翻訳モーリス・ブロック2

「信念」についての昔からの人類学的問題
これとは別に、さらに根本的な問題がある。それは上に述べたことすべての背後に存在するものだ。つまり、反直観的か否かにかかわらず、宗教に取り組むときに「信念」[信仰]を中核的な問題とすることが、現在検討しているような現象について適切かどうか、ということである。ボイヤーもスペルベルも確固たる人類学的素養をもっており、「双子は鳥である」といった物語が現れる場でのフィールドワークを心得ているはずなのだが、主に哲学志向のオーディエンスに語ろうとした結果として、私たち人類学者が学部の一年生に教えることを忘れているのではないか、と私は思ってしまう。つまり私自身のような人類学者が研究する宗教については、「信念」を重視しすぎるのは適切ではないだろう、ということである。

宗教研究における「信念」の有用性に対する人類学側からの問題提起には長い歴史がある。最初に言い出したのはロバートソン・スミスだが、それにデュルケムが呼応し、さらにニーダムやプイヨン、ランクリュら(Needham 1972; Pouillon 1979; Lenclud 1990)といった人々が深く論議した。この問題には二つの要素が関わっていると思われる。第一に、哲学者が関心を持っているのは「〜であることを信じる」(to believe that)という言い方が大雑把に指示する、ある種の心的状態である。それに対して人類学者がふつう考察するのは、「〜を信じる」(to believe in)[〜を信仰、信奉する]という言い方が指し示す現象である。第二に、「〜を信じる」という言い方は、ある種の宗教に典型的な、特定の反直観的主張にのみ適切なものだ。キリスト教がもっともわかりやすい例で、それによると「〜を信じる」ことは「〜であることを信じる」ことと同一であるべきだが、同一なものであるわけではない。この問題をデイヴィッドソンやダメットなど(両人ともLenclud n.d.が扱っている)多くの哲学者風に言い換えるなら、私たちは単純な信念に取り組んでいるのではなく、n次の再帰的信念についての再帰的信念に取り組んでいるのだ、ということになるだろう[私が信じているのは、私が〜を信じているということである……]

しかしこうした区別は、上記引用した人々がよく行なってはいるものの、哲学と人類学との対話が始まるや否や忘れ去られてしまうようである。これが際立つのは信念と/や表象と/や解釈が前面に出るときで、当のデータを与えてくれるコンテクストの実質は視野から失われ、希薄な思考実験の中で忘却の彼方に追いやられてしまうのである。

マラガシの事例
この問題を明瞭にしてその発端にあるものを発見する手始めの一つとして、19世紀前半のマダガスカル史について手短に説明してみよう(Bloch 1986: Ch.2参照)。ヨーロッパのキリスト教宣教師がこの島に上陸した時代である。彼らは「野蛮な」宗教の誤りを論証することを至上課題としていた。そうした宗教を悪魔の所業に違いないと考え、異教を真なるキリスト教への信念で置き換えようとしていたのである。しかし宣教師たちは、この計画自体がもたらした予期せざる問題にただちに直面することになる。彼らは、自分たちが出合うべきマラガシの誤った信念がどれかを選り分けることができなかったのだ。彼らは自分たちの想定する「原始的」で「邪神の」「異教的な」宗教に見合うものを、ほとんど見つけられなかったのである。この難問は、ある程度は、マラガシと宣教師とのあいだにある種の対話が可能になったときに解決された。次第に、彼らが何について合意していないと彼らが考えているのかについて、ともに合意するようになっていったのである。

宣教師たちは、(彼らの主張によると)マラガシが持っているという「偶像」への信念に焦点を定めるようになった。ウェールズカルヴァン派キリスト教徒やノルウェールター派の歴史が「ローマの売春婦」の偶像崇拝、さらに英国教会の売国奴の陰湿な偶像崇拝を糾弾することに専心していたのと同じように、これは非常に満足のいく立場だった。宣教師たちは、崇敬すべき伝統にのっとって破壊することのできる、自分たちにとっての黄金の仔牛を見つけたのである。彼らが、自分たちが根絶するのは「偶像」だということを決定するや、マラガシは、自分たちにとっても最終的にはヨーロッパ人たちがそうした熱烈さでもって抗議しているものを理解するようになった――彼らは、マラガシのいうサンピ(sampy)に抗していたのである。宣教師たちはサンピを「偶像」と翻訳するようになった。この言葉は多くが外来の物やカルトを指示しており、アフリカ研究の文献では「医術」と言及されている。典型的には舶来品であるこうしたカルトの特徴の一つは、それらが常に「問い質されている」ということである。新しい「医術」は絶えず導入されていたし、されているが、そうすると他のものは効果がないとか有害であるとして退けられる。これが意味するのは、ある人がある特定の医術を「信じた」あるいは「選んだ」か、単に試したかどうかはつねに意味のあることであり、疑いなく次のような言明の機会を与えていたということである。「私は、あなたがこちらの医術を試すべきであり、あちらのほうを試すべきではないということを信じている」。宣教師がサンピ/偶像を攻撃したのはマラガシにとっても納得がいくものとなった。なぜならサンピをそのように理解することが可能だったからだ。

宣教師・マラガシ間の対話がサンピの根絶に焦点を当てるようになっていったという事実は、大きな歴史的意義を持つものである。メリナ(宣教師が最初に到来したときマダガスカルで支配的だった集団)が19世紀半ばキリスト教に改宗したとき、彼らは異端宣告をもって偶像/サンピを順当に燃やしたのである。これは完全に善い意味を持っていた。なぜならそれ以降、全体的に意見が一致していたことなのだが、これこそがキリスト教が置き換えたものだったからである。しかし同時に、それよりもずっと重要な儀礼や実践、たとえば祖先に関するものは、宣教師によってもキリスト教徒のメリナによってもほとんど全く疑いを容れられることがなかった。なぜなら宣教師にとっては、そうしたものへの「信念」には彼らが「宗教」に期待するものとはまったく違ったように見える存在論的身分があり、またマラガシにとっては、祖先の存在論は、それについて自分たちが考えるのに適した主題ではなかったからである。だから祖先はほとんど見過ごされていた。現在の大多数の一般的なキリスト教徒メリナは強くキリスト教に帰依しているのだが、祖先に関する物事はほとんど手を加えられないままでいる。この事実は、マダガスカルキリスト教における現代の宗教活動に特徴的なことの多くを説明してくれるだろう。それはほとんど祖先崇拝にしか見えないようなものを伴っているのである。宣教師が祖先について言うべきことに確信を持てていなかったため、あたかもこうした「信念」は改宗によって影響を受けなかったかのように見える。

マラガシ・宣教師間対話の性質とそれが残したものは、だから両方の側から二つのファクターによって解明することができる。第一はキリスト教の性質自体に関わるもので、第二は祖先のような存在に関わる「信念」の性質である。

キリスト教は「〜を信じる宗教」(believe-in religion)である。何であれ、これが、キリスト教を代表しうるのがその支持者、つまり信じること[信仰]を問われる人である信者だ、ということの理由である。信者たちは「キリスト者として私たちは……を信じる」と言うだろう。だから、キリスト教のもっとも典型的な側面であり、その他のセム的宗教ユダヤ教イスラームなど]と相対的な範囲で共有しているものは、「信念」の断固たる言明の重要性を重視するということなのだ。中でも信仰告白がおそらく何よりもわかりやすい例だろう。

まるでキリスト教徒は、「世界がこうであるということを自分は信じているのだ」と自分自身や他人に確信させるために、何を自分が信じているのかを断固としていつまでも繰り返さなければならないほど、自分が宣言していることについて確かなことが言えないと感じているかのようだ。それは子供が暗い帰路で「暗くたって怖くない」と繰り返し自分に言い聞かせるのに似ているともいえる。キリスト教は、かくかくしかじかな物事があり、実際にふつうはそうであるとされているが、それだけでは宗教として充分ではない、と言っているように思われる。再帰的で反直観的な、何らかの余分な信念を上部に追加すべきであり、時に「信仰」(faith)とも呼ばれる誇張された「信念」行為のなかで、そうだとされるべきなのである(Pouillon 1979参照)。

宣教師・マラガシ間対話のもう一つの側面は、人々が祖先と関わりをもつ方法の性質である。この関与の仕方は、思考実験によっても粗雑な歴史的説明によっても知ることはできないものだったし、依然としてできないものである。なぜなら、まさに暗黙の大きな特徴があるからだ。だから私は、60年代から90年代にかけて、人類学者としてマダガスカルで断続的に行なった長期フィールドワークをとおして自分の知っていることを利用しなければならないことになる。明らかに危ういやり方ではあるが、私がマダガスカルについて知っていることを前提とするならば、それは何の特定の民族誌的経験もない状態から憶測を行なうよりはずっとリスクが減ることだろう。さて、通常のコンテクストでは、マラガシの人々は、彼らなり他の誰かなりがセム的宗教の意味で祖先を「信じている」かどうかについて、単純にいって関心を持っていない。それは彼らなり他の誰かなりが「父親」を信じているかどうかに関心を持っていないのと同じことである。実際、祖先と父親を比較することが格別に関連性を持つわけは、祖先を扱うやり方が、生きている年長者を扱うやり方をこそ彷彿とさせるからである。イーゴリ・コピトフはアフリカについて(おそらくマダガスカルにも通用することだが)、死んだ祖先に対する行動は、見たところ根本的には生きている父親や長老に対する行動と何の違いもない、と強調して書いている(Kopytoff 1971)。長老と祖先に対するモチベーションや感情、理解認識といったものは同じだとみなされているのだ。祖先は、交流するのが難しくなっているだけである。だから、全くもって[儀礼などではなく]通常のコンテクストにおいてマラガシの農民が死者に話を聞いてもらいたいとき、彼らは声を張り上げるのである。これは彼らが長老の気を引きたいときにもよく行なう。なぜなら長老もまた耳が遠いことが多いからである。私は、とくに儀礼においては、後述のように、祖先と長老が呼び出される方法に違いがないとするコピトフの主張にまで従うわけではないが、多くの日常的な状況においては違いが決して浮き彫りになることはない、という点では正しいことを述べている。祖先は生きている両親や祖父母ほど近くにいるわけではないが、まったく遠くにいるわけでもない。この遠近の違いは、結局のところ、あらゆる親族体系に典型的なものなのである。

同様に、ベルも言及しているが(Bell 2002)、有名な中国人人類学者の費孝通は1940年代に、このやり方で自分の祖母の幽霊に会ったことを記述している。

――彼女が死んでからまだそれほど日は経っていなかった。居間に座って祖母の寝室のほうを眺めていた。だいたい正午だった。いつもなら祖母が台所に行って昼食の準備が進んでいるかどうかを覗く時間だ。……私にとってはよくある光景だったし、祖母が死んでからも日々の行動は変わらなかった。机も椅子も寝台も絨緞も、そのままだった。正午が近づくと、毎回私は空腹を覚えた。……この情景は祖母の決まった行動なしには収まらなかったし、だからその日、私は祖母のイメージがふたたび寝室から現れて台所に行くのを見ていたのだった(Fei Xiaotong 1989)。

日常的なコンテクストで、特に積極的に祖先と関わろうと真剣に思っていないとき――たとえば、祖先に共同の献酒をするとき、ちょっとした旅の前に祖先に祝福を求めるとき――、人々の行動がいつもと異なったものとか、反直観的な存在に関わっているなどとして目立つように見えることはない。特に明言せずに祖先の存在を想定することには、反直観的な命題の理解に必要とされるような特殊な努力が要求されるわけではないように思われる。それゆえ、祖先を認識することは、キリスト教の信念のときにキリスト教徒が主張するような、価値ある行為でも義務でも勇気のいることでもないのである。だから、マラガシにとっては、すっかりセム的宗教が馴染みのものとなった今日においても、誰かを祖先の信念へと「改宗させる」という発想は奇妙なものなのだ。それは彼らを父親の存在についての信念へと改宗させるのと同じようなものなのである。人々は通常祖先がどのような存在なのか関心を持っていないし、民族誌家に強く言われないかぎり、祖先がどのように日々を暮しているのか、どこに住んでいるのか、どう存在しているのか、どう祖先の力を説明できるのか、といったことについて、ほとんど全く語ることがない。マラガシが関心を持つのは、ある特定のときに、どうすれば祖先の助けを得られるのだろうかとか、祖先がマラガシに降りかかった疫病その他の好ましからざる出来事の背後にいるエージェントなのかどうか、といったことなのである。祖先の通常の存在論的・修辞的な身分は、雨のそれと大差ない。ふつうの人々は、ふつう、思考や言説の主題として「雨は人を濡らすことができる」という事実を扱うことはない。実際、彼らならどのようにそれが起きるのか説明しようとして言葉が詰まるだろうし、むしろ傘を持たずに今外出しても濡れずに済むかどうかに関心があるはず、と私は思う。他方でキリスト教イスラームは、何を人間が神に行なうか、つまり神を信じることに何よりも関心を抱いているように思われる。マラガシの祖先への関心はその逆だ。問題なのは、何を祖先が彼らに行なうか、なのである。

このような、祖先が想定される方法と、神がキリスト教において想定される方法との根本的な差異が意味するのは、信念中心の宗教をもつ宣教師たちが、単純に祖先を取り押さえることができなかったということである。それは、宣教師が知っている類の宗教を前提としたときに期待される類の現象ではなかったからだ。彼らは宣教対象を祖先の信念から引き離して改宗させることができなかった。マラガシには、宣教師が語ることや望むことがわからなかったからである。現在の多くのマラガシは、明らかに熱心なキリスト教徒であり、それゆえにキリスト教徒が祖先を信じていないのを知っているため、神やキリストの神性を信じており祖先を信じていない。しかし自分たちが反対していると思い込んでいた儀礼の要求するやり方でいざ祖先と関わろうとするとき、自分でも驚き、他人も驚くのである。キリスト教の信念・不信念ビジネスからは、死んだマラガシの先祖との関係について述べるための道具をマラガシが得ることはなかった。それゆえ、先祖との関係は、彼らが「宗教」とみなすものによっては「手つかず」のまま、なのである。

他方で、キリスト教における信念重視と近いところがあるのはサンピに関わるものだ。なぜならサンピに対する態度は、(それについての社会的実践や語りから明らかになることなのだが)その反直観的な性質を強調していたからだし、今でもそうである。私は、宣教師たちは彼らがサンピを翻訳にふさわしい目標として叩いたときに満足が行っただけでなく気楽になったのではないかと思っている。なぜなら彼らがサンピを撲滅しようとしたとき、マラガシは彼らを理解ある人々として意味あることをしている、と応答することができたからである。何にしてもこの手の攻撃はよくあることだったし、長い間行なわれていた。特定のサンピを攻撃した人々は、マラガシにとっては、「私たちが使っているあの会社の頭痛薬は効き目がなくて、あちらのほうが効くから試したほうがいい」と私たちに教えてくれる人と同じくらい、理解できるものだったのだ。それに対して、祖先の信念を攻撃する人々は、火星人が出現して「目に見えているものは真実ではない」と説得しようとするのと同じくらい、奇々怪々なものに映るだろう。
(続く)