今のところ最古の「ヌリカベ」文献

九州日日新聞 大正10年1月21日付

()は読みにくい部分のフリガナ、(?)は不鮮明で判読が難しかったところです。

木倉(きのくら)の怪
楠田祥
〔一〕塗り壁
 肥後の御船と木倉の平野から、東の方宗心原の臺(?)地へ上る坂路の一つに「迫路」と名づけらるゝ奇怪な坂があります。短い坂で、そして左程急峻でもありませんが、それでも此の坂は、昔以來、隨分と有名な妖怪の棲家であります。
 曲がりくねつた此の坂は其の南側に、輕石混ざりの堅硬な絶壁が聳へ絶壁は一面に恐ろしげな羊歯類に被ひかぶされて居ます。絶壁の上は樫や椿や欅や、そして無數の竹類が無數に生茂り、總てのお怪(ばけ)の棲家と同じく此處も又、晝尚ほ暗き氣味の惡い場所であります。
 此處に出る妖怪は色々の仕掛に於て村人の魂を奪ひます、夜更けに通る村人は、時々、其の絶壁の上から無數の磊(こいし)を投げかけられるのです、まるで磊(?)を掃き落とす樣に一斉に投げかけられる。或人は又、その目の前に忽然として鍋の蓋がぶら下るのに出會したと恐ろしげに語ります。
 けれど此の坂の、村人に最も恐れらるゝのは、此の坂に於て、奇怪なる『塗り壁』の怪が現はれるからであります。
 日が暮ると村人はなるべく此の坂道を通らない樣にします、けれど夜、止むを得ぬ所用あつて此の坂を通る時は、必ず此の恐ろしき『塗り壁』に嚇されます。村人が此の坂を上つて、やがて中途まで來ると、突然、其の目前に眞白な壁が出來ます、壁より外何物も見えなくなります、月も見えなくなり絶壁も樹木も道路も消え失せます[、]もう恁(か)うなつたら駄目です人は一步も進む事は出來ません。強いて進まうとすれば屹度、溝に落ちたり崖に突き當つたりすると申します。眼前に此の生々しい壁が出來た時は、人は先づ第一に膽力を落ちつけるが肝腎だと言ひます、最も安全な方法は氣を落ちつけて此の壁を手で塗り廻すか、或は「ヤレ〳〵、出たか〳〵どれ、では一服やるかなあ」位の調子で其の邊の石ころに腰でもかけて、氣永に煙草でもふかして壁の消えるのを待つのが第一だと申されます。
或る夜、一人の豪氣な男が此坂に通りかゝりました、すると果して目前に生々しい塗立の壁が現れました、癇癪持の此の男、腰を下して煙草を吹かすなぞの氣長な事は出來樣はありません、いきなり大劔を引き抜いて「エイッ」とばかり此の壁に切りつけました、すると今まであつた壁は忽然として消え失せ頭上の月は再び現はれて道は元の如く眼前に展開しました[。]
 此處の妖怪の本尊は狸ださうです。

ここに載せてみた経緯
 私は、『日本怪異妖怪大事典』に「ヌリカベ」を執筆した縁で、この妖怪の情報についてはそれなりに耳聡くしているつもりであるが、やはり限界はある。
 数年前(事典の出版後だったと思う)に熊本大学鈴木寛之先生が僕のいる大学に集中講義に来てくださったとき、配布されたプリントに「ヌリカベ」についての新聞記事からの引用テクストが掲載されていた。見てみると、日付は1921年(大正10年)、伝承地域は熊本。従来知られていた(公刊された)ヌリカベ文献の最古事例が柳田國男「妖怪名彙」の1938年だったから、17年もさかのぼることになる。また、知られていた分布も福岡と大分だけだったから、熊本に最古の事例があるというのは意外も意外なことだった。自分の無知を恥じるとともに、興奮して読んだ。
 その後私は、湯本豪一先生が『大正期怪異妖怪記事資料集成』を出版されるという話を耳にして、当然この妖怪記事も収められているだろうと期待し、下巻が出るとすぐに大正10年のところをめくってみた。しかし不思議なことに、「ヌリカベ」を第一弾とする連載「木倉の怪」(全18回)のうち、第1回は確かに「塗り壁」のはずだったのに、別のものになっていた。そして次の記事は第3回だった。日付は第1回と第3回で連続している。まさか塗り壁の記事は幻だったのか……と思いつつ、その後別の件で明治期の妖怪記事を調べていると、案外湯本先生の『集成』にも抜けているものがあるということに気づき、どうやら「塗り壁」がないのもそれが理由なのだろうということがわかってきた。『集成』に掲載されている第1回は、日付と併せて考えると、第2回とすべきところを誤植しただけであろう。そう思って国会図書館におもむき、マイクロフィルムで確認してみた。やはり「塗り壁」は第1回目に紹介されていた。
 古新聞のマイクロフィルムということで、かなり判読できないところも多かったが、鈴木先生のレジュメも参考にしてここに転載してみることにした。世間のヌリカベ研究者、九州の妖怪研究者、ほか妖怪関係の人たちの参考になれば幸いです。
 最後に、当然ながら、この記事を紹介して下さったのは鈴木先生であって、僕は原資料を確認したに過ぎない、ということを強調しておきます。

ちなみに「木倉の怪」第5回は鈴木先生のレジュメによれば「新聞が現存せず」、湯本先生の『集成』にもないので確認してみると、国会図書館マイクロフィルムでも第5回が掲載されているはずの日付の新聞だけ欠だった。