ヘンリエッタ・ムーア

ゼミでヘンリエッタ・ムーアの『人類学の主体(主題)』(The Subject of Anthropology, 2007)の一部を担当することになっているので、準備がてら日本語訳をしている。このゼミは比較的詳細にテクストを読解することになっているので、たとえば1章につき2週間はかけることになっている。他の大学院生のブログなどを読んでいると1週間で大著一冊!というところも見かけるし、そうでなくても100ページ以上というのも珍しくはないので、うちの進行は遅い方なのだろう。それはもちろんみんなあまり英語を読むのが得意ではないという情けない理由もあるのだが、多読は個々人に任せて、重要なテクストはちゃんと場を設けて読む、という方針だと思っているので、それはそれでいいのではないかと思う。
それに、ムーアともう一つ並行して読んでいるのがマリリン・ストラザーンであり、こちらは本当にゆっくりと読まないと思考の迷宮に閉じ込められてしまうこともあって、じっくりと腰を据えてやるしかないと思っている。ストラザーンをパパッとやろうなんて土台無理は話ですよ!

それでも、前々回までは僕がストラザーンのイギリス親族論『自然の後に』(After Nature、1991)を担当していたのだが、読むほうも大変だがレジュメでどのように思考の迷宮を単純化すればいいのかというのも大変だったし、日本語訳をする暇もなかった。そもそもストラザーンの英文は人類学書としてはほとんど極北とも言える難解さなので、一介の院生に日本語訳などほぼ無理である(売り物にするとかそういうレベルの問題でさえない!)。いまムーアをやっているが、なんと(英語の)わかりやすいことか。彼女の主題はジェンダーと個人と(文化と社会と……)の深い関係を関係的精神分析から眺めてみるというもので、もともとフロイトやクラインをドゥルーズ経由で読もうしていた自分には多少入っていきやすいところがある。とはいうものの、彼女がたとえばfantasyやthe imaginaryで何を指すのか、まだ具体的事例が提出されていないので、いまいちよくわからない。そのせいで、ゼミでfantasyの効用についてみんなで考えたときも、あまりうまくいかなかった。とはいえ、完全に社会関係や文化によって行動が決定されるわけではないのなら、そこから漏れ出る個人の幻想や欲望(こういうキータームがあるから精神分析、なわけ)をどのように人類学は射程に入れることができるのか、という問題は昔からのアポリアだと思うし、かといって解がまったくないというわけでもないと思うので、……とにかく先を読み進めてみよう。