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妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

今のところ最古の「ヌリカベ」文献

九州日日新聞 大正10年1月21日付

()は読みにくい部分のフリガナ、(?)は不鮮明で判読が難しかったところです。

木倉(きのくら)の怪
楠田祥
〔一〕塗り壁
 肥後の御船と木倉の平野から、東の方宗心原の臺(?)地へ上る坂路の一つに「迫路」と名づけらるゝ奇怪な坂があります。短い坂で、そして左程急峻でもありませんが、それでも此の坂は、昔以來、隨分と有名な妖怪の棲家であります。
 曲がりくねつた此の坂は其の南側に、輕石混ざりの堅硬な絶壁が聳へ絶壁は一面に恐ろしげな羊歯類に被ひかぶされて居ます。絶壁の上は樫や椿や欅や、そして無數の竹類が無數に生茂り、總てのお怪(ばけ)の棲家と同じく此處も又、晝尚ほ暗き氣味の惡い場所であります。
 此處に出る妖怪は色々の仕掛に於て村人の魂を奪ひます、夜更けに通る村人は、時々、其の絶壁の上から無數の磊(こいし)を投げかけられるのです、まるで磊(?)を掃き落とす樣に一斉に投げかけられる。或人は又、その目の前に忽然として鍋の蓋がぶら下るのに出會したと恐ろしげに語ります。
 けれど此の坂の、村人に最も恐れらるゝのは、此の坂に於て、奇怪なる『塗り壁』の怪が現はれるからであります。
 日が暮ると村人はなるべく此の坂道を通らない樣にします、けれど夜、止むを得ぬ所用あつて此の坂を通る時は、必ず此の恐ろしき『塗り壁』に嚇されます。村人が此の坂を上つて、やがて中途まで來ると、突然、其の目前に眞白な壁が出來ます、壁より外何物も見えなくなります、月も見えなくなり絶壁も樹木も道路も消え失せます[、]もう恁(か)うなつたら駄目です人は一步も進む事は出來ません。強いて進まうとすれば屹度、溝に落ちたり崖に突き當つたりすると申します。眼前に此の生々しい壁が出來た時は、人は先づ第一に膽力を落ちつけるが肝腎だと言ひます、最も安全な方法は氣を落ちつけて此の壁を手で塗り廻すか、或は「ヤレ〳〵、出たか〳〵どれ、では一服やるかなあ」位の調子で其の邊の石ころに腰でもかけて、氣永に煙草でもふかして壁の消えるのを待つのが第一だと申されます。
或る夜、一人の豪氣な男が此坂に通りかゝりました、すると果して目前に生々しい塗立の壁が現れました、癇癪持の此の男、腰を下して煙草を吹かすなぞの氣長な事は出來樣はありません、いきなり大劔を引き抜いて「エイッ」とばかり此の壁に切りつけました、すると今まであつた壁は忽然として消え失せ頭上の月は再び現はれて道は元の如く眼前に展開しました[。]
 此處の妖怪の本尊は狸ださうです。

ここに載せてみた経緯
 私は、『日本怪異妖怪大事典』に「ヌリカベ」を執筆した縁で、この妖怪の情報についてはそれなりに耳聡くしているつもりであるが、やはり限界はある。
 数年前(事典の出版後だったと思う)に熊本大学鈴木寛之先生が僕のいる大学に集中講義に来てくださったとき、配布されたプリントに「ヌリカベ」についての新聞記事からの引用テクストが掲載されていた。見てみると、日付は1921年(大正10年)、伝承地域は熊本。従来知られていた(公刊された)ヌリカベ文献の最古事例が柳田國男「妖怪名彙」の1938年だったから、17年もさかのぼることになる。また、知られていた分布も福岡と大分だけだったから、熊本に最古の事例があるというのは意外も意外なことだった。自分の無知を恥じるとともに、興奮して読んだ。
 その後私は、湯本豪一先生が『大正期怪異妖怪記事資料集成』を出版されるという話を耳にして、当然この妖怪記事も収められているだろうと期待し、下巻が出るとすぐに大正10年のところをめくってみた。しかし不思議なことに、「ヌリカベ」を第一弾とする連載「木倉の怪」(全18回)のうち、第1回は確かに「塗り壁」のはずだったのに、別のものになっていた。そして次の記事は第3回だった。日付は第1回と第3回で連続している。まさか塗り壁の記事は幻だったのか……と思いつつ、その後別の件で明治期の妖怪記事を調べていると、案外湯本先生の『集成』にも抜けているものがあるということに気づき、どうやら「塗り壁」がないのもそれが理由なのだろうということがわかってきた。『集成』に掲載されている第1回は、日付と併せて考えると、第2回とすべきところを誤植しただけであろう。そう思って国会図書館におもむき、マイクロフィルムで確認してみた。やはり「塗り壁」は第1回目に紹介されていた。
 古新聞のマイクロフィルムということで、かなり判読できないところも多かったが、鈴木先生のレジュメも参考にしてここに転載してみることにした。世間のヌリカベ研究者、九州の妖怪研究者、ほか妖怪関係の人たちの参考になれば幸いです。
 最後に、当然ながら、この記事を紹介して下さったのは鈴木先生であって、僕は原資料を確認したに過ぎない、ということを強調しておきます。

ちなみに「木倉の怪」第5回は鈴木先生のレジュメによれば「新聞が現存せず」、湯本先生の『集成』にもないので確認してみると、国会図書館マイクロフィルムでも第5回が掲載されているはずの日付の新聞だけ欠だった。

江戸時代の「天使」と「天狗」

年末年始の調べものの一環としてメモ的に。
キリシタン文書では、天使といえば「あんじょ」、悪魔といえば「天狗」と翻訳されていたが、蘭学隆盛期に入ると、天使といえば「天狗」ということになってしまった。宗教性が除去されすぎた結果、形態論的な比較しか行われなくなってしまったからだろう。特に天使の一種ケルビムは天狗にぴったりだったらしく、維新以降もキリスト教と無関係な場ではこの訳語が充てられていた。


1715『西洋紀聞』
アンゼルス、(仏教でいう)光音天人

1796『江戸ハルマ』
神の使しめ
天狗の類(ケルビム)

1798『蛮語箋』
エンゲル 天狗

1799『楢林雑話』
engel(えんげる)とは天神と云ことなり。小児の肉翅あるを画くものこれなり。形なくしてよく物を知と云ことなり。

1810『蘭語訳撰』
天狗

1810『訳鍵』
神使の羽人 親睦の人

1811『諳厄利亜興学小筌』
天神所使令者
此の使令するものに善悪ありといふ。吉神凶神の類にて、俗称に善玉悪玉といふが如きものならん。訳字未詳

1814『諳厄利亜語林大成』
エンジル 天神所使令者
チェリュビム 神祇属

1837『約翰福音之伝』
「カミ」「アマツカミ」

1840『甲子夜話三編』巻70
「次に一種あり。これ真の天狗なり。鷹嘴、鷲眼両翼あり。或は山谷林中に栖、或は聚落に出て、人に災し、居家を焼亡さする類、都て世の動乱を好む者なり。これ西洋に所㆑謂、「エンゲル」と云者にして、正直の人に仇する、悪魔の属なり」

1854『妖魅論』
「このヱンゲルも高津鳥の属なる物なるべし」

1855-1858『和蘭字彙』
神の使はしめ

1856『古伝通解』
「西洋にはエンゲルといふものありて、天竺の修羅、唐土の仙人、日本の天狗に似て、また一種のものと覚えたり」

1857『増補改訂訳鍵』
神使の羽人。親睦の人。天狗の類。

1862『英和対訳袖珍辞書』
神の使者
天神。天狗(ケルビム)

1884『弁士必携英語節用集』
チェルビム 天狗

『怪異と身体の民俗学』第4章の異界論について

安井眞奈美2014『怪異と身体の民俗学 異界から出産と子育てを問い直す』せりか書房は、タイトルのとおり、出産習俗から身体感覚へと論点を広げつつ、怪異や妖怪をつねに意識しながら「問い直す」ことを目的とした著書である。著者は副題にあるとおり「異界」という概念を重視している(概念自体は『日本人の異界観』2006の小松和彦による総論を受け容れている)。しかし、どうもこの論考は「異界」概念の悪いところを浮き彫りにしたもののように思われる。ここでは第4章「抜けた乳歯の行方 身体観の変容にせまる」の「異界」に関する議論を見ていく(以下、カッコ内は本書のページ数)。
著者がまず注目するのは、抜けた下の歯を屋根上に、上の歯を床下に投げ込む習俗である。(私も一軒家に住んでいたころは歯を投げたが、屋根上に届いたかつねに不安だった。)この習俗について著者は土井卓治1994「防災の民俗と斜十字」『民俗の歴史的世界』の議論を参考して、「上下を交叉させることによって×という形を作る、一種の魔除け」と解釈する。しかし私は、上の歯は下向きに生えるから下へ、下の歯は上向きに生えるから上へ、という解釈を(親から?)聞いた。この民俗的解釈は、「抜けた歯 投げる」などでネット上を検索するとかなり多数派のようである。抜けた歯と自分の身体(特に、頭を出している永久歯)とがまだかすかにつながっている感覚がこの解釈の根底にあるのだろうが(実証的なものではない)、いずれにせよ、なぜ著者はこの解釈に一言も触れないのだろうか。「魔除け」というわかりやすい呪術的解釈でなければ駄目だったのだろうか。腑に落ちない。
ここで著者はさらに別の角度から解釈を投入する。それは、歯を投げ込む先が「異界」だということである。著者は、乳歯を後ろに投げるという(上や下に投げるのとは異なる)習俗について、常光徹(2006)『しぐさの民俗学』を参照しつつ、「異界に乳歯を投げ込んだ行為と同じと理解できる」とする(120)。しかしこの「異界」とはどこなのだろうか? 著者が参照する『しぐさの民俗学』p. 151はこの点について明確だ。常光曰く「後ろ向きに物を投げるのは、意識的で能動的な行為であり、この行為を要請するある状況と切り離せない」。それは具体的には「山の神」に獲物を捧げる領域であり、「船幽霊」が出現する領域である(『しぐさ』pp. 150-151)。こうした霊的存在の領域を「異界」と呼称するのは、個人的に異論がないとは言わないが、少なくとも一貫性があり、説得的である。しかし乳歯を後ろ手に投げるとき、いったい何に投げているというのだろうか? 著者は先ほどの続きで「異界へ積極的に働きかけることによって、子どもの丈夫な歯の生え変わりを願ったのである」と断定する(120)。繰り返すが、この「異界」とは何なのか? 山の神や船幽霊のように、投げた先を異界とみなせる「何か」は話者のレベルで明確にされているのか? 少なくとも著者の提示する事例に、その「何か」は見いだせない。単に「非合理的・呪術的な行為には必然的に異界が関わっているべき」という暗黙の前提をもとに論じているとしか思えない。何よりも問題なのは、乳歯の習俗の大多数を占める「上や下に投げる」の説明になっていないことである。著者は、後ろ向きに投げる習俗のみから乳歯の投入先を「異界」と拡大解釈し、「乳歯は、……異界に戻すものと考えられてきた」と述べるが(121)、この一般化は正当化できない。
この引用の省略部分で著者は、乳歯は、比較対象として取り上げられた「胞衣と同様、この世に「置かれ場所」を持たないもの」だったと論じる(121)。しかし胞衣が「置かれ場所を持たない」という解釈は、胞衣が魂の来る「あの世」から生まれてくる「この世」へと胎児が動くときの衣装であり、「あの世」=「異界」に属する、という理解に基づくものであるのに対して、乳歯にはそういう解釈のプロセスが一切ない。いったい乳歯はどういった理由で「異界」のものなのか、全く論じられていない。
このように、少なくとも二つの点で乳歯が「異界」に属するべき身体部位という仮説には根拠がないのだが、著者は小括として「人々は抜けた乳歯を異界に投げ入れて、丈夫な歯と交換してくれるよう異界に積極的に働きかけていたのである」とする(121)。ここでも繰り返すが、この「異界」とは何の領域なのか。異界という実体というか、少なくとも民俗概念レベルでの何かがあると想定しているのか。しかし事例からそのような民俗概念の存在は読み取れない。
もう一つ。著者は、近代以降、異界の想像力が薄れたことを指摘する。その一環として、マンションなどの集合住宅においては「乳歯を投げることができなかった」「最終的に落ち着いた家で、まとめて投げた」という事例を提示する。著者はこうしたことから、「異界ではなく「マイホーム」へ投げ入れられようとしていた可能性」を見出す(123-124)。私も乳歯の時期に一軒家から集合住宅へ移ったとき同じことがあった。しかしその理由は「マイホーム」へ投げるためではなく、単に上に投げたら上の階のベランダに入ってしまいそうだし、下に投げたら同じく下の階に入ってしまいそうだったからである。投げられる場所が他人の領域だったから投げなかっただけなのだ(身に覚えのない歯が落ちていたら誰だって気味悪がるだろうし、場合によっては事件とさえ思うだろう)。確か乳歯はどこかに保管してあるはずである。ちなみに異界論から言えば上の階や下の階は、乳歯を投げ込もうとしたときは少なくとも「われわれの世界」とは見なされなくなっているから異界のはずだが、このような解釈は、著者は行なっていない。
結局、著者の言う「異界」が何だったのか、私にはわからなかった。少なくとも乳歯を投げる先が異界だという解釈にはまったく説得性を見出せなかった。副題に「異界」を標榜した学術書としては、かなり問題があるように思われる。どうも、大月隆寛(1992)『民俗学という不幸』で「橋がかかっていれば「境界」、十字路があれば「辻」、柿の木は「周縁」、笠をかぶれば直ちに「異人」、便所やカマドは軒並み「他界」への入り口ということになるおよそ信じられないようなあてはめ」(p. 210)と(かなり大雑把に)批判したものがそのまま該当してしまうのではないだろうか?

ところで、境界ないし異界論の多くが「あてはめ」ならば、乳歯以外にも同様の「あてはめ」ができるのだろうか。ここから下はおふざけである。著者がメアリー・ダグラスの排泄物論を引用しているので、ここでは排泄物を中心とした異界論を展開してみることにしよう。

大便や小便――私たちは排泄するときどこに行くだろうか? もちろんトイレである。トイレは、先行研究で散々指摘されているように「異界」であり、この世とあの世との境界である。私たちは尿意や便意といったかたちで、みずからの身体が不均衡であり、非日常的な状態にあることを察知する。そのとき、この状態を回復する手段として選ばれるのが、まさに異界への排泄なのだ。異界との境界でこの行為を行なうことにより、私たちは、不均衡な状態を脱し、尿意も便意もない日常へと復帰していく。トイレでの排泄には、このような象徴的意味がある。言うまでもなく、トイレ以外への排泄は、あらたな非日常を生み出す行為であり、決して日常を回復する行為ではない。排泄物は、あらたな非日常=異界を生み出すのだ。私たちは、排泄物のある日常を想定し得ない。排泄物のある場は、「われわれの世界」ではありえない。排泄物は異界的なものなのである。排泄物の怪異性がここに明らかにされた。排泄物は妖怪である。(「言うまでもなく」以降の議論は、以下すべての事例において可能である。)
嘔吐――私たちは嘔吐するときどこに行くだろうか? もちろんトイレである。トイレは、先行研究で散々指摘されているように「異界」であり、この世とあの世との境界である。私たちは嘔吐するとき、放出先として異界を選ぶのである。また、屋外ではどうするだろうか? おそらく道路わきの植え込みや街路樹などであろう。植え込みや街路樹は、まず歩道と車道の境界にあるが、かといって人や自動車がそこを通行するわけでもない両義的な領域である。歩道と車道という人間社会の構成物のあいだにあって、植え込みは植物――あるいは鳥を含めるならば動植物――の領分であり、自然と社会という対立を象徴化したものに他ならない。私たちは、社会内部で嘔吐することをためらい、自然――すなわち「異界」――の領域へとみずからの吐瀉物を放出するのである。嘔吐することは、身体の状態をマイナスからプラスへと転化する作用をもつ。異界への放出によって、私たちは身体の平衡状態を回復するのである。
垢――私たちは垢を洗い流すときどこに行くだろうか? もちろん風呂である。風呂は、社会的な状態にある人間なら当然まとっておくべき衣服を脱ぎ、人間が自然の状態へと大きく近づく領域である。すなわち、風呂は自然と社会との境界である。また風呂は、アカナメやアカネブリなどの妖怪が出没する異界でもある。私たちは、この境界的領域において、私たちの内なる自然の象徴たる垢を洗い流す。そして私たちは衣服を身にまとい、社会的存在へと復帰する。そして落とされた垢は、異界の存在である妖怪によって摂取される。人間の動物としての――生理的な現象としての――産物である「垢」は、自然と社会との境界=異界である風呂において取り払われ、垢を欲する異界へと譲渡されるのである。
唾――私たちは唾を吐くときどこに行くだろうか? もちろん歩道である。歩道は、一般的に、ある地点から別の地点へと行くときに通過せざるをえない領域であり、出発地でもなければ目的地でもない曖昧な場所、すなわち境界である。私たちは、決して「われわれの世界」である出発地や目的地に吐かない。吐くとすれば、非「われわれの世界」以外にない(出発地などで唾を吐くとすれば、それは、その場所がただちに非「われわれの世界」になるからである)。また、痰壺に吐くこともあるだろう。言うまでもなく壺とは、壺中天が代表的なように、別世界のメタファーである。また、壺の中身はそれ自体が物理的に他の生活領域と区切られており、異界である。私たちは異界へ唾ないし痰を吐き捨てる。
いたるところに異界は生成する。異界にならないところはない。私たちは、排泄物という観点から、日本人の身体と異界との関係を明らかにすることができた。それは、排泄物があるべき場はいずれも境界や異界であるということだ。私たちは、身体が不均衡な状態にあることを感じたとき、排泄物をそうした場へと放出することにより、均衡状態を回復させ、不快感を取り除き、日常世界へと復帰するのである。

『怪異の風景学』評(全面改訂01/17/2015)

佐々木高弘の『怪異の風景学 妖怪文化の民俗地理』(古今書院、2009)(以下『風景』)は、四国のクビナシウマ(首切れ馬)、『千と千尋の神隠し』、そして近代的な廃墟などを地理学的に論じた本である。妖怪研究家であり『江戸の妖怪革命』(河出書房新社、2005)の著者でもある香川雅信は書評において、妖怪研究は理論化が遅れていたが、この本のようにすぐれた(難解な)理論が提示されているものが出てくるのはよいことだ、と評価している。しかし僕の読むところ、この本はかなり深刻な理論的欠陥を抱えているように思う。そのことをちょっと書いてみた。以下、手元に『怪異の風景学』があり、できれば前半を通読したことを前提としておく。ここでは、小松和彦編著2011『妖怪学の基礎知識』所収の佐々木高弘「妖怪の出現する場所」(以下『基礎』)も検討の対象とする(敬称略)。

「喩え」とは何を言っているのか
佐々木の問題意識は、おおまかに言うと、実在しないはずの妖怪・怪異を人々が認識するとはどのような事態かを、言語的側面から解明しようとすることである。ここで前提になっているのは、怪異の経験――たとえば百鬼夜行との遭遇――は、言葉で表現されるままの経験ではないということである。百鬼夜行は、「時が流れる」と言ったときに誰も「時」を可視的なものとして知覚したのではないのと同じように、「見えるもので、見えないものを、喩えている」ことの一環である、と佐々木は主張する(『風景』28)。
すでにここに問題点がある。私たちは「時が流れる」という表現について、「時」が具体的な存在者として何かを「流れる」さまを知覚した結果を表現したものではないということを、そういう風に言われれば首肯することができる。だから「時が流れる」を比喩として説明されても何の違和感も覚えない。佐々木自身が続く論述で「喩え」の例として挙げる「月見うどん」「キツネうどん」についても(『風景』29)、私たちはそういった種類のうどんが「月見」そのものでもなければ「キツネ」の肉が使われているものでもないことを知っている。しかし、「百鬼夜行」が鬼の行列ではなく別の何かの比喩であるということは、少なくともそのような経験が記述されているテクストおよびコンテクストを検討するかぎり、妥当な見解とは言えない。「喩え」が成立する条件としては、「彼らはある対象を見て、その対象をそれとして知っており、かつ、その対象を別の(なんらかの関係にある)対象で表現することが、みずからの言語文化において許容されること(コードとして存在すること)を知っている」が挙げられるが(ここでの「知っている」は、必ずしも経験を言語化するときに意識にのぼっているという意味ではない――「時が流れる」のように)、僕の知るかぎりでは、古代末期の百鬼夜行についてこの条件が満たされていることを提示ないし論証したものはない。
文章としては前後するが、佐々木は、ある個人が見えるはずのないものを見たのは「当人の精神的健康に何らかの障害があったから」という現代の心理学的な解釈を、「個人」に関する限りでは妥当と認めている(『風景』7-11, 18-21)。いわゆる幻覚や錯覚という解釈だが、もちろん、そこで見えたものが文化的にある程度決定されているということも佐々木は認めていると思われる。そしてその一例として出すのが「百鬼夜行」である。ならば、百鬼夜行を見た人は、何か別の対象を百鬼夜行と喩えたのではなく、少なくとも個人的な経験のレベルにおいては、「百鬼夜行を見た」ということを佐々木が認めていることになる。これは、彼が、臨死体験において見えた(実在しない)風景を、何か別の対象をそのような風景として表現したのではなく、そのような風景を実際に経験した、ということを前提に論じていることからもうかがえる(『風景』8-11)。
どうも何が「喩え」なのか全体として判然としないのだが、佐々木は第1章でユング派心理学(!)を援用し、「主観的で、元型的な内容を、眼前の風景に投射し、その風景と同一化したものとして映じたもの」が百鬼夜行だと論じている(『風景』15-16)。このことを彼はあくまで個人的なレベルのものだとしているが、それこそ彼は無意識的に、人々は記号論でいう「喩え」が、人間の無意識的・知覚的なレベルでも作用している、と想定しているように思われる。その一方で、隠喩は伝承者が主体的に選択しているのだ、と読めるところもある(『風景』第5章)。いずれにせよ明確ではない。佐々木は「認識」という言葉でさまざまなレベルの問題を混同している。ブラックボックス化だ。

三角形の問題
佐々木の理論の中心にあるのは、『基礎』p.163の図10「妖怪の出現する場所と認識の三角形」だ。

この図と類似的なものは『風景』pp.30, 33, 43にも掲載されており、彼の議論における重要性をうかがい知ることができる。佐々木はこの図について、「記号学では」隠喩・換喩・提喩を「認識の三つのあり方と考え……これを、彼らは認識の三角形と呼」ぶと匿名的に紹介している。だが、この「認識の三角形」は、佐々木も触れている瀬戸賢一の議論に独特なものである。瀬戸の議論の前にこの世を去ったパース、ソシュールヤーコブソンらはもちろんのこと、エーコなどを含め、世界の大半の記号論者はこの三角形にもとづいた議論を行なっていない。「認識の三角形」が一部で注目されている事実はあるにせよ*1、それは「記号学」や「彼ら」と一般化できるものではない。
瀬戸は『レトリックの宇宙』p.5-6で印象的な例を出す。「ニシンソバ」のような味気ない表現を避けて、人々は「月見うどん」(隠喩)「きつねうどん」(換喩)「親子丼」(提喩)を用いることがあるのだ。佐々木も『風景』pp.29-30でほぼ同じ例示をして三つの「喩え」を紹介している。そして私たちの世界認識は、この三つのレベルから成り立っているというのだが……「ニシンソバ」はどうなった? 喩えを使わない認識はまったく存在しないのか? 「ソバ」は? 「ウドン」は?……というわけで、佐々木は私たちの風景認識をこの三つにあてはめようとしているが、「ニシンソバ」が欠落している時点で、この分類はもとから不完全なものでしかないのである。そう考えると、佐々木が百鬼夜行の目撃を何かの喩えとしか理解できなかったことの理由が見えてくる。彼の世界にはニシンソバがないのだから、何か別のもので表現していたと考える以外にないのだ――そのように考えるならば、「何か別のもの」もまた言語で表現できるという事実に気づくはずなのだが、そこには思い至らなかったようである。佐々木は三種類の比喩だけを世界認識の方法として取り入れ、しかも風景論と重ね合わせているため、その後の議論においてもズレが生じることになってしまう。彼の理論的枠組みは破綻していく。

範列と統辞の混同
さて、文章化されたクビナシウマ伝説を佐々木は「クビナシウマ+走る+ある特定の場所」という文章構成だと指摘する(『風景』42)。三つの要素への分解は妥当であろう。しかしなぜ要素がSVOの配列なのだろうか。日本語で文章化された伝説を日本語として日本語で分析するのならば、SOVのままでよかったのではないだろうか。僕は、最初は英語順のようにして気取っただけだろうと考えていた。しかしよく読んでみると、佐々木にとってはこの配列でなければならなかったということがわかってくる。重要なのは「クビナシウマ+走る」である。佐々木はこの配列から、「クビナシウマ」は「走る」と連鎖している、という(『風景』42)。そしてこの「統辞的」な連鎖を彼は「隣接関係」と同一視する。そうすると、(クビナシは非現実的なので省くという作業のあと)「ウマ+走る」は、隣接関係である換喩に位置づけることができるのである。ここが肝だ。日本語として自然に「ウマ+ある特定の場所+走る」と配列してしまうと、「ウマ」と「走る」が隣接関係で捉えられなくなってしまうのである。いやむしろ、別の隣接関係が見えてくると言ったほうがいいだろう。佐々木は「ウマ」と「走る」が隣接関係にあることを「統辞的連鎖の意味的選択制限」の結果とするが、同じ選択制限は、SOV式に配列したときに隣接的になる「ウマ」と「ある特定の場所」でも「ある特定の場所」と「走る」でも言えるからである。佐々木の選択は恣意的なものであり、網羅的ではない。
そもそも「ウマ+走る」が換喩的な認識かという問題がある。『レトリックの宇宙』第3章「換喩の意味論」で挙げられている換喩の文は、いずれも別の(換喩的ではない)単文を換喩として表現したものと分析されている。一つの単文内部の、ましてや名詞と動詞の隣接的(?)な関係性などではない。瀬戸に倣うならば、「ウマが走る」は「ある特定のウマが走る」に対して類と種の関係にあり、その意味において、「ウマが走る」は文全体として換喩なのである。記号論の用語でいうと、換喩とは統辞的なものではなく範列的なものなのである。佐々木は瀬戸の記号論に大幅に依拠しているはずが、まったく違うことを前提に議論しているのである。しかもその前提には、何の説明もないし、おそらく分析にとって何の妥当性も見いだせないだろう。
この点をみただけでも、それ以降の「三角形」による分析が砂上の楼閣になってしまったことは明らかだが、他にもたとえば次のような問題が認められる。佐々木は「ウマ+走る」から除外した「クビナシ」という要素を「現実にはあり得ない」という理由から、何かの象徴記号である(たとえば「クビになる」「クビが回らない」と同じような)とみなす(『風景』43)。これは、「喩え」という認識方法に束縛されているため、ある表現は必ず何か別のものを表現していなければならないという誤った前提にもとづいた、奇妙な分析である。紹介されている伝説のどこをみても、「クビナシウマに実際にはクビがあるが、何か別のものを表現したいがために、クビナシという比喩を使っている」と読み取ることはできない。佐々木は伝説を語る話者の認識を自らの三角形に当てはめるため、強引に歪曲している。

帰納と演繹の混同
『風景』第5章で佐々木は伝説の創造について分析を加える。そこで用いられるのが過去の理論家らによる民話の構造分析である。彼はプロップやダンデス、ジェイソンらが多くの民話分析から抽出した構造をまず提示する。そしてそのうちの一つをクビナシウマ伝説に当てはめてみると、構造のうち空白のところ(物語のなかに語られていない部分)がある。具体的には、「刺激・反応・結果」という構造に対して、クビナシウマ(首切れ馬)は「なし・なし・大晦日の晩に走る」となり、刺激と反応の部分が欠如している。また、伝説を伝承する脇町(の人々)は「(賽銭を)盗まれる・なし・なし」となり、反応と結果がない。そこで佐々木が何をするかというと「今度は脇町と「首切れ馬」を、一くくりにしてみてはどうだろう」というのである(『風景』75)。なぜなら、脇町の人々が首切れ馬を伝えている以上、この両者は一体だからだというのだ。しかしこの推論が可能ならば、同じように伝説に登場する別の村の人々(三谷)も、賽銭を盗む時に鳴いた馬も、伝説のなかの登場人物なのだから、一体化すべきだろう。単に構造にあてはめてうまくいかないからといって登場人物の一部だけを融合させるのはナンセンスである。しかし佐々木は歩みを進める。その結果、彼は「脇町が首切れ馬を走らせている」という要素が隠れていることを指摘する。彼は、この要素を語らないことを民話の表現技法のひとつだとして処理する(『風景』77)。しかし「首切れ馬を走らせる」とはどういう状況なのか。聞き手が、「村の人々は首切れ馬を操作することできる」と思って話を聞いているとは考えがたい。いったい、このような「構造分析」によって現われた「民話」とは誰のものなのだろうか。そもそも構造分析は具体的な事例を抽象化した結果得られる帰納的なモデルである。欠如部分を「発見」するためのモデルでこそあれ、「創作」するための演繹的なモデルではない。佐々木は構造分析をしてモデルを提示したのではなく、民話を既存のモデルに押し込めて不可解な改変をしたにすぎない。

「切り取る」は何の隠喩か
佐々木は『風景』第12章でブルンヴァンを参照して、伝説には二重のメッセージがあり、伝説が語り継がれるには、表面的な一次的メッセージではなく、「隠喩的で、シンボリックにほのめかされた、人間行為や社会状況に対するより深い批判」という二次的メッセージが重要であるという主張を受け入れる。佐々木がクビナシウマ(首切れ馬)の伝説の二次的メッセージとして最終的に提出するのは、象徴的贈与交換と経済的等価交換との衝突である。これが妥当かどうかはここでは問わない。問題なのは次だ。佐々木は、この衝突について、山口昌男が、「もの」が人々や土地などと精神的なつながりをもっていたはずが、現在では繋がりを失い、「事物の物」になってしまったという主張を引用する(『風景』198)。そして「つまりこの伝説の〈馬の首を切り取る〉という隠喩は、「もの」から精神的な意味合いを切り取る、象徴的贈与交換を経済的等価交換に履き違える……ということだったのではないか」と結論付ける。しかしこの結論には大きな飛躍がある。「ものから精神的な意味合いを取り除く」とはあくまで山口昌男(そして佐々木)の表現というか「喩え」であって、伝説を語る人々の表現ではないということだ。人々が贈与から等価への移行を「精神的な意味合いを切り取るもの」と喩えている事実がなければ、佐々木の結論は、伝説における「隠喩」と研究者としての自身の「隠喩」を強引に接続しているにすぎない。

というわけでいくつか問題点を指摘してみた。繰り返すが、僕はこの本を理論的だとして評価することはできない。もちろん視点の違いはあるだろうし、僕自身の無理解もあるかもしれない。それにしても、ちょっとなあ、と思ってしまうところなのです。記号論に対する知識の不足以外にも、たとえば近代廃墟を論じるときに、まったくTim Edensorに触れないとか、いろいろと議論の参照枠が付け焼刃でしかないのが問題の要因の一つのような気がする。

*1:たとえばArmin Burkhardt and Brigitte Nerlich (eds.), 2010, Tropical truth(s): the epistemology of metaphor and other tropes

リッカルド・カポフェッロ『経験論的な驚異 幻想文学の歴史化1660-1760』

翻訳

ちょっと気になる本があったので、その序論だけを翻訳してみました。
Riccardo Capoferro, 2011, Empirical wonder: Historicizing the fantastic, 1660-1760.
幽霊や怪物が経験的なものではなくなっていく過程、というか経験的なものとそうでないものとの分離が英文学のなかで行われていった過程を論じたもののようです。ちょうど妖怪の超自然化を発表する準備をしていたので非常に興味深い内容だと思ったのですが、序論だけしか読んでません。
正確には書籍版ではなくてネット上にある博論のほうを訳してます。書籍のほうは高くて買えません。



 18世紀といえば、小説や文学上の現実主義が勃興してきた時代として知られている。しかしこの時代は、今では非現実主義的なジャンルとしてひとまとめにされている多くのテクスト――幽霊譚や空想旅行記――が氾濫した時代でもあった。こうした作品の一部は、重大な認識論的問題に関わっているという点において、17世紀から18世紀にかけて出現した文化の著しい変動を記録したものと見なされてきた。このジャンルの起点となった幽霊譚や「経験論的」悪魔学は、たとえば、伝統的な信仰が問題をはらみつつ残存していることと、経験論的な認識論が広まっていったこと、双方のしるしとして読まれてきた。他方で、空想旅行記については、批評家たちは近世におけるSFの先駆けとして関心を持ってきたが、ほとんどは『ガリヴァー旅行記』の背後に霞んでいってしまった――18世紀の、その他の旅行記フィクションの観点からの分析は極めて少なかった。要するに、幽霊譚や空想旅行記がもつ形式上・主題上の新しさは、ほとんど注目されてこなかったのである。しかし、そうしたものに評価を与えてみるならば、17〜18世紀における文学の発展に対して、繊細な感覚がもたらされることだろう。
 このような諸々の作品は、実際のところ小説に負けず劣らず独創的なものだった――そして、これから示すように、それが語る認識論的な問いのいくつかについても、同じくらい関心を抱いていた。小説が優位にあることを説明するのはたやすい。おそらく、現実の表象に明確に関わっている点と、思わず肯わざるをえない教訓のあるサブテクストの構築を可能にする、日常的なものへの興味関心が、その土台にあるのだろう。それとは反対に、幽霊譚や空想旅行記に描き出される例外的で相当に非経験的な情景は、実用的な道徳規範を示すのに容易に利用できるようなものではなかった――そしてこのことによって、それらの価値の見定めが阻まれてしまったのだ。ジョンソンは、よく知られた小説論のなかで、小説が決定的な成功をおさめ、非現実主義的なジャンルが周縁に追いやられた理由を浮き彫りにしている――このことは、ロマンス物(幅広いカテゴリーだが、もっとも議論の多い文学形式がそこに入る)の周縁化とも軌を一にしていた。 

虚構の作品を,いまの世代はこのうえなく喜ぶようだ。それは,人生の真の姿を如実に表わすからである。こんな作品は,この世に日常的に起こる事件によってのみその様相が変わる。また,人々との会話のなかに実際みられるような感情や雰囲気によって影響を受ける。……その目指すところは,手軽な手段を用いて自然な出来事を持ちだし,驚嘆の力を借りることなく好奇心を持続させることである。それゆえ,英雄ロマンスにあるような奇抜な道具立てを排除している。婚礼の席から新婦を強奪するような巨人を登場させることはできないし,囚われの身の女性を騎士が奪還することもない。登場人物を砂漠において惑わすことも,空想の城址に住ませることもできない。(『彷徨者』第4章)

 とはいえ、幽霊譚と空想旅行記、そして小説には多くの共通点がある。何よりもその形式が似ている。経験論の影響が色濃く残されているのだ。すでに述べたように、小説の隆盛は、17世紀後半にみられる全体的な不安定性によるところもあった。経験的な真実を伝えるために設計されたはずの諸々のコードは、必ずしも真である必要のない事実を語るときにも、次第に頻度を増して使われていくようになった。それと相似的に、際限なく用いられていくことにより、経験論的なコードは幽霊譚や空想旅行記を包み込んでいくようになった。こうしたジャンルに欠かせない超自然的なものは、ただちにそれとわかる「自然な」背景のもと、出現したのである。このような描写は経験論の修辞法によって形作られていった。言い換えると、幽霊譚や空想旅行記、そして小説は、現在「現実主義的」と呼ばれる表象様式を繰り広げたということである。しかし小説のほうは、形式においても内容においても経験論的であろうとした。自然法則を破らないだろう出来事を描写するための、状況説明的な言語を駆使したのである。他方、幽霊譚や空想旅行記の経験論的な同一性(empirical identity)は、形式のレベルでわかりやすく確証される。テクストにおいては、幽霊や怪物、超自然的現象が、ただちにそれとわかる疑似科学的な言語で描写されるのである。経験論的な表象様式と非経験論的な内容の組み合わせが、本論の着眼点になる共通要素を構成する。それはみずからの新しさを顕わにし、一つの幅広いカテゴリーに収めることを可能にするものだ――つまり「幻想文学」(the fantastic)である。
 本論は、18世紀はただ小説のみが隆盛した時代ではないことを論じるものである。この世紀は、私たちの言う「幻想文学」へとひとまとめにできる諸々のジャンルが出現した時期でもあったのだ。「幻想文学」というカテゴリーを使うのに何の問題もないというわけにはいかないのは勿論だから、なるべくこのカテゴリーが妥当だということを力説してみようと思う。第一章は、幻想文学の中心的な特徴が、経験論的な方向性をもった――要するに、現実主義的な――迫真さを伝えるシステムを繰り広げたことだと論じる。これは、非経験論的だとすぐにわかる諸々の対象の表象を形作るものである。現に、20世紀のホラーやSFといったジャンルは小説に由来する形式を採用しているし、18世紀の幽霊譚や空想旅行記などのジャンルも、経験論的な規約に影響された諸々のコードを使っているのである。そして、ツヴェタン・トドロフローズマリー・ジャクソン、クリスティーン・ブルック=ローズらの理論モデルを織り込みつつ、幻想文学が現実主義の形式的・認識的な前提条件を共有していく次第を明らかにしてみる。経験論的な態度や、小説にとっても重要な表象様式が組み込まれたのである。このとき、他の前近代的な超自然表象を引きずった非経験論的なジャンルや作品(おとぎ話)との違いが認められる。幻想文学の基本特性を定義し、これが近世に誕生したという主張を裏付けるため、本論ではこれを幅広い歴史的視野に位置づけ、伝統的な文学形式との対比で定義しようと思う。過去の文芸文化においては、自然なものと超自然的なものは、互いに相容れないとか対立しているなどとは思われておらず、むしろ神あるいは悪魔が直接に現われたもので、現実主義的な出来事だと考えられるような宇宙論に属していたのに対して――ホメーロス叙事詩に語られた宇宙論を参照――、幻想文学においては、超自然的なものが出現することによって、自然の規則性だったはずのものが断ち切られてしまう。言い換えると、幻想文学は、新しい科学の隆盛とともに浮上してきた存在論的な境界を映し出しているのである。しかしながら同時に、幻想文学は、徐々に切り離され、追い越されていく自然と超=自然との対比をつなげ合わそうともする。幻想文学は媒介者となり、衝突する世界観の裂け目を架橋して、経験論的なものと非経験論的なものを調和させる――幽霊や怪物は、読者の世界と相似的なものとして表現された世界のなかに登場するのである。
 第二章は、幻想文学の生み出されたコンテクストに着目してみる。わけても、――17〜18世紀の思想家による作品のなかに次第に明らかになっていく――経験論的世界観と、それと相容れないと思われた存在との対比である。ボイルやニュートンといった科学者に焦点を当てることにより、段々と規範的になってきた経験論的な見解と、超自然的・怪物てきなものについての伝統的な信仰との辻褄を合わせようとした試みを検討する。こうした試みは、堅固な経験論的規約と徐々に相容れなくなっていったと見なされていき、媒介の作業は幽霊譚や空想旅行記といった虚構作品に負わされるようになり、そして自在に認識論的言説の制約から逃れるようになっていった。本論はまた、幻想文学の文化的な土台をさらに明確にするために、幽霊譚や空想旅行記のどちらにも関係する非科学的な媒介ジャンルにも視点を移してみる。とくに怪物たちの経験論的な記述も含まれる「驚異の伝統」がそれである。さらに、幻想文学と小説が、相似する諸々の問題や同じような道具立てを繰り広げているという主張を裏付けるために、『ロビンソン・クルーソー』、『パメラあるいは淑徳の報い』、『トム・ジョウンズ』、『アミーリア』などの小説の宗教的なサブテクストを見てみる。こうした作品は、さまざまなやり方で、自然法則と矛盾しない、よりたやすく現実主義的な美学へと統合される神意の存在論を演出した。小説は、神意に訴えることにより、自然と超自然との控えめな媒介を担ったのである。この時代、小説やその他の神意の語りは、神の作用を異界の力として表象するのではなく、内在的で歴史的な次元に焦点を当てた。それらは、神的なものと関連する高次の目的を十全に内面化していたのだ。
 第三章は、17世紀後半の経験論的悪魔学(とくにオックスフォードの牧師ジョゼフ・グランヴィル)、幽霊譚、そしてゴシック文学を扱う。まず、経験論的悪魔学の修辞構造と認識論的態度を分析する。これはグランヴィルの『魔女と幽霊の完全なる証明』(1689)に結実している。この構造と態度はどちらも形式的・主題的な複雑さに正面から取り組み、自律的で市場向けの幽霊譚の起源をたどり直していく。次に、幽霊譚が虚構へと徐々に変容していくさまを描き出してみる。グランヴィルなどの作家が使った経験論的な見解は保たれていたにせよ、幽霊譚は科学的な枠組みから引き離されていき、錯綜とした語りの構造や際立った感情の抑揚、そして読者のための場を展開していったのである。
 これとともに、本章では、自然な説明と超自然的な説明とのあいだでの揺れ動きを基本とした、幻想文学の基礎道具である「存在論的なためらい」(トドロフの理論による)の発生をたどっていく。存在論的なためらいは、初めのうちは語られざるレベルで提示される。グランヴィルらの作品は、異界の存在者が実在することに対して懐疑的な人々を説得するためのものなので、部分的には懐疑論者の観点を内面化し、そうして否定から信仰への流れを演出したのである。存在論的なためらいは、複数の典型的な経験論的態度を連結する認識論的状態から構成される。懐疑論的なアプローチが、直接的に超自然的なものを経験することによって危うくされるのである。その出現は、直接的な確証ということで文句なく認められるものになる。後代の幽霊譚、たとえば『親切な悪霊』(1715)などでは、存在論的なためらいはあからさまに劇化され、超自然的なものの出現に例外性のアウラを帯びさせるのに最適の手立てとなった。超自然的なものの闖入は、その場に居合わせた人々の予想を裏切るかぎりにおいて、耳目を集めることになるのである。本章では、18世紀における超自然的な出来事のいろいろな説明をながめてみる――18世紀前半のイングランドにおいて有名だった無口の占い師ダンカン・キャンベルに向けられたパンフレットなどである。そしてゴシックの形成を追っていくことで結論とする。ゴシックは、幽霊譚を美的対象へと完全に変容させ、もはやキリスト教倫理によってのみ枠付けられるようなものではなくなった、イデオロギーの焦点移動を画しているのである。
 第四章は空想旅行記をあつかう。小説や幽霊譚と同じように、空想旅行記は経験論的コードに深く影響されていた。このことは、とくに旅行記の言語について言えることだ。しかしながら、超自然的フィクションが亡霊を登場させざるを得なかったのに対して、空想旅行記はさまざまに異なる存在論を含みこんでいた。「現実主義的な」存在論の層は、経験論的な観点からすると相容れないような別の諸層によって錯綜とし、テクストによって多様な幻想の表象を産出したのである――キャヴェンディッシュの『光り輝く世界』の多神教的な宇宙から『ガリヴァー旅行記』に描かれた遠くの諸社会にいたるまで。どの空想旅行記も、それぞれに固有の世界を描写している――スウィフトの模倣が増えてジャンルの硬直化が加速したにせよ――が、ほとんど避けがたく、脱魔術化に抗する自然のイメージを構築している。1750年代以降、空想旅行記の中心的な主題は別のものに変わった。次世代の作品、たとえば『ピーター・ウィルキンズの生涯と冒険』(1750)や『ウィリアム・ビンフィールド』(1752)は、原=帝国主義的なサブテクストを表現しているのである。幻想文学に特徴的な道具立ては、みずからを育んだ認識論的コンテクストから引き離されて、今や新たなイデオロギーの目的に従属するようになる。もはや媒介はその中心課題を構成するものではなくなった。1750年代から、空想旅行記は新たな機能をもたされるようになったのだ。それらの形式的な道具立ては、いまだに媒介の問題とひそかに携わっていたにせよ、新たな意味合いをもって刻印されたのである。幻想文学の変容は、もう、その誕生を決定づけた認識論的な危機によってのみ枠付けされるのではない。多種多様な利用法に耐えうる形式として、やわらかな慣習の集合体として、その十全な癒合を証するのである。

鎌鼬=真空説の初出

 鎌鼬の正体が真空であるという説の初出はいつか?

 今年の夏に出た別冊宝島の『日本の妖怪』(小松和彦・飯倉義之監修)では「昭和初期」と書かれている(p.70)。飯倉義之さんの2010年の論文「鎌鼬存疑」(『妖怪文化の伝統と創造』所収)では、井上円了の『妖怪学講義』(1896)においてすでに「常識的な<科学>知識となっていたこと」が指摘されている。Wikipedia日本語版では単に「近代」と書かれている。
円了以前だと思われるが、今のところわからないというのが現状だと思う。

 というわけで、少し前に調べたのだが、どうも初出は福沢諭吉が1868年に出版した『訓蒙 窮理図解』という西洋科学啓蒙書らしい。この本の第1章で彼は「空気」を取り上げ、基本的な性質を説明した後、気圧についての解説を始める。
 福沢はまず、手のひらを茶碗の底の糸切部分に押し付けると、そこの「空気なくなるゆえ、外の空気はこゝに入込まんとすれども道なく、由てその力にて茶碗を手に押付け」る、という、誰でもすぐに実験できる例を示す。ここで注目すべきは、「空気なくなる」として「真空」の概念が援用されている点だ 。ついで福沢は戦場での話に移る。時折、銃弾が当たらなかったのに怪我をすることがある。それは、銃弾が皮膚をかすめると、「その勢にて膚の際の空気を払い、これがため体内の空気張出して膚を破る」からである(『福沢諭吉著作集』第2巻、p.23)。その次に福沢が挙げるのが鎌鼬だ。
 「又深山を往来するとき、何の原因もなく膚の破れて大怪我することあり。これを鎌鼬と唱う。古よりその理を知らざるゆえ、無智の下民等はこれを妖怪の仕業などゝいうなれども、その実は矢張り空気の所為なるべし」。
 というわけで、前後の文脈からすると、これが「真空説」の初出ではないかと思われる。
 ただ、旋風という要素はまだない。これについては既に目星がついているが、そのことについては、また今度。また、福沢の説が確実に彼のオリジナルであろう根拠も何となくわかっているが、それもまた今度。

 ところで、現在岩手県南部の某市にいるのだけど、地元の年輩の方にカマイタチの話をすると、真空説だけではなく、雷に驚いて転んだときに出来る鎌状の跡という人もおり、面白いところでは「カマキリの大きいの」という人もいた。諸説紛々で楽しい。自分ではないがカマイタチに「かけられた」人を知っている、という人も多い。

 追記:カマイタチ真空説について一部勘違いされている方もいそうですが、真空説は提唱当時はまっとうな科学的仮説として受容されていまして、疑似科学とみなされたことは滅多になかったことを言っておきます。なにせ、あの井上円了が、自分で説明するまでもないとして受け入れたぐらいですからね。
 また、カマイタチは本当は何なのか、という件についてですが、カマイタチというのは色々言われますがその本質は「原因不明の切創」なので、原因は1つではなく複数考えられます。あかぎれ、興奮状態で傷ついたので気づかなかった、強風で飛んできた小石のせい、正直に言いたくない切創についての言い訳などなど、いずれもありうると思われます。

妖怪論文が掲載されました・ウェブ上に公開しました

すでに2か月前の話になりますが、『現代民俗学研究』という雑誌の第6号に僕の論文が載りました。
タイトルは「妖怪の、一つではない複数の存在論―妖怪研究における存在論的前提についての批判的検討―」で、113-128ページに掲載されています。
冒頭の英文要旨を翻訳したものは次のようになります。

 本稿は、近代の民俗学的妖怪研究が前提としてきた存在論的コミットメントを批判的に検討する。学術的な妖怪研究者は、妖怪は超自然的存在であり、妖怪は一般的には実在しない、と想定している。しかし、近代的な研究者のもつ存在論的枠組みを共有しない人々の世界を研究するときの、これらの前提の妥当性は、これまで妖怪研究においてほとんど関心をもたれてこなかった。本稿は、妖怪研究において主流の言説や理論を批判的に検討することにより、研究者が、妖怪を受け入れ共存する人々のパースペクティヴを把握しそこねていたということを指摘する。
 なぜ妖怪研究はこの存在論的コミットメントを前提としてきたのか? そこには、江戸後期から続く歴史的プロセスがあった。 知識人や都市住民らは、徐々に、今で言う「妖怪」が超自然的であり実在しない、と想定するようになっていったのである。19世紀初頭、妖怪の実在性を確保しようとした一部の学者たちは、日本における近代的科学的経験主義の勃興に対して、超自然的な領域を打ち立てようとしていた。さらに、妖怪の超自然性とされるものは、実在を認めない研究者によってもゆるやかに受け入れられていった。本稿はこのプロセスを認識論的切断として捉え、研究者は切断後に生み出された存在論的枠組みをとおしてのみ、さまざまな世界や存在論を理解することができる、と論じる。本稿は、人々が妖怪を受け入れる多様な諸世界を研究者が理解することを可能にする「多元的存在論」モデルを提案する。

ところで、改めて読んでみると、十分論じきれていないところがあったり、参考文献に追加したいものがあったり、後から訂正したい箇所が多く見つかったりしたので、個人的に改稿版を公開します。「妖怪の、一つではない複数の存在論 改稿」です(リンク先はGoogle drive)。雑誌に載ったオリジナルバージョンは、そのうち公式にウェブ上に公開されるそうです。
形式としては、本文や文末脚注はオリジナルのままで(ただし編集部が書式を変更した点は反映されていません)、ページ末脚注に追加した分を載せています。あれこれ雑多に書いた結果、本文よりも長くなってしまいました!!(笑)
注意事項として言っておくと、改稿版に記載された内容は基本的に査読を経ていないうえに、あまり考え抜かれていないので、書かれている内容についての責任は持ちますが、無許可での引用・参照は禁じます。また、予告なく文章が改変されることもあります(すでに1回、大幅に書き直しています)。どうしても引用・参照したい場合は、何らかの手段で僕に連絡をください。ブログのコメント欄でもツイッターへのリプライでもかまいません。