妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

翻訳モーリス・ブロック1

Maurice Bloch, 2005, Are Religious Beliefs Counter-Intuitive?, in Essays on Cultural Transmission, Oxford: Bergの翻訳。[]内は訳者による補足。説明などは最後まで行ったらします。

宗教的信念は反直観的か

人類学者は、一般公衆や一部の哲学者顧客向けに、遠くに住む人々が持っているとされる奇妙な信念(belief)を大量に提供する存在だ。そういった信念は、以下の問いを思考実験するための生のままの素材を与えてくれるものだと考えられている。つまり、「そんな信念をどうやったら持つことができるのだろうか?」あるいは、デイヴィッドソン風に言うならば「この世界について、珍奇なことを信じるように思える人々が発する言明を、どうやったら解釈できるのだろうか?」。他方で、人類学者の大半は(彼らは遠くに住む人々を研究しており、現実の状況でそんな風なことをいう異国の他者たちを理解するための実践に従事しているのだが)、しばしば同じ哲学者に向けて「奇妙な人々について何よりも奇妙なことは、実はその解釈がどれだけ簡単なものと知れるか、だ」と強調することに余念がない。

この手のズレを何とかしようとする方法の一つには、(私も多少は肯うつもりだが)ダンスペルベルが着手し(Sperber 1982)、パスカル・ボイヤーが大規模に作り込みやや修正したもの(Boyer 1994)がある。この方法を構成するのは、奇妙な信念の一見した奇妙さへの問いである。この立場では、珍奇な信念言明の内容について考える前に、「どのように言明が現実世界において理解されるように意図されているのか」を標す語用論的な目印を考えるべきだという点が重視されている。もう少し限定して言うと、二人が述べているのは、人類学者たちが報告し、数多の哲学者が時間を割いた無数の奇妙な信念は、単に世界についての暫定的な命題として意図されているだけであって、(信念を表明するときに明らかな反直観的側面さえあるならば、の話だが)ある種の意図がつねに語用論的に指示されている、ということである。こうした言明は、現実に理解されているのであり、ちょうど「カッコつき」であるかのように、そう理解されるように意図されているのだ、と彼らは論じるのである。つまり「私は自分自身[の経験など]を根拠にそれを知っているわけではないが、興味深い可能性としてそれを保持している。なぜなら、私はこのことを充分に信用できる人々から聞いてきたからだ。とはいえ、私は、当の命題を自分にとって奇妙で反直観的なもののままにしておくため、心のなかではカッコを取り外すことはない。また私は、その命題を、自分が当然だと考えているものと一緒くたにして混乱してしまおうとも思わない」[たとえば「ハムレットは父の亡霊を見た」は実際は「シェイクスピアの戯曲中でハムレットは父の亡霊を見た」、「文法は心的能力のモデルである」は実際は「チョムスキーは文法は心的能力のモデルであることを説得的に論証した」という風になる、とスペルベルは言う。「竜は存在する」は「誰それは竜は存在すると言った」になる。こうした信念を彼は、カッコのいらない事実的信念と差異化して表象的信念と分類する[スペルベル1984:118]]。そしてスペルベルとボイヤーは、こうした反直観的な命題は非常に限られた意味で反直観的なだけであり、私たち全員が特定のやり方で世界を観る原因となる人類規模で遺伝的に刻み込まれた性質の傾向によって境界画定され形成されている知識類型のなかに、あまりに易々と全体が残ることになる、ということを指摘している。二人は民族誌的な根拠によって、根源的解釈というデイヴィッドソン的な見方を支持することになるだろう。なぜなら、全人類は、共通の本性のおかげですでに莫大な量のものごとを共有しており、何が共有されていないかは非常に厳しく制約を受けているからだ。根源的解釈という問題が起こるのは火星人と接触するときくらいのものである。

スペルベル=ボイヤーの立場がさらに示そうとしているのは、興味深い示唆的で反直観的な特徴こそが宗教っぽい信念を記憶しやすいものにするのであって、だからそうした信念はたやすくある集団のなかで共有された文化の一部として確立するのだ、ということである。

ボイヤーは、この記憶しやすさが、「宗教」が存在するというおかしな事実を説明するのだと述べている。なぜならそうした反直観的な信念こそが、(彼にとっては)宗教を構成するものだからである。大半の人類学者は、宗教なるものは存在しないし、あったとしても、私たちがこの言葉で理解するように言い含められてきたものを、理論的には大した意義のない方法で観察者に想起させる、あちこちに見つかるどこか(「どこか」でしかないが)類似した諸現象でしかない、という意見を持っているが、ボイヤーは明らかにそれを却下している(Bell 2002参照)。彼は、色々な反直観的信念がともに織り成されて、相互連結した表象と実践の総体を形作るのだと言いたいようである。

反直観的言明というボイヤーとスペルベルの発想はかなり重要なものである。私は、鍵となる点については全面的に同意する。つまり、私たちは、表象の合理性(あるいはその逆)についての考察ができるようになる前に、現実の状況でどのようにそうしたものが理解されるよう意図されているのかについて把握する必要がある、という点だ。さらに、彼らが、信念型言明の多くについて民族誌家その他の人々は「世界がどうあるのかについてのストレートな肯定」と誤って受け取ってきたが、その言わんとするところはまったく別の秩序に属するのだということははっきりしている、と重視する点についても正しい。ヌエルの人々が「双子は鳥だ」と言ったり「私たちは赤金剛インコだ」と言ったりするような有名な事例がこの手のものだという可能性は高い。スペルベルは竜の物語を取り上げて自分の立場を説いている。彼は、[アフリカのフィールドで、古老から言われた]「竜を退治してくれ」という頼みごとを、当初たとえば「籠を運んでくれ」という日常的な頼みごとのような発話行為として受け取ってしまっていたが、実は勘違いだったと述べる。本当は、彼は当の言明を「通常とは程遠い」ものと理解すべき隠された語用論的なカッコの存在に気付くべきだったのだ。近年、スペルベルはこの立脚点について繰り返し論じている。何が起こったところで、世界を特定の方法で観る人間の本質的傾向があるならば、こうした信念が直観的なものになることはありえない、と述べているのだ(Sperber 1997)。

この譬えについては、彼の議論に反対するつもりはない。しかし一般的に言って、「いつ隠されたカッコの存在を想定できるのか」、そしてそれにより、スペルベルによれば解釈に必要とみなされる「さらなる探究」を「いつ始動すればいいのか」をどのように民族誌家が知ることができるのか、という問題については不満が残る。彼はどうも単純に、この探究は、その言明の明らかに突飛な性格がもたらす、鮮明なメタファーを理解するために必要な地域のスイッチのように、信念に内在する自明な反直観的特性を足掛かりにすると考えているようだ(Thourangeau and Sternberg 1981)。

竜退治の物語はストレートだ。なぜなら私たちにとって竜の存在について信念を宣言することには明確に珍奇な要素があるからだし、それが当の人々にとってもそうだということがわかるからであるスペルベルがこのことを言われたフィールドでは、「竜」の話は直近に外部からもたらされたもので、現地の人々にとっても奇妙な話だったらしい]。しかし、私たちにとっては珍妙にみえるが、当の人々にとってはそうでもない言明についてはどうなのだろうか。それに、誰にもそれがはっきりしないとしたらどうなのだろうか。私は教養あるマラガシの人々マダガスカル島の民族]に、よく次のような話をされることがある。「ヨーロッパ人はこの国を巡って、マダガスカルの貧しい人たちからこっそり血とかその他の生気を抜き取っている。空飛ぶ魔女の技術と同じのを使っているんだ。ヨーロッパ人は不可思議に動き回って、誰にも見られずにそれをやってのける。それから彼らは盗んだ体の一部を使ってマラガシの生命力を削り取り、自分たちか第三者(だいたいは金持ちヨーロッパ人)の生命力を増やしている。彼らにマラガシの心臓や血、骨が売られるんだ」。何人かは、ヨーロッパ支援のメディアキャンペーンで、マラガシ人に向けられた警告を耳にすることもあると付け加える。それは、どれだけ貧しくても臓器売買(とくに腎臓)に関わってはならないというものだ。実際、あるスイス人医師がまさに同じことをマダガスカル国内ラジオ放送で言っているのを、私もインフォーマントも聞いたことがある。

こうした言明はスペルベルの竜物語よりもずっと面倒な事例になっている。スペルベルやボイヤーが明言こそしないが提案する基準に従う民族誌家なら、この物語のどれだけを反直観的だと取り扱うのだろう。第一に、臓器売買に関する部分は、民族誌家にとって、反直観的だから特別扱いすべきだという言明の一例だとはみなされにくいだろう。他方で、魔術による盗難の部分はこの手の問いを提起するのに十分なものだろう。しかし明らかにどちらの要素も別々にできない一つの全体を構成している。少なくともインフォーマントの観点で考えるかぎり、そう言うしかない。実際、私と(私自身の感情移入的な民族誌的観察を根拠に言うのだが)彼らマラガシは、こうした言明を聴く者として、他の聴き手もそうだが、この物語について語り手が何を意図しているのか、聴き手によってどう聴かれるよう意図されているのか、はっきりとしたことは何も言えないだろう。語り手は、「他人からこのことを聞いた。しかし自分は細心の注意を払って扱っている。なぜなら反直観的に思えるからだ」などと主張しているのだろうか。何にせよ、見つけられることなくある人物から血液を抜き取ったり、直接彼らと接触をもったり、身体に何の痕跡も残さなかったりすることは、尋常ならざる事態である。それとも、この物語は、この世界について一見して直観的な事実の言明として扱われており、信頼できる情報源を通じて伝承されているのだから、私が医者に「ウィルスに感染してますよ」と言われたときのように、何の特別な警戒も調査も行なう必要はない、ということなのだろうか。何にせよ、人が何かを盗もうとするときは見つからないようにやるだろうし、だから盗まれてもそのことには気づかないだろう。信頼できる人々が、そうした盗難が起こったのだと教えてくれたとしても、その情報のどこにも反直観的なところはないだろう。最後に、最初に誰かが心臓泥棒の話を聞いたとき、それが珍妙な話に思えたという可能性はあるが、それ以降は、あまりに同じ話を聞かされるものだから、次第に批判的な耳目を集めなくなっていくことだろう。結局のところ、又聞き的な側面[「〜と言われている」「〜と聞いた」など]が失われていくという点で、この物語はそれこそ未検討な直観的信念のようになっていくだろう。情報がこうして耳慣れたものになっていくならば、それはたとえば、あまりに多くの未熟な果実を食べると腹を下すと言われるのと何の違いもなくなるだろう――自分で体験したことはないし、原因と結果に何の直観的な結びつきがあるとも思えないが、それでも十分に理にかなっているように見えるはずである。頻繁に言明がなされ、情報提供者の信頼性が高ければ、それは経験「したも同じ」ということになるわけだ。血液・心臓泥棒物語の件では、確証がどこから来るかというと、それは、他に明確な理由もないのにヨーロッパ人がマラガシの農民よりも金持ちで健康だという自明な事実である。

こうした翻訳の未決定性は、私たちがフィールドで出くわすことの大半に特徴的であるように思われる。実際、こうしたことはスペルベルの竜物語よりも典型的なものだ。竜であれ血液泥棒や腹下しであれ、どんな物語が語られるにしても、それは経験的な問いである。このことについてスペルベルもボイヤーも論じていないが、おそらくそれは彼らが、どういった命題がその内容からして反直観的なのかということをア・プリオリ[非経験的に]認識する方法を想定しているからのように思われる。しかし、もし内容がコンテクストに左右されるものであり、現実のコンテクストが私の指摘するように流動的で変化の絶えない不確定なものだとすると、単に「ある命題は反直観的だ」とだけ宣言することは、彼らの認めるものが非常に思弁的な心理学を根拠にしているのだから、十分なものとはいえない。だからといって私たちが解釈上の直観を用いるべきではないとか(スペルベルとボイヤーは確実に用いているが)、何が起きているのかを分析するために批判的にそうした主張を検討すべきではないとかを言いたいわけではない。しかし、解釈というものは、コミュニケーションが起きている実在的な状況[コンテクスト]という観点からのみ、可能なものなのだ。
(続く)