ちょっと軽めの篤胤妖怪論

『玉襷』七之巻からの引用。

ここに古学の意をよく得て、大倭魂を突き堅め、かれをも己をも知りてあるは、たとえ目の前に、ひょうすべ、見越し入道など出たらんも、人のならいはさるものにて、馬の放屁にも驚くことのあるなれば、見慣れぬものの、不意に出ては、いささかびっくりすること、あるまじきにあらざれども、元より心の修行殊なるゆえに、腰の抜くるほどの事なく、たちまちに静まりかえりて、「さてもわぬしは、失礼ながら希有なる面なり。しかれどまず初めて出会うて、満足に思うことなり。年ごろわぬしらごときものの、世にあること、たしかに心得てあるを、元来おぬしは、何処に住まう者にて、今何の用ありて出来しぞ。次々にたずねまほしく思うこと多かり。立ちはだかりては、人に対する道にあらず。まず下にいて語れ」など諭しおきて、かねてよく知らむと思える幽冥界のこと、また彼らが仲間のありさまをし、問い試みむと構えむには、その出たる化物、もし文盲ならむには、大きに困りて逃げ去るべく、もしさる問いの答えもなるべきほどの化物ならば、それいと面白き化物なり。ずいぶんに馳走して、幽冥世界のことを問うべし。

それから篤胤はそのような邂逅の例として白澤図のことなどを出すのだが、この語り口、どうみても軽いというか、本当にヒョウスベやら見越し入道やらが目の前に現れることを想定していたのかどうか。化け物に出会って「失礼ですけど、へんな見た目ですね」「立ちはだかるのはよくないからまずは座れ」などと指導する篤胤のマジメ度が謎である。