三隣亡吉日起源説の起源

「三隣亡」(さんりんぼう)は、現在では建築関係の凶日として知られているが、もともとは吉日であった──という説が流布している。書籍のみならず、近年ではブログ記事やSNS投稿でも、判を押したように同じことが書かれている。たとえば『吉相の家づくり秘訣集』(1995)には次のようにある。

  • 昔の古い暦本には、三輪宝とも書き、大変めでたい日とされていました。この日に、やたてよし(屋立てよし)、くらたてよし(蔵立てよし)と書かれている由。それがいつの間にか三隣亡となって、迷信家の大敵となってしまったのです。いつ頃から「やたてよし」が「やたてあし」に変わったのか分かりません。一説には、いつの頃か、そそっかしい人がいて、「よ」を「あ」に写し誤ったものだというのです。迷信などというものは、おおむねこの類でしょう。

加えて、最初は「三輪宝」であったが、「よし」が「あし」になったのに伴い、「三隣亡」になったという説も広く流通している。この起源説に対して、基本的な事実から見ていきたい。

まず「三隣亡」という言葉は、『簠簋内伝金烏玉兎集』という室町時代に成立した陰陽道の暦注書に出てくる。最新の校訂版が載っている山下克明『『簠簋内伝金烏玉兎集』の研究 その成立と中世仮名暦の展開』(2025、思文閣出版)をみると、第五巻「造屋篇」の「七か条悪日の事」に

  • 三隣亡は 亥寅午亥寅牛亥寅午亥寅午

とある。十二支のうち3つが4組、あわせて12個並んでいるが、これは、たとえば1月ならば亥の日が三隣亡であり、5月ならば寅の日が三隣亡であるということを示す簡略表記である。直接建築関係の禁忌が指定されているわけではないが、そもそも「造屋篇」に書かれている悪日であり、また直後の由来譚に守宅神と鎮家女が亡くなった日を凶日とする云々とあるので、建築関係と解釈されるのが自然であろう。

近世に入ると、小泉松卓の『循環暦』(享保2年版=1717)に、「簠簋」からの引用として三隣亡が紹介され、ほかの悪日とともに、

  • 屋造りにこれを凶とす

とされる。三隣亡に関してぴったり一致する文章は『簠簋内伝金烏玉兎集』に見られないが、より明確になったとは言える(『簠簋内伝』との間にいくつか挟まっているのだろう)。

暦関係以外では、伊勢貞丈(1717~1784)の『安斎随筆』に、「田舍に三隣亡とて忌む日あり」として、「毎月亥寅午の日」がそれであるとしている。この日は「修屋採薪の功事を断つ」とあるので、ここでも建築関係の凶日になっていたということが言える。なお、彼は「この日を忌む事昔の陰陽家の説」と説明している。

さらに『東鑑要目集成』(1792)では、

  • 八竜日は三輪宝なり。亥寅午の日を三輪宝と云。俗、此日いほ[庵]を結ぶと火災ありと云

とあるのが見える。この時点(18世紀終わり)で「三輪宝」という表記もあったということだ。この表記については北静盧(1765~1848)の『梅園日記』が『簠簋内伝』を参照し、「三輪宝は三隣亡に作るべし」と指摘している。

そのようなわけで、

・遡れるかぎりの文献では「三隣亡」表記

・その時点で建築関係の凶日(悪日)だったっぽい

・18世紀初めには、より明確に建築関係の凶日であることが確認可能

・18世紀終わりには「三輪宝」表記が確認できる

・そのころ全国的な俗信ではなかった

ということは言えると思う。実際、藤巻一保の『安倍晴明『簠簋内伝』現代語訳総解説』(2017、戎光祥出版)でも、三輪宝のほうが古いというが『簠簋内伝』はすでに三隣亡と書いているということがはっきり指摘されている。

それではなぜ「よし」と「あし」の書き間違いなどという話になったのだろうか。

天文学者であった新城新蔵の『迷信』(1925)に、三隣亡を取り上げたところがある。新城は三隣亡が明治以前の民間の暦(仮名暦)に出てこないと指摘して、自身の手元にある慶応年間を含む暦から三隣亡にあたる日をいくつか抜粋する。見てみると、それらの日には確かに「やたてよし」「くらたてよし」と書かれている。すると、幕末には三隣亡がむしろ建築関係の吉日だったということになる……のだろうか?

実はそういうわけではない。新城は、たとえ三隣亡であっても、ほかの吉日と重なればそちらが優先されるので「よし」と書かれているという、暦のいい加減さを示しているのである。

新城のこの論説は、医師の日野九思(寿一)が著した『迷信の解剖』(1934)はちゃんと理解したうえで引用しているのだが、その翌年に出版された天文学者の鈴木敬信による『暦と迷信』(1935)は、まったく違う風に理解してしまっている。引用すると、

  • 昔の暦にはこの日に、やたてよし(屋立宜し)、くらたてよし(蔵立よし)と書いてある由である。何時頃から「やたてよし」が「やたてあし」に変わったか知らない。何時の頃か、そそっかしいのがいて、「よ」を「あ」に写し誤ったものだろうと思われる

「書いてある由」というのは、要するに「書いてあるのだそうだ」ということだから、鈴木は現物を確認したわけではなく、二次文献——おそらく新城の『迷信』――を読んだだけということが推測される。国会図書館デジタルコレクションを検索するかぎり、ほかに該当する先行文献が見当たらなかったからだ。というわけで、この推測が正しいと仮定して、以降、話を進める(たとえ間違っていたとしても鈴木の記述が実質的に無根拠であることに変わりはない)。

あらためて確認するが、新城は、ある日が三隣亡かつ他の吉日のときには「やたてよし」となっているとは言ったが、三隣亡の日すべてが「やたてよし」になっているとは一言も言っていない。鈴木は肝腎なところを誤解してしまったらしい。

その後も、新城の論説をちゃんと引き継いだものと、『暦と迷信』の誤解を引き継いだものが並列して存在していたが、作家の沖野岩三郎が書いた『迷信の話』(1937)になると、三隣亡について

  • これは以前三輪宝と書いたらしい。輪とは仏教語で大という意味があり、三大宝日であったのだと私は思う

という推測が登場する。

時代はすこし前後するが、1933年の『大言海』第2巻の「さんりんぼう」の項目は漢字表記を「三輪宝」とし、『東鑑要目集成』を引用している。このあたりも「三輪宝」が正統的であるという認識に影響を与えたのだろう。

戦後になると、民俗学者の今野圓輔が『日本人の生活と迷信』(1955)のなかで、三隣亡はもともと「三輪宝」であり、「今とは反対におめでたい日」だった、「屋たてよし」「くらたてよし」の吉日だったが、なぜか凶日になってしまったと書いている。彼は「おそらく神経衰弱にでもかかった人がこれを「三隣亡」と書きまちがえて」云々と推測している。

さらに翌年、毎日新聞のコラムを集めた『ポスト』第3集にも三隣亡はもともと三輪宝の吉日であり、「あわて者が“よ”を“あ”に写し誤ったのだろうとのことです」とある。今野は毎日新聞社にも勤めていたから、彼が書いたか、彼に聞いたことが文章になったのかもしれない。

このあたりで、冒頭の三隣亡起源説にある要素がおおむね揃った感じがする。以降、三隣亡はもともと吉日で三輪宝だったが、書き写しの過程で凶日になったという俗説が流布するようになったのだろう。