日本怪異妖怪大事典「廣田龍平」担当項目の補遺 前説

少し前に『日本怪異妖怪大事典』がようやく出版社から届いたということで、自分の執筆した75の怪異妖怪項目について、書くときに参考にしたものや、書ききれなかったことについての追加説明みたいなのを書いてみることにする。説明文に書いてあるが事例にないものについての出典・詳細もおぎなってみた。とはいっても内容の多くは訂正事項と懺悔ということになりそうな予感がしている。そういうわけなので、手元に『日本怪異妖怪大事典』があることを前提として書いています。

最初の妖怪名が項目、次が事典のページ数、次が説明文の一文目。

文献の引用は、原則としてその文献にあるとおりの表記・仮名遣いのままである。なので、古典文献が新かな新字体に直されて文献に記されていれば新かな新字体にするし、現代の文章でも旧かななら旧かなのままにしてある。

項目の自己評価
◎→よく書けた
○→事典項目としては水準に達している
●→もう少し調べたほうがよかった
×→書き直したい(泣)

全体として、書くとき参考にしたもの
書くとき・調べるとき、常に手元に置いていたのは、偉大なる村上健司『妖怪事典』(以下「村上事典」と略)、千葉幹夫『全国妖怪事典』、柳田國男監修『日本伝説名彙』、日野巌『動物妖怪譚』、水木しげる『妖怪世界遺産』など。ネット情報としてはWikipedia日本語版、国会図書館、都立図書館、その他多くのページを参考にした。ただし、いずれも文献を見つけるためであって、そのまま引用するためではない。また、ひとつの目標として「Wikipediaに項目があるならば、それよりも濃く。できるだけ初出の文献を探す」を心がけた。


全体の項目に共通する執筆のプロセス
はじめに、軽く執筆プロセスを書いておく。まず編集側から、有名な民俗学専攻の大学院があるところにまとめて(人数に応じて?)項目執筆依頼が来る。同時に、怪異・妖怪伝承データベース(以下、DB)の本体であるカード(以下、DBカード)も項目ごとにまとめて送られてくる。これはオンラインで公開されている情報に加えて、元記事も貼り付けられているという優れもの。このおかげでいちいち元の雑誌に当たらなくてもよい。
このときすでに項目内にどのような事例を入れるかは編者の先生方によってきめられている。たとえば「ひひ」のDBカードには、同じような猿の妖怪「猿神」や「イヒヒ」「ヒイヒイ猿」などのカードもまとめられている。おそらくこのようにして3万余りのカードを1300の項目にまとめるのがこの事典の制作作業の本体だったと思う。僕たちは、あとは事例をまとめる作業をすればいいというわけだ。
もちろんDBカードは完全ではなく、それ自体が他の文献の引用だったりすることもある。そういうとき僕は原典にできるだけ当たったが、ヤカンヅルのように結局見つからなかったものもある。他の執筆者のなかには、それほど原典にこだわらなかった方もいるようだ。
また、項目の字数制限は、大雑把にいうと僕たち下っ端が担当するものの半分以上は「小項目」といって事典の1/3ページ分、つまり1段分だが、いくつかはさらに半分の「ハーフ項目」(最終的に「半小項目」と呼ばれているようだ)、つまり1/2段分だった。この小さな枠内に、妖怪についての説明とその事例を押し込めるというのは存外大変なものである。そのせいで字数オーバーしてしまった項目もいくつかある(単純にいうと、その項目が1段分よりはみ出ている場合は、オーバーしたものである)。

以下、「DBにある」などと書かれているものについては、妖怪名をDBで検索すれば詳細な書誌情報と内容の要約が読めるので、気になる方はそれを参照してください。妖怪名は読みを片仮名にすれば見つかります。

日本怪異妖怪大事典「廣田龍平」担当項目の補遺4/5 日和坊、ひるま坊主、風来ミサキ、袋下げ、鳳凰、棒振り、頬撫で、ほご釣り、法螺貝、枕小僧、ミサキ風、三つ目入道、ミミズ、宮ホウホウ、ムササビ

この記事がどういうものかについてはhttp://d.hatena.ne.jp/ryhrt/20130827/1377587908を見てください。原則として『日本怪異妖怪大事典』を手元に置いて読んでください。

46. ひよりぼう【日和坊】p. 479-80「常陸の国の深山にいるという妖怪」。○
この項目には意図的に事例を入れていない。現在までのところ石燕の妖怪画集(1779)以外に出典が確認できないからである。村上事典でも「絵や彫刻のみのもの」に分類されている。編者先生も創作だということはわかっていたらしいが、そういう風に説明してくれとまではいってくれなかった…。
二段落目以降の情報は、まず大久保忠国、木下和子編(1991)『江戸語辞典』によるもの(p. 1115)。日和坊のほうは

ヲヽうれし/よみ返つたる日和坊

日和坊主は

大阪俗、連日霜雨不㆑止、則女児剪㆑紙製㆓偶人㆒繋㆓屋下㆒、使㆓㆑之禱㆒㆑霽。名曰㆓祈晴僧㆒

長崎の事例は『綜合日本民俗語彙』p. 1336の「日和坊主」からたどっていったもの。
とはいえ問題なのは、どちらも石燕より半世紀以上あとの事例だということ。もう少し前の(18世紀半ばくらいの)事例はないものか。

47. ひるまぼうず【ヒルマ坊主】p. 480「河童やシバテンの同類で、道を通る人に相撲を挑む妖怪」。○
DBカードは二つだけで、片方を説明文に、片方を事例に振り分けた。特にいうことはない。

48. ふうらいみさき【風来御崎】p. 483-4「水死した迷い仏や無縁仏、または妊娠中絶や交通事故などによって死んだため成仏できない、さまよえる霊のこと」。○
初校の段階では漢字表記は事例1に基づいた「風来霊」だったがミサキは「御崎」で統一されたようだ。事例2はDB以外から追加。分布は備讃文化圏ということになるだろうか。

色々な人がフウライミサキになるという。事例1の元資料によると、「妊娠中絶や交通事故死」による霊がなるという。ほかにDBカードにあるものとしては、成人しても世帯を持たずに死んだ人がなる、無縁仏の霊、水死した迷い仏など(いずれも香川県)。

DBにない面白い話として、『牛窓町史』(1994), p. 883に、ぼやぼやしていると「フーライミサキのような」と言ったり、頼りない人のことを「あのフーライミサキが」と言ったりする、とある。「風来」という言葉のイメージだけが独り歩きしている感じ。なお、ここでは、人に憑依して災いをもたらす無縁仏のことをフーライミサキという。一人殺すと成仏できるという話もある。牛窓町は現・岡山県瀬戸内市

49. ふくろさげ【袋下げ】p. 485「白い袋や縄、ふんどしなどが木の上から下りてくる怪異」。○
いきなりだが一行目が悪かったかもしれない。この書き方だと、「袋下げ」という怪異によっていろんなものが下りてくるというふうに読めてしまう。失敗だった。

僕に与えられたDBカードは「上から人工物?が下りてくるマイナーな怪異」を意図したであろう雑多な事例群。
事例に4つあげたが、別名のところに挙がっている「すまぶくろ」を入れなかったところ、おそらく編集のほうでp. 317にごく簡単な説明が追加されていた。こういう編集作業はとてもありがたい(そのほか記名のない二行程度の説明項目は、いずれも、ほかの項目で名前だけ紹介されている怪異・妖怪について編集の先生方が書いたものと思われる)。DBで検索すれば書誌情報は出てくると思うので詳しくは書かない。しかし僕がこれを入れなかったのは、スマブクロは上から下りてくるというよりはノブスマのように顔に覆いかぶさってくる妖怪なので、「袋下げ」の仲間ではないだろうと判断したからである。DBカードには洋傘がぶらさがってくる話もあったが、こちらはヤカンヅルの事例4に回した。ジュウバコタタキ(重箱叩き?)は別名ジュウバコあるいはゴロチ。子供を脅かす系の妖怪であった。

「袋下げ」自体については、あまり周囲を掘り起こしても出て来なさそうな印象があるので、その後の長野の民俗誌などは調べていない。

50. ほうおう【鳳凰】p. 508「鳥類の王である霊鳥」。◎
ひそかに一番自信を持っているのがこの項目である。
怪物事典のたぐいに鳳凰が載ることはあれど、これだけ出現事例や民間信仰における伝承を集めたものはないはずだからだ。
そもそも、これまで鳳凰について行なわれてきたほとんどすべての説明は中国の文献に依拠しており、日本独自のものを探索していなかった。おそらく今後日本の鳳凰について書くときはこれが参照されることになるだろう……この事典に「鳳凰」の項目があることが知られていれば、の話だけど。実をいうと、初稿では事例2しか紹介せず、ごく普通の辞書的な説明文に字数を割いていた。そのあとたくさん見つけ、大幅に事例を増強した次第。

各事例の探索ルートは以下のとおり。

事例1は、鳳凰のように由緒正しそうなものを調べるときはまず見なければならない『故事類苑』「動物部十二 鳥五」(p. 991)に掲載されていた。全文は近代デジタルライブラリーで読める。今なら確実にUFOか宇宙人扱いされている事例だが「託宣」で解決したというのが江戸時代らしい話。何が「合理主義者」白石だよー。
何はともあれ『故事類苑』という基本書をチェックして鳳凰のことを書こうとした人がいなかったのが不思議である。

事例2は、むかしネット上で見つけた情報の裏を取った。

事例3はいろいろな郡誌を無目的に眺めていたら見つけた。
正直言うとかなり衝撃的だった。まさか鳳凰がそんな悪の権化だという解釈がなされていたとは! おそらく孤例だと思う。正確には次のようになっている。

正月六日恵比須の年請ひとて戎神七福神を祭り春の七草を取揃へ夜之を揃ふ、爼上には種々の物品をのせて「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、なづな七草コト〳〵ヤ〳〵(又七草揃つてやつぽつぽ」と囃し乍ら爼を打つ習あり。
昔鳳凰は毒鳥にて支那より日本に渡りて禍を降らすとて之を除かんがため行ふと傳ふ。

事例4も偶然見つけたもの。文献や知識人レベルではなくこのように民俗的なレベルで鳳凰が生きているのを知ったとき僕はまたまた驚いた。

というわけで、事例の発見はかなり偶然に依拠しているわけで、もしかするとまだまだ自治体史誌や民俗報告書、随筆類に「鳳凰」のことが載っているかもしれない。とはいえ、おそらくこれまではそのようなところに鳳凰の出現事例などがあるとさえ考えられていなかっただろうから、やはり、自分でいうのもなんだが、この項目には価値があると思う。

もう一つ、事例には入れなかったが説明文に書いたものとして、鳳凰の出現事例という点では寺社縁起にもあることを初めて知った。このことについては、縁起に詳しい人なら何をいまさらと言ったところだろうが、それを妖怪あるいは幻鳥としての鳳凰の解説に結びつけたのもたぶんこの項目が初めて。詳細は書かなかったので、ここに引用しておく。
鉢峰神社のものは『泉州志』(1700)にある。原漢文。

縁起に云く、人王十一代埀仁天皇八年、天照太神、鳳凰と化てこの襲峰に降る。【割注 或は云く、小倉峯。或は云く、上野峯】埀仁の皇子登り臨めてその化跡を禮祭たまふ。故に神の觶と曰ふ。……余按に、当山は陶の邑に近し。疑くは大巳貴神、天の羽車大鷲に乘て、天降のこの地。『大日本地誌大系35 五畿内志・泉州志 第二巻』(1971), p. 359

今もこの縁起が伝わっているかどうかは調べていない。

羽賀寺のものは、下の鳳来寺のものも見つけたあとで念のためと思い手元にあった岩波の日本思想大系20『寺社縁起』(1975)をみたら、まさか、あったという偶然(積読ばかりなもので……)。『本浄山羽賀寺縁起』(1524)の冒頭である。

粤[ここ]に霊亀二年(716)丙辰、春二月、神鳥来儀しこの山頂に止れり。頡頏日あらば羽毛は五つに彩し、鳴けば律呂の声を加ふ。聞く者これに感じたり。共に到らば忘れんと欲する人いまだあらじ。これを聞くこと三日ありて冲天に去りぬ。人躋[のぼ]りて山の巓を見るに、その羽毛二枚を剰せり。その色は煉の紫金の如く、その赤きことは譬へる物なし。
時に東国の目代、挙げてこれを朝[みかど]に献ず。帝をこれを左右に示したまふ。検官敢へて名づくる者なし。勅して行基菩薩に問ひたまふ。行基曰はく、「これ鳳凰の翼の羽なり。鳳凰、世に出づれば、天が下に慶びあり。これ大平の幖幟なり。それ鳳凰の降る処、その地必ず玉を生ず」と。p. 70

鳳来寺のことは南方熊楠の何かを読んでいて教えられた。よく考えれば寺名はそのまんま「鳳凰が来た寺」なのだから、鳳凰が来たということが縁起に載っているはずだった。しかし由来には二つの違った伝説がある。まず、知るかぎり現存最古の縁起『鳳来寺興記』(1648)には次のようにある。

鳳来寺と云事、斉明天皇の比、利修百済國に渡りたまふ。皈朝の時鳳に乗り来玉ふ。又文武帝の時、仙人[=利修]参内する事あり。其時鳳に乗し嘯を吹て往来する故に、鳳来寺と云佳名を賜ふ。鳳に乗るか故に帝は鳥導仙人と召と云へり『三州鳳来寺文献集成』(1978), p. 3

ここだと、鳳来寺を開いた利修という仙人が鳳凰に乗っていたことからその名がついたということになっている。
もう一つの伝説は問題だ。なんといっても江戸時代最大の「偽書」、『先代旧事本紀大成経』(1679?)がどうも初出のようなのだ。しかしいま僕の手元には原文がないので、『三河鳳来寺略縁起』(1763; 中野猛編1997『略縁起集成』第3巻, p. 280=近藤恒次編1963『三河文献集成 近世編 上』p. 83)にあるものを孫引きしておく。漢文混じりなところは入力しにくいので適宜下している。

先代舊事本紀に云はく、推古天皇十年(602)壬戌 皇太子[=聖徳太子]三十一歳の御時閏十月、参河の國司もうす、本國桐生山に桐の樹あり、傳へ說く神代の樹なりと。……その西枝三十尋異鳥この枝に棲む。その長八咫餘、尾の長一丈餘、全身五色、金翠にして紅紫の光あり。……人いまだその名を知らず。一日偶三尾を落す。このゆへにこれを獻ず。……太子これを聞てすなはち奏して曰く、これ鳳の尾なり

つまり、羽賀寺と同じような現れ方だが、行基聖徳太子になっているだけということになる。
ただし、やや奇妙なことに、「鳳来寺」という名称自体は利修伝説によるものだとも書いてある(中野1997, p. 283=近藤1963, p.85)。
ざっと調べたところ、『鳳来寺略記』(1660以降)、『鳳来寺由緒書』(1704以前)は利修型、『鳳来寺聞書』(1706)、『鳳来寺略縁起』(1763)は大成経型である。また縁起ではないが『東海道名所図会』(1797)第三にも鳳来寺のことがあり(熊楠が引いていたのは確かこれ)、大成経の伝説が紹介されているが、利修の名には触れているのに、彼が鳳凰に乗っていたということは書かれていない(『大日本名所圖會 第一輯七編 東海道名所圖會』1920, p. 422-3)。
大成経が伝説をどこから引っ張ってきたかはわからないが、18世紀以降は主流になっているようにも思える。

羽賀寺の縁起を偶然発見したことから推測できるように、ほかにも鳳凰が出現したことを由来とする寺社はあると思うが、まだ探していない。とはいえスタート地点としてはこれで十分だと思う。

ところで、鳳凰に関する何かの論文に書かれていたが、鳳凰は本来仏教とは関係ないのに、日本では平等院鳳凰堂に代表されるように、仏教とつながりが深い。こうした縁起物もその一例である。なぜだろうか。
余談だが、与えられたDBカードは、この事典では「だいこくさま」の事例2に紹介されていた(p. 331)。ここでは秋田の某所で起きたことであるかのように記述されているが、実際は歌のなかで詠まれるもので、事例としてはあまり適切ではない。

2014年6月追記:かなり珍しい事例として、『幸安仙界物語』第三巻(友芿歡眞編1939『幽冥界硏究資料 第一巻』山雅房[近代デジタルライブラリーで見ることのできる同名書の増補版で、第三巻は1939年版にしか入っていない])では、幽界の序列として13番目に「鳳凰」が挙げられている。また、「ナカナキトリ」(ながなきどり)という読みが与えられている(pp. 296-7)。この「ナカナキドリ」は、神代の「常世の長鳴鷄」のことで、鳥の長であるという(p. 304)。『幸安仙界物語』は『幽界物語』とも呼ばれ、有名な『仙境異聞』と同じように幽界に旅立った少年との問答が記されている文書。いまいち文献の性質がわからない(どこまで現実の信仰によるのか、どの程度フィクションなのか、どれくらいが事実としてどういう共同体や個人に受け入れられ・排除され・無視されたのか)ので何とも言いがたい。未読だが三ツ松誠(2012)「嘉永期の気吹舎 平田銕胤と「幽界物語」」『日本史研究』596, pp.1-24という論文にそのあたりが述べられているようだ。中国の伝統的な霊的存在を記紀神話に取り込もうとした1つの例と言えるか。

51. ぼうふり【棒振り】p. 509-10「高知県の山道で、棒または手杵を振るような音を立てながら通るという妖怪」。○
事例1と2は、書誌情報からわかるとおり、同一論文(かの有名な「土佐の山村の「妖物と怪異」」)。ただし地域が違う。僕は「妖怪」と書いたが、原文には「怪異」とある。
ところで音のことを原文は「ビコービコー」と書いており、この論文を採録した『土佐民俗記』(1948)や『怪異の民俗学2 妖怪』2000, p. 336もそのままだ。しかし明らかに奇妙である。いくら妖怪といっても、棒をふる音がビコービコーはおかしい。ということで、僕はこれを「ビユービユー」の誤植であると判断し、事典では「ビュービュー」と書いた。たぶん問題ないと思うが、もしかしたら本当に「ビコービコー」だったかもしれない。

52. ほおなで【頬撫で】p. 511「夜間など人のあまりいないときに道を歩いていると、不意にその人の頬を撫でる怪異」。◎
水木しげるの印象的な妖怪画を思い出す人も多いだろう。今野圓輔『日本怪談集 妖怪編』にも項目がたてられている(現代教養文庫版p. 35-6)。そこでは『道志七里』(1953)が文献に挙げられていて(事例2)、頬撫で(ここでの表記は「ほうなで」)は山梨県の妖怪だということになっているが、事例にあるとおり、意外と分布は広い。
DBに載っているのはおもに東京都檜原村の事例(事例1)。面白いのは、正体は単なる植物だったが、人々の恐怖の念を吸っていたので、切り捨てると血を流したという、二段階の怪異譚になっているということである。

事例4は「頬撫で」で検索して発見し、急きょ追加した。

事例5は、図書館の棚から民俗誌を何気なくとってみたら偶然見つけた(こういうことが本当に多い)。びっくりである。「頬撫で」の分布は、このぶんだともう少し地道に調べていってみれば広がりそうな気がする。

9/2追記:『甲州秋山の民俗』(1974), p. 89にも「夜淋しい所を通ると、ホオナゼ(頬撫で)というお化けが出る」という記述を確認(地域は山梨県南都留郡秋山村(現・上野原市)寺下・尾崎)。探してみるとDBにはあるがDBカードにはなかった。こうした見落としもあるらしい。

この妖怪は表記ゆれがひどい。多摩のは「ホウナデ」「ほおなでのバケモノ」「ほおなで」「ほうなで」、道志村のは「ほうなで」、忍野村のは「ほうなぜ」、埼玉のは「フウナゼ」、群馬のは「ホオナデ」。


2014年3月追記:『北安曇郡觶土誌稿 第二輯 口碑傳說篇 第二册』(1930)に、会染村(現・池田町)に、廃寺へと通じる道があり、「大樹が未知の兩側に並んでゐて、眞暗な晩などは顏なぜといふ怪物がそつと人の頰を不氣味に撫でたものだ」と紹介されている(p. 88)。
倉石忠彦「真宗の妖怪」『自然と文化』1984年秋号(p. 56)にも「カオナゼ」が紹介されていて、おそらく『北安曇郡觶土誌稿』の記述を参考にしたのだと思われるが「冷たい手で通る人の顔をなぜる」と微妙に脚色されている(この脚色は村上健司『妖怪事典』p. 96やWikipediaにも受け継がれている)。
名称こそ違うが、経験される現象自体はほぼ同じである。

妖怪・怪異の固有名は出てこないが、『松井田町の民俗 坂本・入山地区』(1967), p. 113には「ススキ」と題して次のような話が語られている。松井田町は現・群馬県安中市

ずっと昔のことだが、赤坂の下の方の道で、村の人が夜そこを通るたびに通った人の誰もが「ぞおう」として気持が悪くなってしまっておっかなかったが、ある人が勇気を出してその辺のすすきを刈りとったら変な気になる人がいなくなった。すすきの穂が首のところをなでる(なぜる)ようになっていたわけだった。

これなど「怪異の発生一歩前」の事例として、ほかの「ホオナデ」の事例と比較すると面白いと思う。

53. ほごつり【ホゴ釣り】p. 512「愛媛県重信町で、夜、道を歩いていると上からホゴが下りてくるという怪異」。●
これは悔しい。
伊予の松山狸スポットというページで見つけた「ほごつり狸」の出典を締切までに見つけられなかった。
愛媛の狸を網羅している玉井葵(2004)『伊予の狸話』にもなかったのでよほどマイナーなのだろうと思いあきらめていたが、最近、改めてネットを検索してみると、愛媛県史オンライン版がヒットした。それを参考に紙版も見てみると『愛媛県史 民俗上』(1983)のp. 823に「松山市南久米のホゴツリ狸もよく人をばかしたということで有名である」と書かれている。有名なのかよ! 『伊予の狸話』にもないのに⁉ と思わず突っ込んでしまったがどうしようもない。
県史だからDBにも収められているはずなのだが、この箇所はDB入力者が狸勢力の妨害を受けたらしくホゴツリ狸の名称が入っていない……。

なお『重信のむかし話』(1983, ここで読める)にも「ほごつり」があるが(p. 105-6)、物語以外の記述はほとんど『重信町誌』(事例1)とかぶっている。

事例1はDBの引用の出典を調べたもの、2はDBにあるもの。

森正史(1967)『えひめ昔ばなし』に、山野の路傍に現れる妖怪として「ホゴツリ」が挙げられているが、伝承地の詳細を含め、説明はされていない。文献初出はこれかも。

54. ほらがい【法螺貝】p. 514「山の中から大きな音とともに巨大な法螺貝が現われて抜け出て、それに伴って激しい風雨や洪水、土砂崩れが起こった、という伝承が江戸期から知られている」。○
別称のところに「出世螺」を入れておいたのだが、編集側が削除してしまった。『絵本百物語』は出典として認められないということなのかもしれない。

事例1と3はDBにあるもの。2は村上事典にあるものを流用した。先行する事典の記述に追随する、これこそ妖怪学の伝統である(あんまし意味ない)。このほか、あちこちに蛇抜け系(本事典p. 287)の法螺貝伝説がある。
4は洪水などとは無関係だが、同じく土中に埋まっているということで、そんな法螺貝がいるわけないので載せた。この伝承は柳田國男『山島民譚集』に教えられた。

こうした法螺貝の怪異については齋藤純2006「法螺貝あらわる」『日本人の異界観』がある。最近は「災害伝承」の一環として少し注目されているかもしれない。

55. まくらこぞう【枕小僧】p. 516「夜中、人が寝静まっているときに現れる、子供の姿をした妖怪」。○
枕返しでも座敷小僧でもない、なにか中途半端な妖怪名。

事例1はDBにあるもの。
事例2は村上事典に教えられた。片方は香川で片方は静岡だから、おそらく独立して同じような名前が付けられたのだと思う。
説明の最後の一文の出典だが、事例2自体は柳田國男佐々木喜善に送った手紙に書かれていたようで、そこで柳田自身はザシキコゾウの類例のような感じで書いている。
また佐々木は事例2の出典である『遠野のザシキワラシとオシラサマ』で、ザシキワラシの「奥州以外の諸国の話例」としてマクラコゾウを載せている。
もう少し事例の地域の文献を探したら、未発見のものが見つかるかもしれない。

56. みさきかぜ【御崎風】p. 527「悪い風で、あたると病気になったり死んだりする」。●
「いきあい」「かぜ」の項目を参照……と言いたいところ。
ミサキカゼの場合、とくに不慮の死を遂げた人々の死霊という点が強調されるので、面倒臭い神様の仕業ではないという点でやや差別化できるかもしれない。ミサキカゼについては事例1で山口のものを挙げたがDBカードにはほかに宮崎のものがあった。ハーフ項目なので贅沢できなかった。

ハカゼについては高知県のものがDBにあり、ハカゼに当たったときの呪文も紹介されている。ハカゼの「ハ」の意味は不明。
この地方の文献を探ればそれなりにミサキカゼやハカゼの話は出てくるだろうが、やっていない。『綜合日本民俗語彙』には岩手のハカゼの事例もあるようだが未調査。
9/3追記:『語彙』p. 1207には「山村手帖」を出典として「ハカゼニアウ」という項目がある。歴博民俗語彙データベース(『語彙』を収録している)を見てみると出典に『山村生活の研究』とあったが未見。
2014年12月追記:昭和10年度(1935)の『山村採集手帖』、岩手県九戸郡山形村のところに「藭様の遊んで居られる所へ行くと、ハカゼに打たれて倒される」「藭様の遊んで居る所へ出会って、ハカゼに会ったなどといふ」とある。これが『語彙』の大元だと思われる。

57. みつめにゅうどう【三つ目入道】p. 530「目が三つある妖怪」。○
シンプルな、説明以前の単純な記述ですが、与えられたDBカードの妖怪は「三つの目玉がある」という点以外に(説明に書いたように)共通点がなく、要するに僕はこの項目について説明するのを放棄してしまった。

最後の一文はやや否定的な調子で書いたが、特に意図があるわけではない。アダム・カバットが指摘するように、三つ目入道は見越し入道と並んで黄表紙の化け物のリーダー的存在だったのだ(『江戸滑稽化物尽くし』2011, p. 79)。
とはいえ見越し入道と違って伝承にも豊富な事例があるわけでもないということで、その「民間伝承的な」前史には大きな差がついている。そして「民間伝承」を重視する本事典ではその差がくっきりと浮き出てしまったわけだ(「みこしにゅうどう」の項目はカバットによるものである)。

58. みみず【蚯蚓】p. 531環形動物の一種。○
これもまた普通の事典のような出だしの書き方である。
ミミズといえば小便をかけたら云々というのが俗信として有名だが、それが怪異や妖怪に直結するわけではない。事例はどちらとも自分で探してきたものである。
DBカードには『和漢三才図会』からの孫引きがあり、これを紹介してもよかったのだが、結局省略した。東洋文庫版の現代語訳をここに引用しておく。
>
深山の中には一丈余もある大蚓がいる。近頃、丹波柏原の遠坂村で大風雨の後、山が崩れて、大蚯蚓二頭が出てきた。一つは一丈五尺、一つは九尺五寸あり、人は奇物といっている。『和漢三才図会 7』p. 404

日本怪異妖怪大事典「廣田龍平」担当項目の補遺3/5 納戸婆、二人坊主、抜け首、塗り壁、猫神、猫狸、猫憑き、ネロハ、野ぶすま、箸拾い坊主、バタバタ、般若、光る石、緋鯉、狒々

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31. なんどばば【納戸婆】p. 416「納戸にいる、老婆の姿をした妖怪」。◎
極端に解説を短くして、事例を6つ押し込んだ。物語性のある妖怪ではないので出来たともいえる。
DBカードは悪名高い『宮城県史』を除くと、なんと事例3の「納戸には納戸ババがいるという」という14文字しかない情報だけ。とはいえ『綜合日本民俗語彙』の第3巻p. 1134には「奈良、兵庫、岡山、宮崎など各縣でいう」とあるから西日本ではかなりポピュラーなものだったらしい。Wikipedia日本語版にも単独で項目があるほどだし、水木しげるもユーモラスな絵にしている。

事例1は『語彙』に引用されている『岡山文化資料』のものだが、同所にはもう一つ別地域(旧・古都村)のものも載っている(p. 52)。ただし話は大差ない。
事例2は村上事典に紹介されているもの。たんたんころりんと違い、ここはちゃんと「現行」になっている。
事例4は日野巖が『民族』に1927年に発表したのを1931年に書き直したもの。前者では「ナンドバジヨ、ナントババ 暗いところに居る」(p. 592)だけだったが、後者では「ナンドバジ͡ヨ。ナンドババ 納戸の奥の暗いところにゐる」(p. 94)と、少しだけ詳細になっているので、誤植もある(「ナント」)初出ではなく詳細なほうを採った。
事例5は、執筆中に図書館でたまたま手にとった民俗誌に載っていたもの。こういう偶然があるということは、それ以上に見逃しているものも多いということになる。ここでは「ナンドババサ」としたが、ほかに「ナンドババア」「ナンドバアサン」とも呼ばれている(p. 568, 584, 732-3)。場所によっても呼び方が違うらしい。また、「代々のじいさん、ばあさんがここに寝起きしたからそういうのだろうといわれている」らしい(p. 894)。
事例6は「納戸婆さん」としたが別のところでは「納戸婆」となっている(p. 132)。零落説に従えばこれは納戸神から妖怪納戸婆への過渡状態ということになるのだろうが、まあそんな単純な話ではないだろう。

また、事例には載せられなかったが、『播磨加古郡北部方言記録』(1972)にもナンドババがあり「納戸のような暗い部屋に居ると想像された怪物」とある(p. 73)。
『語彙』に紹介されている奈良県の事例は見つけられなかった。今後も探索の必要がある。

32. ににんぼうず【二人坊主】p. 421「葬式のときに現れる坊主の妖怪」。○
これも事例が一つだけ。原文では、カラスが神様の使いであるという信仰がこの民話に反映されていると語られている。なお、カラスだとわかるのは、「あとに三つまたの足跡が残っている」から。

33. ぬけくび【抜け首】p. 427「夜中、おもに女性の首から上だけが身体から離れ、さまよう怪異」。◎
与えられたDBカードから判断して、どうも「飛首蛮」も紹介しなければならないような感じだったので、やや無理矢理説明文に押し込めてある。
「ろくろくび」の項目(アダム・カバットさん担当)にも当然言及があるが、そこでは「頭が完全に同体から離れ、飛行するタイプのろくろ首」が抜け首であるとされている(p. 611)。しかしそう単純な話ではないようだ。「ぬけくび」の項目では、はっきりと「抜け首」と書かれている事例だけを取り上げた。

事例1はたぶん代表的と思われるもの。女性で首が夜中にさまようもの。
2は男の話で、たしか『奇談異聞事典』(p. 702)にあったものの原典を探ったのだと思う。「抜首疾」の「ぬけくびのやまい」というルビは僕が勝手につけたもの。
ちなみに原文は最後に「私に云、此事虛說なるべし、誠の首拔出て行べきやうなし、可㆑信事にあらず、〔附箋〕轆轤抔とて、五雜俎等にも書載せあれば、强ち虛說とも言ひがたし」(『百家随筆』p. 278)とある。半信半疑の模様。
3は佐藤芿明「備中南部に於て信ぜられる妖怪の一覽表」『岡山文化資料』にあるものだが困った。原資料にはページ付がないのだ。ここでは仕方なく1979年に復刊されたもの(新仮名新字体になっている)のページ数をつけたが、そのことを注記しなかったので混乱のもとになってしまったかもしれない。なお、原資料では82ページの次にこの「一覽」がある。
さらにいうと「首抜けともいう」は同じ佐藤の『現行』p. 20, 37にあるもので、それも追記したはずだが、反映されていない。
事例4は、以前『風俗畫報』の方言報告を網羅的に読んでいたときに見つけたもの。

書ききれなかったものとして、DBカードの愛媛の「首抜け女」(首が三尺伸びる女)、兵庫の「抜け首」(人を埋葬したら、墓に首が転げ出ていたという怪異のタイトル)を挙げておく。
また、島村知章「和氣郡日生町方言」『岡山文化資料』3.5 (1931)にも「ヌケクビ ろくろ首」があったが、これを事例3に入れる余裕はなかった。

また、これも載せなかったが、ちょっと俗っぽいものとして、福岡県直方市には、ある店の娘が抜け首だったというのがばれて、「店屋の抜け首」として評判になり、《境店屋の三蔵が娘、感田蓮池に夜遊ぶ》という俗謡まで作られたという、なんとも流言飛語というか風評被害とでもいえそうな話が伝わっている(『直方市史 下巻』1978, p. 1043)。

また『岩邑怪談録』(1976)にも飛頭蛮に「ヌケクビ」というルビをつけた怪談が載っている。あまり有名ではなさそうなのでここに原文を載せておく(p. 32)。

新小路飛頭蛮の事
今より三十余年前は、新小路の西の端、北川何某の宅は、街に沿ひて建ち、障子ありて街に臨みたり。其頃、夜半過ぎて路行く人、折々女の隔子に臨みたるを見しに、其屋の妻なれば、格別怪しとも思はざりけり。或夜、主人、眼醒て妻の寝床を視るに、胴体のみありて首なく、線の如きもの、頭より延べてありしに、主人、大いに驚き、枕元の刀をとり、其線を断しに、忽上の隔子より落る物あり。主人、能々視れば紛れもなき妻の首なれば、再驚き、畢竟妻は抜け首にて有しが、吾、早まりて無実の妻を殺したり、と大に悔めどせんすべなし。世間には急死せしと披露し、事済みたりとなり。
「抜首の人は、自らも之を知らず、熟眠すれば頭延て線の如く、首は数尺も距る所に在り。覚んとすれば忽収縮して故の如くなるもの也。」と閑田耕等、精くいへり。

34. ぬりかべ【塗り壁】p. 429「夜道を歩いていると、急に先が壁になり進めなくなったり、目が見えなくなったりしてしまうことがある」。×
僕が担当したなかで一番の大物はこれだろう。そして残念ながら、一番の失敗項目もこれである。

言うまでもなく、柳田國男が「妖怪名彙 四」に紹介し、それが『妖怪談義』に掲載され、水木しげるの目にとまり、超有名になったやつである。Wikipedia日本語版にもかなり詳細に書かれている。

説明文は、前半を一般的なものに、後半を妖怪絵巻の「ぬりかべ」に割いた。朝日新聞にも報道された以上、後者にはどうしても言及しておかないといけないと思ったからである。その分、事例の扱いは粗雑になってしまった。もし以下に紹介する大分の民俗事例を知っていれば、僕は絵巻のヌリカベをばっさり削り落としていただろうな……。

1は「妖怪名彙」にあるもの。誰もが知っている。京極夏彦が「妖怪のキャラクター化」を論じるときによく使う材料でもある。この事例、個人的には芦屋で桜井勝徳が採集したものではないかと考えているが、証拠がまだない。
2は、うーん、ちょっと間違えてしまった。「狸の塗り壁」は香々地では言わないです。下の方参照。
4はもっと間違い。というか訂正をしたのだが、遅すぎたのか、反映されていなかった。まず『臼杵史談』(小野学「憑者(つきもの)、幽霊、妖怪、変化(へんげ)」)には「前面にぬり壁が現れて道を塞ぐ」とあるだけ。柳田の報告とは独立して報告された最古の例として『臼杵史談』のこの論文が挙げられるのだが、正直言って微妙なところ。事例4の話は、本当は『臼杵石仏地域の民俗』(1978), p. 135にあるもの。大変申し訳ありません。いずれにせよ大分県臼杵市にヌリカベ伝承があるというのがネット上で10年以上前に話題になったのを覚えていたので、そこを集中して取り上げようと思ったがスベってしまった。

こういう失態の多少の救いである、かなり珍しい事例3は自分でも驚いた。研究室に贈られてきたいろいろな民俗誌を悉皆調査しているときたまたま見つけたもの。秩父にヌリカベの伝承があるなんて……採集年代からすると、これは水木しげるのヌリカベが影響を与えていたとしか思えない。なお原文も、ほぼこのまま。「出る」のだ。

字数制限もあったので書かなかったが、同じように微妙な事例は山口県にもあった。藤本隆博「妖怪伝承を集める 教材と地域を結び、そして妖怪現象を考える授業」『北九州大学国語国文学』10 (1998)にあるもので、著者が高校生の授業で地元の妖怪話を集めよう! と募ったもののなかに「首吊り女・さるわたりでんじろう・猿田彦かんころすけ・あかなめ・ぬりかべ・火の玉・峠の幽霊」があったというのだ(p. 106)。「さるわたりでんじろう」や「かんころすけ」がどういうものかも興味深いが(後者は「やかんころがし」のところで紹介するカンスコロゲのメタセシスか?)、彼は「水木しげる氏の著作から取材し、レポートしようとしたと思われるものがあった」としている。どれがそれかは書いていないが、この分だとぬりかべやあかなめのことのように思われる。

しかし何よりも、臼杵以外にも大分県に広くヌリカベが分布していることを闇の中のジェイさんのブログで知ったのが遅かったのが痛恨の極みだった。明らかにヌリカベの本場は大分県のようなのだ。「福岡県に伝わる」と書かなかったのがせめてもの救い。

せっかくなので、闇の中のジェイさんが挙げているもの以外の文献でみつけた事例をここに載せておく。
まず三光村(現・中津市)ではヌリカベといい、急に前方が真っ暗になるもので、狐か狸の仕業である(『三光村誌』1988, p. 916)。
また香々地町(現・豊後高田市)では特に名称はないが「イタチが壁を塗る話」というのが紹介されている。夜歩いていると壁が塗られていて進めない。イタチの仕業だと思い、呪文を唱えて煙草を一服していると壁はなくなっていた(『香々地町誌』1979, p. 455)。事例2の『大分県史』で香々地町云々とあるものの出典はおそらくこれだろう。
また三重町(現・豊後大野市)にも、ほとんど唯一の狸の怪異として「狸の壁塗り」があるという(『大分県三重町誌総集編』1987, p. 1223)。
やや面白いのは『直入町誌』(1984)の記述で、「道を歩いていて、急に前が暗くなって歩けなくなったことがあるが、狸の塗り壁とはいわない」とわざわざ書かれていることである(p. 934)。民俗調査をした大分の民俗に詳しい人(あるいはネイティヴ大分県民)にとっては、それだけ「あたりまえ」の呼称だった、ということだろうか。

それでは柳田國男の紹介した福岡県遠賀郡の話は孤立事例なのだろうか? 残念ながら、今のところ遠賀郡近辺の資料にヌリカベやカベヌリがあるのを僕は知らない。しかし福岡県には分布しているということはいくつかの事例から推測できる。
まず、大分の隣にある福岡県豊前市にはカベヌリの話が伝わっている。「ナマ暖かい雨の晩によく出る」らしい。これも行き先が壁になって進めなくなる現象のことで、煙草を一服しているとよい。しかし気づいてみると自分がそのとき腰掛けていた石は墓石だった、という怪奇オチがついている(『豊前市史 下巻』, p. 1223)。
またこれも大分に接する添田町にも、「タヌキの壁ぬり」という話がある。昼間を舞台にしているのが珍しいが、自分ではなく牛が進めなくなったことにより気づいたというのも珍しい。何度もやってようやく進めたという力押しというのも珍しい(『添田町史 下巻』1992, p. 437)。
固有名詞ではないが稲築町には「空気の壁」というものがあり、やはり前に進めず、一服していると消えているが、ここではタイノマコという食べ物がいつのまにか食べられないくらいぐしゃぐしゃになっていたというところで狐狸の介在を疑わせるものである(『稲築町史 下巻』2004, p. 657)。

Wikipediaの「ヌリカベ」にも書かれているように、「カベヌリ」の初出はどうも丸山学(1969)『民俗えっせい』, p. 56らしい。そこには「夜道にあらわれて大きな黒い壁となって行人をさえぎる」とある。丸山のフィールドワーク範囲から考えると熊本か九州北部ということになる。大分の可能性もあるがよく分からない。

事例5は、単に柳田がヌリカベと同じセクションに紹介したから入れているだけである。出典文献のほか、同じ山口麻太郎による『壹岐島民俗誌』(1934)に「どんな形をして、どんなはたらきをするものであるかは知るを得なかつた」ものとして「ヌリ棒」が挙げられている(p. 286)。これを参考に、漢字表記に「ヌリ棒」がありますよ、と編集の方に連絡したのだが、「ヌリ坊」と誤植されていた……。

結果的に「決定版」には程遠い項目になってしまった。Wikipedia日本語版に対抗しようとしたのが最初の大きな間違いだった。


2014年3月追記:大分県には隣接していない福岡県鞍手町にも似たような怪異が伝わっていた。「暗くなってからの野良帰りに、突然目の前に練り塀が現われたなど、狐にだまされた話もある。〔舟川〕」(『鞍手町誌 民俗・宗教編』1995, p. 586)。怪異の表現が「塗り壁」ではなく「練り塀」というところが独特だが、なにより、これまでほとんど無関係だった狐が怪異のエージェントになっている点が注目を引く。なお、『鞍手町誌 民俗・宗教編』は『鞍手の民俗』という事前調査資料に基づいたものらしく、より詳細はそちらのほうの文献にあるかもしれない。

35. ねこがみ【猫神】p. 432「猫の憑き物」。○
いわゆる「猫神さま」はあちこちにあるようだ。多くは猫を祀ったものであり「マイナス価」を帯びたものではないが(ゆえにこの項目では扱わないが)、中には祟りをなしたり人に憑依したりするものもある。DBカード以外の事例は3〜5。

事例1、2、4あたりはほとんど犬神と同じようなものだろう。事例3、5は祟る猫の例。事例5は『山村生活の硏究』によるものだが、同じページに岡山県の猫神の事例も載っている。
またDBにはないようだが『民俗採訪』昭和38年度号、p. 43には、猫をうすの下敷きにして殺してしまったので祀ったのを猫神さんといい、風邪の神様とされている、とある。
なお今野圓助「妖怪資料(その二)」『俗信と迷信』(1952)に「憑きものの種目」として「ネコガミ」「ネコガメ」が並んでいるが、おそらくそれぞれ事例5と事例4が出典であろう。

丸山学が熊本県球磨郡某村について報告しているところによると、ネコガメ、ウシガメというのがイヌガメのほかにあり、それぞれ憑かれた人は猫や牛の鳴き声を立てるのだという(『九州民俗抄』1965, p. 102)。
岩手県和賀郡では、小正月の晩に雨戸を閉めないと、「猫の神」が入ってくるという(『岩手の俗信 第三集 心霊と占いに関する俗信』1981, p. 28)。

36. ねこだぬき【猫狸】p. 432-3「猫に化けるのが得意な狸」。○
特にいうことはない。原文は猫狸ではなく「猫だぬき」。しかし夢中になって駆け回っている人の「背中をどんと一つ叩いてやる」のは結構難しいと思う。

37. ねこつき【猫憑き】p. 433「猫の憑依する怪異」。○
また猫である。432-3ページの見開きに三つも僕の名前があるのでよほど猫伝承好きかと思われそうだが特にそんなことはない。ただ、筑波大担当分にはどうも猫が多かったらしい……。
ちなみに「山猫」も僕が担当した。

字数制限が厳しいので事例は一つしか紹介できなかったが、そのぶん説明文のところに盛り込んでおいた。実際、「猫憑き」と呼ばれていなくても猫が憑依する怪異ならばたくさんある。「憑依の原因が必ずしも具体的な猫殺しではないこともある」と書いたが、実際のところ原因がよくわからないもののほうが多数派のような気がする。戦後の事例というのは、東山輝彦(1979)「猫憑きの1例 その民俗学的、社会文化精神医学的研究」『精神医学』21 (4), p. 371-7のこと。

偶然ではあるが、横山泰子さん担当の「ねこ」事例6は僕の「ねこつき」の事例と同一である。しかし地名も文献の巻号も微妙に違っている。まず地名だが横山さんのほうは「愛媛県宇摩郡」とし、僕は「愛媛県上山村」とした。原文には「伊豫の宇摩郡では、猫を殺すと取りつく……上山の彌八さんといふ、氣のふれた男があつた」とあって僕はこの「上山」を宇和郡上山村のことだと思ったのである。よく考えるともっとローカルな地名である可能性もある。巻号の違い(横山さんは43、僕は8 (1))は、通巻とそうでないものの違いということだろうか。ちなみに『民族と歷史』のこの号は、かの有名な「憑物特集号」である。

38. ねろはp. 436「コト八日に来訪してくる魔物」。◎
このことについてはすでに書いたので詳述しない。

ただ一つだけ、柳田國男(1933)「年中行事調査標目(六)」『旅と傳說』6 (9)に

武藏の幸手附近では……早く寢ないとネロハといふ鬼に食はれるなどとも謂ひ、是非とも起きて居なければならぬときは、出來るだけ音を立てぬやうにする(上野勇君)(p. 84)

とあることにコメントで触れたが、報告者の上野勇が『幸手のことば』(1984)で同じようなかたちでネロハに触れている(p. 61)のを見つけたのをきっかけとして、最近翻刻された『土の香』にそのことが載っているのを知った。しかも翻刻第一弾はネロハが載っていると思しき第9巻! しかし『岡山文化資料』などと同じく翻刻ではページ付も違うし表記も改められているので、ここではあえて初出にこだわり、原典を取り寄せてそのページ数でもって事例の出典とすることにした。このとき翻刻を出した出版社ページに掲載論文名まで載っていたのがとても役に立った。何事につけ書誌情報は大事です。なお翻刻版ではネロハはp. 378にある。
さてネロハが載っている『土の香』は柳田がネロハを紹介したのと同じ1933年出版だが、柳田のものが9月発行であるのにくらべて上野のものは6月発行であり、わずかながら後者のほうが早い。

事例4は、唯一みつけた埼玉県以外の「ネロハ」。これは図書館で偶然手に取った民俗誌に書いてあった。

なお、これは「ハーフ項目」つまり一段の半分しかスペースが割り当てられない項目だったのだが、事例を追加しているうちに「小項目」なみのサイズになってしまった。要するに二倍近い字数オーバーだったのだが、それでも削らないでくださった編集の方々に感謝する次第です。

39. のぶすま【野襖、野衾】p. 439「ノブスマには大きく分けて二種類ある」。○
柳田の「妖怪名彙」に、この二種類のノブスマが併記されているので、僕もこの項目にヌリカベ的なノブスマ(野襖)とムササビ的なノブスマ(野衾)を入れなければならなくなった。こういう妖怪学的伝統を無視して正確に記述するなら後者はいっそのこと「むささび」にまとめるべきである……と思って事典を見てみたら、「むささび」を担当したのも僕だった。

実際のところ、野襖は事例1だけのようだ。あとは野衾系で、フクマカブセもフスマもフトンカブセもその仲間である。
ただしフスマには同名別種のものがいくつかあるのをDBカードに教えられた。
鳥取のものは「フスマと云ふ打綿のやうな白いものが闇夜に出る」(『伝承』1 [1959], p. 44)。
愛媛のものは「山王様を祭っている祠があり、……そこに魔物「ふすま」がいて、人にわざわいした」(『みなみいよ』22, 1965, p. 2)。
事例5はDBになかったので追加。

2015年1月追記:フトンカブセに関しては、出版された文献としては記事に書いたものが最古だと思うが、昨年、瀬川清子「採集手帖 沿海地方用」DVDが出版(?)され、いわゆるフィールドノートに直接報告者の瀬川が書き込んだデータを見ることが可能になった。そのうち「愛知縣幡豆郡佐久島村」分のノートのNo.92「狸、狢、海坊主など、變化物の話はありませんか」の見開きに(当然手書きで)「・フトンカブセはふはつと来てすつと被せて窒息させる。」とある。同じページにはほかに「ワラヒ佛」「コメカシ」「オコリヤブ」「タカボーズ」などが載っている。

40. はしひろいぼうず【箸拾い坊主】p. 452「八幡様の祭のときに現れる妖怪」。○
武田明による報告。丸亀市の塩飽手島の話とのこと。なお原文では「ハシヒロイボウズ」。

41. ばたばた【婆多婆多、破多破多】p. 453-454「江戸時代から広島城下などで知られていた音の怪異」。○
バタバタについてはブログに書いた。参照に「おとのかいい」があるのはわかるが「てけてけ」があるのはよくわからない。

僕の担当ではない「たたみたたき」の事例2にもバタバタが紹介されているが(p. 345)、事例というよりは柳田の「妖怪名彙」の要約で、やや意味を取り違えているように思われる。「猫憑き」のときもそうだったが、こういうクロスリファレンスでうまく調整できていないところがいくつかあるようだ。

42. はんにゃ【般若】p. 461「もとは仏教用語で「智慧」を意味する語」。○
般若といえば化け物や和風モンスター系で登場することが多いのだが、意外や意外、伝承されている妖怪として「般若」と呼ばれている存在は、今のところ見つけられていない。
事例1も原文のタイトル自体は「般若の息」だが、それは「小供の時等よく見た般若の面そつくりの顏」という印象を便宜上「般若」と省略しているにすぎない。じつは字数の関係で結末までは載せていないのでここに書いておく(救いはないが……)。結局彼は極度の神経衰弱になり、故郷に帰った。その後どうなったのか誰も知らないという(p. 215)。

『嬉遊笑覧』のくだりは、巻之六下。岩波文庫版で第3巻p. 347-8。

「笑い盤若」は誤植ではありません。

一つ気になるのが、水木しげるが「般若」について、

また、女の人が山に入り、長くすむと「般若」になるともいい、山をおりて、人にとり憑くこともあるそうだ。お祓いをすると、鬼の姿をした女がとり憑いている人の体から抜けていくという。

と書いていること(『図説 日本妖怪大全』p. 369)。この出典を探し出すことができなかった。きわめて珍しい「般若」伝承であり、創作でなければ是非とも掲載したかったところだが。残念。

43. ひかるいし【光る石】p. 465「夜間に光を放つ石の怪異」。○
とくに言うことはない。これも「光る石」という特徴のある伝承を寄せ集めたもの。別名の「雷珠」は『煙霞綺談』にある(随筆大成版p. 216)。

同種の怪異として「やこうのたま」も参照(本事典p. 555)。

44. ひごい【緋鯉】p. 465「鯉の一種で、赤い体色が目立つものをいう」。○
この冒頭の説明、妖怪でも怪異でもなんでもないですね。鯉の専門家ではないので、こういう書き方で正しいのかどうか今もって不安なところ。

事例1の「油田開発後は見かけなくなった」はちょっとソフトな表現で、原文は

明治卅五六年頃新津油田が盛んとなり石油が能代川へ流れ出し堀から池へ石油が傳へ入り其毒の爲に貝も鯉も全滅してしまつた。

とある。

45. ひひ【狒々】p. 474「年老いた大猿の妖怪」。○
これは困った。DBカードだけでも66枚もある。それを1/3ページに収めようというのはどう考えても無理である。
ざっと見てみると猿神退治系の話が多いが、大きな猿の話もかなりの量を占めている。事例には、「類」との対応も考慮し、名前のバリエーションを優先して1の「ヒイヒイ猿」と3の「イヒヒ」を挙げた。2は人に害をなす「ヒヒ」の代表例として。猿神退治の話は説明文のほうに押し込めた。「憑き物とする地方」の出典はいくつかあるが古いものとしては『茅窓漫録』に書かれている(「ねこがみ」事例2と同一)。女に化ける話はDBカードにあるもので石川純一郎が『あしなか』に報告している。とにかくDBだけでも沢山事例があるので呼称検索で「ヒヒ」「ヒヒザル」など検索してみてください。

なお、「ぬえ」の説明文のところに、鵺の死体が猿神になったという伝承が紹介されている(p. 427)。参考までに。

また、明らかに猿とは関係なさそうな変な妖怪として、紹介できなかったが「蛇の目傘のヒヒ」というのが香川にいる。蛇の目傘をさしている女の姿をしていて、近づいて顔を見てみようとすると「イヒヒ、ヒヒッ」と笑い、なかなか顔を見せない。これを「蛇の目傘のヒヒ」という。