妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

『怪異と身体の民俗学』第4章の異界論について

安井眞奈美2014『怪異と身体の民俗学 異界から出産と子育てを問い直す』せりか書房は、タイトルのとおり、出産習俗から身体感覚へと論点を広げつつ、怪異や妖怪をつねに意識しながら「問い直す」ことを目的とした著書である。著者は副題にあるとおり「異界」という概念を重視している(概念自体は『日本人の異界観』2006の小松和彦による総論を受け容れている)。しかし、どうもこの論考は「異界」概念の悪いところを浮き彫りにしたもののように思われる。ここでは第4章「抜けた乳歯の行方 身体観の変容にせまる」の「異界」に関する議論を見ていく(以下、カッコ内は本書のページ数)。
著者がまず注目するのは、抜けた下の歯を屋根上に、上の歯を床下に投げ込む習俗である。(私も一軒家に住んでいたころは歯を投げたが、屋根上に届いたかつねに不安だった。)この習俗について著者は土井卓治1994「防災の民俗と斜十字」『民俗の歴史的世界』の議論を参考して、「上下を交叉させることによって×という形を作る、一種の魔除け」と解釈する。しかし私は、上の歯は下向きに生えるから下へ、下の歯は上向きに生えるから上へ、という解釈を(親から?)聞いた。この民俗的解釈は、「抜けた歯 投げる」などでネット上を検索するとかなり多数派のようである。抜けた歯と自分の身体(特に、頭を出している永久歯)とがまだかすかにつながっている感覚がこの解釈の根底にあるのだろうが(実証的なものではない)、いずれにせよ、なぜ著者はこの解釈に一言も触れないのだろうか。「魔除け」というわかりやすい呪術的解釈でなければ駄目だったのだろうか。腑に落ちない。
ここで著者はさらに別の角度から解釈を投入する。それは、歯を投げ込む先が「異界」だということである。著者は、乳歯を後ろに投げるという(上や下に投げるのとは異なる)習俗について、常光徹(2006)『しぐさの民俗学』を参照しつつ、「異界に乳歯を投げ込んだ行為と同じと理解できる」とする(120)。しかしこの「異界」とはどこなのだろうか? 著者が参照する『しぐさの民俗学』p. 151はこの点について明確だ。常光曰く「後ろ向きに物を投げるのは、意識的で能動的な行為であり、この行為を要請するある状況と切り離せない」。それは具体的には「山の神」に獲物を捧げる領域であり、「船幽霊」が出現する領域である(『しぐさ』pp. 150-151)。こうした霊的存在の領域を「異界」と呼称するのは、個人的に異論がないとは言わないが、少なくとも一貫性があり、説得的である。しかし乳歯を後ろ手に投げるとき、いったい何に投げているというのだろうか? 著者は先ほどの続きで「異界へ積極的に働きかけることによって、子どもの丈夫な歯の生え変わりを願ったのである」と断定する(120)。繰り返すが、この「異界」とは何なのか? 山の神や船幽霊のように、投げた先を異界とみなせる「何か」は話者のレベルで明確にされているのか? 少なくとも著者の提示する事例に、その「何か」は見いだせない。単に「非合理的・呪術的な行為には必然的に異界が関わっているべき」という暗黙の前提をもとに論じているとしか思えない。何よりも問題なのは、乳歯の習俗の大多数を占める「上や下に投げる」の説明になっていないことである。著者は、後ろ向きに投げる習俗のみから乳歯の投入先を「異界」と拡大解釈し、「乳歯は、……異界に戻すものと考えられてきた」と述べるが(121)、この一般化は正当化できない。
この引用の省略部分で著者は、乳歯は、比較対象として取り上げられた「胞衣と同様、この世に「置かれ場所」を持たないもの」だったと論じる(121)。しかし胞衣が「置かれ場所を持たない」という解釈は、胞衣が魂の来る「あの世」から生まれてくる「この世」へと胎児が動くときの衣装であり、「あの世」=「異界」に属する、という理解に基づくものであるのに対して、乳歯にはそういう解釈のプロセスが一切ない。いったい乳歯はどういった理由で「異界」のものなのか、全く論じられていない。
このように、少なくとも二つの点で乳歯が「異界」に属するべき身体部位という仮説には根拠がないのだが、著者は小括として「人々は抜けた乳歯を異界に投げ入れて、丈夫な歯と交換してくれるよう異界に積極的に働きかけていたのである」とする(121)。ここでも繰り返すが、この「異界」とは何の領域なのか。異界という実体というか、少なくとも民俗概念レベルでの何かがあると想定しているのか。しかし事例からそのような民俗概念の存在は読み取れない。
もう一つ。著者は、近代以降、異界の想像力が薄れたことを指摘する。その一環として、マンションなどの集合住宅においては「乳歯を投げることができなかった」「最終的に落ち着いた家で、まとめて投げた」という事例を提示する。著者はこうしたことから、「異界ではなく「マイホーム」へ投げ入れられようとしていた可能性」を見出す(123-124)。私も乳歯の時期に一軒家から集合住宅へ移ったとき同じことがあった。しかしその理由は「マイホーム」へ投げるためではなく、単に上に投げたら上の階のベランダに入ってしまいそうだし、下に投げたら同じく下の階に入ってしまいそうだったからである。投げられる場所が他人の領域だったから投げなかっただけなのだ(身に覚えのない歯が落ちていたら誰だって気味悪がるだろうし、場合によっては事件とさえ思うだろう)。確か乳歯はどこかに保管してあるはずである。ちなみに異界論から言えば上の階や下の階は、乳歯を投げ込もうとしたときは少なくとも「われわれの世界」とは見なされなくなっているから異界のはずだが、このような解釈は、著者は行なっていない。
結局、著者の言う「異界」が何だったのか、私にはわからなかった。少なくとも乳歯を投げる先が異界だという解釈にはまったく説得性を見出せなかった。副題に「異界」を標榜した学術書としては、かなり問題があるように思われる。どうも、大月隆寛(1992)『民俗学という不幸』で「橋がかかっていれば「境界」、十字路があれば「辻」、柿の木は「周縁」、笠をかぶれば直ちに「異人」、便所やカマドは軒並み「他界」への入り口ということになるおよそ信じられないようなあてはめ」(p. 210)と(かなり大雑把に)批判したものがそのまま該当してしまうのではないだろうか?

ところで、境界ないし異界論の多くが「あてはめ」ならば、乳歯以外にも同様の「あてはめ」ができるのだろうか。ここから下はおふざけである。著者がメアリー・ダグラスの排泄物論を引用しているので、ここでは排泄物を中心とした異界論を展開してみることにしよう。

大便や小便――私たちは排泄するときどこに行くだろうか? もちろんトイレである。トイレは、先行研究で散々指摘されているように「異界」であり、この世とあの世との境界である。私たちは尿意や便意といったかたちで、みずからの身体が不均衡であり、非日常的な状態にあることを察知する。そのとき、この状態を回復する手段として選ばれるのが、まさに異界への排泄なのだ。異界との境界でこの行為を行なうことにより、私たちは、不均衡な状態を脱し、尿意も便意もない日常へと復帰していく。トイレでの排泄には、このような象徴的意味がある。言うまでもなく、トイレ以外への排泄は、あらたな非日常を生み出す行為であり、決して日常を回復する行為ではない。排泄物は、あらたな非日常=異界を生み出すのだ。私たちは、排泄物のある日常を想定し得ない。排泄物のある場は、「われわれの世界」ではありえない。排泄物は異界的なものなのである。排泄物の怪異性がここに明らかにされた。排泄物は妖怪である。(「言うまでもなく」以降の議論は、以下すべての事例において可能である。)
嘔吐――私たちは嘔吐するときどこに行くだろうか? もちろんトイレである。トイレは、先行研究で散々指摘されているように「異界」であり、この世とあの世との境界である。私たちは嘔吐するとき、放出先として異界を選ぶのである。また、屋外ではどうするだろうか? おそらく道路わきの植え込みや街路樹などであろう。植え込みや街路樹は、まず歩道と車道の境界にあるが、かといって人や自動車がそこを通行するわけでもない両義的な領域である。歩道と車道という人間社会の構成物のあいだにあって、植え込みは植物――あるいは鳥を含めるならば動植物――の領分であり、自然と社会という対立を象徴化したものに他ならない。私たちは、社会内部で嘔吐することをためらい、自然――すなわち「異界」――の領域へとみずからの吐瀉物を放出するのである。嘔吐することは、身体の状態をマイナスからプラスへと転化する作用をもつ。異界への放出によって、私たちは身体の平衡状態を回復するのである。
垢――私たちは垢を洗い流すときどこに行くだろうか? もちろん風呂である。風呂は、社会的な状態にある人間なら当然まとっておくべき衣服を脱ぎ、人間が自然の状態へと大きく近づく領域である。すなわち、風呂は自然と社会との境界である。また風呂は、アカナメやアカネブリなどの妖怪が出没する異界でもある。私たちは、この境界的領域において、私たちの内なる自然の象徴たる垢を洗い流す。そして私たちは衣服を身にまとい、社会的存在へと復帰する。そして落とされた垢は、異界の存在である妖怪によって摂取される。人間の動物としての――生理的な現象としての――産物である「垢」は、自然と社会との境界=異界である風呂において取り払われ、垢を欲する異界へと譲渡されるのである。
唾――私たちは唾を吐くときどこに行くだろうか? もちろん歩道である。歩道は、一般的に、ある地点から別の地点へと行くときに通過せざるをえない領域であり、出発地でもなければ目的地でもない曖昧な場所、すなわち境界である。私たちは、決して「われわれの世界」である出発地や目的地に吐かない。吐くとすれば、非「われわれの世界」以外にない(出発地などで唾を吐くとすれば、それは、その場所がただちに非「われわれの世界」になるからである)。また、痰壺に吐くこともあるだろう。言うまでもなく壺とは、壺中天が代表的なように、別世界のメタファーである。また、壺の中身はそれ自体が物理的に他の生活領域と区切られており、異界である。私たちは異界へ唾ないし痰を吐き捨てる。
いたるところに異界は生成する。異界にならないところはない。私たちは、排泄物という観点から、日本人の身体と異界との関係を明らかにすることができた。それは、排泄物があるべき場はいずれも境界や異界であるということだ。私たちは、身体が不均衡な状態にあることを感じたとき、排泄物をそうした場へと放出することにより、均衡状態を回復させ、不快感を取り除き、日常世界へと復帰するのである。