アメリカ民俗学の「メモレート」という概念

以前から、日本民俗学の「世間話」という概念は、アメリ民俗学でいうメモレート(memorate)に相当するのではないかということを話していたのですが、2009年に出た『女性の民俗伝承・民俗生活百科事典』(英語)に簡単なmemorateの項目があったので訳してみます。この項目の定義だと、メモレートには「超自然的」がかかわるとのことで、笑い話や色話なども含む世間話よりは狭い概念になっているようです。

 

Linda J. Lee, "Memorate," Encyclopedia of women's folklore and folklife, volume 2: M-Z, Liz Locke, Theresa A. Vaughan, Pauline Greenhill (eds.), Westport: Greenwood Press, pp. 406–407.

 

メモレート 

メモレートとは、超自然的なものと感じられる事件の経験談(firsthand account)のことである。こうした個人的体験の語り(narrative)は、短く、話の筋が一つで、構造がしっかりしておらず、公に語られるものではなく、近い過去に設定されるのが典型的である。メモレートの内容は一般に伝統的なものだが、そのテクストは個人的で独特であり、感覚的な細部を含むことが多い。そのような語りは「信仰譚」(belief stories)と言われることもあるが、幽霊や死者との遭遇、神秘体験、死や悲劇の予兆、夢の知らせ、超自然的な夜間の襲撃、UFO目撃など、多彩な話題に関わっている。メモレートはまた、民俗集団内で繰り返し語られることもある。たとえば、ある女性が、死の床にある祖母が母親のもとを訪れたということを又聞きで話すなどである。このような語り手は、おおもとの信頼できる情報源からの連なりを認識している。魔女術の話や妖精との遭遇、死者との通信などは、伝統的に女性に関係していたり、女性が語るものだったり、女性についてのものだったりするメモレートの類型である。

メモレートは、現実に起こった出来事の嘘偽りない報告として語られ、その経験の現実性についての主張が含まれることも頻繁で、また、超自然的信念は思弁ではなく、個人的経験や感性的知覚に基づいているのだということを強調する。メモレートは文化的信念をめぐる議論から生まれることもある。これらの語りは、そのような信念の複合体を探求し、話者たちがメモレートを用いて、自身や共同体の伝統を正当化しようとすることもある。そうした物語は、ある個人や集団の民俗・世界観を広く検討するときに取り入れられることもあり、一つの経験談が、ある個人の信念や経験の突っ込んだ研究のための基礎となることもある。信念はメモレートの中心ではないと考える研究者もいる。たとえばキャロル・バークは、囚人の女性が語る幻視の語りについて、自分たちの状況に対処するための戦略や象徴的な再演として解釈している(Burke 1992)。

このジャンルは、ここ数十年、重要さを増してきている。というのも、民俗的信仰が生きた伝統として顕れるさまを理解するための手がかりを与えてくれるからである。超自然をともなう個人的な経験談は、そうした伝統の社会的文脈や体験的側面について、信頼できる情報をもたらしてくれるのである。デイヴィッド・J・ハフォードの、超自然的な攻撃伝統への経験中心的アプローチは(ハフォード1999)、信仰伝承[信念にまつわる伝統]の研究者に多大なる影響を与えた。ジリアン・ベネットの、イングランドにおける女性たちの死者との出会いについての研究は、語りと信念、女性の物語構造とが交差するところに関心を持っている(Bennett 1989, 1999)。彼女による言説パターンの分析は、超自然的信念は予想よりもずっと広まっているということを示唆しているが、そうした情報は学術的言説で用いられる、一見して中立的な言葉に反応したものではないことが多い。むしろ、超自然的体験の経験談は、しばしば「メンツを守る曖昧さ」をもって注意深く口にされるものなのである(Bennett 1999: 14)。

民俗的信仰とメモレートと伝説の関係性や使い分けには議論がある。スウェーデン民俗学者カルル・ヴィルヘルム・フォン・シドウ(1878–1952)は1934年に「メモレート」という用語を提唱したのだが(von Sydow 1948)、メモレートは伝説の一形式ではないと主張した。というのもメモレートは伝統的ではないし、伝説にある誌的特徴を欠いているからである。メモレートが知名度を上げたならば、ある特定の集団の口頭伝承の一部になっていくことはあるだろう。語り手がメモレートを再話するにつれ、その物語は伝統的な伝説のモチーフやプロットの要素を付け加えることによって徐々に標準的なものになっていき、最終的に、それ自身が伝説としてコード化されることもあるだろう。

民俗学者リンダ・デーグとアンドリュー・ヴァージョニィ(Degh 2001; Degh and Vazsonyi 1974)は、ある決まったメモレートが伝達の連なりのなかで再話されるにあたり、語り手が一人称の語りを三人称で言い直し、共同的なほら話(fabulate)になっていくことを指摘する。同じように、一人称で三人称の作り話を語り直す語り手は、「疑似メモレート」あるいは「準メモレート」を生み出す。デーグとヴァージョニィは、そうしたほら話は、彼らが「先メモレート」と呼ぶメモレートを下敷きにしていると論じる。デーグは、メモレートや信仰譚、伝説を包括する用語として「伝説」を用いようと言う(1996, 2001)。分析のなかでメモレートと伝説を区別しない民俗学者もいる。たとえばエリザベス・タッカーは、メモレートとほら話、伝説に区別をつけず、アメリカの大学の怪談を研究しており、またタイプ・インデックスやモチーフ・インデックスもこうしたジャンルを区別しない傾向にある。