マイケル・ディラン・フォスター『日本妖怪考 百鬼夜行から水木しげるまで』

2017年9月8日、森話社より翻訳出版予定。税抜き4800円。

妖怪はどこから生まれ、どこに行くのか? 捕まえようとすると、するりと手から逃れていく妖怪たち。日本人はその妖怪をどのように捉え、描き、表象してきたのか。江戸時代に編まれた百科事典や画集から、近代科学とのせめぎあい、文学や民俗学との関わり、そしてマンガなど現代メディアの中の妖怪像まで、日本の「妖怪文化」を縦横無尽に語りつくす。ニューヨーク出身のアメリカ人民俗学者による気鋭の妖怪論。〈シカゴ民俗学賞受賞〉
 

日本妖怪考──百鬼夜行から水木しげるまで

日本妖怪考──百鬼夜行から水木しげるまで

 

 

 Michael Dylan Foster, Pandemonium and Parade: Japanese Monsters and the Culture of Yōkai, Berkeley: University of California Press, 2009の全訳。

訳者あとがき(草稿)から一部抜粋します。

「『日本妖怪考』が取り扱うのは、日本における妖怪の「言説」、つまり、何世紀にもわたって妖怪をめぐる人々が生み出してきた、多種多様な言語的・図像的表現である。そのため、分析の対象になるのはカッパやヌリカベといった妖怪そのものではなく、鳥山石燕井上円了柳田国男水木しげるといった妖怪有名人や、博物学書、明治文学、学術書、週刊誌、映画などの多彩な舞台のほうである。日本の歴史において、そもそもが捉えがたい存在である妖怪は、どのように捉えられようとしてきたのだろうか? 各種の言説は、捉えられない妖怪を、どのような概念のなかに収めようとしてきたのか? そしてなぜ、妖怪は「日本」というネイションと結びついてきたのか? 言うなれば、日本における「妖怪文化の認識論」の変遷を追っていくことが、本書の大きな枠組みなのである。」

目次

日本語版への序文
謝辞

第1章 妖怪への誘い
 不思議な死骸
 妖怪言説
 モノの不安定性
 大混乱と行進
 恐怖の分類学、快楽の奇形学
 信念の両義性
 超自然の自然本性、神秘の情動
 不気味なもの、幻想的なもの、怪物的なもの
 他なる怪物
 撞着語法としての妖怪
 章構成、比喩、ネイションの亡霊

第2章 妖怪の博物学――百科事典、怪談、鳥山石燕の妖怪誌
 妖怪の規律
 百科事典方式
 遊戯方式――見せる、語る
 鳥山石燕の妖怪誌
 化け物に遊ぶ
 曖昧さを包み込む

第3章 妖怪の科学――井上円了、コックリ、人身電気
 妖怪の真実
 一大コックリ現象
 新たな参照生態学をつくりだす
 遊びのある空間
 永続する神秘

第4章 妖怪の博物館――近代、民俗学、妖怪の発見
 タヌキの死
 不信の念の意図せざる停止
 過去が現前する
 近代的な妖怪研究
 響き渡る声、うつろな形式

第5章 妖怪のメディア 水木しげる口裂け女
 Godzillaではなく
 水木しげる
 口裂け女
 妖怪の国(ネイション)

第6章 妖怪文化 過去、現在、未来
 Jホラー
 故郷と国家
 新妖怪学
 妖怪共同体
 異界、収集、不思議な死骸


参考文献

訳者あとがき(廣田龍平)

くねくねがブームになるまで

ちょっとした備忘録。
「洒落怖」や「エニグマ」はそれぞれオカルト板の有名なスレッド。

2000年3月5日
ウェブサイト「怪談投稿」に、「分からない方がいい・・」が投稿される。

2001年7月7日
洒落怖6の212に「分からない方がいい・・」が出典を明記せず投稿される。

2003年3月29日
洒落怖31の759, 761–764に「くねくね」が投稿される。

2003年6月9日
洒落怖40の764に「白いくにゃくにゃ」と題して「分からない方がいい・・」がコピペされる。
*このあたりから、徐々にくねくねの目撃例が集まるようになる。

2003年6月13日
洒落怖41の255に「黒いくねくね」の話が投稿される。

2003年6月14日
エニグマ14の18–21に「白いモノ」(海での目撃例)が投稿される。

2003年6月22日
エニグマ14の274に「イカ男」が投稿される。

2003年7月4日
エニグマ14の851と853に「白い人影」が投稿されるが、サーバーダウンに伴うデータ破損により外部サイトにのみ記録が残る。

2003年7月8日
専用スレ「く ね く ね」が立つ。夏休みの到来とともに一大ブームに。7月13日には第2スレが立つ。

2004年3月
『恐怖2ちゃんねる 電網百物語』に「分からない方がいい・・」が転載される。書籍での初掲載例?

2005年2月27日
ウェブサイト「うわごとのとなり」にくねくねの記事が掲載される。どういうわけか、くねくねを論じた部分のある二つの書籍(佐々木高弘2014『民話の地理学』、伊藤龍平2016『ネットロア』)のどちらもがこれを参照している。

『現代民俗学研究』第9号に論文が載りました

廣田龍平2017「神なき時代の妖怪学」『現代民俗学研究』9: 43-53

 

要旨の日本語訳は以下のとおりです。

 

 妖怪は日本民俗学の中心的テーマだという一般的な認識があるにもかかわらず、現実にはほとんどこの分野で妖怪研究はなされていない。これを踏まえて、本稿では、どのように妖怪が民俗学から排除されていったのかを、妖怪研究の中心人物である小松和彦の業績を検討することによって論じる。まず本稿では、小松と柳田國男を対比させることにより、小松が多かれ少なかれ自意識的に、妖怪を旧来の民俗学から構造人類学へと移し替えたことを指摘する。彼による妖怪の分析は、妖怪が「他者」の世界に見出されるとみなした点で、きわめて人類学的である。この事実は、小松による(そして柳田による)「自己」理解としての民俗学の定義と鋭い対比をなしている。とはいえ、小松によるもう一つの民俗学の定義が、この移し替えを説明することになろう。それは、民俗学の中心テーマは「神」だというものである。小松の業績を検討することにより、その妖怪論にみられる妖怪と神との連続性という定式が、「他者」の民俗社会には適用できるが、「自己」の現代社会においては適用できない、ということを含意していることを明らかにする。ゆえに、妖怪は小松民俗学から排除されていったのである。