勘太郎火と勘五郎火

村上健司の『妖怪事典』には載っていないが、柳田国男の「妖怪名彙」にはひっそりと「勘太郎火」という妖怪が紹介されている(『全国妖怪事典』や『綜合日本民俗語彙』には載っている)。

オサビ 日向の延岡附近の三角池という池では、雨の降る晩には筬火というのが二つでる。(中略)二つの火が一しょに出るという話は、名古屋附近にもあった。これは勘太郎火と称してその婆と二人づれであった。『新訂 妖怪談義』pp.261-262

小松和彦はここにも注釈をつけているが、オサビの出典に触れるだけで、どうしたわけか勘太郎火については完全にスルーしている(p.299)。オサビの出典は『延岡雑談』で、今調べてみたところ、国会図書館の検索でも一つも見つからないし、CiNii Books検索でも見つからない。よほどレアな書物のようだ。そんな書物まで手に入れているのだから、さぞ勘太郎火の出典も見つかりにくいだろうと思いきや、そんなことはなかった!
近代デジタルライブラリーで試しに「勘太郎火」と検索すると、すぐに見つかるのだ。『明治事物起源』の石井研堂が編纂した『日本全国国民童話』(1911)という本のうちの一章である。石井は少年物を多く書いているので、これもそのうちの一つなのだろう。彼によると『日本全国国民童話』に収められた物語は、「多くは、編者が直接間接に各地方出身の人士について、その口授、或は筆錄を請うて得たもの」であるという。ならば石井が典拠にした、書かれたものとしての「勘太郎火」資料はないと考えてもいいと思われる。ちなみにこの本、あの山田野理夫編で1974年に再刊されている。

日本全国国民童話 (1974年)

日本全国国民童話 (1974年)

せっかくなので全文手打ち(ゆえに間違いがあるかも)でコピーして紹介しよう。

尾張 勘太郎
今は昔、尾張の国丹蛺郡の橋爪という村に、恠しい火が有りまして、村の人は、之を勘太郎火といふて居りました。毎年、夏の夜中になりますと、田畑の間のさびしい處を、松明ほどの光りを出して、ふらふら〳〵と、もえながら歩くのであります。又この村の川の土手に、度々きれる處が有りまして、村の人々の難儀になつて居りました。が、何の爲めとも知る人は有りませんでした。
美濃の國に、この樣なことを、上手に判断する婆さまが有りましたので、その婆さまに見てもらひました。すると、『これは、勘太郎といふ若者と、其おつかの仕業でござる』と、次の樣に詳しく言はれました。
『この橋爪村が、まだ五七軒きり家の無い頃、勘太郎といふ百姓が有りました。勘太郎は、早く父に分れ、母と只二人で、さびしく暮して居りました。
勘太郎の、年十七八の時の夏のことであります。旱の爲めに、田の水を引くに忙がしく、夜まで水引に勉めてました。すると、隣の人も亦、水引をやつて居りまして、よく有る習ひでありますが、雙方で水を爭ひました上げ句、終に喧嘩となり、打ちつ打たれついたしましたが、勘太郎は、餘りひどく打たれましたので、とう〳〵死んで仕まひました。
勘太郎を殺しました人は、今更ながら大層驚き、田の近くに穴を掘り、そこに隱し埋めて、家に歸りましたが、極内證にして、隱して居りました。
勘太郎の母は、そんなことゝは知らう筈有りませんから、その明くる朝、お辨當を持つて田に往きましたが、居りません。その邊方々をさがしましたが、終に見えませんので、心配でたまらず、歸つて隣り近處の人々に、斯くと知らせました。
近處の人々も、一方ならず不思議に思ひ、色々と相談して、夜晝幾日か續けて捜しましたが、とう〳〵見えないといふことに極つて仕まひました。
勘太郎の母は、ひどく悲み過しまして、全く氣ちがひの樣になり、飮み食も忘れてさがし歩き、たゞ晝ばかりでなく、夜は又松明をつけて、泣いて勘太郎の名を呼びながら、幾晩も幾晩もさがしました。しまひには、骨と皮ばかりになりまして、歩くこともできません程に衰へましても、『勘太郎勘太郎や』と呼びつゞけ、つひ松明を手にしたまゝ、空しく死んで仕まひました。
それから今日まで、四百年にもなりますが、二人の魂は、この世の中に迷つて居ります。それで、毎年、夏になりますと、松明の火が見えるのであります。又川の土手の度々決れますのも、その爲めで、二人の怨靈が、決して村の者を苦めやうとするのでは有りませんが、もともと水論からおきました爲めなのであります。
若し、村の人々が、力を合せて、土手の決れめの兩方に壇を築き、母の方を山ノ神、子の方を荒神とあがめ奉り、誠をこめて祭つてくれますならば、不思議のことなどは皆無くなるでせう』と、かふ言ふて聞かせました。
村民が、之を聞きますと、まんざら跡方の無い話の樣でもありませんから、その土手の決れる處に祭りの場を設け、名僧あまた呼びまして、お經をあげてもらひ、又そこに塔を建てゝ、花や香をあげるしるしとしましたのが、寛延三年午歳八月廿二日でありまする。この時におくりました法名、母は一乗院妙法大姉、子は照見院五薀全空信士とあつたさうであります。(pp.41-46)

現場である橋爪村は、現在の愛知県犬山市橋爪にあたると思われる。寛延3年は1750年。因縁物語について「上手に判断する婆さま」がこのように見てきたかのように話しているのが凄まじい。また、祭ったところで火が出なくなったとは書いていないがおそらく鎮まったのだろう。
さて問題は、この物語と柳田の話が微妙に食い違っているということである。まず「名古屋附近」とあるが、上記のようにこの物語は犬山市(当時の犬山町)のものである。名古屋ではないが「附近」といえば附近かもしれないので、これは誤差の範囲内だろう。次に「その婆」とあるが「その母」が正しい。これは因果を語る婆さまがあまりに印象に残ったがゆえの混同なのだろうか。それとも、実はお手軽に検索で見つけただけのこの「典拠」とは別の資料・情報源をもとに柳田は勘太郎火について書いたのだろうか。さらに言うと、柳田は二つの火がセットになっている例として勘太郎火を挙げているのだが、この文を読む限り、母親が持っている「松明の火」が見えるだけで、二つ火があるとはどこにも書かれていない!しかし挿絵のほうには勘太郎のものと思しき人魂の火と、母の持つ松明の火の二つが描かれている。もしかするとこちらのほうのイメージに柳田は影響を受けたのかもしれない。しかしこの点についても別の典拠があった可能性はある。

実際、1937年に出た『愛知県伝説集』(これも近代デジタルライブラリーにある)にはほとんど同じ話が「勘五郎火」として紹介されている。これも全文引用してみよう。

勘五郎火(丹蛺郡)
犬山町大字橋爪の百姓に勘五郎といふ男がゐた。年は十八で、母子二人の侘しい生活をしてゐた。或年の旱天に勘五郎の田は疾く水が無くなつたが、他の田にはまだ水がいくらか残つてゐた。
しかし勘五郎は其の夜、ふら〳〵として田圃に走つた。彼はとう〳〵自分の田に水を引いてしまつたのであつた。夜が明けた時には最早や、勘五郎の罪は明るみに曝け出され、利慾に情を忘れた近隣の人々は怒つて勘五郎を打ち殺した。人々は勘五郎の死體を水田の中へ埋めて、何食はぬ顏で歸つた。彼の母はこれをみて狂死した。それから夏の夜、橋爪田圃に二個の陰火が出て爾來四百年逭木川堤防は年毎に切れた。村人は妖火を恐れて紱授寺大和尚に乞うて勘五郎母子の幽魂を慰めたといふ。(pp.277-278)

見た感じこちらだと勘五郎が悪い感じになっているが、大筋は変わらない。ただし陰火が二つあると明記されている点では柳田の記述に近くなっている。この本はニュウドウボウズやヒヲカセの出典でもあるので、柳田が読んでいたことは間違いない。
「勘五郎火」のほうはそれ以外にも柳田の『妹の力』でも紹介されているし(ただし『愛知県伝説集』のものとは異なる!)、怪異・妖怪伝承データベースによると1923年の時点で『郷土趣味』にも載せられている。戦後の伝説集や自治体史にもいくつか掲載されているなど、それなりに有名な物語らしい。また佐藤清明『現行全国妖怪辞典』にも「ガンゴロー 勘五郎。怪火。愛知県東春日井郡」(p.17)が載っている。

だとするとなぜ彼は有名な「勘五郎火」のほうではなく「勘太郎火」を紹介したのだろうか?そしてなぜ小松和彦は類似伝説として勘五郎火を紹介しなかったのか?とはいえ、小松が注のあちこちで明らかにしているように、柳田の要約や紹介は間違っていたり誤解していたりすることもある。これももしかするとその一例なのかもしれない。