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妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

『怪異の風景学』評(全面改訂01/17/2015)

佐々木高弘の『怪異の風景学 妖怪文化の民俗地理』(古今書院、2009)(以下『風景』)は、四国のクビナシウマ(首切れ馬)、『千と千尋の神隠し』、そして近代的な廃墟などを地理学的に論じた本である。妖怪研究家であり『江戸の妖怪革命』(河出書房新社、2005)の著者でもある香川雅信は書評において、妖怪研究は理論化が遅れていたが、この本のようにすぐれた(難解な)理論が提示されているものが出てくるのはよいことだ、と評価している。しかし僕の読むところ、この本はかなり深刻な理論的欠陥を抱えているように思う。そのことをちょっと書いてみた。以下、手元に『怪異の風景学』があり、できれば前半を通読したことを前提としておく。ここでは、小松和彦編著2011『妖怪学の基礎知識』所収の佐々木高弘「妖怪の出現する場所」(以下『基礎』)も検討の対象とする(敬称略)。

「喩え」とは何を言っているのか
佐々木の問題意識は、おおまかに言うと、実在しないはずの妖怪・怪異を人々が認識するとはどのような事態かを、言語的側面から解明しようとすることである。ここで前提になっているのは、怪異の経験――たとえば百鬼夜行との遭遇――は、言葉で表現されるままの経験ではないということである。百鬼夜行は、「時が流れる」と言ったときに誰も「時」を可視的なものとして知覚したのではないのと同じように、「見えるもので、見えないものを、喩えている」ことの一環である、と佐々木は主張する(『風景』28)。
すでにここに問題点がある。私たちは「時が流れる」という表現について、「時」が具体的な存在者として何かを「流れる」さまを知覚した結果を表現したものではないということを、そういう風に言われれば首肯することができる。だから「時が流れる」を比喩として説明されても何の違和感も覚えない。佐々木自身が続く論述で「喩え」の例として挙げる「月見うどん」「キツネうどん」についても(『風景』29)、私たちはそういった種類のうどんが「月見」そのものでもなければ「キツネ」の肉が使われているものでもないことを知っている。しかし、「百鬼夜行」が鬼の行列ではなく別の何かの比喩であるということは、少なくともそのような経験が記述されているテクストおよびコンテクストを検討するかぎり、妥当な見解とは言えない。「喩え」が成立する条件としては、「彼らはある対象を見て、その対象をそれとして知っており、かつ、その対象を別の(なんらかの関係にある)対象で表現することが、みずからの言語文化において許容されること(コードとして存在すること)を知っている」が挙げられるが(ここでの「知っている」は、必ずしも経験を言語化するときに意識にのぼっているという意味ではない――「時が流れる」のように)、僕の知るかぎりでは、古代末期の百鬼夜行についてこの条件が満たされていることを提示ないし論証したものはない。
文章としては前後するが、佐々木は、ある個人が見えるはずのないものを見たのは「当人の精神的健康に何らかの障害があったから」という現代の心理学的な解釈を、「個人」に関する限りでは妥当と認めている(『風景』7-11, 18-21)。いわゆる幻覚や錯覚という解釈だが、もちろん、そこで見えたものが文化的にある程度決定されているということも佐々木は認めていると思われる。そしてその一例として出すのが「百鬼夜行」である。ならば、百鬼夜行を見た人は、何か別の対象を百鬼夜行と喩えたのではなく、少なくとも個人的な経験のレベルにおいては、「百鬼夜行を見た」ということを佐々木が認めていることになる。これは、彼が、臨死体験において見えた(実在しない)風景を、何か別の対象をそのような風景として表現したのではなく、そのような風景を実際に経験した、ということを前提に論じていることからもうかがえる(『風景』8-11)。
どうも何が「喩え」なのか全体として判然としないのだが、佐々木は第1章でユング派心理学(!)を援用し、「主観的で、元型的な内容を、眼前の風景に投射し、その風景と同一化したものとして映じたもの」が百鬼夜行だと論じている(『風景』15-16)。このことを彼はあくまで個人的なレベルのものだとしているが、それこそ彼は無意識的に、人々は記号論でいう「喩え」が、人間の無意識的・知覚的なレベルでも作用している、と想定しているように思われる。その一方で、隠喩は伝承者が主体的に選択しているのだ、と読めるところもある(『風景』第5章)。いずれにせよ明確ではない。佐々木は「認識」という言葉でさまざまなレベルの問題を混同している。ブラックボックス化だ。

三角形の問題
佐々木の理論の中心にあるのは、『基礎』p.163の図10「妖怪の出現する場所と認識の三角形」だ。

この図と類似的なものは『風景』pp.30, 33, 43にも掲載されており、彼の議論における重要性をうかがい知ることができる。佐々木はこの図について、「記号学では」隠喩・換喩・提喩を「認識の三つのあり方と考え……これを、彼らは認識の三角形と呼」ぶと匿名的に紹介している。だが、この「認識の三角形」は、佐々木も触れている瀬戸賢一の議論に独特なものである。瀬戸の議論の前にこの世を去ったパース、ソシュールヤーコブソンらはもちろんのこと、エーコなどを含め、世界の大半の記号論者はこの三角形にもとづいた議論を行なっていない。「認識の三角形」が一部で注目されている事実はあるにせよ*1、それは「記号学」や「彼ら」と一般化できるものではない。
瀬戸は『レトリックの宇宙』p.5-6で印象的な例を出す。「ニシンソバ」のような味気ない表現を避けて、人々は「月見うどん」(隠喩)「きつねうどん」(換喩)「親子丼」(提喩)を用いることがあるのだ。佐々木も『風景』pp.29-30でほぼ同じ例示をして三つの「喩え」を紹介している。そして私たちの世界認識は、この三つのレベルから成り立っているというのだが……「ニシンソバ」はどうなった? 喩えを使わない認識はまったく存在しないのか? 「ソバ」は? 「ウドン」は?……というわけで、佐々木は私たちの風景認識をこの三つにあてはめようとしているが、「ニシンソバ」が欠落している時点で、この分類はもとから不完全なものでしかないのである。そう考えると、佐々木が百鬼夜行の目撃を何かの喩えとしか理解できなかったことの理由が見えてくる。彼の世界にはニシンソバがないのだから、何か別のもので表現していたと考える以外にないのだ――そのように考えるならば、「何か別のもの」もまた言語で表現できるという事実に気づくはずなのだが、そこには思い至らなかったようである。佐々木は三種類の比喩だけを世界認識の方法として取り入れ、しかも風景論と重ね合わせているため、その後の議論においてもズレが生じることになってしまう。彼の理論的枠組みは破綻していく。

範列と統辞の混同
さて、文章化されたクビナシウマ伝説を佐々木は「クビナシウマ+走る+ある特定の場所」という文章構成だと指摘する(『風景』42)。三つの要素への分解は妥当であろう。しかしなぜ要素がSVOの配列なのだろうか。日本語で文章化された伝説を日本語として日本語で分析するのならば、SOVのままでよかったのではないだろうか。僕は、最初は英語順のようにして気取っただけだろうと考えていた。しかしよく読んでみると、佐々木にとってはこの配列でなければならなかったということがわかってくる。重要なのは「クビナシウマ+走る」である。佐々木はこの配列から、「クビナシウマ」は「走る」と連鎖している、という(『風景』42)。そしてこの「統辞的」な連鎖を彼は「隣接関係」と同一視する。そうすると、(クビナシは非現実的なので省くという作業のあと)「ウマ+走る」は、隣接関係である換喩に位置づけることができるのである。ここが肝だ。日本語として自然に「ウマ+ある特定の場所+走る」と配列してしまうと、「ウマ」と「走る」が隣接関係で捉えられなくなってしまうのである。いやむしろ、別の隣接関係が見えてくると言ったほうがいいだろう。佐々木は「ウマ」と「走る」が隣接関係にあることを「統辞的連鎖の意味的選択制限」の結果とするが、同じ選択制限は、SOV式に配列したときに隣接的になる「ウマ」と「ある特定の場所」でも「ある特定の場所」と「走る」でも言えるからである。佐々木の選択は恣意的なものであり、網羅的ではない。
そもそも「ウマ+走る」が換喩的な認識かという問題がある。『レトリックの宇宙』第3章「換喩の意味論」で挙げられている換喩の文は、いずれも別の(換喩的ではない)単文を換喩として表現したものと分析されている。一つの単文内部の、ましてや名詞と動詞の隣接的(?)な関係性などではない。瀬戸に倣うならば、「ウマが走る」は「ある特定のウマが走る」に対して類と種の関係にあり、その意味において、「ウマが走る」は文全体として換喩なのである。記号論の用語でいうと、換喩とは統辞的なものではなく範列的なものなのである。佐々木は瀬戸の記号論に大幅に依拠しているはずが、まったく違うことを前提に議論しているのである。しかもその前提には、何の説明もないし、おそらく分析にとって何の妥当性も見いだせないだろう。
この点をみただけでも、それ以降の「三角形」による分析が砂上の楼閣になってしまったことは明らかだが、他にもたとえば次のような問題が認められる。佐々木は「ウマ+走る」から除外した「クビナシ」という要素を「現実にはあり得ない」という理由から、何かの象徴記号である(たとえば「クビになる」「クビが回らない」と同じような)とみなす(『風景』43)。これは、「喩え」という認識方法に束縛されているため、ある表現は必ず何か別のものを表現していなければならないという誤った前提にもとづいた、奇妙な分析である。紹介されている伝説のどこをみても、「クビナシウマに実際にはクビがあるが、何か別のものを表現したいがために、クビナシという比喩を使っている」と読み取ることはできない。佐々木は伝説を語る話者の認識を自らの三角形に当てはめるため、強引に歪曲している。

帰納と演繹の混同
『風景』第5章で佐々木は伝説の創造について分析を加える。そこで用いられるのが過去の理論家らによる民話の構造分析である。彼はプロップやダンデス、ジェイソンらが多くの民話分析から抽出した構造をまず提示する。そしてそのうちの一つをクビナシウマ伝説に当てはめてみると、構造のうち空白のところ(物語のなかに語られていない部分)がある。具体的には、「刺激・反応・結果」という構造に対して、クビナシウマ(首切れ馬)は「なし・なし・大晦日の晩に走る」となり、刺激と反応の部分が欠如している。また、伝説を伝承する脇町(の人々)は「(賽銭を)盗まれる・なし・なし」となり、反応と結果がない。そこで佐々木が何をするかというと「今度は脇町と「首切れ馬」を、一くくりにしてみてはどうだろう」というのである(『風景』75)。なぜなら、脇町の人々が首切れ馬を伝えている以上、この両者は一体だからだというのだ。しかしこの推論が可能ならば、同じように伝説に登場する別の村の人々(三谷)も、賽銭を盗む時に鳴いた馬も、伝説のなかの登場人物なのだから、一体化すべきだろう。単に構造にあてはめてうまくいかないからといって登場人物の一部だけを融合させるのはナンセンスである。しかし佐々木は歩みを進める。その結果、彼は「脇町が首切れ馬を走らせている」という要素が隠れていることを指摘する。彼は、この要素を語らないことを民話の表現技法のひとつだとして処理する(『風景』77)。しかし「首切れ馬を走らせる」とはどういう状況なのか。聞き手が、「村の人々は首切れ馬を操作することできる」と思って話を聞いているとは考えがたい。いったい、このような「構造分析」によって現われた「民話」とは誰のものなのだろうか。そもそも構造分析は具体的な事例を抽象化した結果得られる帰納的なモデルである。欠如部分を「発見」するためのモデルでこそあれ、「創作」するための演繹的なモデルではない。佐々木は構造分析をしてモデルを提示したのではなく、民話を既存のモデルに押し込めて不可解な改変をしたにすぎない。

「切り取る」は何の隠喩か
佐々木は『風景』第12章でブルンヴァンを参照して、伝説には二重のメッセージがあり、伝説が語り継がれるには、表面的な一次的メッセージではなく、「隠喩的で、シンボリックにほのめかされた、人間行為や社会状況に対するより深い批判」という二次的メッセージが重要であるという主張を受け入れる。佐々木がクビナシウマ(首切れ馬)の伝説の二次的メッセージとして最終的に提出するのは、象徴的贈与交換と経済的等価交換との衝突である。これが妥当かどうかはここでは問わない。問題なのは次だ。佐々木は、この衝突について、山口昌男が、「もの」が人々や土地などと精神的なつながりをもっていたはずが、現在では繋がりを失い、「事物の物」になってしまったという主張を引用する(『風景』198)。そして「つまりこの伝説の〈馬の首を切り取る〉という隠喩は、「もの」から精神的な意味合いを切り取る、象徴的贈与交換を経済的等価交換に履き違える……ということだったのではないか」と結論付ける。しかしこの結論には大きな飛躍がある。「ものから精神的な意味合いを取り除く」とはあくまで山口昌男(そして佐々木)の表現というか「喩え」であって、伝説を語る人々の表現ではないということだ。人々が贈与から等価への移行を「精神的な意味合いを切り取るもの」と喩えている事実がなければ、佐々木の結論は、伝説における「隠喩」と研究者としての自身の「隠喩」を強引に接続しているにすぎない。

というわけでいくつか問題点を指摘してみた。繰り返すが、僕はこの本を理論的だとして評価することはできない。もちろん視点の違いはあるだろうし、僕自身の無理解もあるかもしれない。それにしても、ちょっとなあ、と思ってしまうところなのです。記号論に対する知識の不足以外にも、たとえば近代廃墟を論じるときに、まったくTim Edensorに触れないとか、いろいろと議論の参照枠が付け焼刃でしかないのが問題の要因の一つのような気がする。

*1:たとえばArmin Burkhardt and Brigitte Nerlich (eds.), 2010, Tropical truth(s): the epistemology of metaphor and other tropes