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妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

続き

第1章 人類学的諸戦略

 

 社会人類学者からすると、社会を持たない人々のことを自分が想像できるなどというのは不条理に聞こえるかもしれない。しかし本書が議論するのは、どれだけ社会の概念が分析に有効だとしても、それに対応する土着の概念に訴えるだけでは、この概念を使うことは正当化できない、ということである。人類学者はこうした正当化に思いを巡らすべきではない。西洋的伝統のなかで訓練を受けてきた研究者たちは、西洋思想の形而上学的な問題をいろいろな他者が解決するということを、現実には期待することができない。これを踏まえると同じくらい不条理なのは、社会と個人との「関係性」といった課題に、西洋的伝統とは無縁な人々が哲学的な精力を注ぎ込もうとするのを想像することである。

 とはいっても、「社会と個人」はメラネシアの人々や文化に関する人類学的アプローチに根強く残ってきた前提の一つであった。メラネシアの豊穣な祝祭的・儀礼的生活に、また同じくらい豊穣な一部地域の政治生活に向けられてきた、ある種の注目について考えることもできる。一例を挙げるならば、観察者たちは加入儀礼のことを、本質的には自然の生産物を、文化的に鋳造された創造物へと変形する「社会化」の過程として扱ってきた。そして、この過程は行為者の視点から理解される。たとえば男性加入儀礼の場合、男たちは女たちが開始したものを文化的に完結させ(少年の成長と成人的な役割の獲得)、または自力で自然に達成しさえする。同じように、政治的活動は団結の必要性に刺激されるものであり、個人の頑強な脱中心的傾向を克服する地域的統合の社会構造、という結果をもたらす。そのため、社会統制や諸集団の統合、そして社交性の推進そのものすべて、人々の儀礼的交換への関わり合いのなかに読み取られてきた。しかし私は、こうした理解のための枠組みを投げ出すのではなく、むしろ、そういったものが由来する利害関心を認識すべきだと論じる。こうした枠組みは、人類学的研究の原動力と密接な関わりのある、一つの社会の見方を是認してしまうのだ。しかしこの原動力自体、世界を創出する西洋的なやり方から生まれている。私たちは、あらゆる人々が創出する諸々の世界のなかに、西洋的なものの正当化を見出そうと期待すべきではない。

 研究にかかわる多くの目的にとって、上記の省察は重要なことではないだろう。しかし、人々の創造物にアプローチする方法に関しては、この省察はきわめて重要であるべきだ。本書における民族誌的な関心の一つは、典型的に「象徴的」行動をとおして構成されるとみなされることの多い、ある種の儀礼である。この過程で、私は政治的活動も同様に捉えられるのだと提案する。私たちが、このような行動すべてに、西洋社会科学の文化に対する評価や、それによる、社会生活の記述へのいくつかの関心についての承認を通してアプローチするということは、重要なものになってくる。このことはメラネシアの人々に関するかぎりで問題となってくる、ある種の関心をイメージすることができるような眺望を与えてくれる。さらに、こうした関心を切り離したままにしておくことの、具体的な意義もある。というのも、この地域における象徴的活動の大半は、ジェンダーのイマジュリを配置展開しているからだ。西洋の形而上学にも同じことがいえるため、男性=女性関係の解釈に文化的な間違いをしでかす二重の危険があるということになる。

 この危険性は、西洋のジェンダー・イマジュリがあれこれの活動に位置付ける個々の価値のみならず、社会の本性についての基礎的な前提、そしてその本性が知識の対象になる方法にも由来している。こうした前提をひっくり返すことでのみ、慎重な選択をとおして、「私たち」は、「他者」の前提がどのようなものかを垣間見ることができる。本書が沿っていく、一貫した私たち/彼らの軸は、みずからの言語という制約内での内的対話を通した、そのような瞥見にたどりつくための慎重な試みである。見下すような意図はない。

 

第1章、続く