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妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

続き

第1章第2節「否定性 メラネシアの社会を書き直す」

  これは新しい戦略というわけではない。近ごろ、私は諸々の否定性を設定して、自分のよく知るパプアニューギニアのハイランド地方西部ではあれこれの概念群が適用されないということを示すなどして、楽な生き方をしてきた。

 ある概念群の中心には、他のハイランド諸社会に対してハーゲンが持つ、一般的ではない地位がある。ハーゲンの人々は、信仰集団への全体的加入儀礼や思春期の儀礼において両性(sexes)を定義しない、数少ない民族の一つなのである。この欠如を省察したところ、私は別の欠如へと導かれた。それは、たとえばハーゲンの人々は、私たちの言う自然と文化との関係に相当するものを、何であれイメージしていないということである。これはまた別の秩序から見た否定性だ。前者の事例は、加入儀礼がある、他のメラネシアの社会との比較に基づいたものである。その一方で、後者の事例は西洋社会が構築したものとの比較に基づいている。というのも、このカテゴリーが適用可能と見なされる状況が、外部由来の基準によって定義されなければならないからである。さて、エドマンド・リーチが、ブロニスワフ・マリノフスキーは「トロブリアンドの人々にとっては「全体としてのトロブリアンド文化」なるものは存在しない、と主張せねばならかった。それはトロブリアンドの人々が報告できるようなものではなく、民族誌家によって発見され構築されるべきものなのであった」と述べている[Leach 1957: 134]。リーチは、トロブリアンドの人々が語り、また報告したことのイデオロギー的重要性をマリノフスキーがどれだけ軽視したのかを皮肉っている。「彼は、ネイティヴのインフォーマントによる観念的構築物は愉快なフィクションでしかなく、せいぜい観察された行動の意義について、ちょっとした手がかりを与えてくれるだけ、と見なしていたようだ」[1957: 135]。私の意図は反対である―土着の概念化に欠けたものを術語で穴埋めするのではなく、外部による分析に欠けている空間を創出すること。メラネシアの人々が、統一性やまとまった全体といったイメージを持たないのではなく、私たちが、分析のなかでそうしたイメージを見えづらくしてしまうのである。だから、ここで望まれるのは、単にあれこれの西洋概念が適用できないというのを論証することではなく、より包括的な何かである。適用できないという事実が、単なる貧弱な翻訳の結果ではないというのを示すことが重要なのだ。私たち自身のメタファーは、どんな種類の分析にも浮上してくる形の、深く根差した形而上学を反映している。問題は、こうしたメタファーをもっとも効率的に置換する方法である。

 私は、ある特定の置換をとおして、メラネシア諸社会の人工物やイメージ―文化なるもの―にアプローチしてみる。私たちは、こうした文化の中心にあるのが「社会」と「個人」のアンチノミーであると考えるのをやめるべきである。

 この忠告には、何も新しいところはない。人類学の歴史は、社会の概念を物象化してはならないとか、個人は文化的構築物であり社会関係の体現である、といった趣旨の警告に満ちている。概してこうした警告は、西洋的な知識カテゴリーの内省的検討や、それらのイデオロギー的性格に対するラディカルな位置取りに由来している。実際、私がフェミニズムの論争を導き入れる意図の一つは、西洋文化において自発的に生まれた現代の批評に目を向けさせることである。ただし、ひっくり返すことのできる色々な文化的命題のうちで、私がこの置換を選ぶのには三つの理由がある。第一に、メラネシアについての人類学的思考における、アプローチ全体の基礎にある諸想定の集合として、執拗に姿を見せるその頑強さである。第二に、メラネシア的な社会性の諸観念についてどのように考えるのかを整理するときの焦点として有用である。私は、西洋的正統性として提示される諸観念に対して位置付けることにより、メラネシアにおける社会生活の本性についての諸観念の集合を引き出してみる。私のこの説明は、前者が西洋の思想家全員にとって正統であるということを要求するのではなく、そうしたものが保持する場が、戦略的な位置として、今の説明の構造に内在的だ、ということである。第三に、この命題は、項どうしの関係性として枠付けされるのが適切である。

 社会と個人は、実に面白い一対の項である。というのも、この二つは、社会性とは集合性の問題であり、また集団生活には本質的に複数形[多元的plural]という特徴があるがゆえに一般化するとイメージするように仕向けるからである。「社会」は個人と別の個人をつなぐもの、個々人間の関係性と見なされる。そのため私たちは、社会とは、それ抜きでは還元できない固有のものとして現れる諸々の人格をまとめる、秩序化や分類付け、そしてこの意味で統合する力であると考える。人格は社会の刷り込みを受け、また別に、そうしたつながりや関係の特徴を変化させ、入れ替えるものと見なされることもある。しかし、個人として、人格はそれらをまとめる諸関係とは概念的に別々のものとイメージされる。

 諸々の関係性の創出や維持を示すために、社会性の概念を留めておくのは有用だろうが、メラネシアの人々の視点をコンテクスト化するために、単数形そして複数形で社会性について語ることができるような語彙が必要となるだろう。メラネシアの人格は、固有の実体などといったものではなく、個人的と見なされるのと同じくらい、分人的なのである。人格は、その内部に一般化された社会性を含み込んでいる。現に、人格はたびたび複数形として、それを産出した関係性の合成の場として構築される。単数形の人格は、社会の小宇宙としてイメージできる。この前提は、母親の身体内に含み込まれた諸関係のイメージに向けられる注意にとって、きわめて重要なものである。対照的に、外部の観察者が、多くの人格がたずさわる男性的信仰活動[male cult]のパフォーマンスや集団形成に認めるような、ある種の集合的行為は、しばしば統一体のイメージとして現れる。このイメージは内的均質性、脱複数化のプロセスから創出され、一般化された統合的な組織原理それ自体の実現というよりは、固有の出来事や個々の成果をとおして動き出す特有の諸同一性の実現として現れる。

 しかし、あるアンチノミーを別のアンチノミーに代え、メラネシアの人々が集団生活を統一体として象徴化する一方で、単数形の人格が合成体であると結論付けるだけでは、十分ではない。この区分が意味するのは、それらの関係が、依然として社会と個人の関係と比較可能だということである。そして、関係性としてのこの区分にまつわる問題は、西洋的な必然的帰結である。つまり、社会と個人との差異にもかかわらず、というか実際にはその差異ゆえに、社会と個人の一方が他方を修正するか、何らかの統制を行なうと見なされてしまうのである。このアンチノミーの核心にあるのは、支配性という仮定的関係だ(社会が個人に働きかけ、個人が社会を形成するという、私たちの対比的観念のように)。メラネシアの諸文化における中核的な諸変形は、何に関わるにしても、この関係には関わっていない。集団的な出来事が別々の諸人格を一つにまとめるのは確かだが、それが人格を社会的存在に「する」わけではない。それとは反対に、脱複数化した集団的出来事は、我が道を行く自律的な人格が行なうのと同じくらいに、彼らに対して非道徳的で反社会的な特徴を持つとさえ論じることができよう。ここでいう諸関係は、階層性ではなく相同性と相似性を巻き込んでいる。

 ある意味で、複数形と単数形は「同じ」である。お互いに相同的なのである。つまり、多数の人格をまとめることは、一人の人格をまとめることと実に似ているのである。集団あるいは集合として概念化された無数の人格の統一体は、彼らに差異をもたらすものを抹消することを通じて到達されるのだが、このことはまさに、人格が個人化されるときにも起きている。内部での差異化の原因は、抑制されるか破棄されるのである。実際、ある全体論的な条件が、別の全体論的な条件を引き出すことになる。だから、男の集団あるいは女の集団は、個々の成員を、彼(女)らが集合形式(「男たちの一つの小屋」、「一つの母系リニージ」)で創出したものを、単数形式(「一人の男」、「一人の女」)で複製するものと見なすことだろう。言い換えると、諸々の個人(「多」)としての、諸々の個人の複数性は、諸々の個人の統一体(「一」)と等しいのである。

 しかし内部での差異化の抑制は、ある種の複数化されたコンテクストにおいて生起する。それが、差異化された対(pair)あるいは二人組(duo)という特殊形式をとる複数性である。「多」と「一」は相同的だろうが、どちらも対とは等しくない。単数の人格か、あるいは集合的集団が別のものとの関係に入るとき、どちらの集まり(party)も還元できないほど相手方と差異化されるかぎり、その関係が維持される。どちらも、相手方の観点から見て、あるいは相手方との相似により、統一体である。こうした関係に見られる紐帯や同盟を、より大きな集合体に組み込むことはできない。というのも、この二者関係(dyad)は、内部での分割によってのみ統一体となるからである。その結果、対になった存在は、私たちが示唆したくなるような言い方では、「より広い社会」という統合的題目のもとにまとまることはできない。

 単一の、合成された人格は再生産しない。対を形成するために別の人格と結合することができるのは、統一的状態においてのみではあるものの、行為の源泉にして所産であるのは、この二者的に想定された関係性である。関係の産物は―それが創出する人格を含めて―双数的(dual)な諸起源を持たざるをえず、よって、内部的に差異化されている。この内部的で二元的(dualistic)な差異化は、今度は統一的個人を生産するために、抹消しなければならなくなる。

 社会生活は、ある状態から別の状態へ、ある社会性の類型から別の類型へ、(集合的あるいは単数的に現れる)ある統一体から、別の統一体の観点から分かたれあるいは対になったその統一体へ、という絶えざる動きのなかに存在している。この入れ替わりは、農作物が土壌中で成長すると見なすときのやり方から、政治領域・家庭領域の二分法に至るまで、無数の文化形式の全体にわたって複製されている。ジェンダーは、それをとおしてこの入れ替わりが概念化される、一つの原理的形式なのである。「男性的」であることや「女性的」であることは、個別の状況下で、全体論的な統一状態として生起する。一が多である様式においては、男性形式あるいは女性形式はそれぞれ、その中に抑制された合成的同一性を含み込むと見なされている。それは、両性具有的に変形されたものとして活性化されるのである。双数の様式においては、男性あるいは女性は、すでに自身の内部での差異化の根拠を破棄していれば、その対立者と出会うことができる。よって、分人的な両性具有者は、対応する個人との関係において、個人として表現される。内部的な双数性は、相手のいるところで外在化されるか引き出される。「半分」の人格であったものは、一対の「片側」になっていくのである。

 複数形に二つの形式があるように(合成と双数)、両性具有には二つの形式が、というか単数形には二つの形式がある。単数の人格が小宇宙だとイメージされるということは、単に、観察者が何度もしていることだが、身体に大きな意義を与えるメラネシア的思考における広範な肉体のイマジュリに着眼するというだけではない。それは、身体が単数形式であるかぎりにおいて社会の小宇宙である、と知覚することだ。この形式は、総体かつ全体論的なもの(both as a whole and as holistic)として、ある存在のイメージを提示する。というのも、これは内部に多様な複数形の諸関係を含み込んでいるからである。この全体論的身体は、そうした関係性を参照して構成されるが、その関係性のほうは、全体論的身体にその可視性を依存している。そのため、私が述べてきたこれら二つの様式は、身体的過程における諸段階としても記述しうる。個人化するために、複数形の諸関係は、まず双数形で再概念化され、次いで、双数的と見なされた、自己の部分を取り外せるこの存在が分割される。それを引き出す原因は、異なる他者がその場にいることである。

 そして、複数の同一性からの派生物とされた単数形の人格は、別々の男性的・女性的諸要素から構成された分人へと変形されるだろう。しかしこの二つの構築あるいは様式には一つ違いがある。一つ目の場合、複数性は、取り囲まれ、あるいは覆い隠されることで、差異をとおして抹消することができるが、二つ目の場合、抹消は取り外しによって達成されるのである。これらの諸操作は、関係性や社会生活の生産性を可視化する方法にとって基礎的なものである。ジェンダーが、こうしたヴィジョンが実現されるための形式をもたらすのだから、ジェンダーはまたこうしたヴィジョンによって形成される。メラネシア文化の中心にあるのが社会と個人との階層的関係であると考えるのをやめるべきだとするならば、私たちはまた、男性と女性の対立が、男たちや女たちがお互いに統御することについてのものであるべき、と考えるのもやめなければならない。この点に気づくことは、メラネシア諸社会における、男女の対立や、両性間での支配の本性を分析するための、新鮮な土台を創出することになるはずである。

 

続く(次回、最終回)