ユキヒラ鍋が陶製からアルミ製になったのはいつか?

「ゆきひら」といえば『食戟のソーマ』の主人公の名字……でもあるが、一般的には調理器具、鍋の一種である。キッチンが使われている日本の家庭ならどこにもあるといっても過言ではない、ポピュラーな道具だ。漢字では行平とも雪平とも書くので、ここではユキヒラと表記する。
そのユキヒラについて、4年ほど前、友達の依頼で調査することがあった。そこで気づいたのが、意外と具体的にユキヒラの歴史について書かれていたものがないことである。ちょっと調べると分かることだが、ユキヒラはもともと陶製の鍋だった。しかし現在では、アルミ製の片手鍋のことをユキヒラと呼ぶようになっている。いつからだろうか。これがはっきりしなければ歴史について調べたことにならない。でもどうやって調べれば……?
以下は、そのときの調査をまとめたメモである。近現代の家庭用品を調べるとき、何かの参考になるかもしれないので公開しておく。

まず江戸時代。このころは陶製の蓋付き深鍋で、把手と大きな注ぎ口があった。言葉の初出である太田南畝『一話一言』には「平鍋」とあり、天明年間(1781~1789)末に都市部で普及したという。また、1832~3年の人情本春色梅児誉美』に「さめたものは雪平か小鍋でかお温めよ」とあるのについて三田村鳶魚は「「雪平」は今日で云へば土鍋だけれど、形が違ふ。もつと平べつたい」とコメントしている(『江戸文学輪講』p. 338、1928年の輪講)。だが、考古学調査で出土したユキヒラ(注ぎ口と把手がある直径20㎝ほどの陶器)は、いずれも深鍋型である。これらのユキヒラの絶対年代は未確定だが、早くて1820年代後半、遅くても19世紀半ばのものだという(『図説 江戸考古学研究事典』2004, pp. 28-29)。19世紀前半には深鍋型になったのだろう。
ユキヒラという名称は在原行平が須磨で海女に塩を焼かせた故事にちなむといい、この説は『日本国語大辞典』などに見えるが、出典は不明。『一話一言』も在原行平に言及しているが、須磨に流されていた時にこの鍋を用いていたからなのかよく分からない、と書くのみだ。ただ、曲亭馬琴が1811年に合巻『行平鍋須磨酒』というタイトルで、行平(姫に変わっている)と海女(相撲取りに変わっている)の物語を書いているので、このときまでにはそういった故事が伝えられていたのだろう。
当時のユキヒラは陶製だったが、真鍮製のものもあった。『江戸語の辞典』の「ゆきひらなべ」に引かれた『縁結娯色の糸』に記述がある(文庫版p. 1024)。わざわざ「真鍮」と書くことから、少なくとも一般的なものではなかったことがうかがえる。陶製ユキヒラは、高度経済成長期までは家庭や病院で使われていた。

現代のユキヒラに類似したアルミ製片手鍋は、昭和初期には一般家庭に普及したが、陶製のユキヒラと共存しているようである(たとえば1939年5月16日付朝日新聞6面)。この傾向は戦後に入っても変わらず、1959年3月の『商品大辞典』p. 1078でも、ユキヒラといえば土鍋のこととなっている。なお、当時のアルミ鍋は『暮しの手帖』35(1956)の「買物案内 ナベは毎日つかうものです」によるとほとんどが両手持ちだった。しかし、同じく『暮しの手帖』51(1959)の「買物案内 ふたたびナベについて」になると「3年前にはデパートの台所用品売場で、ナベといえばほとんどが両手ナベでした。……それが翌年からは、片手ナベの種類や数がグングンとふえ、……ナベの売れた数のうち、その60%から70%が片手ナベだということもわかりました」と状況が一変している(p. 101)。このようにバリエーションが増えたなかに、現在のアルミ製ユキヒラの原型も生まれたと思われる。

今のところ仮説段階だが、転機と思われるのは、通販業の日本文化センターが「《高級》打出鍋セット」を売りに出したなかに、直径18㎝の「雪平鍋」が入っていたことである。現行の、凸凹模様のあるやつだ。今のところ、1975年11月19日付読売新聞6面に広告を出しているなかにあるのが、見つけたなかでは最も古い(なお当時の社名は別)。セットのなかには直径18㎝の「片手鍋」もあるが、これは「雪平鍋」よりも深くて蓋が付いており、区別されていることが分かる。翌年9月25日付読売新聞夕刊12面には、今度は住所は同じまま社名が「日本文化センター」となって、同じ鍋セットの広告が出ている(日本文化センターの設立は75年らしいので、鍋セットは最初期のラインナップとして販促に力を入れたものと思われる)。
通販業界トップだった日本文化センターによる、全国的な商品の均一化や広告自体の存在が「ユキヒラといえばアルミ製」というイメージの普及に貢献しただろうことは容易に想定できる。とはいえ、1976年版『商品大辞典』は、まだユキヒラを土鍋に分類している(p. 1241)。なお、この凸凹アルミ鍋だが、1978年12月6日付朝日新聞38面の記事に「最近、アルミ鍋の表面に凸凹をつけた、打ち出し鍋も出ています」とあるので、早くても1970年代後半に普及したものとみられる。この記事にはちゃんと日本文化センターの「高級打出鍋全8点セット」の広告が出ている。
続いて『主婦と生活』1978年11月号の記事「お鍋の選び方・使い方」では、「アルミ製ゆきひら鍋」と陶製の「ゆきひら」が同時に紹介されている。前者にあえて「アルミ製」とつけているところからすると、この年代はアルミ製と陶製のユキヒラがまだ拮抗していたようである。数年後の1984年8月24日付読売新聞には、ダイエーが「お料理自慢の主婦に人気の高い雪平鍋」と銘打って18㎝の凸凹アルミ製ユキヒラを広告に出している。おそらく1980年代前半までには、ユキヒラといえば凸凹アルミ製ということになったのではないだろうか。
平成に入るが、『オレンジページ』1996年3月17号のp.134に「行平鍋の“行平”ってどういう意味?」というコラムがあり、この時点で「本来は……土鍋のこと」と書かれている。このコラムによると、「以前は片手鍋と呼ばれていましたが、洋風のシチュー鍋などと区別するため、形が似ている“行平”の名で呼ばれるようになりました」とある。ただし典拠は不明。

その他、当時の料理本や料理番組、映画・ドラマ・漫画などの調理シーンなども調査すればもっとはっきりしたことが分かるとは思うが、とりあえずは以上のとおり。

近世国学の妖怪論(宣長・守部・隆正)

本居宣長は、上田秋成平田篤胤とちがって積極的に妖怪的なものを語ろうとはしなかった。いちおう「カミ」の定義のなかで妖怪的なものを列挙してはいるが、付属品的な扱いでしかない。(前に紹介した↓)

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しかし、門人との問答のなかで、宣長自身がどう考えているかを披露することはあった。『鈴屋答問録』(1779)に収録されているなかに、それを見ることができる。宣長の場合、世の中で悪いことが起きても、他のすべてのことと同様、それは神々の仕業である。より具体的に言うと、禍津日の神の仕業である。神の仕業であるから、そういうものとして受け取らねばならない。神々はこの世界をすべて掌握しており、そこから漏れるものはないのだ。

「(問い)俗に疫病神といふは、古事記崇神天皇御段に、大物主神の御心によりて、神気おこりしことある、これ即疫病神か。――答。凡て神とまをすものは、……正しき善神とても、事にふれて怒りたまふ時は、世人をなやまし給ふこともあり。邪なる悪神も、まれまれにはよきしわざも有べし。……さて凡て、世間にわろきことのあるは、本は皆、禍津日の神の神霊によることなれば、この大物主神の御心より、疫を起し給へるも、本は禍津日の神の御心也。疫のみならず、万のまがごと、皆、この例をもてさとるべし。……そは何れにまれ、その時にあたりて疫をおこなふ神を、疫病神とはいひつべし。」

「疫病神」とはどういうものを指すのか、という問いに対して、それは究極的には禍津日の意志である、という。疫病神自体は、具体的な神格というより役割のようなものである。

「(問い)世にわびしくまづしくならしむるを貧乏神といひ、富栄えしむるを福の神といふ、これらも別にその神の有にはあらで、そのしからしむる神霊をいふなるべくや。――答。然也。何れの神にまれ、然らしむる神をさしていふべし。但し人をとましむる神、まづしからしむることをわざとする神も、あるまじきにあらず。」

今度は貧乏神について。こちらも同じで、禍津日の名称は出さないが、やはり役割名のように考えている。

「(問い)疱瘡神は、外国より来りし悪神なるべし。これも、禍津日神の神霊とやせむ。この病は物のたたりにもあらず、又一度やみぬれば二度とはやまぬことなど、他の病とはかはりていとあやしきはいかが。――答え。問の如く、この病は古へはなかりしかばこの神もと、外国より来り神なるべし。……何れの国の神にまれ、あしきわざするは、皆禍津日の神の御心也。さて世にこの疱瘡や疫病或はわらはやみなどを、殊に神わづらひと思ふなれど、これらのみならず、余のすべての病も、皆神の御しわざ也。その中に、そのわづらふさまのあやしきと然らざるとは、神の御しわざなることのあらはに見ゆると、あらはならざるとのけぢめのみこそあれ、……」

次は疱瘡神。これもやはり禍津日神の仕業。世界中どこでも変わらない。疱瘡は病気としては「あやしい」ように見えるけど、それは神の所業がはっきり見えるからにすぎない。すべての病気は神のせいである。

「(問い)きりしたんなどいふもの、又狐神をつかひ、また今世魔法と云類は……八十禍津日の神の類なることは知られたり。……然るをその禍津日神も、御国にて生れたまふを、そをつかう法は、御国にはなくて、他国にあるは、……大御神の御国ならぬわろき国は、彼禍神の所得たまふ国なるから、さるわろき業は中々に伝はりけんしかし。〈狐神にまれ、狗神にまれ、神をつかふわざは、さかしらに作りたるわざにはあらじ〉……さにはあらじか。――答え。……さやうの法どもの、多くは異国に伝はることは、御考の如くにてもあらむか。そはくはしきことは測りがたし。」

イヌガミなど、動物であるカミを使役するやから。日本のような神国にそのような悪法が伝わっていないのは、禍津日神が統治しているからではないかという問いに、そうなのかもしれないが、よく分からない、という宣長

すべての悪を禍津日神に帰す宣長の神学は、のちに篤胤など多くの国学者によって批判されてしまうことになる。しかし宣長自身は、こうでもしなければ、善悪正邪が入り乱れるこの世の現実を創出する神々の、その測り知れぬ所業を説明することができないと考えていた。ほとんど言及しない怪異妖怪についても、『古事記伝』にあるようにそれを「神」と見なしていたからには、何かそういうことがあったときは、禍津日神へと還元することになったのだろう。

 

宣長古事記理解を批判し、平田篤胤らとも距離を取っていた橘守部(1781–1849)は、天保年間以降、幽冥論に関心を抱くようになる。たとえば晩年の神道論『神代直語』(1846)にその思想を如実にうかがうことができよう*1。守部は、いわゆる「幽冥」のうち、神々の領域は「天」であり、死者の領域は「黄泉」であり、両者は「昼夜のごとく、海陸のごとく、夫婦のごと」く、二項対立的で補完的である、と考えていた。とはいえここでは深入りせず、妖怪系の記述をいくつか抜粋するにとどめる。

「……黄泉の界が闇(くら)き処と云にはあらず。しばらく現き人の目に見えずなり行を以て、此方より然かひなす詞なり。彼方より見ば、又この現し世の界が闇からんも知がたし。いとたまたまの事にはあれど、彼の幽魂、怨霊などの恨を報に出る事あるに、必ず先づ青き火燃ゆと云り。これすなわち彼よりは又この現し世が闇かる故に、照らし見る炬のためにぞあらん」(『神代直語』巻上)

守部にとって、死者の居所は黄泉である。しかし篤胤が「幽冥からは現世は丸見えである」と言ったのに対し、守部は微妙に違うことを推測している。どっちもどっちではないか、と言うのである。もちろんこれは推測であって、結局あちら側から現世がどう見えるか経験的に実証することはできないので「知りがた」い。だが幽霊が火をともなっていることをもって、あっちからも暗く見えるのではないかと言う。独創的である。

さて、この黄泉はどのような住人にあふれているのだろうか?

「かくてこの黄泉の界はいともいとも広くして、かの死行人の魂のみならず、禍日の八十禍、大禍をはじめ、怨霊、鬼物、妖物、諸の魔物等の隠れ栖隈路なりければ、神皇産霊尊の昔より、幽顕の隔疆(へだて)いと厳重になし給へれど、猶ともすれば、この界より凶悪(あしき)者の溢れ来て、現し世の人を悩す事あり。そもそも天つ神の賞罰は善悪邪正に随ひて、いと正しかれば、さてあるを、この黄泉の界より来る殃災は、却て善き人の禍(まが)るが多かれば、懼るべき限なり。……さればこの障礙を免んには、常に天神地祇を奉斎(いつきまつ)り、身を慎み、心を清め、仮にも悪き行跡せず、不浄に染ず、家の内をよく掃ききよめて、善き神の御霊よせあるやうに心懸くべし。物は善悪とも類を以て集るとか。かの邪神(あらぶるかみ)の好むふるまひし、魔物の羨む心をもち、竈所を汚し、火を穢し、不浄にふれなどするときは、彼の鬼物等それを慕ひて、あふれ来る事ありとぞいひ伝へたる。」

黄泉は死者だけではなく、宣長以来の悪の根源であるマガツヒをはじめ、妖怪や魔物がたくさんいるのだという。時にはそれらが現世にやってきて、人々を悩ますのだ。それを避けるためには、家や心を清浄にし、天神を奉るのがよいという。汚いところに魔物は集まるのである。それでは現世にいると思しきケモノたちの怪異はどうなのだろうか。

「世に、狐狸などの人の目に触れぬわざする事のあるは、微弱き獣ながらも、幽冥の方へもすこしは入らるる幸のありてなるべし。亦禽の中に、夜も灯の光りを倩(やとは)ずして目の視ゆる物多かり。こは野山に栖むものは、然らずては得堪べからねば、只それのみを許されて生れ得るなるべし。もし人に狐狸の術ありて、飛鳥の翅を持しめば、世の片時も治りがたかりなん故に、神の許し給はざるにこそ。」

このあたり守部はちょっと曖昧なのだが、狐狸の変化と鳥の夜目を、いずれも人間の有さないものとして並列し、前者については幽冥とちょっと関わりがあるのだろうという推測をして、後者は生きるために必要だから神がそれを認めたのだ、という風に説明している。鳥獣は生きている人間より幽冥に関係が深いという篤胤の考えをここでは継承しつつ、宣長的に、すべては神々の意志によるのだという決定論的思考も働いているようである。

なお、1844年の『稜威道別』巻二にも、少し表現を変えて同様のことが書かれている。

 

大国隆正(1793–1871)については、幽冥が国々によって違うという、蘭学が知識人に普及していった時代を象徴するような妖怪論を前に紹介した。下参照。

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ここではさらに二つ、別の妖怪論――ツクモガミとバケタマ――について紹介してみる。まず嘉永年間(1848–1855)初頭に成立したらしい『死後安心録』より。なお隆正の文章はひらがなが多いので、問題ないところは漢字になおした。

「黄泉国は邪火のこもれるところなり。今、婦人の子をうむをみるに、経行とまりて十月の間をあたため、子をうみてのち、その汚血はくだるものなり。伊邪那美命の国を生みたまへるにも、その経行の汚血なきことを得ず。その汚血、黄泉にくだりて、邪火となりてありしなり。黄泉戸のけがれてありしもこの故なり。その汚血をもて、万物の妖のはじめとす。これやがて附喪神なり。万物につきてわざはひをなすものなり。これもまたその火つぎつぎにうすらぐにより、造悪の人のたましひそれになりて、その種をたたざるものなり。日本国にて附喪といふは、万物につきてあやしみをなすものの総名にて、これにまたさまざまの差別あり。天狗も附もがみなり。狐狸もつくもがみなり。疫病神・貧乏神・疱瘡神みな、人に附も神なり。その根源は黄泉の邪火よりなれるかみにして、そのはじめは伊邪那岐命につきて、黄泉国よりこの地球上に来りし神なり。……そのやまひ、その邪念によりて身をほろぼしたる人のたましひ、又その邪神の食となりて邪神をこやし、邪神となりて邪悪をなすものなり。」

妖怪はツクモガミである! 一部ツイッターなどで話題になった、大国隆正独自のツクモガミ論*2伊邪那美であっても経血は穢れたものだから、そこから「妖」が生まれ、災いをなすようになったというのである。天狗も狐狸も、宣長の『鈴屋答問録』に出てきた悪神(疫病・貧乏・疱瘡)も、すべてはツクモガミである。この思想は、今のところ隆正以前に見ることはできず、また隆正以降も誰かが受け継いだのも見つけられていない。特異事例である。

さて隆正によれば、生まれ変わりにもツクモガミが関与するという。

「人死にて、……その魂は、墓に留まるあり。位牌に留まるあり。かねて行かまくほりしところに至るもあるべし。浮かれ歩くもあるべし。ただちに幽界に入るもあるべし。いずくにありても、幽界の政所に呼ばれて、その裁判にあひ、畜生のたまに添ふもあるべし。人間のたまに添ふもあるべし。いずれに添ふもみな、つくもがみなり。おのれ是まで心をつけて生れ変りの説をきくに、まるまる生れ変るものにあらず。……しかるに生れ変りといふ証跡の折々あるは、皆つくもがみの類にて、狐の人につくごとく、その人の元霊のある上に、つきて生まるるものなれば、つひには離るることもあるなり。幼年にしてよく文字を読み、文字を書きなどするものの、成長して愚かになる類、多くはつきて生まるる妖(もの)ありて、のちに離れて、元霊のその愚かなるにかへるもの多かり」

この引用の冒頭は、「死者はどこにいる?」という近世のさまざまな考え方を全部受け入れてしまったすごいところであるが、それはともかく、これから生まれる別の霊魂にともなうものはツクモガミであるという。純粋な生まれ変わりというのは存在しない。前世から引き継いだと思しきものは、実はすでに死んだ霊魂がツクモガミとなって取り憑いているのだ。のちに離れていくことがあるので、神童が凡才になるというのもこれで説明できる、という悲しい話。

もう一つは、『死後安心録』より後に成立した、有名な『本学挙要』(1855)から。霊魂の種別を述べるところで、いわゆる四魂のほかに「はけだま・ことだま」の解説が続く。

「「はけだま」の「はけ」は、俗にいふ「ばけ」なり。いにしへは、「はけ」とすみていひけん。今は、「ばける」「ばかす」など、濁りていふなり。これは、空中をゆき、質を気にし、気を質にするたぐひ、人のなし得ざることをするたまなり。そもそも、第四の神代、幽よ顕の分界なかりしほどは、人も空中をゆき、神も人に雑はりてありしなり。天孫降臨ありしはじめ、石根・木根の言霊を離して、禽獣にもものをいはしめず、そのかはり人の「はけだま」を離してあやしきわざをなさしめず、この時より、いまの天地とさだまれるものになん。……人にもありける「はけだま」を離したまへる考証、書籍にはあらぬなり。しかれども石根・木根の言霊を離したまへる故事のあるにより、その一対なれば、必ず人にありける術魂(ハケダマ)を離したまひけんと知ることなり。これにより、狐狸のたぐひには妖魂(バケダマ)ありて言霊なく、人には言霊ありて妖魂なし。これは今の天地・世界のありさまを考証によりて、これを知れるなり。これを知りてみれば、空海のたぐひ、人にして妖術(ハケダマ)あるは、賤しむべきこととさとる也」

バケダマは、今風に言えば物質を出現させたり消したりする力能のことと隆正は解釈して、それが禽獣、とくに狐狸には備わっているという。原初アニミズム的な、すべての存在がコトダマとバケダマをもって相互行為していた時代は天孫降臨によって終わりを告げ、人間にはコトダマが、その他にはバケダマが残ったのだ、という。だから人間がバケダマを駆使するのは「賤しい」ことなのである。「術魂」は『先代旧事本紀』(9世紀)の巻第四「地祇本紀」が大己貴命の魂の一つとして言っているもので、記紀には見えない。それを隆正は、禽獣の有する/人間の有さない魂として解釈しているのである。

ところで術魂は、近代的鎮魂行法の大家・川面凡児(1862–1929)の理論にも登場している。彼によると「禍魂(まがたま)とは旧事紀にあるところの術魂で奇魂幸魂等の悪化凶変して自他を禍する魂であります」(『霊魂の典故』、『川面凡児全集』第1巻所収)、「術魂を「バケミタマ」と云ふは「バケ」は変化して白が黒に、黒が白に変化するの意味なのである。また「ハ」は「マ」に通ひ、「ケ」は「カ」に転じ、「まがる」なり「曲る」なり。直しきものが曲りたる意味で魔魂(まがたま)となる」(『日本民族宇宙観』1913、p. 171)と論じている*3。津城寛文によれば、川面の霊魂論において「全身の統一した状態において、主要な魂が体外に脱出して何らかの活動をなすことを」魂の分出と言い、「もしこの統一に欠陥があった場合、分出魂はその脱魂してきた元の身体の不調に牽制されて充全な活動をしないまま帰還し、虚偽の活動報告をなすことがあるという」。これが術魂なのである*4。要するに、隆正のように人間以外の禽獣に属すものでもなく、怪異をなす人間が有するものでもなく、あくまで自らの霊魂をコントロールができなかった状態において現れるのが術魂、というわけである。

*1:守部の幽冥論については、東より子2016『国学曼陀羅 宣長前後の神典解釈』第3章など参照。

*2:大国隆正のツクモガミに言及しているのは、管見では浅田雅直1989「近世後期国学者民間信仰 平田篤胤の「幽冥」の位置(下)」『日本学』13, pp. 211-212のみである。しかし隆正がそういう名称を持ち出したのを触れるのみで、詳細を論じているわけではない。

*3:津城寛文1990『鎮魂行法論 近代神道世界の霊魂論と身体論』p. 251に引用。なお津城はp. 250で隆正はほとんど術魂を論じていないとしているが、『本学挙要』は見逃していたのだろうか。

*4:津城、pp. 251–252。

前期国学の妖怪論

近世国学の妖怪論はどうなっていたのか。平田篤胤が語りすぎたので、一人だけ有名になってしまっているが、前期国学の人々も、当時の多くの知識人と同じように、通りすがりに程度であるが、怪異・妖怪について語っているところはある。ちゃんと調査したわけではないので多分もっとあるとは思うが、ここでは国学四大人のうち篤胤以外の三人の著作から、それっぽいところを抜き出してみた。

ツイッターにも書いたが、僕の関心は「もとから化物である存在が幽冥界にどうやって取り込まれていったのか」なので、以下の国学者たちの思想は、正確に言うと大半が関心から外れるのだけど、参考までに。

篤胤以降については以下も参照。

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1、荷田春満(1669~1736)

今日の上にて、妖妄怪異の事の世の中にあるは、みな国津神の神化也。ないとはいはれぬ、なるほど天地の間にはさまざまの不思議なる事あり。これ国津神の仕業也。然れども其義は天神の神徳化にてはなき也。さればかつて尊むべきことにてはなき也。然れども今の世は、みなそのあやしき奇怪なる事を云ふ者を、神道者などゝ心得て居ること也。天神の道には怪異なることはなく、恒常不変の徳化を被施を、天津神とは奉尊称こと也。(『日本書紀神代巻箚記』1707頃?)
*怪異は国津神の仕業。ちゃんとした神様はそんなことしない。ここは日本書紀神代巻下の、さばえなすあしき神云々に対する注釈。

2、賀茂真淵(1697~1769)

すべてむくひといひ、あやしきことゝといふは、狐狸のなすこと也。凡天が下のものに、おのがじゝ、得たることあれど、皆みえたること成を、たゞ狐狸のみ、人をしもたぶらかすわざをえたるなり。(『国意考』1769)
*因果応報や怪異は狐狸の仕業。

3、本居宣長(1730~1801)

迦微(かみ)と申す名義は未だ思得ず、〈旧く説ることども皆あたらず、〉さて凡て迦微とは、古御典に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き物を迦微とは云なり、〈すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり[……]竜・樹霊(こたま)・狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、木霊とは、俗にいはゆる天狗にて、漢籍に魑魅など云たぐひの物ぞ、書紀舒明巻に見えたる天狗は、異物なり、又源氏物語などに、天狗こたまと云ることあれば、天狗とは別なるがごと聞ゆめれど、そは当時世に天狗ともいひ木霊とも云るを、何となくつらね云るにて、実は一つ物なり、又今俗にこたまと云物は、古へ山彦と云り、これらは此に要なきことどもなれども、木霊の因に云のみなり[……]磐根・木株・草葉のよく言語(ものいひ)したぐひなども、皆神なり〉[……]貴きもあり賎きもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、[……]〈最賎き神の中には、徳(いきおい)すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや〉
(『古事記伝』1764~1798)
*異常なことができるならば、善悪にかかわらず、キツネも天狗も竜も神である。『古事記伝』のなかでも一番有名なこの部分は、基本的には記紀における「迦微」概念の外延を示したものであるが、部分的に宣長の同時代における妖怪を意識したところも見られる。喧嘩相手の上田秋成とは違い、宣長は同時代の怪異妖怪をほとんど語らなかったし、ここでも「ここで別に言うことではないが」と言っているが、けっこう熱く天狗について語っている。