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妖怪と、人類学的な雑記

筑波大学の廣田龍平です。被災地研究・妖怪研究を人類学・民俗学的な方向からやっています。

『怪異の風景学』評(全面改訂01/17/2015)

佐々木高弘の『怪異の風景学 妖怪文化の民俗地理』(古今書院、2009)(以下『風景』)は、四国のクビナシウマ(首切れ馬)、『千と千尋の神隠し』、そして近代的な廃墟などを地理学的に論じた本である。妖怪研究家であり『江戸の妖怪革命』(河出書房新社、2005)の著者でもある香川雅信は書評において、妖怪研究は理論化が遅れていたが、この本のようにすぐれた(難解な)理論が提示されているものが出てくるのはよいことだ、と評価している。しかし僕の読むところ、この本はかなり深刻な理論的欠陥を抱えているように思う。そのことをちょっと書いてみた。以下、手元に『怪異の風景学』があり、できれば前半を通読したことを前提としておく。ここでは、小松和彦編著2011『妖怪学の基礎知識』所収の佐々木高弘「妖怪の出現する場所」(以下『基礎』)も検討の対象とする(敬称略)。

「喩え」とは何を言っているのか
佐々木の問題意識は、おおまかに言うと、実在しないはずの妖怪・怪異を人々が認識するとはどのような事態かを、言語的側面から解明しようとすることである。ここで前提になっているのは、怪異の経験――たとえば百鬼夜行との遭遇――は、言葉で表現されるままの経験ではないということである。百鬼夜行は、「時が流れる」と言ったときに誰も「時」を可視的なものとして知覚したのではないのと同じように、「見えるもので、見えないものを、喩えている」ことの一環である、と佐々木は主張する(『風景』28)。
すでにここに問題点がある。私たちは「時が流れる」という表現について、「時」が具体的な存在者として何かを「流れる」さまを知覚した結果を表現したものではないということを、そういう風に言われれば首肯することができる。だから「時が流れる」を比喩として説明されても何の違和感も覚えない。佐々木自身が続く論述で「喩え」の例として挙げる「月見うどん」「キツネうどん」についても(『風景』29)、私たちはそういった種類のうどんが「月見」そのものでもなければ「キツネ」の肉が使われているものでもないことを知っている。しかし、「百鬼夜行」が鬼の行列ではなく別の何かの比喩であるということは、少なくともそのような経験が記述されているテクストおよびコンテクストを検討するかぎり、妥当な見解とは言えない。「喩え」が成立する条件としては、「彼らはある対象を見て、その対象をそれとして知っており、かつ、その対象を別の(なんらかの関係にある)対象で表現することが、みずからの言語文化において許容されること(コードとして存在すること)を知っている」が挙げられるが(ここでの「知っている」は、必ずしも経験を言語化するときに意識にのぼっているという意味ではない――「時が流れる」のように)、僕の知るかぎりでは、古代末期の百鬼夜行についてこの条件が満たされていることを提示ないし論証したものはない。
文章としては前後するが、佐々木は、ある個人が見えるはずのないものを見たのは「当人の精神的健康に何らかの障害があったから」という現代の心理学的な解釈を、「個人」に関する限りでは妥当と認めている(『風景』7-11, 18-21)。いわゆる幻覚や錯覚という解釈だが、もちろん、そこで見えたものが文化的にある程度決定されているということも佐々木は認めていると思われる。そしてその一例として出すのが「百鬼夜行」である。ならば、百鬼夜行を見た人は、何か別の対象を百鬼夜行と喩えたのではなく、少なくとも個人的な経験のレベルにおいては、「百鬼夜行を見た」ということを佐々木が認めていることになる。これは、彼が、臨死体験において見えた(実在しない)風景を、何か別の対象をそのような風景として表現したのではなく、そのような風景を実際に経験した、ということを前提に論じていることからもうかがえる(『風景』8-11)。
どうも何が「喩え」なのか全体として判然としないのだが、佐々木は第1章でユング派心理学(!)を援用し、「主観的で、元型的な内容を、眼前の風景に投射し、その風景と同一化したものとして映じたもの」が百鬼夜行だと論じている(『風景』15-16)。このことを彼はあくまで個人的なレベルのものだとしているが、それこそ彼は無意識的に、人々は記号論でいう「喩え」が、人間の無意識的・知覚的なレベルでも作用している、と想定しているように思われる。その一方で、隠喩は伝承者が主体的に選択しているのだ、と読めるところもある(『風景』第5章)。いずれにせよ明確ではない。佐々木は「認識」という言葉でさまざまなレベルの問題を混同している。ブラックボックス化だ。

三角形の問題
佐々木の理論の中心にあるのは、『基礎』p.163の図10「妖怪の出現する場所と認識の三角形」だ。

この図と類似的なものは『風景』pp.30, 33, 43にも掲載されており、彼の議論における重要性をうかがい知ることができる。佐々木はこの図について、「記号学では」隠喩・換喩・提喩を「認識の三つのあり方と考え……これを、彼らは認識の三角形と呼」ぶと匿名的に紹介している。だが、この「認識の三角形」は、佐々木も触れている瀬戸賢一の議論に独特なものである。瀬戸の議論の前にこの世を去ったパース、ソシュールヤーコブソンらはもちろんのこと、エーコなどを含め、世界の大半の記号論者はこの三角形にもとづいた議論を行なっていない。「認識の三角形」が一部で注目されている事実はあるにせよ*1、それは「記号学」や「彼ら」と一般化できるものではない。
瀬戸は『レトリックの宇宙』p.5-6で印象的な例を出す。「ニシンソバ」のような味気ない表現を避けて、人々は「月見うどん」(隠喩)「きつねうどん」(換喩)「親子丼」(提喩)を用いることがあるのだ。佐々木も『風景』pp.29-30でほぼ同じ例示をして三つの「喩え」を紹介している。そして私たちの世界認識は、この三つのレベルから成り立っているというのだが……「ニシンソバ」はどうなった? 喩えを使わない認識はまったく存在しないのか? 「ソバ」は? 「ウドン」は?……というわけで、佐々木は私たちの風景認識をこの三つにあてはめようとしているが、「ニシンソバ」が欠落している時点で、この分類はもとから不完全なものでしかないのである。そう考えると、佐々木が百鬼夜行の目撃を何かの喩えとしか理解できなかったことの理由が見えてくる。彼の世界にはニシンソバがないのだから、何か別のもので表現していたと考える以外にないのだ――そのように考えるならば、「何か別のもの」もまた言語で表現できるという事実に気づくはずなのだが、そこには思い至らなかったようである。佐々木は三種類の比喩だけを世界認識の方法として取り入れ、しかも風景論と重ね合わせているため、その後の議論においてもズレが生じることになってしまう。彼の理論的枠組みは破綻していく。

範列と統辞の混同
さて、文章化されたクビナシウマ伝説を佐々木は「クビナシウマ+走る+ある特定の場所」という文章構成だと指摘する(『風景』42)。三つの要素への分解は妥当であろう。しかしなぜ要素がSVOの配列なのだろうか。日本語で文章化された伝説を日本語として日本語で分析するのならば、SOVのままでよかったのではないだろうか。僕は、最初は英語順のようにして気取っただけだろうと考えていた。しかしよく読んでみると、佐々木にとってはこの配列でなければならなかったということがわかってくる。重要なのは「クビナシウマ+走る」である。佐々木はこの配列から、「クビナシウマ」は「走る」と連鎖している、という(『風景』42)。そしてこの「統辞的」な連鎖を彼は「隣接関係」と同一視する。そうすると、(クビナシは非現実的なので省くという作業のあと)「ウマ+走る」は、隣接関係である換喩に位置づけることができるのである。ここが肝だ。日本語として自然に「ウマ+ある特定の場所+走る」と配列してしまうと、「ウマ」と「走る」が隣接関係で捉えられなくなってしまうのである。いやむしろ、別の隣接関係が見えてくると言ったほうがいいだろう。佐々木は「ウマ」と「走る」が隣接関係にあることを「統辞的連鎖の意味的選択制限」の結果とするが、同じ選択制限は、SOV式に配列したときに隣接的になる「ウマ」と「ある特定の場所」でも「ある特定の場所」と「走る」でも言えるからである。佐々木の選択は恣意的なものであり、網羅的ではない。
そもそも「ウマ+走る」が換喩的な認識かという問題がある。『レトリックの宇宙』第3章「換喩の意味論」で挙げられている換喩の文は、いずれも別の(換喩的ではない)単文を換喩として表現したものと分析されている。一つの単文内部の、ましてや名詞と動詞の隣接的(?)な関係性などではない。瀬戸に倣うならば、「ウマが走る」は「ある特定のウマが走る」に対して類と種の関係にあり、その意味において、「ウマが走る」は文全体として換喩なのである。記号論の用語でいうと、換喩とは統辞的なものではなく範列的なものなのである。佐々木は瀬戸の記号論に大幅に依拠しているはずが、まったく違うことを前提に議論しているのである。しかもその前提には、何の説明もないし、おそらく分析にとって何の妥当性も見いだせないだろう。
この点をみただけでも、それ以降の「三角形」による分析が砂上の楼閣になってしまったことは明らかだが、他にもたとえば次のような問題が認められる。佐々木は「ウマ+走る」から除外した「クビナシ」という要素を「現実にはあり得ない」という理由から、何かの象徴記号である(たとえば「クビになる」「クビが回らない」と同じような)とみなす(『風景』43)。これは、「喩え」という認識方法に束縛されているため、ある表現は必ず何か別のものを表現していなければならないという誤った前提にもとづいた、奇妙な分析である。紹介されている伝説のどこをみても、「クビナシウマに実際にはクビがあるが、何か別のものを表現したいがために、クビナシという比喩を使っている」と読み取ることはできない。佐々木は伝説を語る話者の認識を自らの三角形に当てはめるため、強引に歪曲している。

帰納と演繹の混同
『風景』第5章で佐々木は伝説の創造について分析を加える。そこで用いられるのが過去の理論家らによる民話の構造分析である。彼はプロップやダンデス、ジェイソンらが多くの民話分析から抽出した構造をまず提示する。そしてそのうちの一つをクビナシウマ伝説に当てはめてみると、構造のうち空白のところ(物語のなかに語られていない部分)がある。具体的には、「刺激・反応・結果」という構造に対して、クビナシウマ(首切れ馬)は「なし・なし・大晦日の晩に走る」となり、刺激と反応の部分が欠如している。また、伝説を伝承する脇町(の人々)は「(賽銭を)盗まれる・なし・なし」となり、反応と結果がない。そこで佐々木が何をするかというと「今度は脇町と「首切れ馬」を、一くくりにしてみてはどうだろう」というのである(『風景』75)。なぜなら、脇町の人々が首切れ馬を伝えている以上、この両者は一体だからだというのだ。しかしこの推論が可能ならば、同じように伝説に登場する別の村の人々(三谷)も、賽銭を盗む時に鳴いた馬も、伝説のなかの登場人物なのだから、一体化すべきだろう。単に構造にあてはめてうまくいかないからといって登場人物の一部だけを融合させるのはナンセンスである。しかし佐々木は歩みを進める。その結果、彼は「脇町が首切れ馬を走らせている」という要素が隠れていることを指摘する。彼は、この要素を語らないことを民話の表現技法のひとつだとして処理する(『風景』77)。しかし「首切れ馬を走らせる」とはどういう状況なのか。聞き手が、「村の人々は首切れ馬を操作することできる」と思って話を聞いているとは考えがたい。いったい、このような「構造分析」によって現われた「民話」とは誰のものなのだろうか。そもそも構造分析は具体的な事例を抽象化した結果得られる帰納的なモデルである。欠如部分を「発見」するためのモデルでこそあれ、「創作」するための演繹的なモデルではない。佐々木は構造分析をしてモデルを提示したのではなく、民話を既存のモデルに押し込めて不可解な改変をしたにすぎない。

「切り取る」は何の隠喩か
佐々木は『風景』第12章でブルンヴァンを参照して、伝説には二重のメッセージがあり、伝説が語り継がれるには、表面的な一次的メッセージではなく、「隠喩的で、シンボリックにほのめかされた、人間行為や社会状況に対するより深い批判」という二次的メッセージが重要であるという主張を受け入れる。佐々木がクビナシウマ(首切れ馬)の伝説の二次的メッセージとして最終的に提出するのは、象徴的贈与交換と経済的等価交換との衝突である。これが妥当かどうかはここでは問わない。問題なのは次だ。佐々木は、この衝突について、山口昌男が、「もの」が人々や土地などと精神的なつながりをもっていたはずが、現在では繋がりを失い、「事物の物」になってしまったという主張を引用する(『風景』198)。そして「つまりこの伝説の〈馬の首を切り取る〉という隠喩は、「もの」から精神的な意味合いを切り取る、象徴的贈与交換を経済的等価交換に履き違える……ということだったのではないか」と結論付ける。しかしこの結論には大きな飛躍がある。「ものから精神的な意味合いを取り除く」とはあくまで山口昌男(そして佐々木)の表現というか「喩え」であって、伝説を語る人々の表現ではないということだ。人々が贈与から等価への移行を「精神的な意味合いを切り取るもの」と喩えている事実がなければ、佐々木の結論は、伝説における「隠喩」と研究者としての自身の「隠喩」を強引に接続しているにすぎない。

というわけでいくつか問題点を指摘してみた。繰り返すが、僕はこの本を理論的だとして評価することはできない。もちろん視点の違いはあるだろうし、僕自身の無理解もあるかもしれない。それにしても、ちょっとなあ、と思ってしまうところなのです。記号論に対する知識の不足以外にも、たとえば近代廃墟を論じるときに、まったくTim Edensorに触れないとか、いろいろと議論の参照枠が付け焼刃でしかないのが問題の要因の一つのような気がする。

*1:たとえばArmin Burkhardt and Brigitte Nerlich (eds.), 2010, Tropical truth(s): the epistemology of metaphor and other tropes

リッカルド・カポフェッロ『経験論的な驚異 幻想文学の歴史化1660-1760』

ちょっと気になる本があったので、その序論だけを翻訳してみました。
Riccardo Capoferro, 2011, Empirical wonder: Historicizing the fantastic, 1660-1760.
幽霊や怪物が経験的なものではなくなっていく過程、というか経験的なものとそうでないものとの分離が英文学のなかで行われていった過程を論じたもののようです。ちょうど妖怪の超自然化を発表する準備をしていたので非常に興味深い内容だと思ったのですが、序論だけしか読んでません。
正確には書籍版ではなくてネット上にある博論のほうを訳してます。書籍のほうは高くて買えません。



 18世紀といえば、小説や文学上の現実主義が勃興してきた時代として知られている。しかしこの時代は、今では非現実主義的なジャンルとしてひとまとめにされている多くのテクスト――幽霊譚や空想旅行記――が氾濫した時代でもあった。こうした作品の一部は、重大な認識論的問題に関わっているという点において、17世紀から18世紀にかけて出現した文化の著しい変動を記録したものと見なされてきた。このジャンルの起点となった幽霊譚や「経験論的」悪魔学は、たとえば、伝統的な信仰が問題をはらみつつ残存していることと、経験論的な認識論が広まっていったこと、双方のしるしとして読まれてきた。他方で、空想旅行記については、批評家たちは近世におけるSFの先駆けとして関心を持ってきたが、ほとんどは『ガリヴァー旅行記』の背後に霞んでいってしまった――18世紀の、その他の旅行記フィクションの観点からの分析は極めて少なかった。要するに、幽霊譚や空想旅行記がもつ形式上・主題上の新しさは、ほとんど注目されてこなかったのである。しかし、そうしたものに評価を与えてみるならば、17〜18世紀における文学の発展に対して、繊細な感覚がもたらされることだろう。
 このような諸々の作品は、実際のところ小説に負けず劣らず独創的なものだった――そして、これから示すように、それが語る認識論的な問いのいくつかについても、同じくらい関心を抱いていた。小説が優位にあることを説明するのはたやすい。おそらく、現実の表象に明確に関わっている点と、思わず肯わざるをえない教訓のあるサブテクストの構築を可能にする、日常的なものへの興味関心が、その土台にあるのだろう。それとは反対に、幽霊譚や空想旅行記に描き出される例外的で相当に非経験的な情景は、実用的な道徳規範を示すのに容易に利用できるようなものではなかった――そしてこのことによって、それらの価値の見定めが阻まれてしまったのだ。ジョンソンは、よく知られた小説論のなかで、小説が決定的な成功をおさめ、非現実主義的なジャンルが周縁に追いやられた理由を浮き彫りにしている――このことは、ロマンス物(幅広いカテゴリーだが、もっとも議論の多い文学形式がそこに入る)の周縁化とも軌を一にしていた。 

虚構の作品を,いまの世代はこのうえなく喜ぶようだ。それは,人生の真の姿を如実に表わすからである。こんな作品は,この世に日常的に起こる事件によってのみその様相が変わる。また,人々との会話のなかに実際みられるような感情や雰囲気によって影響を受ける。……その目指すところは,手軽な手段を用いて自然な出来事を持ちだし,驚嘆の力を借りることなく好奇心を持続させることである。それゆえ,英雄ロマンスにあるような奇抜な道具立てを排除している。婚礼の席から新婦を強奪するような巨人を登場させることはできないし,囚われの身の女性を騎士が奪還することもない。登場人物を砂漠において惑わすことも,空想の城址に住ませることもできない。(『彷徨者』第4章)

 とはいえ、幽霊譚と空想旅行記、そして小説には多くの共通点がある。何よりもその形式が似ている。経験論の影響が色濃く残されているのだ。すでに述べたように、小説の隆盛は、17世紀後半にみられる全体的な不安定性によるところもあった。経験的な真実を伝えるために設計されたはずの諸々のコードは、必ずしも真である必要のない事実を語るときにも、次第に頻度を増して使われていくようになった。それと相似的に、際限なく用いられていくことにより、経験論的なコードは幽霊譚や空想旅行記を包み込んでいくようになった。こうしたジャンルに欠かせない超自然的なものは、ただちにそれとわかる「自然な」背景のもと、出現したのである。このような描写は経験論の修辞法によって形作られていった。言い換えると、幽霊譚や空想旅行記、そして小説は、現在「現実主義的」と呼ばれる表象様式を繰り広げたということである。しかし小説のほうは、形式においても内容においても経験論的であろうとした。自然法則を破らないだろう出来事を描写するための、状況説明的な言語を駆使したのである。他方、幽霊譚や空想旅行記の経験論的な同一性(empirical identity)は、形式のレベルでわかりやすく確証される。テクストにおいては、幽霊や怪物、超自然的現象が、ただちにそれとわかる疑似科学的な言語で描写されるのである。経験論的な表象様式と非経験論的な内容の組み合わせが、本論の着眼点になる共通要素を構成する。それはみずからの新しさを顕わにし、一つの幅広いカテゴリーに収めることを可能にするものだ――つまり「幻想文学」(the fantastic)である。
 本論は、18世紀はただ小説のみが隆盛した時代ではないことを論じるものである。この世紀は、私たちの言う「幻想文学」へとひとまとめにできる諸々のジャンルが出現した時期でもあったのだ。「幻想文学」というカテゴリーを使うのに何の問題もないというわけにはいかないのは勿論だから、なるべくこのカテゴリーが妥当だということを力説してみようと思う。第一章は、幻想文学の中心的な特徴が、経験論的な方向性をもった――要するに、現実主義的な――迫真さを伝えるシステムを繰り広げたことだと論じる。これは、非経験論的だとすぐにわかる諸々の対象の表象を形作るものである。現に、20世紀のホラーやSFといったジャンルは小説に由来する形式を採用しているし、18世紀の幽霊譚や空想旅行記などのジャンルも、経験論的な規約に影響された諸々のコードを使っているのである。そして、ツヴェタン・トドロフローズマリー・ジャクソン、クリスティーン・ブルック=ローズらの理論モデルを織り込みつつ、幻想文学が現実主義の形式的・認識的な前提条件を共有していく次第を明らかにしてみる。経験論的な態度や、小説にとっても重要な表象様式が組み込まれたのである。このとき、他の前近代的な超自然表象を引きずった非経験論的なジャンルや作品(おとぎ話)との違いが認められる。幻想文学の基本特性を定義し、これが近世に誕生したという主張を裏付けるため、本論ではこれを幅広い歴史的視野に位置づけ、伝統的な文学形式との対比で定義しようと思う。過去の文芸文化においては、自然なものと超自然的なものは、互いに相容れないとか対立しているなどとは思われておらず、むしろ神あるいは悪魔が直接に現われたもので、現実主義的な出来事だと考えられるような宇宙論に属していたのに対して――ホメーロス叙事詩に語られた宇宙論を参照――、幻想文学においては、超自然的なものが出現することによって、自然の規則性だったはずのものが断ち切られてしまう。言い換えると、幻想文学は、新しい科学の隆盛とともに浮上してきた存在論的な境界を映し出しているのである。しかしながら同時に、幻想文学は、徐々に切り離され、追い越されていく自然と超=自然との対比をつなげ合わそうともする。幻想文学は媒介者となり、衝突する世界観の裂け目を架橋して、経験論的なものと非経験論的なものを調和させる――幽霊や怪物は、読者の世界と相似的なものとして表現された世界のなかに登場するのである。
 第二章は、幻想文学の生み出されたコンテクストに着目してみる。わけても、――17〜18世紀の思想家による作品のなかに次第に明らかになっていく――経験論的世界観と、それと相容れないと思われた存在との対比である。ボイルやニュートンといった科学者に焦点を当てることにより、段々と規範的になってきた経験論的な見解と、超自然的・怪物てきなものについての伝統的な信仰との辻褄を合わせようとした試みを検討する。こうした試みは、堅固な経験論的規約と徐々に相容れなくなっていったと見なされていき、媒介の作業は幽霊譚や空想旅行記といった虚構作品に負わされるようになり、そして自在に認識論的言説の制約から逃れるようになっていった。本論はまた、幻想文学の文化的な土台をさらに明確にするために、幽霊譚や空想旅行記のどちらにも関係する非科学的な媒介ジャンルにも視点を移してみる。とくに怪物たちの経験論的な記述も含まれる「驚異の伝統」がそれである。さらに、幻想文学と小説が、相似する諸々の問題や同じような道具立てを繰り広げているという主張を裏付けるために、『ロビンソン・クルーソー』、『パメラあるいは淑徳の報い』、『トム・ジョウンズ』、『アミーリア』などの小説の宗教的なサブテクストを見てみる。こうした作品は、さまざまなやり方で、自然法則と矛盾しない、よりたやすく現実主義的な美学へと統合される神意の存在論を演出した。小説は、神意に訴えることにより、自然と超自然との控えめな媒介を担ったのである。この時代、小説やその他の神意の語りは、神の作用を異界の力として表象するのではなく、内在的で歴史的な次元に焦点を当てた。それらは、神的なものと関連する高次の目的を十全に内面化していたのだ。
 第三章は、17世紀後半の経験論的悪魔学(とくにオックスフォードの牧師ジョゼフ・グランヴィル)、幽霊譚、そしてゴシック文学を扱う。まず、経験論的悪魔学の修辞構造と認識論的態度を分析する。これはグランヴィルの『魔女と幽霊の完全なる証明』(1689)に結実している。この構造と態度はどちらも形式的・主題的な複雑さに正面から取り組み、自律的で市場向けの幽霊譚の起源をたどり直していく。次に、幽霊譚が虚構へと徐々に変容していくさまを描き出してみる。グランヴィルなどの作家が使った経験論的な見解は保たれていたにせよ、幽霊譚は科学的な枠組みから引き離されていき、錯綜とした語りの構造や際立った感情の抑揚、そして読者のための場を展開していったのである。
 これとともに、本章では、自然な説明と超自然的な説明とのあいだでの揺れ動きを基本とした、幻想文学の基礎道具である「存在論的なためらい」(トドロフの理論による)の発生をたどっていく。存在論的なためらいは、初めのうちは語られざるレベルで提示される。グランヴィルらの作品は、異界の存在者が実在することに対して懐疑的な人々を説得するためのものなので、部分的には懐疑論者の観点を内面化し、そうして否定から信仰への流れを演出したのである。存在論的なためらいは、複数の典型的な経験論的態度を連結する認識論的状態から構成される。懐疑論的なアプローチが、直接的に超自然的なものを経験することによって危うくされるのである。その出現は、直接的な確証ということで文句なく認められるものになる。後代の幽霊譚、たとえば『親切な悪霊』(1715)などでは、存在論的なためらいはあからさまに劇化され、超自然的なものの出現に例外性のアウラを帯びさせるのに最適の手立てとなった。超自然的なものの闖入は、その場に居合わせた人々の予想を裏切るかぎりにおいて、耳目を集めることになるのである。本章では、18世紀における超自然的な出来事のいろいろな説明をながめてみる――18世紀前半のイングランドにおいて有名だった無口の占い師ダンカン・キャンベルに向けられたパンフレットなどである。そしてゴシックの形成を追っていくことで結論とする。ゴシックは、幽霊譚を美的対象へと完全に変容させ、もはやキリスト教倫理によってのみ枠付けられるようなものではなくなった、イデオロギーの焦点移動を画しているのである。
 第四章は空想旅行記をあつかう。小説や幽霊譚と同じように、空想旅行記は経験論的コードに深く影響されていた。このことは、とくに旅行記の言語について言えることだ。しかしながら、超自然的フィクションが亡霊を登場させざるを得なかったのに対して、空想旅行記はさまざまに異なる存在論を含みこんでいた。「現実主義的な」存在論の層は、経験論的な観点からすると相容れないような別の諸層によって錯綜とし、テクストによって多様な幻想の表象を産出したのである――キャヴェンディッシュの『光り輝く世界』の多神教的な宇宙から『ガリヴァー旅行記』に描かれた遠くの諸社会にいたるまで。どの空想旅行記も、それぞれに固有の世界を描写している――スウィフトの模倣が増えてジャンルの硬直化が加速したにせよ――が、ほとんど避けがたく、脱魔術化に抗する自然のイメージを構築している。1750年代以降、空想旅行記の中心的な主題は別のものに変わった。次世代の作品、たとえば『ピーター・ウィルキンズの生涯と冒険』(1750)や『ウィリアム・ビンフィールド』(1752)は、原=帝国主義的なサブテクストを表現しているのである。幻想文学に特徴的な道具立ては、みずからを育んだ認識論的コンテクストから引き離されて、今や新たなイデオロギーの目的に従属するようになる。もはや媒介はその中心課題を構成するものではなくなった。1750年代から、空想旅行記は新たな機能をもたされるようになったのだ。それらの形式的な道具立ては、いまだに媒介の問題とひそかに携わっていたにせよ、新たな意味合いをもって刻印されたのである。幻想文学の変容は、もう、その誕生を決定づけた認識論的な危機によってのみ枠付けされるのではない。多種多様な利用法に耐えうる形式として、やわらかな慣習の集合体として、その十全な癒合を証するのである。

鎌鼬=真空説の初出

 鎌鼬の正体が真空であるという説の初出はいつか?

 今年の夏に出た別冊宝島の『日本の妖怪』(小松和彦・飯倉義之監修)では「昭和初期」と書かれている(p.70)。飯倉義之さんの2010年の論文「鎌鼬存疑」(『妖怪文化の伝統と創造』所収)では、井上円了の『妖怪学講義』(1896)においてすでに「常識的な<科学>知識となっていたこと」が指摘されている。Wikipedia日本語版では単に「近代」と書かれている。
円了以前だと思われるが、今のところわからないというのが現状だと思う。

 というわけで、少し前に調べたのだが、どうも初出は福沢諭吉が1868年に出版した『訓蒙 窮理図解』という西洋科学啓蒙書らしい。この本の第1章で彼は「空気」を取り上げ、基本的な性質を説明した後、気圧についての解説を始める。
 福沢はまず、手のひらを茶碗の底の糸切部分に押し付けると、そこの「空気なくなるゆえ、外の空気はこゝに入込まんとすれども道なく、由てその力にて茶碗を手に押付け」る、という、誰でもすぐに実験できる例を示す。ここで注目すべきは、「空気なくなる」として「真空」の概念が援用されている点だ 。ついで福沢は戦場での話に移る。時折、銃弾が当たらなかったのに怪我をすることがある。それは、銃弾が皮膚をかすめると、「その勢にて膚の際の空気を払い、これがため体内の空気張出して膚を破る」からである(『福沢諭吉著作集』第2巻、p.23)。その次に福沢が挙げるのが鎌鼬だ。
 「又深山を往来するとき、何の原因もなく膚の破れて大怪我することあり。これを鎌鼬と唱う。古よりその理を知らざるゆえ、無智の下民等はこれを妖怪の仕業などゝいうなれども、その実は矢張り空気の所為なるべし」。
 というわけで、前後の文脈からすると、これが「真空説」の初出ではないかと思われる。
 ただ、旋風という要素はまだない。これについては既に目星がついているが、そのことについては、また今度。また、福沢の説が確実に彼のオリジナルであろう根拠も何となくわかっているが、それもまた今度。

 ところで、現在岩手県南部の某市にいるのだけど、地元の年輩の方にカマイタチの話をすると、真空説だけではなく、雷に驚いて転んだときに出来る鎌状の跡という人もおり、面白いところでは「カマキリの大きいの」という人もいた。諸説紛々で楽しい。自分ではないがカマイタチに「かけられた」人を知っている、という人も多い。

 追記:カマイタチ真空説について一部勘違いされている方もいそうですが、真空説は提唱当時はまっとうな科学的仮説として受容されていまして、疑似科学とみなされたことは滅多になかったことを言っておきます。なにせ、あの井上円了が、自分で説明するまでもないとして受け入れたぐらいですからね。
 また、カマイタチは本当は何なのか、という件についてですが、カマイタチというのは色々言われますがその本質は「原因不明の切創」なので、原因は1つではなく複数考えられます。あかぎれ、興奮状態で傷ついたので気づかなかった、強風で飛んできた小石のせい、正直に言いたくない切創についての言い訳などなど、いずれもありうると思われます。

妖怪論文が掲載されました・ウェブ上に公開しました

すでに2か月前の話になりますが、『現代民俗学研究』という雑誌の第6号に僕の論文が載りました。
タイトルは「妖怪の、一つではない複数の存在論―妖怪研究における存在論的前提についての批判的検討―」で、113-128ページに掲載されています。
冒頭の英文要旨を翻訳したものは次のようになります。

 本稿は、近代の民俗学的妖怪研究が前提としてきた存在論的コミットメントを批判的に検討する。学術的な妖怪研究者は、妖怪は超自然的存在であり、妖怪は一般的には実在しない、と想定している。しかし、近代的な研究者のもつ存在論的枠組みを共有しない人々の世界を研究するときの、これらの前提の妥当性は、これまで妖怪研究においてほとんど関心をもたれてこなかった。本稿は、妖怪研究において主流の言説や理論を批判的に検討することにより、研究者が、妖怪を受け入れ共存する人々のパースペクティヴを把握しそこねていたということを指摘する。
 なぜ妖怪研究はこの存在論的コミットメントを前提としてきたのか? そこには、江戸後期から続く歴史的プロセスがあった。 知識人や都市住民らは、徐々に、今で言う「妖怪」が超自然的であり実在しない、と想定するようになっていったのである。19世紀初頭、妖怪の実在性を確保しようとした一部の学者たちは、日本における近代的科学的経験主義の勃興に対して、超自然的な領域を打ち立てようとしていた。さらに、妖怪の超自然性とされるものは、実在を認めない研究者によってもゆるやかに受け入れられていった。本稿はこのプロセスを認識論的切断として捉え、研究者は切断後に生み出された存在論的枠組みをとおしてのみ、さまざまな世界や存在論を理解することができる、と論じる。本稿は、人々が妖怪を受け入れる多様な諸世界を研究者が理解することを可能にする「多元的存在論」モデルを提案する。

ところで、改めて読んでみると、十分論じきれていないところがあったり、参考文献に追加したいものがあったり、後から訂正したい箇所が多く見つかったりしたので、個人的に改稿版を公開します。「妖怪の、一つではない複数の存在論 改稿」です(リンク先はGoogle drive)。雑誌に載ったオリジナルバージョンは、そのうち公式にウェブ上に公開されるそうです。
形式としては、本文や文末脚注はオリジナルのままで(ただし編集部が書式を変更した点は反映されていません)、ページ末脚注に追加した分を載せています。あれこれ雑多に書いた結果、本文よりも長くなってしまいました!!(笑)
注意事項として言っておくと、改稿版に記載された内容は基本的に査読を経ていないうえに、あまり考え抜かれていないので、書かれている内容についての責任は持ちますが、無許可での引用・参照は禁じます。また、予告なく文章が改変されることもあります(すでに1回、大幅に書き直しています)。どうしても引用・参照したい場合は、何らかの手段で僕に連絡をください。ブログのコメント欄でもツイッターへのリプライでもかまいません。

「びしゃがつく」の出典

まえおき
柳田国男『妖怪談義』の「妖怪名彙」には、後に有名になる多くの妖怪が掲載されているが、柳田はそれぞれの妖怪のデータが何に由来するのか、必ずしも明記しなかった。小松和彦はこの点を問題視し、出典を明らかにしていくことによって柳田がどのように元データを操作して「妖怪名彙」に収めたのかを解きほぐそうとした。
……詳細は、「googleで見つかる白坊主の出典」の最初のほうの繰り返しになるので、そちらを読んでください。

さて、「妖怪名彙」の250ページ(ここでは『新訂 妖怪談義』版を使う)には「ビシャガツク」という妖怪が紹介されている。

ビシャガツク 越前阪井郡では冬の霙雪の降る夜路を行くと、背後からびしゃびしゃと足音が聴えることがあるという。それをビシャがつくといっている。

(「阪井」はママ)
小松はこの記述への注釈に「柳田は、伝承地域として越前坂井を挙げるに留めて、出典・情報源を明記していない」とだけ書いている(p.277)。

越前坂井とは今(少し前)でいう福井県坂井郡のことである。ところで、「妖怪名彙」にはもう一つ、坂井郡の妖怪として「ミノムシ」が挙げられている。その出典は「南越民俗二」で(p.258)、これは書誌情報が明らかなので、小松も「『南越民俗』(第二号、南越民俗発行所、一九三七年)の「断片資料報告――狐狸妖怪談」(無署名)に」あることを指摘して、全文を引用している。
このことからは、柳田が妖怪を収集する範囲に『南越民俗』があったこと、『南越民俗』は妖怪を意識的に採集していること、この二つが自明である。
しかし、『南越民俗』は「怪異・妖怪伝承データベース」の収集範囲にも入っているのに、「ミノムシ」で検索してもこの文献が出てこない。それでも粘り強く探してみると、「狸」という妖怪名で収録されているこのカードが実は柳田が「ミノムシ」の項で紹介したものだということがわかる。そこで実際に原資料に当たってみると、「みの虫」とゴシックではっきり書かれている。どうやらデータ入力者は「みの虫」を怪異・妖怪の呼称とは思わなかったらしい。さらに「暗いところや大工は騙されない」と要約文にはあるが、これも原文では「電氣のある明るい處ではつかれない、又大工や石屋はつかれない」であり、「暗いところ」は「明るいところ」の間違いだと思われる。
このように膨大なデータ入力を手作業で行なっているとどうしても入力ミスや見落としというものが生じてしまう。そのようなわけで、もう少し地道に『南越民俗』を読んでみた。

1937年の第3号には、これも無署名の「松岡附近の傳承」という1ページの短い報告がある(p.32)。伝説や民間療法、呪術的風習、方言などが紹介されているのだが、そこに次のような記述がある。

△ビシヤガツク 冬季、霙の雪が降つた夜、道を行くと昔後からビシヤ〳〵足音が聞える、これはビシヤガツクと云はれる。
……
(以上 島田和三郎談)

(「昔後」はママ、おそらく正しくは「背後」)
というわけで、ほぼ、これが柳田の「妖怪名彙」の出典と見ていいだろう。報告者?の島田和三郎について詳しいことは知らないが、1951年に『奥の細道と松岡』を出版したらしく、1978年には『島田和三郎翁展』なるものも出ているから、郷土史家か地元の名士のようである。さらに1953年には『若越民俗』に火の怪異について報告してもいるらしい(この怪談は、「松岡附近の傳承」にも似たようなものが載っている)。
柳田はこれを「越前坂井郡」の伝承としているが、松岡といえば福井県吉田郡にあるのだから、「坂井郡」は間違いである(たぶん)。それだけではない。(「ビシャガツク」全体が妖怪の種目名になってしまったという後の問題はさておき)この報告を読んで、これは妖怪だ!と思う人がどれだけいるだろうか。素直に読むと、この記事は冬の夜に発生する聴覚現象を表現するときのイディオムである。確かに自分が立てるビシャビシャという足音のほかに、暗くて見えないところでビシャビシャと聞えるのは気分がいいものではないかもしれない。しかしその先の解釈はいろいろありうる。超常的存在のオカルト的な現象だ!と恐れることもできるし(それなら妖怪だ)、自分の足音がエコーしていると思うかもしれないし、溶けかけの雪でもろくなった足跡がつぶれる音と思うかもしれない。タヌキが後をつけているのかもしれない(これなら妖怪か?それとも動物の習性か?)。いずれにせよ、ここにそういった類の解釈は書かれていない。あるのは、ちょっと奇妙な聴覚現象を描写するときの、興味深い方言のイディオム、それだけである。柳田が「妖怪名彙」に入れてビシャガツクは妖怪になったが、そうでなければ一方言に収まっていたかもしれない。さらに先ほど少し触れたが、「ビシャガツク」自体が後に妖怪の名称として独り歩きしてしまった。「ビシャ」が「つく」現象なのにである。だからといって、それなら「ビシャ」を行為主体に据えればいいかというと、そうとも言えない。「ビシャガツク」というイディオム全体でしか意味をなさなかったかもしれないからである。
この事例は「怪異・妖怪データベース」からは漏れてしまっている。おそらくデータ入力者は妖怪「ビシャガツク」を知らなかったので見逃してしまったのだろう。これは完全な憶測だが、「妖怪名彙」以降の先入観がなかったかもしれない入力者は、この記事だけをみても妖怪や怪異とは思わなかったのかもしれない。
というわけで、「かもしれない」ばかりの感想になってしまったが、出典は『南越民俗』でした。

日本怪異妖怪大事典「廣田龍平」担当項目の補遺1/5 インマオ、遠州七不思議、えんのこ、閻魔大王、置行堀、応声虫、蛙石、鐘の怪異、川ミサキ、鬼子母神、コソコソ岩、狛犬、鹿石、七人塚、十二神様

この記事がどういうものかについてはhttp://d.hatena.ne.jp/ryhrt/20130827/1377587908を見てください。原則として『日本怪異妖怪大事典』を手元に置いて読んでください。

1. いんまお【犬魔王】p. 52「犬のような姿をした奄美群島の妖怪」。○
「犬魔王」という漢字は僕ではなく編者先生によるもの。
編集からいただいたDBカードは『奄美民俗ノート』の抜き刷りなど。DBにあるものはいずれも加計呂麻島の事例で、さらに『奄美の島かけろまの民俗』(1970)から事例を追加した。この本では「インマオー」(p. 111)とも「インマオウ(閻魔王)」(p. 201-2)とも表記されていて一定しない。

別名のところにある「いんまほ」は村上健司『妖怪事典』p. 50にも載っているが、これは村上事典にあるとおり野間吉夫(1942)『シマの生活誌』にあるもので、加計呂麻島ではなく奄美大島に伝わっているものらしい。

大島本島ではインマホといふものがゐて、人が死ぬ前にその人の魂[ルビ:マブイ]をとりに來る。そのインマホに逢つた人は不幸におちるといつてゐた。(p. 58-59)

「インマホ」表記のものとしては、他には『瀬戸内町の民話』(1983)に、加計呂麻島薩川の語り部が語ったものがある。それによると

眼[むい]や何処[だー]なんがあーろわからんふどぅ、ふさふさしゅん毛[くいー]ぬ顔なん垂れ下がとぅむち。くるが、本当[ふんと]ぬインマホどー。[中略]リュウグゥぬ神どー。
[対訳:]眼はどこにあるかわからないぐらい、ふさふさした毛が顔に垂れ下がっているそうです。これが、本当のインマホですよ。[中略]竜宮の神様ですよ。(p. 40-1)

さらに事例1と同じ調査者の登山修「奄美南部の死者儀礼 聞き書きを中心として」『南島研究』19 (1978)にも、人間として正しい行為をしなかったものの霊魂はアマという妖怪やインマホになるという話が紹介されている(p. 7)。ここでは竜宮や冥土との関連は述べられておらず、ただ死期の近い人々の家を覗いて回るとしか書かれていない。

こうしてみると『シマの生活誌』だけ奄美大島の事例だ。これがなければ堂々と「加計呂麻島の妖怪」と書けたのだが……。

2. えんしゅうななふしぎ【遠州七不思議】p. 77「遠江国(現・静岡県西部)に伝わる七つの怪異」。●
最初に紹介している『蕉園渉筆』はマイナーもいいところだが、小島蕉園の随筆。別名『蕉園遠州奇談』にあるとおり、当地の奇談を集めたもので、七不思議のほかにもいろいろな話が載っている。『静岡県史 資料編15 近世7』に翻刻されたものを参照した。

この文献を紹介するに至った経緯だが、まずDBの資料では七つがそろわない。そこでネットを検索してみるとけっこう七つ紹介しているものがある。ただ、可能なかぎり文献をソースにしたかったので、「遠州七不思議」というタイトルの本のなかから加藤鎮毅『遠州七不思議の旅』(1985)を入手。これを読んでいるうち、どうも『蕉園渉筆』が「七不思議」を集めたなかで最古の文献のような感じがしてきたので、メインに据えた次第(後でわかったことだが、もっと古いものもあった)。
事例1の『煙霞綺談』(夜啼石)は『遠州七不思議の旅』に、2の『磐田郡誌』(片葉の葦)は確か『日本伝説名彙』に教えてもらった。
本当は有名な夜啼石などではなくて「京丸牡丹」を紹介したかったのだが、古い文献を見つけ出せなかった。

原稿を送った後、改めて調べてみると(具体的には、単純に国会図書館のページで「遠州七不思議」と検索した)、かなり情報があることがわかったのでここに補足しておく。

まず、遠州七不思議についてもっともまとまった情報が載っているのは、僕の知る限り『ふるさと百話 第六巻』(1972)にある渥美静一「遠州七不思議」(p. 75-146)。ここの始めのほうに古いものでは『遠江古迹図絵』に七不思議が紹介されているとあり、年代的には『蕉園』よりも古かった。しかも日本語で書かれていた。こちらを優先して紹介すべきだったと後悔している。
この本は単独で翻刻されているのもあるが『日本名所風俗図会』第5巻にあるものがもっとも入手しやすいだろうか? 「大谷三度栗」のところに、

俗説に曰く、遠州に七不思議有りと、その説区[まちまち]なり。予、古老に聞きし処、清明墓・三度栗・佐倉が池・天狗火・夜啼石・新井飛神・波の鳴、これを七不思議と云ふ。

とある(p. 472)。

ほかには静岡の郷土雑誌『土のいろ』第4巻第1号および第5巻第1号が「遠州七不思議」特集を組んでいる(それぞれ出版年は1927, 1928)。
僕が確認したのは『土のいろ集成』という復刻版。こちらはより古文書や地元の伝承に基づいて七不思議を紹介・考察している。また、『觶土硏究』に載った七不思議については本事典p. 408(「ななふしぎ」)に紹介されている。
渥美は「京丸牡丹」の悲恋物語については江戸期のものを載せていないので、もしかしたら存在しないのかもしれない。近代以降のものとして彼は上記『土のいろ』4.1(1927/1981)所収の中道朔爾「京丸牡丹の話その他」を挙げている。どうも中道が子供のころに聞いた話らしい。
むかしむかし、京丸という村に若者がひとり迷い込んできて、そのまま住みついた。彼は当初お世話になった戸長の娘と恋仲になっていたが、しかしそれは「他村の者との結婚は禁止」をおかすものだった。二人は夜逃げしたが、怪しんでどの村も受け入れなかった。結局二人は娘の生家に戻ってきたが、入れてもらえなかったようであり、そのまま天竜川に身を投げた。こうしてどこにも行き場のなくなってしまった二人の霊魂が、大きな牡丹となって、恋の思い出にと咲いているのだという(復刻版p. 336-7)。

3. えんのこp. 77「山に出没する、子犬ほどの獣」。○
エンノコは方言で「犬(の子)」を意味することが多い。
事例1はDBにある。説明文は事例1についてのもので、2とは関係がない。このように説明文と事例とがうまく噛み合わず、文脈をよく見極めないと誤解を招いてしまうような書き方になってしまったのが多いことについては、大いに反省しなければならない。
2の『見島聞書』(1938)はDBには『山口県史』に引用という形で載っている。ただし「聞書」ではなく「見聞」と誤記されている。このエンノコは前後の文脈から判断するかぎり「犬の子」ではなく「猿猴」、カッパの仲間のことのようである。

4. えんまだいおう【閻魔大王】p. 77「仏教道教における冥界の裁判官」。●
誤植。冒頭で「つけひもえんま【紐組閻魔】」とあるのは「付紐」の間違い。ちゃんと赤を入れたはずなんだけど……。

この項目のように、普通は民俗宗教事典に載っていそうなものでも、それがエージェントとして怪異を起こした話が伝わっているならば、妖怪・怪異として載せるというのが本事典のポリシー。『妖怪学新考』で、不動明王天照大神も人にとってマイナス価をもてば妖怪であると書いていたところがあったと思うが、その主張をちゃんと実践している。僕もこの主張には賛成である。

説明文後半は、DBにある民話チックなのを圧縮した記述。
この項目では十王信仰もまとめているが、事例自体は結構たくさんあったので、いかにも「マイナス価」と思えそうな事例を一つ選んだのが二つ目。
一つ目の太宗寺の付紐閻魔は、これぞ「怪異」「妖怪」と言えそうな閻魔大王についての怪談でネット上でも多くのページで紹介されているが、DBには載っていない。
『日本伝説名彙』p. 478に「閻魔の口の端から紐がたれたという話があり、あるいは蔵前ともいうが定かでない」とあいまいな記述があり出典として「伝説民俗考」が指示されているが、これは長尾豊『傳說民話考』(1934)のことで、近代デジタルライブラリーで読める。深大寺の仁王に同じような話があったということも紹介されているが、肝心の付紐閻魔についての出典はどうもはっきりしない。長尾は「これは書いた物よりも、絵で傳はり擴まつたものか」と推測している(p. 9)。
その後、柴田流星『傳說の江戸』(1911)にもあるのを見つけたので(p. 71-5)そちらに出典を差し替えたのだが、事典には反映されなかったようである。
そのようなわけで江戸期の出典を見つけることができなかったのは、これまた力不足であった。『江戸文学俗信辞典』(1989)には関連する川柳として「つけひぼを食って仕舞ふとしれぬ所」「子をたべた閻魔さまさと嫁はなし」(それぞれ『誹風柳多留』16篇、18篇)とあるが、これを事例の出典にするわけにもいかないし。

さて、太宗寺以外には鎌倉の新居の閻魔が子供を食ったとして有名らしい。
こちらのほうは山手馬鹿人『世説新語茶』(1776-7?)に「ナニ又荒井のえんまじやァなし人を食うの食わねへのという……」、式亭三馬『凧雲井物語』に「新井の閻魔王。幼き者どもを取食ひ給ふなり。其証據は閻魔王の口より。小兒のつけ紐など下がりてありと」(『續京傳三馬傑作集』p. 64)とあるなど江戸期の出典もそれなりにしっかりしてはいる。
こちらを載せたほうがよかったかもしれないが、さらに気になるのは、『相州鎌倉新居閻魔取子縁記』なる文書が円応寺にあるらしいこと。これは『諸国寺社縁起』第四冊に載っているらしいのだが、入手できず、断念。もしこれを読めていたら(そこに児童食のことが書かれていたら)、新居のほうのを事例に入れていたと思う。

5. おいてけぼり【置行堀】p. 78「本所七不思議の筆頭に必ずあげられる怪異」。●
いきなりですが大ミス。「筆頭に必ず」は間違いでした。筆頭に挙げられることは多いですが、そうではないのもありました(横山泰子2006「近現代に生きる本所七不思議」, p. 188参照)。お恥ずかしい限りです。

話型としては「物言う魚」(本事典p. 547-8)の仲間。以下に紹介するうち松戸の置行堀はそれに近い。なお「物言う魚」の項目には「報告例は多くはなく、一五例ほどである」と書かれているが、何を見てそう判断したのだろうか。

文献初出と思われる『亀山人家妖』(1787)は、今はなき現代教養文庫『江戸の戯作絵本(二)全盛期黄表紙集』(1981)などに収められていて、具体的には

人の行かぬ所に手がらはあることなればおいてけ堀に行って見んといゝける。『おいてけ堀をこわがるはきついたわけなことさ』『化けが出たら生け捕るなどもよかろう』

などとある(p. 195-9)。『日本国語大辞典』もこれを初出としている。

正体がカッパであるという説の出典は、今野圓輔(1981)『日本怪談集 妖怪編』p. 64。

隅田川にカッパは多く、いたずらものであった。今戸のカッパ、源平掘のカッパもそうだが、とくに有名なのはオイテケ堀のカッパだとされている。……当時は、隅田川のカッパがよく人手にかかって見世物にされた。業平橋際で捕ったヤツは身長三尺八寸、重さ八貫、黒い剛毛を体に生やしていた。

これの出典は1957年の『サン写真新聞』に載った「カッパが工事に協力」という記事らしいが、そこまでさかのぼっていない。もし今度書く機会があればさかのぼってみたい。

説明文には埼玉、神奈川、千葉にも伝説があると書いたが、事例2に埼玉の事例を載せただけだった。これはDBにあるもので、柳田國男が『妖怪談義』に引用しているやつの元ネタである。
村上事典には山形!の事例も紹介されているが(p. 66)、これを探すのはすっかり忘れてしまった。事例1は説明文中でも述べているので、別の地域のものに差し替えたほうがよかったかもしれない。

神奈川の事例は『かながわのむかしばなし五〇選』(1983)にあるもので、綾瀬市早川の北のほう、目久尻川の某所が該当地らしい。狐の仕業だとされている(p. 54-5, 248)。

千葉の事例はユニークで、水戸黄門が七つ頭の大蛇を退治して、古池に社を建てて祀ったのだが、あるとき池で別の男が釣りをしていると、祀ったお堂のなかから「ごろやーい」という声がする。すると魚が魚篭から飛び出して池の中へと逃げていく。以来、ここを「おいてけ堀」と呼ぶようになったという(岡崎柾男1993『おいてけ堀 江戸・東京下町の民話』、p. 20)。

東京では他に足立区や台東区にも「おいてけ堀」がある。
比較的知られているのは(Wikipediaにも載っている)千住七不思議のひとつで、今の牛田駅の南あたりにむかし池があったという。『足立区史』(1955)によると、「釣りや網で魚をとつて持つて来ると後から「置いて行け! 置いて行け!」という声がする。二三匹の魚をそこに置いて行けば何の事はないが、置かないと葦原にまぐれ込んで夜中になつても帰れなかつたり、或はひつくりかえつて魚を皆とられてしまつたという。これも狐狸の類のいたずらであつたという」(p. 1053-4)。何を隠そう僕はいま牛田の目と鼻の先に住んでいるのだが、実際に歩いてみたものの、もう跡形もなくなっているようだった。
台東区のものも今はない。かつて不忍池から隅田川に流れる鳥越川というのがあり、今でいうと蔵前と浅草橋のちょうど中間あたりに、川にかかる須賀橋というのがあった。この橋からすこし隅田川にいったところにため池があった。人々はそれをおいてけ掘と呼んでいたという。『淺草區史』(1914)には由来は書かれておらず(p. 482)、『台東区史 上巻』(1955)には本所のものと大同小異であっただろう、河童のいたずらだったのかもしれない、とある(p. 797)。末武芳『上野浅草むかし話』(1985)には、そこで河童の皿を釣ってしまった男がしつこく「おいてけ」とつきまとわれたという話が載っているが、出典は不明(p. 284-92)。

また、未見だが、山形県鶴岡市東栄という地域の昔話を集めたらしい『おらほの昔、むがしあったけど 東栄昔ばなし』(2005)にも「おいてけ堀」が載っている。


6. おうせいちゅう【応声虫】p. 79「人間の腹の中にいて、人が話しかけるのに応じて言葉を返すという虫の怪異」。○
この項目についてとくにいうことはない。詳細は『「腹の虫」の研究 日本の心身観をさぐる』(2012)。日本初出は『医談抄』だ、という解説は、この本のもとになった論文を参考にしている(長谷川雅雄、ペトロ・クネヒト、美濃部重克、辻本裕成2001「「もう一つの声」を発するもの 「応声虫」をめぐって」『南山大学アカデミア 人文・社会科学編』73, p. 158)。

事例2の『新著聞集』はDBから抜けていたもの。「こたえむし」という異名の出典は、DBにもあるが、『塩尻拾遺』。ただし原文に「こたえむし」というルビはない。

7. かえるいし【蛙石】p. 120「蛙と何らかの関連がある石の怪異を蛙石と呼ぶことがある」。○
一つ前の「かえる」の項目に、「身近な爬虫類」と書かれてる……。

この項目についてもあまりいうことはない。
別称の「ひきいし」はDBにあるもので、単に蛙に似た石と鬼が睨めっこして、鬼が死んでしまったという伝説。石自体が怪異をなすわけではないので採用しなかった。
「わくどいわ」もDBにあるが、山の中腹にある蛙に似た形の岩で、一日に米一粒の距離だけ上にのぼっていき、頂上にたどりつくと山は海になるという伝説。
事例3の『天草島民俗誌』の話は自分で探してきたもの。

8. かねのかいい【鐘の怪異】p. 149「鐘の怪異の中でも有名なのは「沈鐘伝説」である」。○
この項目は困った。たかが三分の一ページに、DBの事例だけでも68ある豊富な伝説群を押し込めなければならないのだ。
ざっと見るかぎり鐘がパーソン化して怪異をなすようなものはないようなので、誰もが知っている沈鐘伝説を『日本傳說集』から一つ(事例1)、DBのなかから比較的ユニークで、かつ雨乞いと関係のあるものを一つ(事例2)とした。

鐘の怪異については笹本正治『中世の音・近世の音 鐘の音の結ぶ世界』で様々な考察がなされている。

9. かわみさき【川御崎】p. 174「川で死んだ人が祟る怪異」。○
これも特にいうことはない。
事例には字数の都合で徳島と長野のものだけを載せたが、DBにあるものだけでも、ほかに岡山、山口、愛媛、徳島、高知に分布している。DBにはほかに「カーミサキ」も載っているので参照されたい。

10. きしぼじん【鬼子母神】p. 180「子授けや安産、子育ての神」。○
事例1は原題「キシオヂンスジ」である。
DBにある『岡山民俗』16(1955), p. 1では、子供は「三月程」経って見つかったとあるが、同じくDBにある同著者の『伊勢民俗』3.1/2(1956), p. 14では「数日後」とされている。どうも数日後のほうが正しいような気がしたので、事典では「三日ほど」に直した。しかしキシオジンは本当に鬼子母神のことなのだろうか?

事例2は「おじゅらっさん」の話だが、出典の『豊浜のすがた』というのを見つけられなかった。これは悔いが残る。自治体か公民館の広報紙ではないかと思うのだが、どうだろう。
南知多町誌 資料編五』(1996)にもほとんど同じ話が載っているが(p. 417)、子取りの鬼がおじゅらっさんと呼ばれているとは書かれておらず、おじゅらっさんは別の話(p. 416-7)に出てきている。

鬼子母神といえば何といっても子取りの伝説が有名だが、この伝説を事例としたところで地名に日本を指定できそうになかったので説明文に入れた。

9/3追記:具体的に地元に人食いの鬼子母神がいたという説話を発見。となると、他にも地元の伝説として語っているところはあるのかもしれない。その話によると、現・大分県豊後大野市清川に「鬼子母」という鬼が住んでいて、子供を食べていた。お地蔵様が鬼子母の子供の一人を隠し、強くたしなめた。その後はザクロを供えると乳が出るようになる神として信仰されるようになった……(『緒方町の民俗』1978, p. 210)。

11. こそこそいわ【コソコソ岩】p. 235「音を出す石の怪異」。○
『妖怪談義』に載っているから有名なのだろうが、『岡山文化資料』の原文はたったの二行。「こそこそいわ」を書くために僕に与えられたDBのカードを見るかぎり、音を出す石の怪異をまとめて書くべきだったらしい。

この手のものは、『日本伝説名彙』p. 117-9に類例がまとまっている。
「こえいわ」はそこにあった記述をヒントに必死で『東作誌』を読み出所を特定したもの。
「囀石」は『群馬縣吾妻郡誌』(1929), p. 1171にあるもののほうが事例4の『旅と傳說』よりも古く、それはさらに「大道新田村誌」を参照しているようだが、後者は見つからなかった。なぜ僕が(初出?の)吾妻郡誌ではなく『旅と傳說』のほうを出典にしたのかよく覚えていない(資料コピーには、はっきりと吾妻郡誌のページ数まで書き込んだ跡があるのに)。

12. こまいぬ【狛犬】p. 242「神社や寺の入り口に置かれている雌雄一対の聖獣像」。○
雌雄ではない阿吽だという話もありますが、いちおう。
他の事典類ならば「はるかオリエントから伝わってきた守護獣の系譜で云々」と杉浦康平立川武蔵よろしく図像的なルーツを論じるのだろうが、本事典は「怪異妖怪」なのでそのようなことは一切省略。狛犬は単なる意匠であってそういう動物が実在するとされていたわけではないようだが、寺社にいるということで、狛犬像自体が怪異をなすという話がいくつか伝わっている。
事例2はDBでは「カラジン」となっているが原文は「カラジシ」である。
事例3の「デクサマ」はたぶん土公様のこと。他に具体的に狛犬を目撃したとか人を襲ったとかいう話があったら面白いが、今のところ見つけていない。
同じような「幻獣」、たとえば比翼鳥(p. 479)とか白澤(p. 447)にも事例はない。結構苦心したんじゃないかなあ。

13. しかいし【鹿石】p. 271「神の使いである鹿がその足跡を石に残したり、また神鹿そのものが石に変化したりする怪異」。○
別称も含めてきれいに事例と対応させてある珍しい項目。
事例2は、DBカードの出典を探ったもので、事例3は自分で見つけてきたもの。
事例1の「不踏石」のルビは自分でつけたもので、これが正しいかどうかはわからない。なんにせよあまり印象深いものではない。初出は探していない。

これに限らず村上事典には石の怪異があまり載っていないようである。

14. しちにんづか【七人塚】p. 279-80「同時に不慮の死を遂げた七人の集団の霊魂を祀った墓のこと」。○
これは説明にあるとおりで、特に怪異をなさない単なる塚の伝説もDBカードに含まれていた。

この名称の伝説はかなり多い。
事例1は自分で探してきたものだが、厳密にいうと七人の霊ではなく、埋められた金の精の話。
事例3は一人の妊婦の霊のようだがなぜか「七ツ塚」と呼ばれている。
七人塚はいくつかの事例で七人ミサキと同一視されているのだが、この比較的有名な妖怪はなぜか「みさき」の項目に収められている。ちょっと納得いかないという妖怪マニアも多いのではないだろうか。

柳田國男に「七塚考」というエッセイがある。

15. じゅうにじんさま【十二神様】p. 289「主に岡山県で信仰されている神格」。○
もともと「十二天」という項目依頼だったが、いただいたDBカードの多くが十二神様だったので、名称を変更してもらった。
岡山によくある、由来不詳の民俗神。「部落や屋敷の守護神」と書いたが「集落や屋敷の守護神」と直されていた。DB資料はすべて『岡山県史』の民俗編Iである。現地の資料をもう少しあたってみれば何かわかることがあったかもしれない。「祟りやすい」とはあるがこれといった怪異をなすと書かれているわけでもない。この事典には、妖怪のほか、このようなマイナーな民俗神もいろいろ埋もれています。

日本怪異妖怪大事典「廣田龍平」担当項目の補遺5/5 もうみ、モグラ、門助婆、問答石、やかん転がし、やかんづる、やざいどん、山あらし、山芋鰻、山猫、山ミサキ、ヤモリ、雪降り入道、雪ん坊、笑い女

この記事がどういうものかについてはhttp://d.hatena.ne.jp/ryhrt/20130827/1377587908を見てください。原則として『日本怪異妖怪大事典』を手元に置いて読んでください。

61. もうみp. 545「青森県八甲田山岩木山に住んでいるとされた、恐ろしい化け物」。○
『あしなか』の記事に情報があっただけで、そのほかの文献にあるかどうか定かではない。語源もよくわからない。

62. もぐら「土竜」p. 546「土中に穴を掘って棲む哺乳類の一種」。○
また動物項目。ほとんど妖怪伝承はないようだ。DBカードにあるもの二つをそのまま事例にした。他には「せんねんもぐら」があるが、別に立項されていたので(p. 325)、言及しなかった。この項目について特にいうことはない。

63. もんすけばばあ【門助婆】p. 549「何らかの理由で神隠しにあった女が山姥のようになり風と共に帰ってくるという遠野の伝説」。○
ハーフ項目指定だったのに、こっそり小項目の字数制限で書いたが、何も言われなかった。
説明に書いたとおり「寒戸の婆」の原型というか類話とみなされる、という点は、岩本由輝(1996)「サムトの婆々と佐々木喜善」『東北民俗』30, p. 1-8などで指摘されているものである。
また、事例1は伊能嘉矩によるもので、事例2は佐々木によるものという違いがある。DBに引用されているが、岩本論文によると『遠野町古蹟残映』(1992)にも伊能が記録した「門助ばゝあ」の話が載っているという。

さて、1の地名は「遠野市」、2は「遠野町」になっているが、これは文献が出版された時点での地名というだけの違いであり、本来は1も「遠野町」のころの伝承だったのだろう。

64. もんどういし【問答石】p. 550「音を発する石の怪異の一つ」。○
特殊なかたちで音を反響させる石の話がまとめてDBカードで与えられた。
この手の石の伝説は『日本伝説名彙』のp. 114-6にたくさん掲載されているのでそれを参考にしたが、DBカードにもそれなりに多くの事例があったので、事例はすべてそこから採った。

村上事典には「呼ばわり石」だけ載っている。前にも書いたが、基本的に村上事典は石の怪異をほとんど採用していないようである。ただしこの「呼ばわり石」は観音さまがこの石の上に立って叫んだ、その足跡が残っていた……という話であって、石自体が怪異というか奇瑞霊験をなすものではなく、その意味で本項目とは多少異なっている。さらに言うと、正確には「人呼はり石」である(『靜岡縣駿東郡誌』1917, p. 995)。

なお、呼石や鸚鵡石という呼称のほうが多く、「問答石」というのは一般的ではない。

ところで、問答石やヨバリ石のように違った音を返すなら怪異かもしれないが、同じ音を返す鸚鵡石の場合、これは「怪異」なのだろうかという疑問もわく。単なる反響現象じゃないのだろうか。

65. やかんころがし【薬缶転がし】p. 552「人通りの少ない道や、夜中の道中に、薬缶が気味の悪い音を立てながら転がってくる怪異、または薬缶を転がす妖怪のこと」。○
柳田の「妖怪名彙」に薬缶坂が紹介されているので有名だろうか。
なぜ「薬缶」なのかという疑問について、狐の別称「野干」と関係あるのではないかという話もあるが、鑵子になっている話も多いので、一概には言えないと思う。

事例はいずれもDBから採った。

説明文について「提灯の火を消す」というのは新潟県の話で、DBにあり、「ヤカンコロガシのしわざと聞いたが、実際はイタチらしい」とある。もはや薬缶とは何の関係もない。
「人の姿をして現れる」も同じで、「これは、イタチのしわざで、ヤカンコロガシ」という。実際に薬缶を転がす名の知れた妖怪がいて、それがイタチの仕業ということになり、次いでイタチの仕業とされた別の現象も、ならばヤカンコロガシのことだろう、ということにでもなったのだろうか。

字数に余裕があれば載せたかったのだが、野草の名前に「ヤカンコロガシ」というものがあり、

それを踏んで歩ぐとサランサランて音がして、その音がしると、ほら君達ヤカンコロガシが出るぞ、なんてって怖がったんだっけがのう。その草のことをヤカンコロガシてったんだでェ

とある。この草はコシノカンアオイのことらしい(『高志路』247 [1977], p. 16; DBにあり)。
前の段落のでは妖怪の名称がイタチを介して一般化されたが、こちらでは妖怪の名称がそれの兆しとなる普通の草にまで伝播している。妖怪名の発生について考えるのによい事例だと思う。
「水甕」の話はDBにある大分県の「ハンド転がし」のこと。そういう音がするという。無害らしい。

事例に載せなかったがDBによると神奈川にもカンスコロバシが出るという。これは「カラカラカラッ」と音を出すもの。
山口県福栄村(現・萩市)には「かんすころげ」が出る(詳細不明、DBにあり)。
また『小野田市史 補遺篇』(1963)によると、決まった場所に「かんすころげ」が出るという(p. 228)。小野田市は現・山口県山陽小野田市

『現行全國妖怪辭典』にも「カンスコロガシ」「カンスコロゲ」があり(p. 17)、山口県厚狭郡の伝承らしく、鑵子または人の首(!)が転がってくるという。厚狭郡は現・山陽小野田市などなので、近い伝承かもしれない。
『日本妖怪変化語彙』には、カンスコロゲが転げてくるときに腰が抜けると足萎えになるという山口の話が載っているが、出典不明(中公文庫版p. 255)。
またカベヌリのときも出てきた丸山学の『民俗えっせい』(1969)にはカンスコロビも紹介されていて、「親のいいつけをきかない子がいるとカンカンと竹の幹に突当たる音をさせながらころんで来て、子どもの頭をかむ。ヤカンコロビともいう」とある(p. 56)。相変わらず伝承地は不明だが、九州北部、ということになるだろうか。「ぬりかべ」のときも紹介したが、メタセシスで「かんころすけ」と伝わっている地域もあるらしい。

9/3追記:『長谷村の民俗』(1971), p. 54に、シンプルに「溝口上城の堂の前の急な坂に「ヤカンコロバシ」が出たそうである」とだけ書かれている(長野県上伊那郡長谷村、現・伊那市)。

2014年3月追記:『益城町史 史料・民俗編』(1989)に、「鉄瓶コロガシ」が紹介されている。ある切通しに「ゴマの蝿」が出たり、鉄瓶コロガシが出たりしたのだという。詳細は不明である(p. 155)。益城町熊本県

66. やかんづる【薬缶ヅル】p. 552「夜中に森を歩いていると木の上から薬缶が下りてくる怪異」。●
連続して僕の執筆項目。「薬缶吊る」だろうか。
これも柳田の「妖怪名彙」に載っている上に水木しげる斜め上を行くヴィジュアル化をしたせいで比較的有名だが、もともと二行しか情報がないので、与えられたDBカードには、他にいろいろと下がってくる怪異も含まれていた。
さて柳田はヤカンヅルの出典として「長野附近俗信集」というものを挙げているが、これは結局入手できなかった。小松和彦も『新訂 妖怪談義』(2013)の注釈で簡単な書誌情報にたどりついたものの「所蔵先不明」としている(p. 282)。非常に残念である。
しかしこう考えてみると、柳田が「妖怪名彙」に載せなければもしかすると永遠にヤカンヅルについての情報は失われてしまっていたかもしれないということになる。

説明文で「鼬の仕業」とあるのは、DBにあるもので、赤茶釜がぶら下がっているという新潟での話。
「土瓶」もDBにあるもので、京都の話。「手をのべてつかもうとすると、どびんはすっと消えてしまったそうな」。
鍋のフタもDBにあり、宮崎の話。

いずれも無害っぽいが、そういうのが人間生活とあまり関係のないところにあるというだけで怖れられていた。

67. やざいどんp. 555「薮神の一種」。●
DBにある元文献は井之口章次による報告である。
伝承地は中津良村堤(現・平戸市堤?)だと書いてあるが、軽く地方史誌を調べてみたものの、「ヤザイドン」についての情報はなかった。

68. やまあらし【山あらし】p. 562「山に出る妖怪」。○
説明文の冒頭がシンプルすぎる気もするが、同名でありながらかなり異なった伝承が多いため、こうせざるを得なかった。
妖怪絵巻の「山あらし」は、事例に入れるのは無理なので説明のところにいれておいた。

DBカードから採った事例は3のみ。この地方では雹のことをアラシといい、雹除けのお札を竹などにさして畑などに立てるという風習があるのだが、その起源譚として事例3の物語が語られているらしい。

DBカードにはなぜか『民間傳承』4.3 (1938), p. 4にある「ヤマアラシ」が入っていなかったが、DB自体にはある。「俗信」とあるから事典資料としては除外されたのだろう。これを事例2に入れた。
事例2に類似した広島の伝承が『民間傳承』16.2 (1952), p. 34-5にあるので引用する。

牛が仕事をしている時、肢がひよろひよろしてヘコル(挫く)ようになつたり、体を震わせたりして仕事をしなくなる。……これはアクマがついたのであり、イキアヒニ逢フタとも魔ノ風にアフともいう。……アクマについては、猿のような毛物だとも言つているし、ヤマアラシの別名をシイといい、シイが毛を立てると牛が非常に怖れるから「お前の後にシイがいるぞ」という意味で「シイ シイ」と言つてやると、牛が前進すると傳えている。

これ、どうしたわけかDBに入っていない。

事例1は村上事典に教わったもの。

DBカードには三宅島の「ヤカジ」というものも混じっていたが載せなかった。原文を読んでもいまいちよく分からない存在で、「嵐のようだという」と形容されているが、これが動物のヤマアラシのことなのか、嵐のように風雨をもたらすのか、判断しかねる。


2014年3月追記:江戸中期の地誌『拾椎雑話』巻二十四「鳥獣(附録)」に、「飛彈国山中にこ玉と云獣あり、猿の類にて五六歳の童子のことく立てありくもの也。又他所にて山あらしともいふよし、わるさをいたすものなり」と紹介されている(法本義弘校訂『拾椎雑話・稚狭考』1974, p. 344)。「こ玉」は「木霊」のことだが、おそらく『和漢三才図会』に猿のような姿で描かれているのに影響されたものなのだろう。しかし山あらしを伝える「他所」がどこかは判然としない。

69. やまいもうなぎ【山芋鰻】p. 562-3「山芋が鰻に変化する怪異」。○
「山芋鰻」という妖怪名は文献に出てこない。この語の初出は現代だと思われる。とても便利だし誰でも連想しやすいとはいえ、山芋鰻を妖怪名として定着させていいのかどうか、悩むところではある。

DBカードもそれなりにあったが、事例はいずれもDB以外から採ってきた。

事例1の『俗説正誤夜光璧』は馴染みのない文献だと思うが、1727年に書かれた通俗医学書で、田中聡(2007)『江戸の妖怪事件簿』p. 155-7で知った。他の随筆と違い18世紀前半の文献で、比較的詳細に書かれているため、ここで取り上げることにした。
事例2の『甲子夜話』(19世紀前半)は山芋→鰻ではなく鰻→山芋という事例だったので載せた。「かゝれば鰻魚も時として薯蕷に変ずることありやと」。
事例3は近代以降の事例として。湯本豪一(1999)『明治妖怪新聞』で確認した。

「山芋鰻」の初出は分からないが、『和漢三才図会』(1712)あたりだろうか。この文献ですでに「見た人は往往にある」とあるから、17世紀後半には広まっていたのだろう。
2014年6月追記:↑まったくの間違いだった。13世紀後半の成立になる事典『塵袋』第四に「蛇のウナギになるとも、ヤマノイモのウナギになるとも云ふ事あり」とあって、おそらくこれが初出(大西晴隆・木村紀子校注『塵袋1』2004, p.228)。

DBにあるものとして他に『閑田耕筆』(1801)、『三余叢談』(1822)、『中陵漫録』(1826)、『古今雑談思出草紙』(1840)。
DBにないものとしてさらに『譚海』一に「羽州くぼたの人、山のいもうなぎに化したるを所持せり、是も半は各其かたちを殘せりとぞ」とある(『譚海』1917, p. 6)。

「植物が魚に変ずるという伝承」は伊藤龍平(2010)『江戸幻獣博物誌』にいろいろ書かれている。

70. やまねこ【山猫】p. 570「大型の猫の妖怪」。○
また猫の妖怪だが、他意はない。
ヤマネコについては近藤祉秋(2012)「おっちゃん、それは化け猫に化かされとっだわ」『文化人類学』76.4, p. 463-74という論文があり、近藤さんは蛇についてはたくさんこの事典にも書いているのだから、この項目も担当してほしかった。というか、近藤さんがヤマネコについての研究発表をした学会で一度だけ直接会って話したとき、この事典の話題が出て、「僕ヤマネコ書くんですよね……」と話した覚えがある。

これもDBカードだけで28もあったので、事例はすべてそこから採った。

説明では島嶼部に伝承が多いと書いたが、もちろん他の地域にも多く伝えられている。「ばけねこ」と同一視されていることもあるようだ。
比較的古い事例は、DBにもあるが、『燕石雑志』(1811)の「八丈島に狐狸狢なければ山猫の人に憑ことありといふ」だろうか。
イリオモテヤマネコならぬUMAのイリオモテオオヤマネコについて載せる余裕はなかった。今思えば載せておけばよかった……。

71. やまみさき【山御崎】p. 574-5「山に出没する亡霊、または怪物のこと」。●
DBカードから採ったのは1。ハーフ項目だったということもあり、あまり力を入れて調べなかったが、村上事典によると瀬川清子の「相島日記」にも載っているらしい。(9/3追記:「相島日記(一)」『旅と傳說』11.10(1938), p. 23に「ヤマミサキ 死後行く處によう行けずに何にも食わずに難儀して風になつて迷つて歩いてゐる亡靈、それに行き當ると病氣になる」と書かれている(山口県萩市相島)。)

事例1についてもう少し詳しく書くと、崖から落ちて死んだり、難破して死んだりした者が、死後八日目までにヤマミサキになるという。

事例2の『綜合日本民俗語彙』には、出典は記していないがDBにあるものも引用されていて、鳥のように飛ぶと書かれているが、どうも原文を読むかぎり七人みさきのことのようである。七人みさきを山に入ってはヤマミサキと呼ぶ、と書いてはいるが、ヤマミサキ自体が鳥のように飛ぶとは書いていないようにも読める。

2014年6月追記:『綜合日本民俗語彙』の出典は、重本多喜津『長戸方言集』(1937)だった。
「ヤマミサキ 深山に出る怪物の名、其の形、人の生首落葉の上を車の如く轉ぶ、人其風に遇ふ時は大熱を發すといふ」(p. 75)。

また、DBにあるが、いざなぎ流における魔性のものの一つとして山ミサキが挙げられている。

文献初出と思われるものとして、『人狐辨惑談』(1818)に「和名人狐ト呼ヘカラズ、名正シカラザレバ人の惑トナル雲州ニハ山ミサキ又藪イタチト云モノヽヨシ御觸アリシトナリ」とある(『日本庶民生活史料集成 第七巻 飢饉・悪疫』1970, p. 18)。(9/3:文献を差し替え)

72. やもり【守宮、家守】p. 578「トカゲに似た小型爬虫類の一種」。○
またまた動物項目です。
事例1はDBにあるものの出典を探した。
事例2は自分で探した。
どちらも物語性が高いため、圧縮して記述することが難しかった。事例1の文献はDB収集対象にはいっているはずだが、なぜかDBカードには存在していなかった。しかしこれは怪異ではないな。事例2は「イモリ」と書いているが、地上の話なので動物学的にはヤモリのことである。Wikipedia日本語版ではなぜか「イモリ」自体が妖怪の名前となっているが、これは間違いだろう。

DBカードには、ほかに大蛇を退治したと思ったら「野守とて大蛇の類にもあらず」と言われたという事例があり、いかにも妖怪話らしいが、上記の理由でスペースがなく、掲載を断念した。

73. ゆきふりにゅうどう【雪降り入道】p. 588「雪中に現れる妖怪の一種」。○
与えられたDBカードから判断すると、雪に関連する雑多な妖怪をまとめて書け、ということらしかった。
肝心の「ゆきふりにゅうどう」のカードは悪名高い『宮城県史』のものだったので、原典にさかのぼって記述した(事例1)。
事例2、3はDBにある。
2の「ユキノドウを撃退する呪文」はスペースの都合で書かなかったが、DBページで読むことができるのでご安心ください。DBに「ユキノドー」という名称で採録されている報告は、その出現時の感覚を「身體がセガレテつくかんじよー」と表現している。岐阜県の話らしいが、どんな感覚かよくわからない。

74. ゆきんぼ【雪ん坊、雪坊】p. 588「雪の降り積もった夜に出没し、一本足の足跡を残していく妖怪」。○
事例はどちらもDBにあるもの。事例1はまぁわかるが事例2は悪性の雪女とでもいうべき妖怪で、一本足の1とはずいぶん趣が違う。名称は同じだが、おそらく別個に発生したのだろう。

75. わらいおんな【笑い女】p. 615「高知県の山の中にいる妖怪」。○
ようやく最後の項目までいきついた。
相当雑な冒頭の説明だが、次のところから多少詳しくしてある。
しかし今考えると別名にある「笑い女子」(事例3)は明らかに「笑い女」とは別系統、「濡れ女子」の系統である(濡れ女子はこの事典には載っていない!)。しかもこちらのほうの分布は「高知」ではなく「愛媛」である。そのことをちゃんと書くべきだった。失敗。

DBから採った事例は3だけ。
1はWikipedia日本語版に教えてもらった。
2は、その『異界万華鏡 高知編』の「土佐妖怪事例集」(p. 56)で知った。民俗事例としての笑い女の出典についてはこの「土佐妖怪事例集」でだいたい網羅できると思う。
そこに載っていないがDBにはあるものとして、「土佐の山村の妖物と怪異」(『怪異の民俗学』版だとp. 335)のもの(幡多郡)、高村日羊の短い報告「妖恠」にあるもの(長岡郡國府村)の二つを挙げておく。

事例1の「笑い男」の出典に「など」と書いたが、それには根拠があり、むしろこちらのほうが有名だろうが、『南路志』(1813)巻三十六「闔国第十二之一 神威・怪異・奇談 上」に載っている。
これ自体は『日本民俗文化資料集成8 妖怪』(1988)所収の「近世土佐妖怪資料」p. 314に抜粋されているからそれなりに有名だと思う(原著は1969年出版、笑い男はp. 6-7)。また『近世民間異聞怪談集成』(2003, p. 735-817)にも載っている。
ここでは、近年『南路志』全体を翻刻したものから笑い男の部分を抜粋してみよう(高知県図書館編1992『土佐国史料集成 南路志 第四巻』)。基本的には同じだが、「妖怪資料」の「三つの怪談」が「三つの怪獸」となっているほか細かいところに差異がある。

樋口大夫ハ、知行三百石にて船奉行勤ぬ。土佐国勝賀瀬山の赤頭ㇻ・本山の白姥・山北の笑ㇶ男とて、三ツの怪獸有ける。関太夫知行所山北に有けれハ、或時殺生に行山へ入むとせし時、百姓共申ハ、今日山へ御出は無用ニ存候。所の者とも申傳候者、一九十七と申て、月に朔日・九日・十七日には、此山へ入候得ハ必笑ㇶ男に逢ふとて、半死半生の仕合に罷成と申候といへは、関太夫聞て、我等役目に、二月九日に船を出さぬと云事ハあれとも、山へ不入と云事ハなし。今日九日也とて何の遠慮の有へきぞとて、家来一人召連山へ登りぬ。山腹を往来して雉をねらひけるに、壱町斗向ふの松林の端に十五六歳の小童出て、関太夫に指をさして笑ひける。次第に笑聲高く成、小童近く程、山も石も草木ミな笑ふ様ニ見え、風の音水の音迄も大笑に響けれハ、関太夫主従坂を下り遁帰る。此笑聲大忍郷迄も聞えけると也。家来ハ麓にて氣を塞きぬ。百姓共迎に来りて無事に帰けるか、其年を過き関太夫病死するまて耳の底に笑ひ聲残りて、不斗其時の事思出ス時は鉄砲打込やうに有しとかや。(p. 66-7)

いちおう事例1の出典(『土州淵岳志』)も引用しておく。

香美郡大忍郷山北村ノ山ニ笑男トテ年十四五バカリニミユル童子アリ。猟師樵夫モシ此山ニ入ツテ笑男ニタマゝゝ逢事アリ、一町ハカリ側ヨリ指ヲサシテ笑フ。ソノ声初ハヒキク次第々々ニ高クナリテ、後ニハ山岳モ崩ルゝ計ニ夥シク聞ユ。艸木巖石マテモサナカラ笑フカ如シ。猟師樵夫ナトモ之ニアヘハ忽ニ絶入スルト云。近古樋口関太夫ト云フ士コノ事ヲ聞及ヒ、奇事ナレハ見置ヘシトテワサト山北ニ行、山中ニ入モシ行アヘハ即退治スヘキ心得ナリシカ、彼笑ニ気ヲ奪ハレ、這々里ニ還リ出タルトナリ。其時ノ笑声赤岡辺マテ聞エシト也。ソノ笑フ声、関太夫一生耳ノ底ニ留リ忘レントスレトモノカサリシト聞傳フ。

また年代不明だが『老圃奇談』(『常堅舎叢書』15所収)にも短く次のようにある。

香我美郡大忍の庄大利村に笑男と云山有。此山ニ人行ハ必害有。一人の男出て笑へば、惣山草木迄皆笑ふ景色ニ成、行者もおかしくなりて、終に笑ひ死すると云。里人山神と崇む。
(『高知県史 民俗資料編』1977, p. 526)

愛媛の笑い女子については『宇和地帯の民俗』(1961)に詳しいが、基本的にはヌレオナゴのほうの解説になっている。
「ヌレオナゴの称が一般である。高知県境に近い地方では、笑い女子という村が若干ある(城辺町僧都・一本松村小山など)」とあり(p. 228)、この名称自体は高知の笑い女と関連があるような感じだ。この妖怪の特徴には地域差があるが、南部では髪の毛が鈎針になっており、これで男をひっかけて連れて行ってしまうという。これが事例3の背後にあるわけだ。
さらに「笑い女子」ではなく「笑い女」という伝承もある。これは城辺町山出に伝わる話で、「髪に鈎針をつけ、笑いながら人を引っかけてとる」という(p. 341)。