐狸のたぐひには妖魂(バケダマ)ありて言霊なく、人には言霊ありて妖魂なし。これは今の天地・世界のありさまを考証によりて、これを知れるなり。これを知りてみれば、空海のたぐひ、人にして妖術(ハケダマ)あるは、賤しむべきこととさとる也」

バケダマは、今風に言えば物質を出現させたり消したりする力能のことと隆正は解釈して、それが禽獣、とくに狐狸には備わっているという。原初アニミズム的な、すべての存在がコトダマとバケダマをもって相互行為していた時代は天孫降臨によって終わりを告げ、人間にはコトダマが、その他にはバケダマが残ったのだ、という。だから人間がバケダマを駆使するのは「賤しい」ことなのである。「術魂」は『先代旧事本紀』(9世紀)の巻第四「地祇本紀」が大己貴命の魂の一つとして言っているもので、記紀には見えない。それを隆正は、禽獣の有する/人間の有さない魂として解釈しているのである。

ところで術魂は、近代的鎮魂行法の大家・川面凡児(1862–1929)の理論にも登場している。彼によると「禍魂(まがたま)とは旧事紀にあるところの術魂で奇魂幸魂等の悪化凶変して自他を禍する魂であります」(『霊魂の典故』、『川面凡児全集』第1巻所収)、「術魂を「バケミタマ」と云ふは「バケ」は変化して白が黒に、黒が白に変化するの意味なのである。また「ハ」は「マ」に通ひ、「ケ」は「カ」に転じ、「まがる」なり「曲る」なり。直しきものが曲りたる意味で魔魂(まがたま)となる」(『日本民族宇宙観』1913、p. 171)と論じている*3。津城寛文によれば、川面の霊魂論において「全身の統一した状態において、主要な魂が体外に脱出して何らかの活動をなすことを」魂の分出と言い、「もしこの統一に欠陥があった場合、分出魂はその脱魂してきた元の身体の不調に牽制されて充全な活動をしないまま帰還し、虚偽の活動報告をなすことがあるという」。これが術魂なのである*4。要するに、隆正のように人間以外の禽獣に属すものでもなく、怪異をなす人間が有するものでもなく、あくまで自らの霊魂をコントロールができなかった状態において現れるのが術魂、というわけである。

*1:守部の幽冥論については、東より子2016『国学曼陀羅 宣長前後の神典解釈』第3章など参照。

*2:大国隆正のツクモガミに言及しているのは、管見では浅田雅直1989「近世後期国学者民間信仰 平田篤胤の「幽冥」の位置(下)」『日本学』13, pp. 211-212のみである。しかし隆正がそういう名称を持ち出したのを触れるのみで、詳細を論じているわけではない。

*3:津城寛文1990『鎮魂行法論 近代神道世界の霊魂論と身体論』p. 251に引用。なお津城はp. 250で隆正はほとんど術魂を論じていないとしているが、『本学挙要』は見逃していたのだろうか。

*4:津城、pp. 251–252。

前期国学の妖怪論

近世国学の妖怪論はどうなっていたのか。平田篤胤が語りすぎたので、一人だけ有名になってしまっているが、前期国学の人々も、当時の多くの知識人と同じように、通りすがりに程度であるが、怪異・妖怪について語っているところはある。ちゃんと調査したわけではないので多分もっとあるとは思うが、ここでは国学四大人のうち篤胤以外の三人の著作から、それっぽいところを抜き出してみた。

ツイッターにも書いたが、僕の関心は「もとから化物である存在が幽冥界にどうやって取り込まれていったのか」なので、以下の国学者たちの思想は、正確に言うと大半が関心から外れるのだけど、参考までに。

篤胤以降については以下も参照。

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1、荷田春満(1669~1736)

今日の上にて、妖妄怪異の事の世の中にあるは、みな国津神の神化也。ないとはいはれぬ、なるほど天地の間にはさまざまの不思議なる事あり。これ国津神の仕業也。然れども其義は天神の神徳化にてはなき也。さればかつて尊むべきことにてはなき也。然れども今の世は、みなそのあやしき奇怪なる事を云ふ者を、神道者などゝ心得て居ること也。天神の道には怪異なることはなく、恒常不変の徳化を被施を、天津神とは奉尊称こと也。(『日本書紀神代巻箚記』1707頃?)
*怪異は国津神の仕業。ちゃんとした神様はそんなことしない。ここは日本書紀神代巻下の、さばえなすあしき神云々に対する注釈。

2、賀茂真淵(1697~1769)

すべてむくひといひ、あやしきことゝといふは、狐狸のなすこと也。凡天が下のものに、おのがじゝ、得たることあれど、皆みえたること成を、たゞ狐狸のみ、人をしもたぶらかすわざをえたるなり。(『国意考』1769)
*因果応報や怪異は狐狸の仕業。

3、本居宣長(1730~1801)

迦微(かみ)と申す名義は未だ思得ず、〈旧く説ることども皆あたらず、〉さて凡て迦微とは、古御典に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き物を迦微とは云なり、〈すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり[……]竜・樹霊(こたま)・狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、木霊とは、俗にいはゆる天狗にて、漢籍に魑魅など云たぐひの物ぞ、書紀舒明巻に見えたる天狗は、異物なり、又源氏物語などに、天狗こたまと云ることあれば、天狗とは別なるがごと聞ゆめれど、そは当時世に天狗ともいひ木霊とも云るを、何となくつらね云るにて、実は一つ物なり、又今俗にこたまと云物は、古へ山彦と云り、これらは此に要なきことどもなれども、木霊の因に云のみなり[……]磐根・木株・草葉のよく言語(ものいひ)したぐひなども、皆神なり〉[……]貴きもあり賎きもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、[……]〈最賎き神の中には、徳(いきおい)すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや〉
(『古事記伝』1764~1798)
*異常なことができるならば、善悪にかかわらず、キツネも天狗も竜も神である。『古事記伝』のなかでも一番有名なこの部分は、基本的には記紀における「迦微」概念の外延を示したものであるが、部分的に宣長の同時代における妖怪を意識したところも見られる。喧嘩相手の上田秋成とは違い、宣長は同時代の怪異妖怪をほとんど語らなかったし、ここでも「ここで別に言うことではないが」と言っているが、けっこう熱く天狗について語っている。

「妖怪は神経のせい」言説はどこまで遡れるのか?

三遊亭円朝が『真景累ヶ淵』(活字1888)の始めに「幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方のお嫌いなさる事でございます」と語ったように、「妖怪や怪談なんてものはない!」と否定する言説は明治時代の「文明開化」に始まった、というか本格化したと一般に考えられている。妖怪研究でいうと、たとえば江馬務は、『日本妖怪変化史』(1923)の叙述を幕末で終わらせて、「明治以降、学術の進歩とともに神秘幽冥の秘鑰は学理の明鏡の下に啓かれ」たと述べている。円朝の時代はともかく江馬の時代は、少し前に亡くなった井上圓了の迷信(妖怪)打破運動が影響を強く残していただろう。

もちろん(柳田國男が圓了をディスって言うように)近世期にも否定論はあったし、近代以降も肯定する言説はあった。とはいえ近世と近代でまったく同じ言説が繰り返されていたわけではない。特に否定派からみて大きく変わったのは、自説を位置づけるべき知的体系がまったく別ものに転換したということである。具体的に言うと、近世の否定論は朱子学石門心学によることが多かったが、明治以降は「神経」をはじめとする西洋近代的な学問によることが多くなったのである。

この転換は、狐憑きの否定論が近世と近代でどう違うかを見ると分かりやすい*1狐憑きを心的なものとみなす言説は、近世の医家や儒者を中心として多数あったにもかかわらず*2、明治時代の多くの(権威ある)文献が、西洋近代医学に由来する「神経病」を根拠とするようになってしまったのである。

神経を原因とする言説は、早いところでは、川村邦光が指摘するように『明六雑誌』に載った「狐説の疑」(1874)が挙げられるだろう。この論説は、狐憑きは「近来西洋の説来りしより、皆一種神経迷乱の疾たること、明かになりぬ」と断言しているのである*3

神経を持ち出して否定されるのは狐憑きだけではなかった。円朝の言うように幽霊もまた「神経」の働きに還元されたのである。三浦正雄は「近代の怪談についてのスタンスの主流は、怪談を病理として理解するということで、近世までの怪談観とは大きく異なっている」と指摘している*4。江戸期に出回っていた怪異否定論は明治期に入って一旦リセットされ、改めて西洋近代科学の光のもとに再解釈が行なわれるようになったのだ*5

こうした妖怪否定論に用いられる当時の「神経」は、人体組織としての「神経」というより、心の負担のかかった状態を指すことが多かったようである(ちょうど英語のnervousのように)。また、佐藤雅浩が指摘するように「この時代に精神疾患を表わす一般的用語であった「狂気」や「痕癒」、そして法律用語であった「精神喪失」などの概念は、因習打破の文脈で用いられることが殆どない」*6ことも興味深い。佐藤はこの理由を、東洋医学の「心経」や般若「心経」のイメージから考察している。「心」という漢字が表しているように、「神経」はまさしく「心」でもあった。

ところで谷口基は、怪異現象を「神経」「神経病」のせいにする言説の始まりはわかっていないと述べつつも、『旧習一新』(1875)を古い例として挙げる*7。また一柳廣孝は、やはり1875年に『読売新聞』*8に掲載された「神経病というものは我心のおもいが業といたすものにて決して幽霊などというものは世の中には有りません」という記事を早期のものとして紹介している*9。川村が紹介する「狐説の疑」は特定の怪談に対する言説ではないので、厳密に言うなら谷口や一柳の想定しているものとは異なるのだろうが、1874年の記事なので『旧習一新』や『読売新聞』記事よりも1年さかのぼることができる。とはいえ「狐説の疑」の文言からして、神経による説明が始まった時期はさらに前の時代に求められるだろう。

それでは「神経」に原因を求めるのはいつ頃からだと言えるのかということだが、先行研究をみるかぎり1874年か1875年を起点にしており、はっきりしたことは分かっていないようである。よく知られているように言葉としての「神経」は『解体新書』(1774)が初出であり、18世紀終わりから19世紀前半にかけては、もっぱら蘭学を修めた医者が用いるものだった。そのため、まずは医学的言説のなかに、神経による否定論が現れたのではないかと思うのだが、はっきりしない。

先行研究の豊富な「狐憑き」について見ると、本間棗軒の『内科秘録』(1864)巻五に「嘗て狐憑のことを洋学者数家に質問するに、「洋籍に狐の人を惑し、人に憑ことを説かず。且つ窮理を以てこれを考るに、狐憑鬼祟の類は、実に精神の疾病にて、決して鬼邪・狐狸の憑依するに非ず」と云へり」とあり、これが西洋医学の観点を利用してこの現象を「精神の疾病」とした最初期の例だと指摘されている*10。だが、棗軒の解説に「神経」の語は用いられていない。

洋学に依拠した妖怪全般の心因説については、管見ではさらに『気海観瀾広義』(1856–1858)巻一までさかのぼれる。

「ただ冤鬼妖怪は、誑惑癖をなすの妄念より出づ。否ば夢。否ば戯造。否ば暗夜、若は月下に嚝地を過ぎ、恐怖の余、一像を想出するに因る。……故に凡そ異事あれば、丁寧に注意し、務めてその因を察すべし。蓋しこの世界中、理外の事のあることなければなり」

ただ同書では、他の箇所で「神経」という語は用いられているものの、妖怪については用いられていない*11

実のところ、神経と否定論のつながりはもっと遡れる可能性もある。平田篤胤が初期の主著『霊の真柱』(1812)において、蘭学者を批判するところで「疫神、幽魂、狐妖の類ひも、四元の理、また神経の謂を知り、蘭書によりて考ふるにかつてなき理りぞ、など強言すめれど」云々と言っているのである*12。これをふまえると、否定論と神経とのつながりは従来の指摘よりも半世紀以上も遡ることになる。ただ、『霊の真柱』以前に、妖怪は神経の謂れを知ればありえないことだと論じた蘭学書は見つけられていない。また、篤胤の引くこの主張が19世紀後半における「精神の疾病」や心因説と同じものを指しているかどうかもわからない。「神経の病のせい」というのではなく「神経の仕組みをわかれば理解できる」という言い方なので、まだ「開化先生」の段階には達していないようにも見える。

参考までに篤胤と同時代の蘭医書を見てみると以下のような記述がある。まず廣川獬の『蘭療方』(1804)では、ある薬剤の有効範囲として「或は癇瘈失心、或は癲癇昏倒、或は風毒疼痛、或は狐狸邪祟等」が指示されている。この記述のなかでは、狐狸のなす病気が癲癇・失心などと並列されているが、少なくともここでは憑依の心(神経)的説明は現れていない。

また、江馬松斎編訳の医学書『和蘭医方纂要』(1817)巻一の「失気昏冒」(突然昏倒すること)は、その原因の一つを「或は狐狸妖怪の驚かす所と為る」とする。これに従うならば、狐狸は人間の身体内部にまで入り込むのではなく、あくまで外在的な行為主体として、人間をある種の病気にさせるということになる。その「驚かす」やり方は具体的には書かれていないが、「妖怪」という表現が付されていることを考えると、19世紀後半には否定されることになる、妖怪的な効力が想定されていたように思われる。

というわけで、いまいちよく分からないままなのだが、たとえば宇田川玄真『医範提鋼』(1805)に「凡そ眼・耳・鼻・舌の、視・聴・嗅・味をなすは、皆その神経の知覚感触の為に由る。即ち物を視るはその形色悉く眼中の諸膜及び諸液に透映し、眼底に系る所の視神経に触て知覚するなり」云々とあって、人間の感覚はすべて神経に依存することが説明されている。すでに18世紀には、怪しいことを心の迷いのせいとする言説の一群が花開いていたので*13、そうした説明を西洋医学パラダイムで読み替えた蘭医・蘭学者がいたのかもしれない。

 タイトルに対する答えは出ていないので、これからも地道に探していきます。

*1:狐憑きと神経病の関係については、川村邦光1997『幻視する近代空間 迷信・病気・座敷牢、あるいは歴史の記憶(新装版)』pp. 82–109;兵頭晶子2008『精神病の日本近代 憑く心身から病む心身へ』;佐藤雅浩2013『精神疾患言説の歴史社会学 「心の病」はなぜ流行するのか』第2章を参照。

*2:中村禎里2003『狐の日本史 近世・近代篇』第6章;渡会好一2003『明治の精神異説 神経病・神経衰弱・神がかり』pp. 108–109。

*3:山室信一・中野目徹(編)2008『明六雑誌 中』p. 191。川村邦光2007「近代日本における憑依の系譜とポリティクス」『憑依の近代とポリティクス』pp. 24–25参照。

*4:三浦正雄2007「神経病としての怪談 日本近現代怪談文学史(1)」『埼玉学園大学紀要 人間学部篇』7: 268。

*5:横山泰子1997『江戸東京の怪談文化の成立と変遷 一九世紀を中心に』pp. 308–314。

*6:佐藤、p. 115。

*7:谷口基2009『怪談異譚 怨念の近代』pp. 68–70。川村『幻視する近代空間』p. 102も同様。

*8:ちなみに、当時『読売新聞』を発行していた日就社は、以前拙稿で述べたように、他の雑誌でも啓蒙的な解説を展開していた(廣田2016「俗信、科学知識、そして俗説 カマイタチ真空説にみる否定論の伝統」『日本民俗学』287: 12–14)。この拙稿では1875年創刊の『学びの暁』しか紹介できなかったが、同社の発行する児童向け小冊子『小学雑誌』にも、たくさん啓蒙的言説が確認できる。たとえば1876年8月16日刊の第48号には「お化といふ者はある筈はない。あれは皆な気から見る者だから、そんな虚(うそ)を云て聞せるのではないよ」とある。

*9:一柳廣孝2014「怪談の近代」『文学』15 (4): 19。

*10:中村、pp. 411–413;兵頭、pp. 83–86。

*11:この箇所はけっこう有名らしく、1872年の東江楼主人『童蒙弁惑 珍奇物語 初編』上巻の「妖怪(おばけ)の説」などに、やや表現を変えて転用されている。

*12:新修全集7巻、p. 184。

*13:堤邦彦『江戸の怪異譚』pp. 350–354;門脇大2012「心学書に描かれた怪異 心から生まれる怪異をめぐって」『国文論叢』45参照。

国学者は西洋の「天使」(エンゲル)をどう見たか

一昨日、「平田派から柳田國男までの国学に見えたる妖怪論」と称して、現在進行中の某原稿の一部を転載したのだが、そういえば1年ほど前、「異類の会」で発表した時も物集高世を引いていたなあ、と思い出したので、また部分転載してみる。当時の発表タイトルは「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」で、レジュメだけはAcademia.eduのほうにアップロードしてある。

そのときはレジュメと別に読み原稿も用意していたのだが、いずれ整理してどこかの媒体に載せたいので、ここでは全文転載はせず、一昨日のエントリーと関係のありそうな、国学者のエンゲル(天使)論に関する部分だけ(レジュメでいうと4ページ終わりから5ページにかけて)載せてみる。(そのようなわけで、全体の文脈はレジュメを参照のこと)

ちなみに「国学に見えたる妖怪論」のほうは、僕にとっては妖怪研究の学史の一部という位置付けだが、以下のエンゲル論は、かつて書いた「カッパはポセイドンである」という論文の、草稿段階での一部(の一部)だったもの。でも、エンゲル論まで入れるとあまりに長くなってしまうのでカットし、その後、異類の会での発表機会を与えてもらった。読み原稿なので色々雑な表現はある。補足は[]に入れている。

補足:2年半前に書いた簡易年表も参照。

youkai.hatenablog.jp

(ここから転載)

西洋学問としての蘭学と対照的に思われる国学でも、西洋知識は積極的に吸収されていた。本居宣長は西洋天文学とアマテラスを融合して理解しようとしたし*1、わけても平田篤胤や彼の門下が蘭学を積極的に学んでいたことはよく知られている*2。たとえば国立歴史民俗博物館の「平田篤胤関係資料」目録を見ると、篤胤の生前は写本で出回っていた山村才助『西洋雑記』が蔵書にあったことがうかがわれ*3、これを彼が『霊の真柱』や『古史伝』で利用したことについて、中川和明による詳細な研究がある*4

篤胤は『玉たすき』九之巻(1824頃)において「エムゲル」という表記で西洋の天使に触れている。神の祐けが人生を左右することを解くなかで、以下のように注釈するのである。

「また是に就て思ふに、西洋の書等の初めに、かならず其を著せる人の肖像を出しあるを、其頭上に、エムゲルとて、大かた人形なる物の翼あるが、数多とび居る状を図する事は、その説に、人の一事に精心を入れて物するは、世に早く其事に労(いたづ)きたりし人〃の霊魂、その頭上により来て、祐くる故に、ますます精巧を成し得しむるを以て、此を図する由云へり。こは西洋人の窮理説の中に、もとも然も有らむと信(うけ)らるる説なり。」

ここで言われているのは『西洋雑記』にもある扉絵に描かれた天使のことであるが、篤胤は天上の神との関連については述べることなく、むしろ死者たちが人間の仕事を補助するという観念でもって説明しようとしている。蘭学の文脈では一般的に科学的考究を意味する「窮理」をこうした超自然的な文脈に用いようとするところからは、ややゆがんだ西洋的学知への篤胤の評価をうかがうこともできるだろう。彼はさらに続ける。

「こを蘭学者流は、謂ゆる天狗と、同じ物にいふも有れど、天狗とは、その言ふ意ばへ、やや異に聞えたり」*5

篤胤は、蘭学書においてエンゲルが天狗と訳されていることを知っていた(あるいは、そう認識していた)。しかし彼は、上述のエンゲルの特性をもとに、この同一視を微妙に否定する。『古今妖魅考』『仙境異聞』を引き合いに出すまでもなく、篤胤は天狗に対して強いこだわりを持っていた。そのため彼は、人間を導く上位の存在、守護神や産土神に近いものとしてのエンゲルを、仏教に近く山に住んでいる天狗と同一視することに無理はあると考えたのだろう。エンゲルは、同時代の蘭学とは異なり、形態論ではなく倫理的・神学的な意義でもって日本のものと明確に比較されるようになる。

おなじく篤胤の『印度蔵志』(1826)にも、おそらく同じ情報源を用いたと思われる、少し視点を変えた記述がみられる。やはり守護神が人のわざに応じて善悪に分かれることを述べる中で、エムゲルが出てくるのである。

「西洋人の窮理説に、人には各々其の業に従ひて、其を幸ふ物あり、是をエムゲルと称ふ。善業にまれ、悪業にまれ、其の業に専と勤しむ人には、殊に其物多く集ひて、其極境に至しむ。此の物に、善悪邪正ある事は更にも云ず、其態も、各々異にして、彼の国籍に、一芸に勤める人の肖像を載たるに、机辺上に、其物の多く飛相ふ趣を画たり。然も有げなる事なるかも」*6

こちらではより具体的に、エンゲルは人の善悪に応じてそのわざを助けるということが述べられている。この部分は『諳厄利亜(あんげりあ)興学小筌』とよく似ているので、おそらく当時の何らかの蘭学文献に書かれていたようである。ただ、たとえば篤胤のエンゲルに言及する芳賀登は「何らかの機会に洋書をみたのかもしれない」と述べるのみで、何を見たかは特定していない*7。どれに載っていたかは今後の研究課題になると思われる。

さて、それまでは写本で出回っていた『西洋雑記』が刊行された嘉永年間(1848‒1854)以降、活動拠点が異なる二人の国学者がエンゲルを自らの著作に採り入れることになった。一人は豊後の国学者・物集高世である。彼は1854年、妖怪・鬼神について『妖魅論』三巻というものを著している(刊行はされていない)。高世は1838年のとき京都で平田門下の六人部是香(1798‒1864)に師事したが*8、その19世紀前半の幽冥論への位置づけは定まっていない。

『妖魅論』巻中において、高世は天狗の実在を論じる。彼は、祝詞にその名が見える「高津鳥」と比較して、これが後になって天狗と呼ばれたのだろうと推測する*9。そして漢籍をいくつか引用したあと、「西洋の国にも似たる類の事多し。さるは皆此の高津神高津鳥の所為なるべし」と指摘して、「山村氏雑記」から長々とエデンの園、サルダナパル、そしてコンスタンティヌスの戦いの物語を引用する。高世は明言していないが、エデンの園の物語については、「邪魔」(サタン)が天狗だと考えているようである。またサルダナパル(『西洋雑記』ではサルダナパリュス*10)の下りでは、王の軍勢のところに「夜に至りて忽一人のエンゲル【天人の身に翅あるものをいふ】」が「剣を以て天より舞くだり、その諸営を撃」ち、多数を死に至らしめたことを紹介したのち(以上『西洋雑記』巻一の十ウ~十一オ)、「このヱンゲルも高津鳥の属なる物なるべし」と述べている*11。高津鳥という媒介はあるが、天狗とエンゲルは比較され、同定されている。彼も行智[『甲子夜話』にてエンゲル=天狗説を唱えた修験者]と同じくエンゲルを悪性の存在と考え、ときに大規模な災害も引き起こすものとみていたようである。

ただ行智や蘭学者と異なるのは、エデンの園の悪魔と天狗を比較していたことだ。高世は翼があるという形態も重視していただろうが、何よりも人間に災いをなす存在として天狗を捉えていた。そのため、キリシタン時代以来ふたたび天狗と悪魔が比較されることになったのである。一つ違うのは、エンゲルが依然として天狗だったという点だ。高世の著述には、蘭学の専門知識があった形跡はない。おそらく彼は、形態の水準を越えて行為主体性の水準で比較を行ない、それがために『妖魅論』では天狗と天使と悪魔が同じものとして統合されることになった。

もう一人の国学者は、江戸や京で活動した大国隆正(1793–1871)である。彼は主著『古伝通解』(1856ごろ)第六巻において、「隠界」(かくりよ)は時代や国土によって違うということを主張する。日本古代はツチグモがいたが今はおらず、天狗やキツネが現われている。

「さて国によりてたがふといふは、日本には天狗はびこりて、仙人すくなく、支那はまた仙人ありて、天狗すくなし。……おなじく日本のうちにても、四国にはきつねをらず、たまたまをりても、狸にところを得られて、キツネはありてもそのかひなしときく。九州にはまた水虎(かっぱ)といふものところを得てあり。……西洋にはエンゲルといふものありて、天竺の修羅、唐土の仙人、日本の天狗に似て、また一種のものと覚えたり。かのあたりの狐は、ばくることも、ばかすこともえせずといふ。これみな隠界の地によりてかはる証とすべきものなり」*12

隆正は、ほとんど同じことを嘉永年間成立の『死後安心録』や『神理一貫書』(安政期[1854‒1860]か)でも説いている。

隆正は他の著作でもエンゲルに言及している。たとえば『斥儒仏』(1853以降)では、無鬼論を批判しつつ、西洋も同様だとして「かのあたりの狐狸はいとにぶく、怪事をなさずといふ。されどもエンゲルなどいふ神物のあるによりなしとも定めがたく、鬼神を有無の間におきて、おもひわづらひてあるものなり」と論じる*13。この議論は、ある面では適切に当時の欧米における知的状況を捉えているとも言える。彼がどこからこうした知識を得たかは定かではない。芳賀登が紹介しているところによると、隆正は大坂に赴いたとき、蘭医として高名な緒方洪庵(1810~1863)からエンゲルのことを聞き「西洋にその理をきはめたるものなし」と言われたのだという*14。篤胤や高世と異なり、エンゲルまわりで隆正が『西洋雑記』を明確に参照しているところはない。書籍に加えて、洪庵のような蘭学者との人的ネットワークが彼の幽冥論を形成したと思しい。いずれにせよ、隆正は形態的な比較をとくに前面に出さず、超自然性を比較の土台にしているようである。

隆正の時代、国学者たちは政治運動に身を投じるかたわら、幽冥界の議論にも精力を注いでいた*15。超自然的領域がきわめて縮減していた江戸の世は、篤胤を転回点として、(幽冥論者にとっては)超自然的なものの実在が強く意識される世界へと変貌していったのである。その過程で、知識人が十全には捉えきれなかった怪異主体――狐狸、や天狗――もまた、超自然的な領域へと位置づけられていくことになる(これは高世の著作でも同様)。かつ、対外意識の高まりとともに、「西洋」の幽冥界への興味も弥増していくことになった。そしてエンゲルも、[キリスト教禁教以来]200年ぶりに、いるべき場へと戻ったのだ。比較対象は[蘭学と同じく]天狗のままだったが、国学でいう天狗は、篤胤以降、もはや動物の一種ではなく、神々へと連なる序列に並ぶ超自然的な存在となっていた。

(ここまで転載)

 

*1:斎藤英喜2012『古事記はいかに読まれてきたか 〈神話〉の変貌』pp. 71–95。

*2:たとえばDonald Keene, 1954, Hirata Atsutane and Western learning, T’oung Pao, Second Series, 42 (5);星山京子2003『徳川後期の攘夷思想と「西洋」』pp. 21–68;桂島宣弘1994「幕末国学像の再検討のために」『日本思想史学』26;前田勉2009『江戸後期の思想空間』第4章。

*3:国立歴史民俗博物館2007『平田篤胤関係資料目録』p. 377

*4:中川和明2012『平田国学の史的研究』第10章。

*5:以上、新修全集第6巻p. 534。

*6:新修全集第11巻p. 237。

*7:芳賀登1985『近世知識人社会の研究』p. 673。

*8:奥田恵瑞、奥田秀2000『物集高世評伝』p. 202。

*9:これは卜部兼倶以来の伝統的な解釈である。しかし、篤胤と親交の深かった「天狗小僧」寅吉は、高津鳥が天狗だという説を一蹴している(子安宣邦校注2000『仙境異聞・勝五郎再生記聞』pp. 59‒60)。

*10:『妖魅論』の翻刻テクストには「オルダチ・ハリュス」とあるが、これが高世の自筆本、弟子の写本、翻刻テクストにいたるどの過程でおこった誤記かは判断しかねる。

*11:奥田恵瑞、奥田秀「資料翻刻 物集高世著『妖魅論』上中下巻(中)」『国学院大学日本文化研究所紀要』97。

*12:野村傳四郎校訂1939『大國隆正全集』第6巻、pp. 282‒283。

*13:野村傳四郎校訂1938『大國隆正全集』第4巻、p. 198。

*14:芳賀登2003『芳賀登著作選集 第6巻 幕末国学の運動と草莽』p. 201。

*15:三ツ松誠2012「嘉永期の気吹舎 平田銕胤と「幽界物語」」『日本史研究』596;同2013「「幽界物語」の波紋」『近世社会史論叢』など参照。

平田派から柳田國男までの国学に見えたる妖怪論

平田篤胤が今で言うところの「妖怪」に多大な関心を持ち、『鬼神新論』(1805)、『稲生物怪録』(1806)や『仙境異聞』(1822)、『古今妖魅考』(1828)などを著したことは比較的よく知られている。しかし、彼の学統たる平田国学やその周辺の国学者たちも、大半は篤胤ほどではないにせよ、「妖怪」について各々の著作に記述をちりばめていた。ただ、妖怪に限定して体系的な理論を確立した国学者はほとんどなかったため、彼らの妖怪論はこれまでまとまって紹介されることはなかったように思う。

最近、木場貴俊氏が19世紀中盤の国学者・物集高世(1817–1883)の著作に注目して、そのなかの「怪異」の基本的な考え方を紹介した論考を発表している*1。高世については拙稿「カッパはポセイドンである」(2016)(リンク先academia.edu)でも少し論じた……が、高世が蘭学の成果をどう使っているのか、という(基礎もないまま)応用編を書いたようなものだった。木場氏の論考によって基礎が明らかになったと言ってよいだろう。

とはいえ、篤胤や高世ほどではないにしても(この二人は異常例外的である)、世の中にはまだまだ妖怪を論じた国学者はいる。今書いている原稿の一部がそういうことを扱っているので、数日前ようやく木場氏の論考を読んだこともあり、ここに転載してみる。なお、すでに散々論じられている平田篤胤本居宣長パートは省略。

ちなみに、後のほうで出てくる「妖怪の近代」という言葉は、以前の拙稿(リンク先CiNii)で、現代的な妖怪言説――妖怪は超自然的であり、神と互換的であり、非科学的であり、異界に所属する――が可能になった状況、として仮説的に提示したもの。平田篤胤は「幽冥(かくりよ)」という概念を重視した。彼のいう幽冥は単なる「あの世」ではなく、神々・死者・化物・動物の一部が属すところであり、西洋科学や漢意では捉えられない、空間的には「この世」と同じところにある異次元世界のことだった。この概念的総合は篤胤が成し遂げたもので、これをもって僕は「妖怪の近代」が成立した、と考えている。木場氏は「怪異(妖魅)」という言葉を使っているが、篤胤以降の国学では、分析概念としての「妖怪」を堂々と使える言説的状況になっているはず。

(ここから転載)

村岡典嗣が指摘するように、宗教性を強めていった篤胤以降の平田国学の系統は、各人各様に、さまざまな幽冥論を展開していくことになる*2

具体的にいくつか挙げてみよう。津和野の国学者である岡熊臣(1783–1851)は、篤胤の神学的宇宙論が展開された『霊の真柱』(1813)などを参考に『千世之住処』(1822)を書き上げた。同書は神々と死者のことしか論じないものの、「賤しき龍蛇の類すら、幽冥に属る物とて、現に形の見えぬを考ふれば」云々という断片的な記述からは*3、特殊な動物たちと幽冥とのつながりが自明視されていたことがうかがえる。また後年の『読淫祀論』(1845)では、狐狸やヘビ、カラスなどは人間と異なり「幽顕に出入往来」できるものの、それらの引き起こす怪異については、「皆その本は尊卑、貴賤幽神の幽意に出る事にして、天狗・狐狸・虫蛇の己が私に奇界[ママ]変怪を恣になし得る事はこれ無く候」と述べる*4。動物それ自体が超自然的というのではなく、善悪かかわらず神々が力を分与している、ということになる。幽冥の顕明に対する絶対的優位を示したものと読める。

なお、動物たちが人間よりも幽冥に通じているという思想は、もとは篤胤が『霊の真柱』にて明言しているもので*5、その後は『千世之住処』と同年に書かれた鶴峯戊申(1788–1859)の『天のみはしら考證』にも認められる*6。また、木場貴俊氏が指摘するように、物集高世(後述)の幽冥論にも同様の記述がある。さらに、筆者の見つけたところでは、明治3年のある新聞記事にも、同じような論理が展開されているものがあった(『明治期怪異妖怪記事資料集成』には未収録)。

村岡はまた、篤胤の後継者たち「に於いて、思想上著しく認められる発展の跡は、応報てふ考の自然の結論として、死後幽界に於ける霊魂の部所について、それぞれ説が生じた」ということも指摘する(p. 138)。幽冥の細分化が行なわれるようになったのである。

たとえば、平田門下で洋学の素養があった佐藤信淵(1769–1850)は、篤胤がチェックした『鎔造化育論』稿本(1824)において「天刑を受けたる悪鬼等往往此に党し。所謂幽冥中に於て一藩の妖界を造り。数多の愚人を勾引するも知るべからず」と述べ、曖昧ながら「妖界」という独自の異界概念を提示している。ただ、そこの居住者は明確ではない*7

同じく平田門下の六人部是香(1806–1864)もやはり「凶徒界」という領域があると考えた。それは生前悪事を働いた人間が行く、「謂ゆる天狗の類の妖魔の群党と為さしめ給ふ事なる」場であった(『産須那社古伝抄広義』巻三、1859)*8

また、矢野玄道は明治初年代の『八十能隈手』(1872)四之巻において、「幽界」は「神界(かむどこ)、仙界(やまびととこ)、妖鬼界(まがものとこ)」などに分かれていることを論じる。ただ、いずれも人間の死者がおもむくところであり、もっぱら倫理的な区分が適用されている*9

このようにしてみると、平田国学の有名人たちの主要著作を覗いてみても、狐狸や(人間の変じた)天狗ならまだしも、もともと化物扱いされている化物(見越入道など)まで射程に収めた理論を展開したものはほとんどない(『奇談雑史』『谷の響』などの怪談集を除く)。篤胤は見越入道も幽冥の化物と見なしていたので、この点で彼が異常先駆的だったのは事実であろう。なお、宣長以来の伝統がある悪神や、篤胤以降重視されている「まがもの」、「魔」については触れている著作もある。ただ、それらはどちらかというと死者や神々のバリエーションであり、本論の主題である化物的な妖怪とは少し遠いところにある。

やや特異な幽冥思想としては、熊臣と同じ津和野出身の大国隆正(1793–1871)のものが挙げられる。彼は平田門下ではなく、篤胤の思想を全面的に継承したわけではなかったが、現世と重なっているという幽冥の存在論については、他の国学者と同様に受容していた*10。隆正の議論で興味深いのは、日本国外の幽冥についての思弁が見られる点である。これは対外危機の高まりにともなう外国への関心*11によるものもあっただろう。主著『古伝通解』(1856)において隆正は、時代や土地によって幽界には違いがあることを示す。日本では、かつて「土ぐも」がいて幽顕にわたり暴れており、その次は「鬼」が現れたが、今ではいない。「いまは上古になかりし天狗といふもの隠界(かくりよ)につきて顕界にをりをりかたちをみせ、また狐といふもの顕界にうまれて、つひに幽界に入る」。それだけではなく幽界は国によっても違う。日本には天狗が多いが、「支那」では仙人が多い。国内でも四国には狐がおらず、狸の勢力圏である。九州には「水虎(かっぱ)」がいる。その一方で、「天竺」には修羅や餓鬼がいる。そして「西洋にはエンゲルといふものありて」、これまで挙げた存在と似たようなものであるという。そのかわり、西洋の狐は化けもしないし化かしもしない*12。隆正は、幽界の詳細な人口調査こそしないものの、怪異を引き起こす代表的なものとして土蜘蛛から鬼、天狗、そしてエンゲルまで例示する点で*13、篤胤とは異なった方向で幽冥の存在者の枠を大きく広げていったと言える。ただ、この議論がのちの妖怪論に直接影響を与えた形跡は見られない。

最初の方で少し紹介したが、豊後の物集高世は、篤胤以降では珍しく、化物に特化した著作『妖魅論』(1854)を遺している。同書の理論的内容は木場論考を参照のこと。何よりも多くの妖怪たちを幽冥の存在者として取り入れているのが目を引く。たとえばヤマワロ、カッパ、山男、山女、コダマ、樹木の精霊、竜、琉球のキムマムモム、西洋のセイレネム、海入道、船幽霊、魍魎、水虎、魑魅、スダマ、天狗、高津神、高津鳥、エンゲル、各種の動物憑き物、犬神、クダ、ドビョウ、カマイタチ、鬼、羅刹鬼、夜叉神、テイホム、ユキトキ、セルベリュマ*14など。さらに彼は、これだけ挙げておきながら、まるで妖怪オタクであるかのように、「此の餘怪物妖精なほいと多し」とさえ述べる(下321)。

これほど大規模に、死者や神々以外の存在者を幽冥へと割り当てたものは、近世においては類を見ない。同書の終わりのほうで、高世は「神も妖怪も。おなじ幽冥物(かくりもの)なるに。此の幽冥物は有りて。彼の幽冥物は無しといふべきやうなければ也」(下335)と主張する。国学者たちよ、神の実在を認めるならば、妖怪も認めよ、なぜなら同じ幽冥的存在だからだ、というわけである。この主張の結果は、あらゆる妖怪を幽冥へと取り込む、存在者のインフレーションであった。だが、その意味で高世の『妖魅論』は、近世国学における化物・妖怪論のポテンシャルを最大限に引き出した著作だと見なすことができる。

高世は『妖魅論』に続けて『神使論』(1854)も著したが*15、同書では篤胤を引き継ぎ、「鳥獣」は基本的に幽冥の領域にも存在するものだということが述べられている。それでは「妖魅」と「鳥獣」との違いは何かというと、前者は「幽冥世の物の中なる。顕明物」であるが、後者はその逆なのだという(pp. 192–193)。「鳥獣」にはウブメドリなど、現代でいう妖怪も含まれているものの(p. 177)、全体としては、「幽冥」という異界に、現代の妖怪論でいう(怪異現象を除く)妖怪がほぼ収まっているように思われる。鳥獣と妖魅という区分は、実質的には、実証的に存在が確認できるものとできないものの区分を、巧みに幽冥論に移し替えたものと見なせるだろう。

化政期から幕末にかけて、幽冥論を展開した国学者たちは枚挙にいとまがない。しかし、その多くが神々と死者の行方にのみ専心しており、たとえ視野を広げてみても、せいぜい狐狸天狗が登場する程度である。その意味で、いわゆる化物の類を積極的に幽冥にぶちこんだ物集高世や平田篤胤、大国隆正は例外的であった*16。とはいえ、着目すべきは、彼らが持っていたいくつかの前提(現世と幽冥の地理的同一性、経験的事実としての怪談奇談、それと表裏一体となる怪談奇談の公的な非実証性など)が何を可能にしたのか、ということである。そしてそれは、神々や死者をふくむ非実証的な存在者たちの単一的概念化と、存在論的に特殊な空間――つまり「超自然的領域」――の割り当てという、「妖怪の近代」における妖怪論にほとんど等しいものであった。

一方で、国学的言説の外部となると、そもそも幽冥と現世という存在論的空間概念が通用しておらず、そのため、キツネやカッパ、場合によっては天狗のように実在が比較的認められていたものを除くと、死者や化物たちの存在論的領域はいまだに欠如したままだった。19世紀前半から半ばにかけて、化物や死者の実在性を否定する弁惑物や無鬼論は、経験論的な世界認識とともに、ますます知識人や庶民へと普及していった。それらは主に現世的物理に還元するか心的要因に帰す論理を用い、新たな領域を持ち出す必要性を有していなかった。しかし、単なる実在の否定や「合理主義」思想の普及は、それだけでは近代性を帯びたものにはならない。奇妙に響くことではあるが、国学的幽冥論の外部の、現代的観点からは「合理主義的」と見なされる言説領域では、いまだ「妖怪の近代」は到来していなかったのである。

ちなみに物集家というと、高世よりも『広文庫』を編集した息子の高見(1847–1928)のほうが有名であろう。彼もまた国学者で、そして彼もまた妖怪存在の多くを幽冥界に放り込んでいた。1922年に出版された『人界の奇異 神界の幽事』が分かりやすい。高見は『妖魅論』を書いた人物の息子だけあって、父親と同様に「神界」の存在者として多くの「鬼魅」を掲載している。 

「また、神界には、鬼魅といふ物ありて、多くは、悪神に属して、人を蠱惑し、或は、人を損傷する事もあり、世にいふ、天狗、犬神、猫神、猿神、飯繩、山男山姥、河太郎なども其の類なり……また、鷲、鳶、狼なども年経て老いたるは化るといふ」*17 

彼の幽冥論自体は、父親からそれほど隔たっているわけではない。しかしこの小文は、神道天行居友清歓真(1888–1952)が『烏八臼』(1927)という霊学アンソロジーに収めたことにより、昭和初期の霊学関係者に読まれることとなった。友清によるとこの小文は、2年前、機関紙『天行新聞』に掲載されたもので、「簡単に幽界の事情を覗かせるに便利な材料」ということで選んだという*18。霊学的宇宙論において「鬼魅」は中心的なものではなかったにせよ、現代的妖怪概念で取り込める諸々の存在者が、現世や科学を超越した空間にいるという「妖怪の近代」的な観念は、戦前の一部新宗教においても共有されていたことがうかがえるのである。

最後に、柳田國男(1875–1962)がこの流れを汲むという点を見てみよう。柳田が、「妖怪」について語った最初期の文章は、文芸雑誌『新古文林』に掲載された談話「幽冥談」(1905)であるとされる。この文章は、「僕は井上圓了さんなどに對しては徹頭徹尾反対の意を表せざるを得ないのである」(p. 255)と言い、近代的啓蒙主義者・圓了に真っ向から対立した立場を表明したものとしても知られている。

とはいえ、この態度表明は、必ずしも単純に連想されるような、「科学的と称して調べていき、結果的に迷信として排除してしまう」ことに対する「妖怪変化をつくり上げていく人間の精神構造」を問題にする立場*19、すなわち人文学的な立場に基づいたものではない。むしろ柳田は、少なくとも「幽冥談」においては、天狗や怪談の部分的な実在性を受け入れていた。そして、天狗や実話としての怪談の背後にあるのが「幽冥」(かくり世)であり、その概要は平田篤胤によって初めてまとめられた――という点で平田国学を高く評価するのである。

その一方で、柳田は「幽冥談」の終わりのほうで「この頃は僕も非信者の一人になって居る」ことを告白する。おそらくこの転向により、柳田は妖怪を近代的理論「共同幻覚」として捉えることができるようになったのだろう。とはいえ、稲生平太郎が指摘するように、柳田は幼少期に強烈な「神秘」体験をしていた。そして、その体験が「幽冥教」と深くつながっているように彼には感じられたし、それを科学の観点から全面的に否定することもできなかった*20

この時期の柳田が懐疑論を簡単には受け入れなかったのは、1909年の「天狗の話」にも明らかである。彼は天狗や「フエアリー」を始めとする「おばけ」を「幽界の勢力」「魔界の現象」と呼び、「偶然私と貴君とが之を見なかつたからと云つて、一言の下に否定し得るやうな簡単な問題ではありません」と警告する*21

とはいえ、本論の問題は、実在性に対する態度それ自体ではなく、彼が天狗や「おばけ」をどのように語り、問うことができていたのか、ということである。柳田が説明する幽冥界の存在論は、次のようなものである。 

「此の世の中には現世と幽冥、即ちうつし世とかくり世と云ふものが成立して居る、かくり世からはうつし世を見たり聞いたりして居るけれども、うつし世からかくり世を見ることは出來ない、例へば甲と乙が相対座して居る間で、吾々が空間と認識して居るものが悉くかくり世だと云ふのである」(p. 247) 

この部分は、篤胤が『霊の真柱』で説いたものとほぼ同一である。そして、この時期の柳田が、幽冥に関して篤胤を高く評価していたのは前述のとおりである。さらに、彼の歌の師匠であった松浦萩坪もまた、柳田の回想によると「時として幽冥を談ぜられた事がある……かくり世は私と貴方との間にも充満して居る」と語っていたという*22。萩坪の国学系統は明確ではないが、その淵源はやはり篤胤にあると考えられる。彼からの影響を受けた初期柳田の幽冥思想は、子供のころから篤胤の書に親しんでいたのと相まって、平田国学的な色彩を強く帯びることになった。

また、柳田は先述のように、圓了の科学啓蒙的な妖怪学に強く反発している。そして、江戸期から「物理学」で説明しようというものはあったが(弁惑物のこと)、今からみると「一笑に値する」ものでしかない、と退ける。結局のところ、「井上圓了さんなどは色々の理窟をつけて居るけれども、それは恐らく未来に改良さるべき学説であつて、一方の不可思議説は百年二百年の後までも残るものであらうと思ふ」(pp. 255–256)。いつまで経っても科学の光の及ばぬところ、そこに不可思議があり、そこに妖怪がいるのである(とはいえ圓了も同じことを言っているのだが)。幽冥と科学との対立は、当時の柳田にとって周縁的なものであったが、それでもあえて前景化してみるならば、彼の思想における幽冥は、まさに「超自然的空間」と言うことができる。

(転載ここまで)

僕が国学的妖怪論を気にしているのは、民俗学的妖怪論がそこに直結しているから。この系統を明らかにしないと先には進めないだろう、という思いがある(かもしれない)。

*1:「怪異から見る神話(カミガタリ) 物集高世の著作から」『アジア遊学』217(2018)pp. 164–168。

*2:村岡典嗣2004「復古神道に於ける幽冥観の変遷」『新編 日本思想史研究』;桂島宜弘1999『思想史の十九世紀 「他者」としての徳川日本』第6章;原武史2001『〈出雲〉という思想 近代日本の抹殺された神々』第4章;桂島宣弘2005『幕末民衆思想の研究 増補改訂版』pp. 57–59。

*3:小笠原春夫(編)1988『神道大系 論説編二十七 諸家神道(上)』p. 90。

*4:加藤隆久(編)1985『岡熊臣集 下 神道津和野教学の研究』国書刊行会、pp. 640–641。

*5:新修全集第7巻、p. 145。

*6:『諸家神道(上)』p. 54。

*7:佐藤信淵1911「鎔造化育論」『平田篤胤全集 第二巻』p. 30。

*8:小笠原春夫(編)1988『神道大系 論説編二十七 諸家神道(上)』、p. 254; cf. 浅野雅直1989「近世後期国学者と民俗信仰 平田篤胤の「幽冥」の位置(下)」『日本学』13: 211;『〈出雲〉という思想』pp. 133–136。

*9:物集高見(編)1927『新註皇学叢書 第十巻』p. 93;cf. 『思想史の十九世紀』pp. 149–151。

*10:宣長・篤胤と距離を取っていた橘守部(1781–1849)についても同じことが言える。村岡、pp. 133–136; cf. 東より子2016『国学曼陀羅 宣長前後の神典解釈』pp. 70–71。

*11:『幕末民衆思想の研究』pp. 65–70

*12:『大国隆正全集 第六巻』pp. 282-283。『斥儒仏』(1853以降)でも同様のことが言われている(全集第四巻p. 198)。

*13:エンゲル(Engel)とはオランダ語で天使のことである。18世紀末以降、洋学や国学においては、エンゲルやその一種を天狗と同一視する翻訳実践が行なわれていた。廣田龍平「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か―日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」(異類の会、2017年7月15日、於大東文化会館)での発表報告を参照。

*14:ギリシア神話のテューポーン、エキドナ、ケルベロス。カタカナの誤読に由来する誤記が、どの段階(高世自筆か、弟子の筆写か、翻刻か)で生まれたかは不明。

*15:奥田恵瑞、奥田秀2007「〈資料翻刻〉 物集高世著『神使論』」『國學院大學日本文化研究所紀要』99。

*16:ほかに特筆すべき19世紀の文献として、参沢昭の『幽界物語』(1852–1855)、宮負定雄の『天地開闢生植一理考』(1857)、宮地水位の『異郷備忘録』(1877–1887ごろ)などが挙げられる。ただ、存在者のバリエーションとしては「天狗」や「魔王」の分類を事細かに描いたものが多く、そのほかの化物・妖怪はほとんど扱われていない。

*17:『人界の奇異 神界の幽事』p. 40–41

*18:『烏八臼』p. 8。

*19:宮田登2002『妖怪の民俗学』p. 54。

*20:稲生平太郎2013『定本 何かが空を飛んでいる』pp. 320–323

*21:柳田國男1909「天狗の話」『珍世界』1(3) : 25。

*22:柳田國男「萩坪翁追懐」『読売新聞』1909年12月12日付録2面; cf. 中川和明2012『平田国学の史的研究』p. 407–408; 一部宮地正人2015『歴史の中の「夜明け前」 平田国学の幕末維新』p. 367など。

『日本妖怪考 百鬼夜行から水木しげるまで』で論じられている作品

 本日刊行されましたマイケル・ディラン・フォスター『日本妖怪考 百鬼夜行から水木しげるまで』(森話社)、読んでみたいけど、どんな内容なのかよくわからない……という人たちのために、各章で取り上げられ、論じられている作品について、主なものを挙げてみました。なんとなく雰囲気がつかめるのではないかと思います。
 基本的に、登場順に並べてあります。もちろんこれ以外のものも色々と取り上げられています。

第2章「妖怪の博物学

中村惕斎『訓蒙図彙』(1666)
寺島良安『和漢三才図会』(1712)
鳥山石燕画図百鬼夜行』(1776–1784)

第3章「妖怪の科学」

井上円了『妖怪学講義』(1893–1894)
井上円了『妖怪玄談』(1887)
凌空野人『西洋奇術狐狗狸談』(1887)
小島百三『人身電気の図画』(1886)
坪内逍遥『柿の蒂』(1933)

第4章「妖怪の博物館」

夏目漱石「琴のそら音」(1905)
森鷗外「魔睡」(1909)
森鷗外「金毘羅」(1909)
森鷗外「百物語」(1911)
柳田国男遠野物語』(1910)
柳田国男「幻覚の実験」(1936)
柳田国男「一目小僧」(1917)
江馬務『日本妖怪変化史』(1923)
柳田国男「妖怪名彙」(1938–1939)
柳田国男「妖怪談義」(1936)

第5章「妖怪のメディア」

黒田義之監督『妖怪大戦争』(1968)
水木しげる「テレビくん」(1965)
水木しげるゲゲゲの鬼太郎(アニメ)』(1968)
水木しげるのんのんばあとオレ』(1977)
水木しげる『娘に語るお父さんの戦記』(1975)
「全国の小中学生を恐れさせる『口裂け女』風説の奇々怪々」『週刊朝日』1979/6/29
「″口裂け女″騒動で証明されたデマの猛威」『女性自身』1979/7/5

第6章「妖怪文化」

中田秀夫監督『リング』(1998)
小松和彦『妖怪学新考』(1994)
高畑勲監督『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)
京極夏彦姑獲鳥の夏』(1994)
『怪』(1997–)
三池崇史監督『妖怪大戦争』(2005)

 

日本妖怪考──百鬼夜行から水木しげるまで

日本妖怪考──百鬼夜行から水木しげるまで